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オッズ(1)
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『激しいスリット合戦から5号艇芹沢が1マークを先制っ! 3号艇関野が隙間に差すっ! バックストレッチでは両者譲らず2マークに突入っ! 5号艇芹沢っ! 鋭いターンで3号艇関野を引き離したっ! 安全圏に突入っ! 後続艇を寄せ付けず、トップでフィニッシュっ! 芹沢凛義っ、なんと今節連勝中っ! 優勝戦にトップで出場を決めましたっ!』
ボートを降りて、装着場に入ると、同郷の先輩レーサーが「お前すごいな」と声を掛けてきた。
「A1昇格は間違いなし。奥の連勝記録も塗り替えられるんじゃないか?」
「どうですかね……さすがに奥さんの12連勝は……」
「狙えるって! まずは明日の優勝戦でサクッと優勝。期待してるぜ」
ポンと背中を叩き、先輩レーサーは去っていった。
「サクッと……優勝……」
胃の奥から、ふいに迫り上がってくるものの気配があった。額から脂汗が噴き出す。
凛義はトイレに駆け込んだ。
便器を両手で掴んだ瞬間、堪えていたものが吹きこぼれた。
どうなってんだ、俺の体……
体の調子は悪くない。なのに前兆もなく、急に吐き気に襲われたことに、凛義は愕然とした。
「芹沢……くん?」
ドアを挟んだ背後から、井岡の声が聞こえてきた。
「大丈夫? さっき顔色悪かったから、気になって……」
まなじりが鋭く吊り上がるのがわかった。袖で口元を拭い、凛義はゆらりと立ち上がる。
ドアを開け、顔も見ずに井岡を個室に引きずり込んだ。
「そんなに勝ちたいですか?」
壁に追いやり、背中に笑いかけた。
「え?」
「良いですよ。勝たせてあげます」
ズボンに手を掛けると、意味を理解した井岡の体がビクリと跳ねた。
「っ……冗談っ、やめろっ!」
「冗談なんかじゃないです。俺、男平気なんで」
男が良いのではなく、平気と言ったのはささやかな見栄だ。
「バカっ! なに考えてっ」
「勝たせてやるって言ってるんですよ……井岡さん、勝たなきゃいけないんでしょう。良いですよ。俺がうまいことアシストして、あなたを1着に導いてあげます」
「やめ、ろっ! はなせ……」
「勝ちたいんだろっ! だったら大人しくしろっ!」
井岡はふるふるとかぶりを振った。
「芹沢くんは……休んだ方がいい……」
「っ……どうしてそんなことっ、あんたに言われなきゃならないっ……」
「勝っても、嬉しくないんだろ」
「っ……」
「きみは……レースを勝負としてではなくギャンブルとして考えている。だから観客の目ばかり気にするんだ」
「だってギャンブルだろうがっ!」
「俺たちはそんなこと考える必要ない」
何もかも数値化されて、走る前からオッズという配当額を見せられて、考えるなという方が無理がある。
また吐き気が込み上げ、凛義は便器に飛びついた。
「芹沢くんっ!」
井岡に背中をさすられる。
さすられながら吐く。興奮と呆然を繰り返しているうちに、記憶は曖昧になっていく。
俺は、この人をレイプしたんだっけ。
レイプしたのなら、1着を譲ってやらないと。
甲斐がなんと言おうと、約束は守らないと。
奥がいるからなんだ。奥はとっくに不正に気づいている。
その夜、凛義は甲斐宛にメッセージを打ち込んだ。
『井岡さんに酷いことをしてしまいました。詫びに明日の優勝戦は井岡さんをアシストしつつ、俺は飛びます』
送信ボタンをタップした瞬間、息苦しさから解放された。
