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崖っぷち
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取引先を回った後、早川譲は新大阪行きの新幹線に乗り込んだ。今から行けば、井岡夏生が出走する最終レースを見ることができる。この日はナイターレースが開催されており、最終レースは午後8時30分スタートだ。
江戸川のレースから、譲は井岡のレースを配信でチェックしていた。もちろん井岡を応援した。彼が引退するようなことがあれば、それは自分の責任だ。
新幹線の中で、譲は井岡の成績を数値化した。ネットの情報ではあるが、ボートレーサーの足切りの対象は通算勝率3・8以下。現時点で、井岡の通算勝率は3・6だが、B2の選手は出走回数が少ないため、1回のレースで高着順を取れば、その数値は容易に引き上がる。ただ井岡の場合、最終レースで1着を取らなければならない。
新大阪駅からタクシーに乗り、住之江競艇場に着いたのは午後7時。競艇場に来るのは高校以来、実に十年ぶり。住之江は初めてだった。
「ボートレーサー試験を受けよう」
言い出したのは譲だった。学校近くにナイター開催をしている競艇場があり、自然と放課後はそちらへ足が向いた。制服を着ていても普通に舟券を買うことができたし、職業不詳のおっさんと酒を飲んだりもした。楽しかった。賭け事も飲酒もたいして興味はなかったが、そこに井岡がいるだけで時間は秒で過ぎていった。もっと井岡と一緒にいたい。もっと少人数で。できれば二人きりで。だから「ボートレーサー試験を受けよう」と言った。仲間の多くは体重55キロ以下という受験資格で弾かれる。井岡と譲と加藤だけが受験資格をクリアしていた。
「いや、無理無理。俺頭悪いし」
井岡は乗り気ではなかったが、「勉強なら俺が教えるから」とこれまた自分に都合のいい流れに持ち込んで、なんとか受けさせた。
試験では柔軟性や体幹も試される。前屈のサポートや体幹のペアトレーニング、井岡と自然に触れ合える試験対策は夢のような時間で、浮かれてしまう自分の浅ましさに自己嫌悪に陥ったこともあった。そんな人の気も知らず、井岡は「見て見て」と無邪気に努力の成果をひけらかした。引き締まった彼の肉体を見た日は手淫に耽った。
加藤は筆記試験で落ち、二次試験会場の福岡県へは井岡と二人きりで行った。井岡をボートレーサー試験に誘って良かったと、心から思った。後にも先にも、あんなに心躍った旅はない。
合否の封書が届いた翌日、井岡に告白した。
「お前のおかげだっ! 本当にありがとうっ! 俺、実はずっと憧れてたんだ……でも絶対無理だって思ってた……っ!」
と抱きつかれ、今なら、と思った。あれはなんだったんだろう。今なら、受け入れてもらえるとでも思ったのだろうか。
井岡を引き剥がし、まっすぐ目を見て告白した。瞬時に切り替わった彼の表情で、「しまった」と思った。やばい。やばい。撤回しないと……
「お、怒ってんの……?」
笑顔を歪ませ、井岡は言った。
「わ、悪い。確かに俺、浮かれ過ぎた……そうだよな。お、俺が受かったの、お前のおかげだから……お、お前が落ちたのは、俺に時間取られたせいなんだよな……」
どうして告白が、「怒ってる」と解釈されるのか、すぐには理解できなかった。
「ごめん……でも、ありがとう。ほんと、お前には感謝だわ。ごめん……」
理解した。井岡にとって男に告白されるということは、苦痛なのだ。いやでいやでたまらないことを、「怒ってる」から、されたと思ったのだ。
「……いや、俺の方こそ、ごめん」
その後、どうやって自宅に帰ったのか、記憶は曖昧だ。
学校で、以前のように接することはできなかった。仲間はそれを「試験に受かった井岡に嫉妬している」と捉えたようだが、井岡はあの告白を本気と捉え、露骨に避けるようになった。会えば「俺のことそういう目で見てたとかキモすぎる」「同じ空気も吸いたくない」「目障りなんだよ」などと威嚇した。
それも当然の反応だと受け止められるようになったのは、ゲイバーに出入りするようになった最近だ。同じ経験をしたという仲間がたくさんいたことに驚いた。
