オッズ

兵馬俑

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オッズ(3)

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 復帰戦は江戸川でのG2レースだった。出走レーサーの中に奥の名前を見つけた時は驚いた……というか狼狽えた。正直、一番会いたくない人だ。

「芹沢」

 抽選会が終わって部屋を出ようとした時、奥に声を掛けられた。部屋にはまだたくさんのレーサーが残っている。今期ナンバーワンレーサーと、長期休み明けの自分……皆の注目が集まるのは当然で、四方から露骨な視線を浴びる。

「よく戻ってきたな」

 好意的な笑顔で言われ、凛義は拍子抜けした。

 休みの理由は体調不良となっているが、甲斐と親しくしていたことで、凛義も同族だと見做されている感がある。いつもなら声を掛けてくれる同郷レーサーもどこかよそよそしく、今日はずっと居心地が悪かった。

「お前とまたレースができて嬉しいよ」

「俺も……奥さんとまたレースができて嬉しいです……」

「噂は気にするな。真面目に走っていれば、必ず信用は取り戻せるから」

 胸がジワリと熱くなった。凛義の不正を知っているにも関わらず、奥は庇ってくれている。

「あ……ありがとうございます」

 心から感謝の気持ちを伝えると、奥は凛義の背中を軽く叩いた。

「そうそう、いろんなことを言う奴がいるだろうけど、お前はお前だ。気にすんな」

 よそよそしかった同郷レーサーが明るい声で言った。他にも奥の気を引くためか、四方から励ましの言葉が飛んでくる。

「優出、しろよ」

 奥の口調は穏やかだったが、その目は鋭く、挑戦的だ。

 凛義の胸に、忘れかけていた闘争心が蘇る。勝ちたい、と素直に思った。

「はい」

 答えると、満足気に奥の口角が上がった。



 装着場から競艇場を見渡すと、『芹沢凛義』と書かれた横断幕が目に入った。復帰戦に合わせて掲げてくれたのだろう。いつからか当たり前となっていた光景だが、あの裏には手間暇を掛けてくれた人がいる。レーサーをギャンブルの駒としてではなく、人間として応援してくれる人だ。

 人間を人間として見ていなかったのは自分の方ではないか。あの横断幕を背景の一部として認識し、その裏で活動する人の思いを無碍にしていた。

『第2レースは進入インから1番2番3番、4番5番6番です。まもなくスタート!』

 アナウンサーの実況が響く。

 6艇のボートが一斉に、スタートラインを目指して加速する。

『ほぼ横一線のスタートから3号艇奥がイン速攻! 真っ先に1マークをクリアっ! 力強い立ち上がりで艇を伸ばしていきますっ!』

 奥は危なげなく周回を重ね、初日のレースを制した。

 ボートを降り、乗り場に立った奥は、背後の電光掲示板を振り返る。圧倒的な差をつけての勝利にも関わらず、奥はしばらく確定順位を見つめていた。

 一体何がそんなに気にかかるのか……

 装着場へと入ってきた奥に、凛義は駆け足で近づいた。

「奥さんっ……」

 奥は足を止め、ヘルメットを外した。

「何か……気になることでもありましたか?」

「え?」

「順位を見ていたので」

 ああ、と奥はコースを振り返った。水面の向こう岸にある大型電光掲示板には、まだ第2レースの確定順位が表示されている。奥は当然1着だ。レース展開にも不審な点はなかったように思う。

「オッズを見ていたんだ」

「オッズ……ですか?」

 予想外の答えに凛義は驚く。オッズは配当額を示す数字だ。奥はレースとギャンブルを切り離し、常に勝つことだけを考えていると思っていた。

「オッズなんて……気になりますか?」

 自分はそれで潰れかけた。結局これはギャンブルでしかないのだと。みんな金を増やしたくてやっているのだと……そう思わせるオッズが憎らしかった。

「あの時」

 奥はこちらをまっすぐ見つめ、切り出した。

「ギャンブルの駒と言ったお前に、どう返すべきだったのか、ずっと考えていた」

 住之江でのことだとすぐにわかった。

 奥に「レースが楽しくないのか?」と問われ、自分は「楽しくない」と答えた。ガラス片のような痛々しい自分の声は、今でも鮮明に思い返すことができる。

「奥さんは、『違う』と答えました」

「それに対してお前は、何が違うのかと言った」

「……また、聞いても良いですか?」

「俺な、ディープインパクトを見たことがあるんだ」

「え?」

 いきなり、究極のサラブレッドと評された馬の名前が出てきて、凛義は困惑した。

「競走馬の……ですか?」

 奥は「ああ」と頷いた。

「六歳の時だ。父が馬主と親しくてな。家族で来賓席に招かれたんだ。出来のいい兄は大人と対等に話していて、父は兄ばかりを褒め称えた。俺はそんな空間にいるのが嫌で、部屋を抜け出した」

 奥はコースに視線を転じた。

「外はすごい人だった。大人ばかり……しかもその大人たちは熱狂している。俺は、大人ってのは冷めていて、つまらないとばかり思っていた。だから新鮮だった。ちょうど目線の位置に大人の手があって、そこから一枚の馬券がヒラヒラと落ちてきた。拾い上げて、その大人に声を掛けたんだ。その人は俺を迷子と思ったらしく、レースが終わるまで一緒にいてくれた。馬券の見方や買い方、オッズはその人から教わった。俺の質問に嫌な顔をしないで答えてくれた大人は、その人が初めてだった」

「……はあ」

 凛義は曖昧に相槌を打つ。凛義の困惑を気にするふうもなく、奥は続けた。

「その人がディープインパクトに一万円を賭けたと言ったから、俺も一緒になって応援した。ディープインパクトは観客の声援に応えて1着でゴールした。俺はその人と一緒に大喜びした。よかったね、やったね、一体いくらになったの……」

 奥は懐かしむように小さく笑った。

「その人は、『一万円だ』って言った。一万円が一万円、つまり元返しだ。ディープインパクトは人気がありすぎて、そのレースはオッズが1倍だったんだ。リスクはあってもメリットはない。ただハラハラするだけのギャンブルさ」

「1倍……」

「買ったところでしょうがないってわかるだろ。当時の大人なら誰だって気づいていたさ。ディープインパクトに賭けたところで儲かることはないって。でもみんな馬券を購入した。ディープインパクトの勝利に立ち会うためだ。そこに自分がいたという証のためだけに、金にならない馬券を購入したんだ」

 奥の声は珍しく弾んでいた。『ディープインパクト』と動いた後、彼の口角はわずかに引き上がる。

「……あの時俺は、ギャンブルの駒だと言ったお前に、反射的に『違う』と答えた。でも、まるっきり違うわけじゃないと、後になって考え直した。俺たちがやっているのは公営ギャンブルに他ならず、俺たちの生活を支えているのは舟券の売り上げだ。……でも俺は、ギャンブルの駒になるのも、ディープインパクトになるのも、俺たち次第だと思っている。勝つか負けるかわからないような二流のレーサーじゃ、客にとってはギャンブルの駒でしかないかもしれない。でも勝ち続けて、圧倒的な強さを手にすれば、儲けなんか関係なく応援されるんだ」

 勝ち続ける……それは、凛義がもっとも恐れていることだった。

「ギャンブルが嫌なら、勝ち続けるしかないんだよ」

 まるで凛義の内心を読み取ったようなことを言った。

「勝ち続けて、レースからギャンブルを切り離せ」

 アナウンスが鳴った。凛義は次のレースに出走する。「じゃあ」と言って、奥は去っていった。
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