オッズ

兵馬俑

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高配当

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 兄、芹沢凛義は一目でブランドものと分かる服を着ていた。腕時計もパテックフィリップだ。

『良いから芹沢を頼り』

 拓也の言葉が頭を過ったが、すぐさま頭から退けた。ボートレースは命懸け。兄は大変な思いをして稼いでいるのだ。それに、桜庭からもらった金で当分の生活費はまかなえる。兄を頼る理由はない。

「どうしたんだ……その腕……」

 包帯で吊った腕を見るなり、兄は言った。童顔な自分と違い、兄はいかにも気の強そうな顔をしている。上がり気味の目尻と高い鼻筋、甘さのない端正なその顔が、瑠衣はとても好きだった。

「この前、競艇場で絡まれたんだ」

 兄は目を見開いた。

「大変じゃないか。……一体何があったんだ」

「なんか因縁つけられて……」

 もう少し同情してほしかったのに、兄は「そうか……」と答えたきりだった。

 兄を頼りたい衝動が突き上げた。負傷した身なら、頼っても良いのではないか。もっと兄から、自分にまつわる言葉を引き出したい。

 あのさ、と上目遣いに切り出した。

「五十万くらい、貸してくれないかな……」

「五十万?」

「うん……アルバイト、できないから……」

「お前を暴行した奴から、請求できないのか?」

「ごめんっ……無理なら、良いんだ。忘れて……」

「そうじゃない。金ならもちろん出す。でも、加害者からも請求するべきだろ? 泣き寝入りなんかしちゃいけないよ」

 ジワリと胸が熱くなった。兄は五十万という大金を出してくれる。もうそれが聞けただけで十分だった。

「うん……ちゃんと請求する。ありがとう」

 それで、請求できたから金の援助は必要ないと言えばいい。

「じゃあ、行こうか。ちゃんと腹は空かせてきたか?」

「うん。ぺこぺこ」

 兄に連れられたのは、完全個室の焼肉屋だった。テーブルもソファも黒色で統一されている。一通り注文したものが運ばれると、兄は言った。

「ボート、いつも見にきてくれてるのか?」

「うん……関西でやる時は」

「そうか。ありがとうな」

 兄は網にタンを並べながら言った。

「賭けるのか?」

「ちょっとだけね」

「俺に?」

「もちろん」

「そうか……それは申し訳ないことをしたな」

 瑠衣は首を傾げた。

「これからはお前も勝たせてやるからな」

 ザワッと胸が騒いだ。いや、そんなはずはない。兄に限って、そんな……

「瑠衣、俺と手を組もう」

「手を……組む?」

「ボートで、確実に利益を出すんだ」

「それって……」

「八百長だよ」

 兄は、なんてことないふうに言った。タンの焼き具合をチェックしながら、ひっくり返す。

「ザコが飛んだところで大した利益にはならないけど、俺はインコースの勝率が9割ある。飛べば高配当がつく」

 兄の口から、「ザコ」という乱暴な言葉が飛び出したことに驚いた。

「いいか? 競艇はたった6艇のギャンブルだ。一人飛ぶことが分かっているだけで、確実に利益を生み出すことができる」

「三連単の買目が、60通りになるから」

 拓也の受け売りをそのまま言うと、兄は「さすが瑠衣!」と目を輝かせた。

「やっぱり瑠衣は賢いなあ。バカなヤクザなんかよりよっぽど使える」

「や、ヤクザっ?」

「大丈夫、もう縁を切るから。捨て金を使えないような奴を仲間にしていたらいつかバレる」

「捨て金?」

「狙いの舟券ばかり買っていたらオッズが歪むんだ。SGやG1ならともかく、一般戦の売り上げはせいぜい二千万円程度だからな。その程度の売り上げじゃ、大穴の三連単を一点一万円買うだけでオッズは大幅に下落する。だからそれを防ぐために、来ないとわかっている舟券も捨て金で買っておくんだ。施行者や競走会は異常投票を常にチェックしているから、マークされないように細心の注意を払わなきゃならない」

 はい、と兄は焼けたタンを瑠衣の皿に置いた。

「でも、あいつはそういう金の使い方ができない。そのせいで住之江の最終レースではオッズが歪んだ」

「え……」

 あのレースでも、八百長をしていたのか?

