オッズ

兵馬俑

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 弟のマンションで、向かい合って食べる食事は、飲食店でのそれとは何かが違った。どう違うのかと説明はできないけれど、凛義はこの時間を好ましく感じるようになっていた。

「兄さん、青い時計ってどうしたの?」

 何気ないふうに、弟が聞いてきた。

「最近……っていうか、もうずっと見てないと思って……あれ、どうしたの?」

 水面ダイヤルの腕時計のことだろう。壊れて以降、引き出しの奥に突っ込んだままだ。

「ああ……あれな、壊れたんだよ。修理に出すのも面倒で」

 新しい時計ならいくらでも買うことができた。

「じゃあ、僕が修理持っていこうか? ……あ、でも、一旦家に戻らなきゃならないし、手間だよね」

「んー……たぶん買った店に出したほうがいいと思うから、今度自分で行ってくるよ。夏服とか取りに戻りたいと思ってたし、来週くらいに」

「それ、僕もついていっていい?」

「え? ……いいけど、俺んちなんもないぞ?」

 黒目がちな弟の目がパッと大きくなった。

「家、入ってもいいの?」

「そのつもりで言ったんじゃないのか?」

「いや……移動とか、時計屋とか、兄さんと行きたいと思って……でも、家にも行きたい」

 頬を朱色に染めながら、弟はモゴモゴと言った。

 全身で好意を伝えてくる弟を、凛義は不思議な気持ちで眺める。

「お前、なんでそんなに俺のこと好きなの?」

 弟は弾かれたように顔を上げ、「だって……」と俯いた。

「優しいから」

「別に優しくないだろ」

「優しいよ。……それに、ボートに乗ってる兄さんは、かっこいい」

「ボート……」

 休みも四ヶ月目に突入した。支部長からは練習くらいしろとしつこく電話がかかってくるが、凛義は頑なに拒否している。

「ボートに乗ってなくても、もちろんかっこいいよ!」

 慌てて付け足す弟がおかしくて、凛義は笑った。

「ありがとう」

 ふと、五十嵐拓也の言葉を思い出した。

「……俺のために、競艇場にいた連中とやり合ってくれたんだよな」

 弟は首を傾げた。

「ほら、お前、競艇場で絡まれたって言ってたろ? ……俺は、そんな格好で」

 そりゃ、そんな格好で競艇場をうろついてたら、襲ってくださいって言ってるようなもんだろ。総額いくらするんだよ。

 あの時、弟に平然と放った言葉が、続きが、声にならなかった。

 なんてひどい言葉を自分は使ったんだろう。弟が受けた屈辱を思うと、罪悪感で胸が張り裂けそうだった。

「……ごめん」

 弟は首を横に振った。

「辛かったよな」

「ううん……」

「どうして怒らないんだよ」

「怒ってないもん」

 弟は大学生なのに、凛義はたまに、幼い子供と話しているように感じることがある。一緒に暮らすまでは、弟は自分より賢くて、常識人で、要領が良いと思っていたが、そうじゃない。きっと繕っていたのだ。

「怒って良いんだよ」

「……うん」

「でも、想像できないな。お前が競艇場にいる連中に立ち向かっていくって……いや、疑ってるわけじゃないんだけど」

「立ち向かったわけじゃないよ……殴りかかっただけ。しかも一発も当たらなかった」

 弟は悔しげに唇を引き結んだ。

「ありがとう。俺のために怒ってくれて」

「あいつら、最悪だよ……兄さんが転覆したのに……あんなひどい言葉……」

 弟はハッとし、「ごめん」と謝った。

「こんなの、聞きたくないよね」

「良いんだよ。あの時、俺も観客の声を聞いていたから」

 弟は辛そうに眉根を寄せた。その表情を見たら、自分の言葉の残酷さに吐き気がした。

 弟は罵倒の言葉に怒ってくれた。華奢な体で殴られた。どうしてそんな彼に、あんな言葉をぶつけてしまったのか。後悔してもしきれない。

「……兄さんが辞めたいなら、辞めても良いと思う」

「……ありがとう」

 スッと感謝の言葉が口をつく。勝負の世界から離れているからだろうか。焦りや不安に駆られることなく、毎日が平穏で温かい。

 あの世界に戻れば、勝つことを強いられる。そして自分は勝ち続け、たまに負ける。でも競艇ファンたちは、その少ない負けを許してはくれない。歓声が罵倒にひっくり返る瞬間が、どうしようもなく怖い。



