オッズ

兵馬俑

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オッズ(1)

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 雑誌の撮影から、奥と会うことはなかった。でも奥に言われた言葉を忘れた日は一度もない。振り払いたくても、「真剣に走れ」という低い声が脳裏にこびりついて離れない。

 思い出すたびに、自己防衛のように腹が立つ。

 どうせ罵倒されるなら、真剣じゃない方が良いじゃないか。

 胸の中で言い返すが、過去の記憶は反論しない。本人に直接その問いをぶつけたら、彼はなんと答えるだろう。まともに答えず、「やっぱり八百長していたんだな」と言質を取られて終わるかもしれない。

 前期最後の節、住之江の一般戦で、凛義は奥と一緒になった。

 B級レーサーばかりの中で、A1の奥は人気も実力も突出していた。優出は確実だろう。

 抽選会場で顔ぶれを見て、手を抜かずにやれば自分も準決までは確実だろうと凛義は思った。そのあとは出走メンバー次第だ。

 抽選会が始まり、選手が順にガラガラ抽選器を回していく。商店街で行うような超アナログ方式だ。球体に番号が書かれており、アタリモーターの番号は皆把握している。

 凛義の前の選手の番がきた。ひとつ深呼吸し、ガラガラを回す。横顔がひどく緊張していた。

「38番」

 係員が言うと、ガラガラを回した選手の顔がパッと輝いた。38番は2連率50%超えの超アタリモーターだ。順番待ちの選手も「おおっ」と声を上げた。

「やったな井岡」

 着席している選手が、ガラガラを回した選手に声を掛けた。

「ああ……」

 井岡と呼ばれた選手が微笑む。二十代後半といったところか。たかが一般戦の抽選に緊張していること、それなりに整った容姿をしているのに、雑誌の特集に呼ばれないことを考えると、実力のないザコレーサーなのだろう。

 自分の番がやってきて、凛義はガラガラを回した。モーターは可もなく不可もなく。でも凛義の自信は揺るがなかった。

 その夜、凛義はこっそり持ち込んだスマホで「井岡夏生」と検索した。トップに出てきたのは、「クビ対象の選手一覧」という個人サイトだ。鼻で笑う。だから抽選ごときに真剣だったのか。勝率は3・6と出ている。呆れた。この成績でレーサーを続けているなんて。

『どうしたんだよ凛義、お前、感じ悪いぞ』

 ふと最近、同期に言われた言葉を思い出した。同期で集まったときのことだ。

 同県や同期の選手が1号艇、2号艇と並んだ場合には、2号艇は1号艇を潰さない「差し」を選択するという暗黙の了解を凛義が守らなかったと、冗談混じりに文句を言ってきた奴がいた。

『守ったところで結果は変わらないでしょ』

 凛義がそう言い放つと、場が凍りついた。

『どうしたんだよ凛義、お前、感じ悪いぞ』

 怪訝な問いに答えたのは、甲斐と同じ、広島支部のレーサーだった。

『仕方ないって。こいつ、甲斐さんに可愛がられてるんだよ』

 なんだそれは。凛義はムッと目を見開いた。さらにムカついたのは、「あーね」とみんなが納得したことだ。

 確かに自分は変わった。でも悪いことだとは思わない。自分は利口になったのだ。

 不正をするようになって、ベテランレーサーほど適度に手を抜いていると知った。そもそもSGの1分50秒と、賞金百万円にも満たない一般戦の1分50秒が同じであるはずがない。

 スマホをポーチにしまい、キャリーケースの奥に隠した。風呂セットを取り出し、部屋を出る。

 消灯間際だが、大浴場には数人が湯船に浸かっていた。凛義が体を洗っている間に、彼らは出ていった。

 凛義は一人、広い湯船に肩まで浸かった。まぶたを閉じる。互いに忙しくて、甲斐とは全然会えていない。甲斐は、好きな人と会えているのだろうか。思うと腹の底が震えた。嫌で嫌でたまらない。甲斐の凄さは同業でなければわからない。ヤクザ風情にあの洗練された技術の凄さがわかるはずがないのだ。