「住之江の最終レースって、兄さんが転覆したレースだよね?」

「ああ……」

 兄はタンをレモン汁に付けて口へ運んだ。咀嚼し、ビールで流し込む。

「俺はあの日、井岡さんをアシストしつつ、自分も飛ぶと仲間に伝えていた。俺が飛ぶだけでも配当はつくけど、人気のないレーサーを舟券に絡ませれば、もっと高くつくからな」

 瑠衣は絶句した。兄の口から放たれる情報に思考が追いつかない。受け入れられない。

「でももうナシ」

 兄はゆるりと首を振った。

「トークショーで奥さんがなんて答えたか知ってる? 『八百長しているレーサーは存在する』だって。はっ、俺への当て擦りやべえ」

「……え?」

「知らない? 奥さんがトークショーで八百長の質問されたの」

「それは……知ってるけど……」

「あの人、『俺はやらない』って即答した後、そう言ったんだよ。『八百長しているレーサーは存在する』って……まあ、名指しされなかっただけラッキーだけど」

 心臓がドクンと跳ねた。

「だからしばらくは慎重にやるしかない。他のレーサーを巻き込むようなレースができないとなると、俺が4着以下になるという情報だけで張る賭けるしかないんだ。バカなヤクザには任せられない。だから瑠衣」

「わ、わざと負けるなんて、そんなのダメだよ……」

 だから瑠衣……その先を聞きたくなくて、瑠衣は言った。

 すると兄の口から、ひどく渇いた笑いが漏れた。

「八百長をやれば、失敗さえしなければ数百万円が手に入る。しかも税金がかからない。それに比べて一般戦の賞金は百万にも満たない。真剣に走るのが馬鹿らしいだろ」

「……でも、そんなこと続けてたら、成績悪くなるんじゃないの?」

 A1から降格するのは、兄だって嫌なはずだ。

「別に毎回やるわけじゃない。好成績を残しつつ、オッズの低いレースを狙って飛べば良い」

 なんでもないことのように放たれた言葉に、胸がちくりと痛んだ。

 オッズは舟券の支持率だ。購入者が多いほどオッズは低くなる。オッズが低いと、当たったところで払戻金は少ないが、反対に、来なかった場合は高配当がつく。

 それを狙ってわざと負けるのは、それだけ多くのファンを裏切る行為に他ならず、瑠衣は反感を抱いた。瑠衣自身も、兄が来ることを願って、舟券を購入していたのだ。

「……そこまでして、お金が欲しい?」

 兄の顔を直視するのは躊躇われて、瑠衣はテーブルを見ながら言った。

「金が欲しいのはお前だろ?」

 兄の声に苛立ちが滲む。

「いい……やっぱりいらない」

「瑠衣」

「兄さんの不正に、僕を巻き込まないで」

 自然と肩が窄まった。まだ、顔を上げることはできない。

「わかった」

 思いもかけず明るい声に、瑠衣は思わず顔を上げた。兄はニコリと微笑む。

「じゃあ、この話は忘れてくれ」

 兄は焼けた肉を箸でつまんだ。口の中に放り込む。

 瑠衣も倣って肉を掴もうとした時だった。

「俺も、お前が売春していること忘れてやるから」

 指から滑り落ちた箸が、カランと鳴った。

「気づかれてないと思ってたのか? 大学生があんな良いマンションに住んで、トムブラウンのシャツを着て?」

 また一枚、兄は肉を口の中に放り込む。テーブルの上を転がった箸が、床に落下した。

 兄はそれを見て呼び出しボタンを押す。

「いつからやってた? 中学? 高校?」

 間も無くやってきた店員に新しい箸とビールを注文すると、兄は、野次馬のような笑みを浮かべた。

「そりゃ、そんな格好で競艇場をうろついてたら、襲ってくださいって言ってるようなもんだろ。総額いくらするんだよ」

 まるで、いままで腹に溜め込んでいたことを吐き出すように、兄は言った。

 乾いた唇を舐め、なにか言わなければと、口を動かす。

「僕は……」

 本当は、兄さんのために殴られたんだよ。転覆したのに、心配どころか、罵倒の言葉をぶつける連中にムカついて、自分から絡みに行ったんだよ。

 言えるわけがなかった。暴行されたのは事実だが、この骨折はパトロンにやられたのだ。その事実を捻じ曲げたら人として終わりだ。

「汚い金はどっちだよ」

 吐き捨てるような声に、血の気が引いた。

「す、好きで、やってたわけじゃない」

 兄はククッと肩を揺すった。

「お前は働く能力がありながら、売春して手っ取り早く金を稼いでいる。やらなくて済むことを自分の意思でやっているお前は、誰の被害者でもないんだよ」

「っ……」

 思考がうまく回らない。

 瑠衣は後退るように立ち上がり、「ごちそうさま」とだけ、なんとか口にして、ふらふらと個室を出た。
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