「その子、別に悪い子じゃないと思うわ。だってそれまでにたっくさんスキンシップ取ってたんでしょう? 過剰反応して当然よ。その子も辛かったと思うわ」
だったらどうして。
どうして、「俺と付き合えよ」なんて。
入場券を買い、ゲートを通る。中は地元のサラリーマンと思しき男たちで賑わっていた。喉が渇き、出店でビールを買う。丁度レースが始まり、ファンファーレと共にボートのモーター音が聞こえてきた。このレースに井岡は出場しない。
譲は投票券を買うことにした。井岡を軸に三連単を20点、9万円分。願掛けのような気持ちでマークシートを塗りつぶす。マークシートと現金を券売機に投入すると、「BOATRACE住之江」とプリントされた切符のような厚紙が発券された。
「うっわお前、井岡はやめとけやって。絶対来ねえから」
耳元で聞こえた声にハッと振り返る。けれど声の主は思いの外遠くにいた。カウンターテーブルでマークシートを塗り潰している二人組だ。
「2号艇やで? 3着以内は堅いやろ」
「4号艇に奥がいる時点で無理やって。奥がまくりで1着。芹沢も調子ええし田代もホームプールやから2着争いはこの二人で決まりや。ザコの井岡が舟券に絡むなんてありえへん。あいつの勝率知ってっか? 3・6やで。3・6。奥の半分もないんやで。カスや。ゴミや。おる意味なしや」
カアっと頭に血が昇った。ペラペラペラペラ偉そうに。譲は男の横顔を睨みつけた。男は気づかず、憤慨しながら言葉を重ねる。
「そんな勝率でレーサー続けるなんて生き恥晒すようなもんや。ほんまやる気ないザコレーサーはちゃっちゃと引退せえや。完走手当てでチマチマ稼ぐリーマンレーサーなんか需要なしや。何を未練がましくしがみつきよる。見苦しい」
思わず拳を強く握りしめていて、譲は足早に外へ出た。夜風が顔に当たる。この風はレースにどう影響するだろう……考えかけて、かぶりを振る。あとは井岡を信じるだけだ。大丈夫、井岡は天候に左右されない。
コース周辺には大勢の観客が集まっていた。肩にタオルを掛けた女性二人組が目に留まる。タオルには『奥秀人』『芹沢凛義』と人気レーサーの名前がプリントされていた。
譲は周囲を見回し、『井岡夏生』の名前を探したが、そもそもタオルを肩に掛けている者が見当たらなかった。
ファンファーレが鳴った。
歓声と共に、6艇のボートが一斉にピットを離れ、コースを回ってスタート位置につく。井岡は2コース2号艇。艇の先端には黒色の旗が付いている。
「井岡ーっ!」
周りの声援に触発されて、気づけば名前を呼んでいた。
「井岡ーっ!」
自分の声の気がしなかった。これほど大声で叫んだのはいつぶりだろう。それでも足りない気がして、両手をメガホンのように口元へ運んだ時だった。
「あんちゃん、井岡を買ったんか?」
隣の中年男が声を掛けてきた。ニヤニヤと邪悪な笑み浮かべている。
譲はムッと目尻を吊り上げ、言った。
「悪いか?」
中年男は親指を突き立て、グッドサインを向けてきた。譲は虚を突かれ、目を丸くした。
「俺もや」
中年男は手すりに肘を掛け、コースを見つめる。潮の流れを読む航海士のような貫禄だ。
「井岡は追い込まれてからが本番や。俺は井岡を軸に三連単流しで買ってん。漢やろお?」
「俺と一緒ですね」
譲は微笑み、前を向き直った。中年男が「ほんまか?」とこちらを見る。それには答えず、譲は「井岡ーっ!」と声を張った。
枠なり進入。大時計の12秒針が動き出し、12秒前となった。
より一層声援が大きくなった。譲も負けじと井岡の名前を叫ぶ。何を理由に応援しているのか自分でもわからなかった。罪悪感で、ここまで必死になれるだろうか。
6艇のボートのうち、4、5、6号艇は離れた位置からスタートする。これはインコースで有利な内側の艇に、助走をつけることでスピードで有利に立つためだ。中には1号艇よりも4号艇の勝率の方が高いという選手もいる。
スタートラインを6艇が一斉に通過し、熱気が最高潮に達した。
「奥ーっ!」
4号艇の奥秀人が、最初のターンマークで1号艇と2号艇の間に差し込んだ。それによって生じた波で、1号艇が遅れを取る。2号艇の井岡はうまいこと波に乗ってボートを飛ばし、2番手についた。しかし背後には3号艇が猛スピードで迫っている。