凛義は1号艇1番人気で優勝戦を迎えた。井岡は2号艇だ。第1ターンマークで減速し、先に井岡にターンマークを回らせるつもりでいた。自分が減速すれば、並びの3号艇もそれにつられて遅れるはずだ。
問題は4号艇の奥だった。奥が3号艇ごとまくってきたら、引き波に捕まって井岡が沈む可能性があった。そうなった場合は、3号艇ごと体当たりして、奥を弾く。
ボートに乗り込む。ファンファーレと同時にピットを離れ、スタート位置までボートを進ませる。
12秒針が動き出す。
凛義はハンドルとスロットルレバーを握りしめた。6艇がスタートラインをほぼ同時に通過し、第1ターンマークが迫る。
スロットルレバーを緩めた瞬間、目の前に青色の4号艇、奥が割り込んできた。
「っ……」
想定外だった。奥は2、3号艇を潰さず、凛義の1号艇のみを狙い撃ちしたのだ。
引き波によって後方へ下がった隙に、奥が凛義の内側に入る。第2ターンマークをほぼ同時にターンした時、ガツン、と艇に衝撃が走った。
奥の4号艇が、凛義の1号艇にわずかに乗り上げたのだ。サイドが重なるのがわかった。
「くそっ……」
ハンドルが回らない。ターンに必要なサイドが効かないのだから当然だった。チラと隣を見る。ハンドルが操舵不能なのは奥も同じのようで、奥のハンドルも微動だにしない。
操舵不能となった二艇は、ペラの推進力で横へ横へと押し流されていく。
この状況を回避するにはスロットルレバーを緩めればいい。だが奥に負けを認めるようで凛義は嫌だった。お前が引け、と心の中で唱える。そもそも旋回時に跳ねて、乗り上げてきたのは奥なのだ。
スロットルレバーを思いっきり握り込む。どちらも譲らないせいで、二艇はさらに横へ横へと押し流されていく。このままではコンクリート側壁に激突だ。
「引けよっ!」
思わず怒鳴った。声が届いたのか、奥が減速する。するとあれだけかからなかったハンドルが容易にかかった。
側壁衝突を回避しようと大きくハンドルを回す。瞬間、バランスを崩して世界が反転した。
濡れた体を温かいシャワーで洗い流す。脱衣所に出ると、いつからいたのか、奥が壁に持たれて立っていた。
謝りに来た……とは思えない。あの程度の接触はよくあることだ。
視線が絡んだが、凛義は無視して洗濯カゴのある方へと歩んだ。下着をはく。
「井岡さん、辞めるそうだ」
「え……?」
凛義は振り返った。
「俺がまくらず、1号艇と2号艇の間に差したのを、あの人は『生かされた』と思ったらしい。お前と一緒にコースアウトしたのも、自分を1着に押し上げるためにわざと道連れにしたんだろうと責めてきた」
「……それで、奥さんはなんて返したんですか」
「そう思うなら、そう思ってくれて構いませんと」
「っ……どうして否定しなかったんですっ!」
自分はもっと酷いことを井岡に言っておきながら、凛義は声を荒げていた。
「侮辱されたからだ」
「侮辱……?」
「俺は常に勝つことだけを考えている。成績不振のレーサーに1着を譲ろうなんて死んでも思わない。あの人は自分の抱える問題ばかりに気が入って、俺の矜持を蔑ろにした」
「違う……」
凛義はかぶりを振った。
「井岡さんがそう思ったのは、俺のせいですよっ……俺が……勝たせてやるとか、アシストするって言ったからっ……でなきゃ勘違いなんてっ……」
言いながら、まさにそれを実行するつもりでいたことを思い出し、血の気が引いた。
アシストがうまくいき、井岡が1着になったら、責められていたのは奥ではなく自分だった。そして、その場合、自分はなんと答えたか?