 ガチャリと音がして、驚いて音の方を見た。サウナ室から井岡が出てきた。凛義と目が合うと、彼は気恥ずかしそうにはにかんだ。

「減量ですか」

 目が合ってしまったから、とりあえず声を掛けた。

「うん、減らせるだけ減らしておこうと思って」

「必死ですね」

「だよな。自分でも思う」

 無視すればいいのに、優しい人だなと思った。同時に、この人はレーサーに向いていないと直感した。

「そんなに続けたいですか」

 シャワーへと向かう彼に問いかける。

「うん、続けたい」

「向いてないとは思わないんですか?」

「絶対向いてないよなあ~」

 言い慣れているような、明るい口調だった。

「トップルーキーから見てどう思う? 俺みたいなザコレーサー。やっぱ」

「別にどうも思いませんね。いてもいなくても変わらないので」

「そっか」

 井岡はシャワーで汗ばんだ体を洗い流すと、湯を止め、立ち上がった。脱衣所に続くスライドドアに手をかける。

「ただ、競艇ファンは助かると思います」

 凛義の言葉に、ドアに手を掛けたまま井岡が振り返った。『どうしたんだよ凛義、お前、感じ悪いぞ』耳の奥でまた、同期の声が再生された。

「ザコを除外した5人で予想すればいいので」

 井岡の目が驚いたように見開かれた。

 怒るか? さすがに。凛義は挑発するように口角を上げた。

「ギャンブルに絶対はないだろ。だから俺にも賭けてくれる人がいる」

 井岡は穏やかに言うと、ドアを開け、出ていった。

「は?」

 賭けてくれる人がいる? バカか。実力のないレーサーに賭けるのは、高配当を狙う欲深い人間だけだ。それにギャンブルに絶対はある。レーサーが不正を行えば、「絶対に来ない」が起こる。

 

 会話を交わしたせいか、井岡を見かけると自然と視線がそちらへ向かった。

 宿舎の食事はビュッフェ形式だ。井岡はほとんど料理を取っていなかった。百グラムでも体重を軽くしたいのだろう。

 凛義は気にせず、食べたいものを取っていく。このメンツで負ける気などしなかった。

 凛義の初戦は3Rだった。

『進入インから1番2番3番、4番5番6番です。まもなくスタート。……1秒! ほぼ揃ったスタート! 2号艇芹沢が1マークを先マイ! ターンが膨らむ! 4号艇渡邉がすかさずまくり差し! 押し切る2号艇芹沢っ! 芹沢っ! 2マークを先制してセーフティーリード! そのまま1着フィニッシュ!』

 レース終了後、整備場へ行くと、井岡がエンジンを整備していた。他にもレーサーはたくさんいるのに、真っ先に目についた。そして一度目にすると、なかなか外せなかった。きっと真剣だからだ。足切り間際のザコレーサーのくせに、レースに懸ける思いの強さが他を圧倒している。