一旦は後方へ下がった1号艇が、3号艇に接触しながらグッと前に出た。
第2ターンマーク。内側から4号艇、1号艇、井岡の2号艇がやや遅れ気味でターンマークに突っ込んだ。飛沫を上げながらターンする。2号艇がグッと前に躍り出て、思わず「やった!」と声が出た。
どよめきが起こった。
奥の4号艇と芹沢の1号艇が、ピッタリとくっ付いたままコースアウトしたのだ。艇同士が重なり、制御不能となったのだろう。2艇はペラの推進力でどんどん外側へ押し流されていく。
「やったであんちゃん万舟券やっ!」
隣の男が抱きついてきた。タバコと汗の臭いがむんと鼻をつく。
「おおきにおおきにっ! あいつはやっぱり持っとるでっ! 丸亀の時だってな、あいつはビリケツから1着取ったんやっ!」
男に抱きつかれながら、譲はレースを見届けようと視線をコースへと戻す。雨水と工業用水で作られた緑色の水面を、黒色の2号艇が独走している。
「井岡っ……」
今、井岡が走っている。なぜかこの段になって、彼がプロスポーツ選手としてボートに乗っているという事実に胸が熱くなった。彼は本当にボートレーサーになったのだ。「ボートレーサー試験を受けよう」と言ったのは俺なのに。その動機は、彼と一緒にいる時間が欲しいという浅ましいものなのに。俺が告白さえしなければ、もっと応援できたのに。そうしたら彼の成績も上がったかもしれないと考えるのは、流石に傲慢すぎるだろうか。
告るんじゃなかった。譲は口元を手で覆った。そうでもしなければ、絶叫してしまいそうだった。レイプなんてするんじゃなかった。今となってはもう、どうしてそんな酷いことができたのかわからない。
悪い子じゃない、というゲイバーのマスターの言葉が蘇る。その通りだと思った。悪い子なわけがない。俺の謝罪を受け入れ、「お前のせいじゃない」とまで言ったのだ。
井岡の2号艇が1着でゴールインし、3号艇、5号艇、6号艇、4号艇の順でゴールインする。どうやら芹沢は転覆したようで、救助艇が出動していた。
「何やっとんじゃ奥っ! ぼけえっ!」
「芹沢なめとんのかっ! ぶち殺すぞっ!」
人気レーサーに賭けていた客たちは口汚く罵り、舟券を投げ捨て、去っていく。
電光掲示板に確定順位が表示され、井岡の1着が決まった。
「みんな殺気立っとるで、万舟券取られんよう、気ぃつけやっ」
男は小声で言うと、
「ほな行くわっ!」
右手を挙げ、軽快に去っていった。
江戸川のレースから、譲は井岡のレースを配信でチェックしていた。もちろん井岡を応援した。彼が引退するようなことがあれば、それは自分の責任だ。
新幹線の中で、譲は井岡の成績を数値化した。ネットの情報ではあるが、ボートレーサーの足切りの対象は通算勝率3・8以下。現時点で、井岡の通算勝率は3・6だが、B2の選手は出走回数が少ないため、1回のレースで高着順を取れば、その数値は容易に引き上がる。ただ井岡の場合、最終レースで1着を取らなければならない。
新大阪駅からタクシーに乗り、住之江競艇場に着いたのは午後7時。競艇場に来るのは高校以来、実に十年ぶり。住之江は初めてだった。
「ボートレーサー試験を受けよう」
言い出したのは譲だった。学校近くにナイター開催をしている競艇場があり、自然と放課後はそちらへ足が向いた。制服を着ていても普通に舟券を買うことができたし、職業不詳のおっさんと酒を飲んだりもした。楽しかった。賭け事も飲酒もたいして興味はなかったが、そこに井岡がいるだけで時間は秒で過ぎていった。もっと井岡と一緒にいたい。もっと少人数で。できれば二人きりで。だから「ボートレーサー試験を受けよう」と言った。仲間の多くは体重55キロ以下という受験資格で弾かれる。井岡と譲と加藤だけが受験資格をクリアしていた。
「いや、無理無理。俺頭悪いし」
井岡は乗り気ではなかったが、「勉強なら俺が教えるから」とこれまた自分に都合のいい流れに持ち込んで、なんとか受けさせた。
試験では柔軟性や体幹も試される。前屈のサポートや体幹のペアトレーニング、井岡と自然に触れ合える試験対策は夢のような時間で、浮かれてしまう自分の浅ましさに自己嫌悪に陥ったこともあった。そんな人の気も知らず、井岡は「見て見て」と無邪気に努力の成果をひけらかした。引き締まった彼の肉体を見た日は手淫に耽った。