「へえ? 驚いた。お前、ただ自分が飛ぶだけでなく、他人を巻きこんで八百長を行なっていたのか」
「っ……」
しまった。
「舐められたもんだな。あの人も俺も」
抑揚のない声で言うと、奥は壁から背を離し、近づいてきた。
「あのレース、俺は連勝中のお前を一番に警戒していた。3号艇ごとまくらず、差しを選択したのは、直線勝負になった場合、エンジンの差で負けると思ったからだ。だからお前をまず潰しておこうと判断した。甲斐の影響でお前はダンプも平気でやるから、そもそもまくりが成功するかも怪しかったしな。……まあ結果、2マークでお前のボートに乗り上げてしまったわけだが」
悪びれる様子もなく奥は言った。
「俺、そのせいで転覆したんですけど」
「お前がスロットルを緩めなかったからだ」
奥は棚に手をつき、凛義の身動きを封じた。直近に睨まれると物凄い気迫だ。
「その言葉、そっくりそのままお返します」
凛義は毅然と言った。
「俺たちは戦線離脱したようなもの。あの競り合いに勝ったところでお前も俺も1着どころか舟券にも絡まない。なのにお前は最後まで減速しなかった。根っからの負けず嫌いなんだろうな」
「……」
責めるような鋭い目が、ふいに力なく翳った。
「わからない。どうして、勝負しないのか……根っからの負けず嫌いで、十分に実力がありながら……どうしてお前も甲斐も、不正に手を染めるんだ……」
わけがわからないというふうに、ポツリと言った。
「わかっているのか? 不正で得た金は、ヤクザに流れているんだぞ」
「……俺は、知りません」
「言ったはずだ。甲斐はヤクザと繋がっていると」
「甲斐さんの口から聞いたわけじゃありません」
「手を引け」
奥の鋭い目から目をそらす。
「俺は、お前たちを競走会から追い出したいわけじゃない。ただ……真剣勝負をして欲しいだけなんだ。どうしてそれができない? レースが楽しくないのか?」
「……」
息苦しさを覚え、はあっと息を吐く。
「……楽しく、ないです」
オッズという期待値がある限り、自分はレースを楽しめない。奥との競り合いに本気になれたのは、舟券に絡まない勝負だったからだ。
「俺たちは、ギャンブルの駒じゃないですか」
レーサーの自分が誇らしかった。声援がありがたかった。でもあの日、気づいてしまった。
舟券を握りしめた観客。賭け金に比例した歓声。予想が外れた時の罵詈雑言。
自分はただの駒でしかない。応援は賭けられた金額の大きさでしかなく、負けた途端、攻撃に変わる。
「違う」
「何が違うんですっ! 舟券握りしめて、勝て勝てって! お前にかかってるんだぞって! 俺はね、平和島で死にかけたんですよっ! なのに救助艇に引き上げられた時、聞こえてきたのは罵詈雑言だった……金返せっ、ふざけるなっ……お前なんか死ねとも言われましたよっ! いっそのこと死ねば……っ」
今、なんて……
自分の言葉にギョッとした。奥が辛そうに眉根を寄せ、凛義は呼吸困難になりかけた。勢いよく奥の胸を突き飛ばし、Tシャツとハーフパンツをはく。逃げるように脱衣所を飛び出した。
「くそっ……」
わけもわからず涙が溢れた。どいつもこいつも、俺を哀れみやがって。
『こいつ失礼すぎ』
住之江のレースから二週間後のことだった。
「は?」
とあるSNSの投稿に、凛義は目を見張った。
トークイベントで、奥に八百長の質問を投げかけた者がいたらしい。リプ欄には『失礼』とか、『八百長なんかあるわけない』という質問者への批判が並んでいる。
だがその中に、
『確かに住之江の12Rは怪しかった。オッズが歪んでる』
というコメントを見つけ、鳥肌が立った。慌てて件のレースを調べる。
表示された数字の羅列に、凛義は眉根を寄せた。確かに、これはおかしい。あの日の確定順位は2-5-3。自分と奥が飛んだのだから、もっと高配当になるはずだ。
甲斐に発信すると、2コールで出た。
「甲斐さん……大変です」
『知っとるよお。蒲生さんがおる中でようゆーわ。蒲生さん、カンカンに怒っとった。あ、質問者にやないで。回答した奥にじゃ』
「奥さん……なんて答えたんですか?」
『俺はやらないて即答。そんでもって、でも八百長している奴は存在するって断言。アイツらしいわ』
「……まずいじゃないですか」
『大丈夫大丈夫。公正課に呼ばれてもシラ切ればええがよ』
「甲斐さん」
スマホを強く握って、思い切って切り出した。