 ふいに視線を感じ、何気なく顔を向けると奥と目が合った。

「っ……」

 なぜ、羞恥心が込み上げてくるのか。頬がジワリと熱くなり、凛義は逃げるように整備場を後にした。

 恥ずかしいのは、どう考えたって井岡だ。減量や整備、テクニックとは別の部分で勝とうとしているのだから。

 俺はあんなことしなくたって勝てる。現に、危なげなく初戦を制した。

 二日目、三日目、四日目と、凛義は1着をとり続けた。井岡も健闘しているようで、得点上位十八名に食い込み、準優勝戦に駒を進めていた。

 井岡は少ない食事を、時間をかけて咀嚼する。レース以外の時間はほとんど整備場にいた。彼を見ていると息が詰まる。まるで真剣勝負を強要されているような気分になる。

 甲斐には、この節では不正をするなと釘を刺されている。奥がいるからだ。

 だから勝ち続けている。連勝の重みに圧死しそうだ。そろそろ手を抜きたい。『金返せ』という罵倒が耳鳴りのように頭に響く。

 この日も遅い時間を狙って大浴場へ行くと、スリッパが一足だけあった。井岡だろうと確信する。

 案の定、服を脱いでいると浴場から井岡が現れた。凛義を見て、「お疲れ」と友好的に微笑む。

「調子いいですね」

「いつもこうなら苦労しないのにな」

「競艇ファンからしたら鬱陶しいでしょうね」

 井岡が目を丸くする。「そうかもな」と言って苦笑し、カゴの並んだ棚へと歩む。そして呟くように言った。

「なんかしんどそうだな」

「は?」

「いや、この前も予想とか言ってたろ。もっと伸び伸び走ってるのかと思ってたから、ファンの目ばかり気にしてるんだなって意外で」

 目の下の皮膚が引き攣った。

「俺からしたら、あなたの方がよっぽどしんどそうですよ。負け続けて、あとがなくて、食事制限と発汗で限界まで減量して。そこまでやんなきゃ勝てないってマジで向いてないと思うし、俺だったら恥ずかしくて続けられないです。なのに、自分はしんどくないって強がるんですか?」

「……しんどいよ」

 素直な言葉に、勝負を仕掛けたつもりなんてないのに、負けた気がした。

 自分はそんなふうに認められない。わざと負けることで心の平穏を保っているなんて絶対誰にも知られたくない。

「そうやって、ダサいって思われてるんだろうなって、わかってる。でもダサいことまでやんなきゃ俺は生き残れないんだ。レーサーってもっと格好いいもんだと思ってたのにな」

「辞めればいいじゃないですか」

「芹沢くん、きみは一体、何に追い詰められているんだ」

「っ……」

「やたら俺に突っかかってくるよな。いてもいなくても変わらないザコレーサーなんて、どうも思わないんじゃなかったのか?」

 心臓の鼓動が速くなる。どう考えても自分の方が優位に違いないのに、この人を見ていると息苦しい。

「レーサー向いてないのはきみも同じだろ。むしろ俺には、きみの方が手遅れに見えるけどな」

 ガツンと頭を殴られた気がした。

「撤回します」

 凛義は井岡の元へ歩んだ。

「あなたのようなザコにレーサーを続けられると、業界の迷惑です」

 井岡の目に哀れみが浮かんだ。

「なんですか、その目……っ」

「別に」

 ふいっと顔を背けた男の肩を、掴もうと手を伸ばした時だった。

 井岡の表情がサッと強張り、凛義の手をパチンと弾く。過剰な自己防衛。見開かれた目が、怯えたように凛義を見る。

 普通の男ではわからないだろう。でも、凛義にはわかった。この男は男に抱かれたことがある。無理矢理か、不承不承か、どちらにせよ嫌々には違いない。カタカタと震える唇が、それを物語っていた。

 井岡はバツが悪そうに目を伏せ、洗濯カゴに向き直る。

「ああ、そういうことか」

 自分に哀れみの目を向けたこの男を、打ちのめしたい。

「静岡支部の斉藤さん。2周目2マークで不自然に減速してましたよね。あれ、おかしいと思ってたんです。まるであなたを勝たせようとしているみたいだなって」

 井岡が驚いたようにこちらを見た。

「男のちんこ咥えなきゃ勝てないなんて、惨めですね」

「っ……」

「そういうことでしょう? 井岡さん、勝率3・6ですもんね。優出しなきゃクビ宣告。だから斉藤さんに股開いて……」

 ガン、と大きな物音に、言葉が途切れた。廊下に繋がるドアからだった。ここからでは見えない。一歩、足を踏み出すと、押しのけるようにして井岡がドアへと向かった。

 ガラッと勢いよく開け、井岡が出ていく。入れ替わるようにして入ってきたのは奥だった。

「奥……さん……」

「時間だ。部屋に戻れ」

「……まだ五分ありますよ。ちゃちゃっと入るんで急かさないでください」

 凛義は元の場所に戻った。急いで服を脱ぎ、足早に大浴場へと向かう。

「業界の迷惑はお前だろ」

 冷ややかな声が背中に突き刺さった。

 聞こえないふりをして、凛義は大浴場のドアを開けた。
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