 四年ぶりだというのに、時計屋の店員は凛義を覚えていた。

「ボートレーサーとお聞きしましたので、印象に残っていたのです」

 ロマンスグレーの髪をシチサンに分けた店員が、微笑みながら言う。

「別に、言いふらしてたわけじゃないからな」

 凛義は隣の弟に小声で言った。「俺はボートレーサーなんです!」と自慢していたと思われたら恥ずかしい。

 けれど弟は「うん?」と曖昧に頷くだけだった。なぜそんなことを言うのかと不思議に思っている様子だ。

「弟様ですか?」

 店員が聞く。

「あ、はい」

 凛義が答えると、弟の頬がほんのりと赤くなった。ぺこりと頭を下げる。

「自慢のお兄様ですね」

 店員がそう声をかけると、弟は弾かれたように顔を上げ、「はい」とはにかんだ。

「長期休みはご旅行ですか?」

 え、と凛義は狼狽える。この店員は、自分が休暇中だと知っているのだ。競艇ファンならともかく、普通の人間はボートレーサーの休みなど知らない。

 凛義の戸惑いを察した店員は、恥ずかしげに付け足した。

「あの後、実は競艇場に行ったのです。気軽に行ける距離にありながら、そういえば一度も行ったことがないなと思いまして。そうしたら、競艇場グルメにすっかり魅了されてしまいました……」

「ああ……グルメ」

「はい。江戸川で食べたモツ煮込みが美味しくて美味しくて……七百円という価格にも驚きました。ああこれは男が通い詰めるわけだと納得いたしました。恥ずかしながら、私はそれまで、競艇というものにネガティブなイメージを持っておりました。ですが行ってみると、抱いていたイメージとは全く違った」

「そう、ですか……?」

「はい。若い女性が名前入りのタオルを肩に掛けているのを見た時は、そんな楽しみ方があるのかと度肝を抜かれました。私は賭け方などよくわかりませんので、ああいうふうにボートレーサー個人を応援すれば良いのだなと勉強になりました」

 まさかと凛義は息をのんだ。店員は力強く頷く。

「おかげで、ギャンブルの才能がない私でも、勝つことができました」

 凛義はたまらず目を伏せた。八百長をしていた自分が、自分を信じて賭けてくれた人の目を、まともに見られるはずがなかった。

「……あの、時計……直りますか?」

 トレイに乗った時計を見つめ、凛義は言った。

「もちろんでございます。復帰はいつですか?」

「……4月です」

「4月に復帰されるのですね」心なしか、ホッとしたような声が言った。「では、それまでには必ず間に合わせます」

「……すみません」

 後ろめたくて、凛義はすぐにも店を出たかった。

「いえ、時間は十分にありますから」

「……お願いします」

 凛義は頭を下げ、弟の腕を引いて店を出た。時間に追われてなどいないのに、凛義の足取りは急くように速い。弟は何も言わずに歩幅を合わせてついてくる。いじらしい、と胸が詰まった。

「ごめんな」

 ぽろっと、口からこぼれた。

「俺、間違ってたわ……」

 柔らかい手が、凛義の手を強く握る。

「俺……みんな、金のことしか考えてないと思ってたんだ……お前はずっと、俺を応援してたのにな……」

「うん……」

「母さんと父さんが離婚した後、お前は一人で競艇場に来てたよな」

「……競艇場に行けば兄さんに会えたから」

 凛義は父親に連れられて競艇場に通っていたが、瑠衣は一人で競艇場に来ていた。

 よく考えればわかることだった。まともな母親なら、幼い子供を一人で競艇場になど行かせない。

「昔は兄さんに会える場所。今は、兄さんを応援できる場所」

 弟は小さく笑った。

「……僕、競艇場好きなのかな」

「復帰したら、また応援に来てくれるか?」

「当たり前じゃん。現地に行って応援するよ」

「……時計、直ったらまた一緒に来ようか」

「うん」

「さっきはゆっくり見れなかったから、今度はゆっくり見よう。お前が気に入ったの、買ってやるよ」

「え……悪いよ」

「その分稼ぐから良いんだよ」

「ありがとう……やばい。すごく嬉しい……」

 すれ違う通行人が、皆一様にギョッと驚いた顔をする。男二人が手を繋いで泣いているのだから当然だろう。薄気味悪いのを自覚しながら、けれど凛義は弟の手を離そうとはしなかった。
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