「奥さんから聞きました。甲斐さん、ヤクザと繋がっているんですよね? その人、信用しない方がいいと思います」
歪んだオッズを武器に、今、言うしかない。
「オッズが歪んでいます。その人、欲張って、捨て金も全部投入したんじゃないですか? そんな人と組んでいたら足元掬われますよ。不正がバレたら、俺たちの選手生命は終わるんですから、付き合う人間は」
『なんじゃって?』
「付き合う人間は選ばないと」
『違う、その前……オッズが歪んでるって、ほんま?』
甲斐は知らなかったのか。
「はい。明らかにおかしいです。奥さんが八百長を疑われたのも、そのせいだと思います」
『……マジか』
惚けたような声に、凛義の胸が弾む。
「ヤクザとは縁を切ってください。俺が、信頼できる協力者を見つけます」
『……』
「甲斐さん、聞いてますか?」
スマホを耳から離し、画面を見る。ちゃんと通話中だ。
「甲斐さん?」
『……』
「新しい協力者、探しておきますからね」
『……』
「……甲斐さん? どうしたんですか?」
何度呼びかけても、甲斐は返事をしなかった。一旦切り、もう一度発信するが、甲斐は二度と出なかった。
ボートを降りて、装着場に入ると、同郷の先輩レーサーが「お前すごいな」と声を掛けてきた。
「A1昇格は間違いなし。奥の連勝記録も塗り替えられるんじゃないか?」
「どうですかね……さすがに奥さんの12連勝は……」
「狙えるって! まずは明日の優勝戦でサクッと優勝。期待してるぜ」
ポンと背中を叩き、先輩レーサーは去っていった。
「サクッと……優勝……」
胃の奥から、ふいに迫り上がってくるものの気配があった。額から脂汗が噴き出す。
凛義はトイレに駆け込んだ。
便器を両手で掴んだ瞬間、堪えていたものが吹きこぼれた。
どうなってんだ、俺の体……
体の調子は悪くない。なのに前兆もなく、急に吐き気に襲われたことに、凛義は愕然とした。
「芹沢……くん?」
ドアを挟んだ背後から、井岡の声が聞こえてきた。
「大丈夫? さっき顔色悪かったから、気になって……」
まなじりが鋭く吊り上がるのがわかった。袖で口元を拭い、凛義はゆらりと立ち上がる。
ドアを開け、顔も見ずに井岡を個室に引きずり込んだ。
「そんなに勝ちたいですか?」
壁に追いやり、背中に笑いかけた。
「え?」
「良いですよ。勝たせてあげます」
ズボンに手を掛けると、意味を理解した井岡の体がビクリと跳ねた。
「っ……冗談っ、やめろっ!」
「冗談なんかじゃないです。俺、男平気なんで」
男が良いのではなく、平気と言ったのはささやかな見栄だ。
「バカっ! なに考えてっ」
「勝たせてやるって言ってるんですよ……井岡さん、勝たなきゃいけないんでしょう。良いですよ。俺がうまいことアシストして、あなたを1着に導いてあげます」
「やめ、ろっ! はなせ……」
「勝ちたいんだろっ! だったら大人しくしろっ!」
井岡はふるふるとかぶりを振った。
「芹沢くんは……休んだ方がいい……」
「っ……どうしてそんなことっ、あんたに言われなきゃならないっ……」
「勝っても、嬉しくないんだろ」
「っ……」
「きみは……レースを勝負としてではなくギャンブルとして考えている。だから観客の目ばかり気にするんだ」
「だってギャンブルだろうがっ!」
「俺たちはそんなこと考える必要ない」
何もかも数値化されて、走る前からオッズという配当額を見せられて、考えるなという方が無理がある。
また吐き気が込み上げ、凛義は便器に飛びついた。
「芹沢くんっ!」
井岡に背中をさすられる。
さすられながら吐く。興奮と呆然を繰り返しているうちに、記憶は曖昧になっていく。
俺は、この人をレイプしたんだっけ。
レイプしたのなら、1着を譲ってやらないと。
甲斐がなんと言おうと、約束は守らないと。
奥がいるからなんだ。奥はとっくに不正に気づいている。
その夜、凛義は甲斐宛にメッセージを打ち込んだ。
『井岡さんに酷いことをしてしまいました。詫びに明日の優勝戦は井岡さんをアシストしつつ、俺は飛びます』
送信ボタンをタップした瞬間、息苦しさから解放された。
凛義は1号艇1番人気で優勝戦を迎えた。井岡は2号艇だ。第1ターンマークで減速し、先に井岡にターンマークを回らせるつもりでいた。自分が減速すれば、並びの3号艇もそれにつられて遅れるはずだ。