加藤は筆記試験で落ち、二次試験会場の福岡県へは井岡と二人きりで行った。井岡をボートレーサー試験に誘って良かったと、心から思った。後にも先にも、あんなに心躍った旅はない。
合否の封書が届いた翌日、井岡に告白した。
「お前のおかげだっ! 本当にありがとうっ! 俺、実はずっと憧れてたんだ……でも絶対無理だって思ってた……っ!」
と抱きつかれ、今なら、と思った。あれはなんだったんだろう。今なら、受け入れてもらえるとでも思ったのだろうか。
井岡を引き剥がし、まっすぐ目を見て告白した。瞬時に切り替わった彼の表情で、「しまった」と思った。やばい。やばい。撤回しないと……
「お、怒ってんの……?」
笑顔を歪ませ、井岡は言った。
「わ、悪い。確かに俺、浮かれ過ぎた……そうだよな。お、俺が受かったの、お前のおかげだから……お、お前が落ちたのは、俺に時間取られたせいなんだよな……」
どうして告白が、「怒ってる」と解釈されるのか、すぐには理解できなかった。
「ごめん……でも、ありがとう。ほんと、お前には感謝だわ。ごめん……」
理解した。井岡にとって男に告白されるということは、苦痛なのだ。いやでいやでたまらないことを、「怒ってる」から、されたと思ったのだ。
「……いや、俺の方こそ、ごめん」
その後、どうやって自宅に帰ったのか、記憶は曖昧だ。
学校で、以前のように接することはできなかった。仲間はそれを「試験に受かった井岡に嫉妬している」と捉えたようだが、井岡はあの告白を本気と捉え、露骨に避けるようになった。会えば「俺のことそういう目で見てたとかキモすぎる」「同じ空気も吸いたくない」「目障りなんだよ」などと威嚇した。
それも当然の反応だと受け止められるようになったのは、ゲイバーに出入りするようになった最近だ。同じ経験をしたという仲間がたくさんいたことに驚いた。
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どうして、「俺と付き合えよ」なんて。
入場券を買い、ゲートを通る。中は地元のサラリーマンと思しき男たちで賑わっていた。喉が渇き、出店でビールを買う。丁度レースが始まり、ファンファーレと共にボートのモーター音が聞こえてきた。このレースに井岡は出場しない。
譲は投票券を買うことにした。井岡を軸に三連単を20点、9万円分。願掛けのような気持ちでマークシートを塗りつぶす。マークシートと現金を券売機に投入すると、「BOATRACE住之江」とプリントされた切符のような厚紙が発券された。
「うっわお前、井岡はやめとけやって。絶対来ねえから」
耳元で聞こえた声にハッと振り返る。けれど声の主は思いの外遠くにいた。カウンターテーブルでマークシートを塗り潰している二人組だ。
「2号艇やで? 3着以内は堅いやろ」
「4号艇に奥がいる時点で無理やって。奥がまくりで1着。芹沢も調子ええし田代もホームプールやから2着争いはこの二人で決まりや。ザコの井岡が舟券に絡むなんてありえへん。あいつの勝率知ってっか? 3・6やで。3・6。奥の半分もないんやで。カスや。ゴミや。おる意味なしや」
カアっと頭に血が昇った。ペラペラペラペラ偉そうに。譲は男の横顔を睨みつけた。男は気づかず、憤慨しながら言葉を重ねる。
「そんな勝率でレーサー続けるなんて生き恥晒すようなもんや。ほんまやる気ないザコレーサーはちゃっちゃと引退せえや。完走手当てでチマチマ稼ぐリーマンレーサーなんか需要なしや。何を未練がましくしがみつきよる。見苦しい」
思わず拳を強く握りしめていて、譲は足早に外へ出た。夜風が顔に当たる。この風はレースにどう影響するだろう……考えかけて、かぶりを振る。あとは井岡を信じるだけだ。大丈夫、井岡は天候に左右されない。
コース周辺には大勢の観客が集まっていた。肩にタオルを掛けた女性二人組が目に留まる。タオルには『奥秀人』『芹沢凛義』と人気レーサーの名前がプリントされていた。
譲は周囲を見回し、『井岡夏生』の名前を探したが、そもそもタオルを肩に掛けている者が見当たらなかった。
ファンファーレが鳴った。
歓声と共に、6艇のボートが一斉にピットを離れ、コースを回ってスタート位置につく。井岡は2コース2号艇。艇の先端には黒色の旗が付いている。
