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兵馬俑

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崖っぷち

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 ホームで東京行きの新幹線を待っていると、井岡から『今どこにいる?』とメッセージが来た。『大阪』と送る。譲は列を離れ、キオスクの裏側に立つ。『最終レースよか』と打ちかけて、井岡から返信が来た。

『なら会いたい』

 心臓と指が跳ねた。会いたい。俺に? いぶかりながらも、『どこに行けばいい?』と送る。肉でも寿司でも、なんでも食べさせてやりたい。

『俺がお前のホテルに行く』

 譲は眉根を寄せた。なぜ無防備にこんなこと……自分がされたことを忘れたわけではあるまい。

 だがすぐに思い直す。4日間のレースで疲れているのだから、室内でゆっくりしたいと思うのは当然ではないか。それを「無防備」と捉えることが間違っているのだ。生真面目な彼のことだ。俺が気にしていると思って、レース結果を伝えたいのかもしれない。

 部屋で飲酒することも考えて、以前宿泊したホテルに電話し、ツインルームを確保した。井岡に『この前泊まったホテル』と送信する。

 新幹線がやってきて、人の列が車両に流れていく。乗る予定の新幹線に背を向けて、譲はホームを後にした。

 

 ロビーに現れた井岡は、鎮痛な表情で、顔色は色白を通り越して真っ青だった。

「井岡っ?」

 ただ事ではないと思った。駆け寄り、「何があったんだ」と問う。

「早く……部屋……」

 井岡はそう言って、腕にしがみ付いてきた。

「ちょっと待て。薬とか氷とか、フロントに頼んでくるから……」

「いい、いらないっ」

 気が立っているような、鋭い声が言った。

「早くっ……部屋に行きたい……」

「わ、わかった……行こうか」

 わけが分からなかった。井岡はあの最終レースで勝率3・8をクリアした。これで引退は免れたはずなのだ。

 井岡の足取りはおぼつかない。腕にしがみつき、寄りかかるようにして歩く。体を離せば転んでしまいそうだ。一体何があったのか……

 真っ先に思い当たったのは、観客のヤジだ。井岡に賭けていない者が、負けた腹いせに暴言を浴びせた……勝利しても歓迎されない雰囲気に、心が折れたのではないか……

 そういえば1号艇の芹沢は転覆していた。あの後どうなったのか知らないが、もしかしたら大怪我をして、その責任を感じている……?

 エレベーターに乗り込み、十二階を目指す。井岡の体は小刻みに震えていた。充血した瞳は何も映していない。

「井岡」

 呼びかけるが、反応はない。本当にどうしてしまったのか。計算ミス? 実は3・8を超えていないとか……?

「おれ……」

 井岡の血色のない唇が小さく動いた。

「おれ……引退するわ」

「え?」

 エレベーターが到着する。井岡に引かれ、エレベーターを降りる。長い廊下を、井岡はおぼつかない足取りで急ぐ。

「どういうことなんだっ……引退って……だって……今日……」

「何号室?」

 問われ、客室番号を告げる。すぐにその部屋が見えた。

 解錠し、客室の中に入る。カードホルダーにルームキーを差し込もうとした譲の胸に、井岡が勢いよくかきついた。

「あいつ……わ、わざと……」

 井岡は震える声で言った。譲は聞き逃すまいと耳に集中する。

「わざと……負けた。お、俺に1着を譲ったんだ……」

「まさか……考えすぎだ。俺も見ていたが、1号艇と4号艇は接触していた。コースアウトするしか選択肢がなかったんだ。……そもそも、ハンドルも効かなかったはずだ」

 井岡は激しく首を横に振った。

「第1ターンマーク……あいつは俺をまくらず生かした……」

 まくりとは、先行する艇の外側を回って抜かすテクニックだ。

「俺ごとまくった方が絶対に加速しやすいのにっ……あいつはっ……奥はっ……俺が取り残されないようにっ……な、なんなら……俺がスピードを飛ばせるように波を作った……情けをかけられたんだっ!」

 そんなわけ、という声が、井岡の慟哭にかき消された。

 本人には聞いたのか? そんなの御法度だ。バレたら自分の立場が悪くなるようなこと、するわけない……

 思いつく言葉は全て、喉の手前で引っ込んだ。これほど感情を露わにした井岡を、譲は見たことがなかった。井岡だって、疑惑だけならここまで興奮しないだろう。確信しているから、感情が荒ぶっているのだ。

 彼の心境を思うと胸が痛んだ。でもその一方で、悲しみを共有する相手として自分が選ばれたことが嬉しかった。

 彼の苦痛はどれほどだろう。傷ついた心に寄り添おうと、背中に手を回した時だった。

「俺のこと……レイプしろよ」

「え?」

 聞き間違いかと思った。

「この前みたいに俺のことっ、レイプしろって言ってんだよっ!」

「……どうして?」

 なんとか、それだけ口にできた。

「今俺っ……最悪の気分なんだよっ……だからっ」

「俺に犯されて、上塗りしたい?」

 寄り添ってほしいのだと思った。でも逆だった。井岡は屈辱を上塗りするために俺を呼んだ。彼にしたことを忘れたわけではないが、良好な関係を築けそうだと思った矢先だけに、頭から冷や水を浴びせられたような心地になった。
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