問題は4号艇の奥だった。奥が3号艇ごとまくってきたら、引き波に捕まって井岡が沈む可能性があった。そうなった場合は、3号艇ごと体当たりして、奥を弾く。
ボートに乗り込む。ファンファーレと同時にピットを離れ、スタート位置までボートを進ませる。
12秒針が動き出す。
凛義はハンドルとスロットルレバーを握りしめた。6艇がスタートラインをほぼ同時に通過し、第1ターンマークが迫る。
スロットルレバーを緩めた瞬間、目の前に青色の4号艇、奥が割り込んできた。
「っ……」
想定外だった。奥は2、3号艇を潰さず、凛義の1号艇のみを狙い撃ちしたのだ。
引き波によって後方へ下がった隙に、奥が凛義の内側に入る。第2ターンマークをほぼ同時にターンした時、ガツン、と艇に衝撃が走った。
奥の4号艇が、凛義の1号艇にわずかに乗り上げたのだ。サイドが重なるのがわかった。
「くそっ……」
ハンドルが回らない。ターンに必要なサイドが効かないのだから当然だった。チラと隣を見る。ハンドルが操舵不能なのは奥も同じのようで、奥のハンドルも微動だにしない。
操舵不能となった二艇は、ペラの推進力で横へ横へと押し流されていく。
この状況を回避するにはスロットルレバーを緩めればいい。だが奥に負けを認めるようで凛義は嫌だった。お前が引け、と心の中で唱える。そもそも旋回時に跳ねて、乗り上げてきたのは奥なのだ。
スロットルレバーを思いっきり握り込む。どちらも譲らないせいで、二艇はさらに横へ横へと押し流されていく。このままではコンクリート側壁に激突だ。
「引けよっ!」
思わず怒鳴った。声が届いたのか、奥が減速する。するとあれだけかからなかったハンドルが容易にかかった。
側壁衝突を回避しようと大きくハンドルを回す。瞬間、バランスを崩して世界が反転した。
濡れた体を温かいシャワーで洗い流す。脱衣所に出ると、いつからいたのか、奥が壁に持たれて立っていた。
謝りに来た……とは思えない。あの程度の接触はよくあることだ。
視線が絡んだが、凛義は無視して洗濯カゴのある方へと歩んだ。下着をはく。
「井岡さん、辞めるそうだ」
「え……?」
凛義は振り返った。
「俺がまくらず、1号艇と2号艇の間に差したのを、あの人は『生かされた』と思ったらしい。お前と一緒にコースアウトしたのも、自分を1着に押し上げるためにわざと道連れにしたんだろうと責めてきた」
「……それで、奥さんはなんて返したんですか」
「そう思うなら、そう思ってくれて構いませんと」
「っ……どうして否定しなかったんですっ!」
自分はもっと酷いことを井岡に言っておきながら、凛義は声を荒げていた。
「侮辱されたからだ」
「侮辱……?」
「俺は常に勝つことだけを考えている。成績不振のレーサーに1着を譲ろうなんて死んでも思わない。あの人は自分の抱える問題ばかりに気が入って、俺の矜持を蔑ろにした」
「違う……」
凛義はかぶりを振った。
「井岡さんがそう思ったのは、俺のせいですよっ……俺が……勝たせてやるとか、アシストするって言ったからっ……でなきゃ勘違いなんてっ……」
言いながら、まさにそれを実行するつもりでいたことを思い出し、血の気が引いた。
アシストがうまくいき、井岡が1着になったら、責められていたのは奥ではなく自分だった。そして、その場合、自分はなんと答えたか?
「へえ? 驚いた。お前、ただ自分が飛ぶだけでなく、他人を巻きこんで八百長を行なっていたのか」
「っ……」
しまった。
「舐められたもんだな。あの人も俺も」
抑揚のない声で言うと、奥は壁から背を離し、近づいてきた。
「あのレース、俺は連勝中のお前を一番に警戒していた。3号艇ごとまくらず、差しを選択したのは、直線勝負になった場合、エンジンの差で負けると思ったからだ。だからお前をまず潰しておこうと判断した。甲斐の影響でお前はダンプも平気でやるから、そもそもまくりが成功するかも怪しかったしな。……まあ結果、2マークでお前のボートに乗り上げてしまったわけだが」
悪びれる様子もなく奥は言った。
「俺、そのせいで転覆したんですけど」
「お前がスロットルを緩めなかったからだ」
奥は棚に手をつき、凛義の身動きを封じた。直近に睨まれると物凄い気迫だ。
「その言葉、そっくりそのままお返します」
凛義は毅然と言った。
「俺たちは戦線離脱したようなもの。あの競り合いに勝ったところでお前も俺も1着どころか舟券にも絡まない。なのにお前は最後まで減速しなかった。根っからの負けず嫌いなんだろうな」