「井岡ーっ!」
周りの声援に触発されて、気づけば名前を呼んでいた。
「井岡ーっ!」
自分の声の気がしなかった。これほど大声で叫んだのはいつぶりだろう。それでも足りない気がして、両手をメガホンのように口元へ運んだ時だった。
「あんちゃん、井岡を買ったんか?」
隣の中年男が声を掛けてきた。ニヤニヤと邪悪な笑み浮かべている。
譲はムッと目尻を吊り上げ、言った。
「悪いか?」
中年男は親指を突き立て、グッドサインを向けてきた。譲は虚を突かれ、目を丸くした。
「俺もや」
中年男は手すりに肘を掛け、コースを見つめる。潮の流れを読む航海士のような貫禄だ。
「井岡は追い込まれてからが本番や。俺は井岡を軸に三連単流しで買ってん。漢やろお?」
「俺と一緒ですね」
譲は微笑み、前を向き直った。中年男が「ほんまか?」とこちらを見る。それには答えず、譲は「井岡ーっ!」と声を張った。
枠なり進入。大時計の12秒針が動き出し、12秒前となった。
より一層声援が大きくなった。譲も負けじと井岡の名前を叫ぶ。何を理由に応援しているのか自分でもわからなかった。罪悪感で、ここまで必死になれるだろうか。
6艇のボートのうち、4、5、6号艇は離れた位置からスタートする。これはインコースで有利な内側の艇に、助走をつけることでスピードで有利に立つためだ。中には1号艇よりも4号艇の勝率の方が高いという選手もいる。
スタートラインを6艇が一斉に通過し、熱気が最高潮に達した。
「奥ーっ!」
4号艇の奥秀人が、最初のターンマークで1号艇と2号艇の間に差し込んだ。それによって生じた波で、1号艇が遅れを取る。2号艇の井岡はうまいこと波に乗ってボートを飛ばし、2番手についた。しかし背後には3号艇が猛スピードで迫っている。
一旦は後方へ下がった1号艇が、3号艇に接触しながらグッと前に出た。
第2ターンマーク。内側から4号艇、1号艇、井岡の2号艇がやや遅れ気味でターンマークに突っ込んだ。飛沫を上げながらターンする。2号艇がグッと前に躍り出て、思わず「やった!」と声が出た。
どよめきが起こった。
奥の4号艇と芹沢の1号艇が、ピッタリとくっ付いたままコースアウトしたのだ。艇同士が重なり、制御不能となったのだろう。2艇はペラの推進力でどんどん外側へ押し流されていく。
「やったであんちゃん万舟券やっ!」
隣の男が抱きついてきた。タバコと汗の臭いがむんと鼻をつく。
「おおきにおおきにっ! あいつはやっぱり持っとるでっ! 丸亀の時だってな、あいつはビリケツから1着取ったんやっ!」
男に抱きつかれながら、譲はレースを見届けようと視線をコースへと戻す。雨水と工業用水で作られた緑色の水面を、黒色の2号艇が独走している。
「井岡っ……」
今、井岡が走っている。なぜかこの段になって、彼がプロスポーツ選手としてボートに乗っているという事実に胸が熱くなった。彼は本当にボートレーサーになったのだ。「ボートレーサー試験を受けよう」と言ったのは俺なのに。その動機は、彼と一緒にいる時間が欲しいという浅ましいものなのに。俺が告白さえしなければ、もっと応援できたのに。そうしたら彼の成績も上がったかもしれないと考えるのは、流石に傲慢すぎるだろうか。
告るんじゃなかった。譲は口元を手で覆った。そうでもしなければ、絶叫してしまいそうだった。レイプなんてするんじゃなかった。今となってはもう、どうしてそんな酷いことができたのかわからない。
悪い子じゃない、というゲイバーのマスターの言葉が蘇る。その通りだと思った。悪い子なわけがない。俺の謝罪を受け入れ、「お前のせいじゃない」とまで言ったのだ。
井岡の2号艇が1着でゴールインし、3号艇、5号艇、6号艇、4号艇の順でゴールインする。どうやら芹沢は転覆したようで、救助艇が出動していた。
「何やっとんじゃ奥っ! ぼけえっ!」
「芹沢なめとんのかっ! ぶち殺すぞっ!」
人気レーサーに賭けていた客たちは口汚く罵り、舟券を投げ捨て、去っていく。
電光掲示板に確定順位が表示され、井岡の1着が決まった。
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