「……」
責めるような鋭い目が、ふいに力なく翳った。
「わからない。どうして、勝負しないのか……根っからの負けず嫌いで、十分に実力がありながら……どうしてお前も甲斐も、不正に手を染めるんだ……」
わけがわからないというふうに、ポツリと言った。
「わかっているのか? 不正で得た金は、ヤクザに流れているんだぞ」
「……俺は、知りません」
「言ったはずだ。甲斐はヤクザと繋がっていると」
「甲斐さんの口から聞いたわけじゃありません」
「手を引け」
奥の鋭い目から目をそらす。
「俺は、お前たちを競走会から追い出したいわけじゃない。ただ……真剣勝負をして欲しいだけなんだ。どうしてそれができない? レースが楽しくないのか?」
「……」
息苦しさを覚え、はあっと息を吐く。
「……楽しく、ないです」
オッズという期待値がある限り、自分はレースを楽しめない。奥との競り合いに本気になれたのは、舟券に絡まない勝負だったからだ。
「俺たちは、ギャンブルの駒じゃないですか」
レーサーの自分が誇らしかった。声援がありがたかった。でもあの日、気づいてしまった。
舟券を握りしめた観客。賭け金に比例した歓声。予想が外れた時の罵詈雑言。
自分はただの駒でしかない。応援は賭けられた金額の大きさでしかなく、負けた途端、攻撃に変わる。
「違う」
「何が違うんですっ! 舟券握りしめて、勝て勝てって! お前にかかってるんだぞって! 俺はね、平和島で死にかけたんですよっ! なのに救助艇に引き上げられた時、聞こえてきたのは罵詈雑言だった……金返せっ、ふざけるなっ……お前なんか死ねとも言われましたよっ! いっそのこと死ねば……っ」
今、なんて……
自分の言葉にギョッとした。奥が辛そうに眉根を寄せ、凛義は呼吸困難になりかけた。勢いよく奥の胸を突き飛ばし、Tシャツとハーフパンツをはく。逃げるように脱衣所を飛び出した。
「くそっ……」
わけもわからず涙が溢れた。どいつもこいつも、俺を哀れみやがって。
『こいつ失礼すぎ』
住之江のレースから二週間後のことだった。
「は?」
とあるSNSの投稿に、凛義は目を見張った。
トークイベントで、奥に八百長の質問を投げかけた者がいたらしい。リプ欄には『失礼』とか、『八百長なんかあるわけない』という質問者への批判が並んでいる。
だがその中に、
『確かに住之江の12Rは怪しかった。オッズが歪んでる』
というコメントを見つけ、鳥肌が立った。慌てて件のレースを調べる。
表示された数字の羅列に、凛義は眉根を寄せた。確かに、これはおかしい。あの日の確定順位は2-5-3。自分と奥が飛んだのだから、もっと高配当になるはずだ。
甲斐に発信すると、2コールで出た。
「甲斐さん……大変です」
『知っとるよお。蒲生さんがおる中でようゆーわ。蒲生さん、カンカンに怒っとった。あ、質問者にやないで。回答した奥にじゃ』
「奥さん……なんて答えたんですか?」
『俺はやらないて即答。そんでもって、でも八百長している奴は存在するって断言。アイツらしいわ』
「……まずいじゃないですか」
『大丈夫大丈夫。公正課に呼ばれてもシラ切ればええがよ』
「甲斐さん」
スマホを強く握って、思い切って切り出した。
「奥さんから聞きました。甲斐さん、ヤクザと繋がっているんですよね? その人、信用しない方がいいと思います」
歪んだオッズを武器に、今、言うしかない。
「オッズが歪んでいます。その人、欲張って、捨て金も全部投入したんじゃないですか? そんな人と組んでいたら足元掬われますよ。不正がバレたら、俺たちの選手生命は終わるんですから、付き合う人間は」
『なんじゃって?』
「付き合う人間は選ばないと」
『違う、その前……オッズが歪んでるって、ほんま?』
甲斐は知らなかったのか。
「はい。明らかにおかしいです。奥さんが八百長を疑われたのも、そのせいだと思います」
『……マジか』
惚けたような声に、凛義の胸が弾む。
「ヤクザとは縁を切ってください。俺が、信頼できる協力者を見つけます」
『……』
「甲斐さん、聞いてますか?」
スマホを耳から離し、画面を見る。ちゃんと通話中だ。
「甲斐さん?」
『……』
「新しい協力者、探しておきますからね」
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