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管理解除となり、凛義は江戸川競艇場を出た。タクシーに乗り込み、弟と待ち合わせしている飲食店へと向かう。
「ごめんな。せっかく来てもらったのに、いいところ見せられなかった」
個室に案内され、弟に会うなり凛義は言った。
「ううん、全然。兄さんのレースが見られて嬉しかった」
「ありがとう。でもやっぱ練習しなきゃダメだな」
凛義は腕時計を見やった。
「今日、時間大丈夫か? 何時の新幹線とか決まってる?」
波の音が聞こえてきそうな水面ダイヤルの腕時計だ。いろいろな高級腕時計をつけてきたが、これが一番しっくりくる。
「決めてないから大丈夫だよ。終電に間に合えば」
「だったら、うちに泊まっていくか?」
「ううん、今日は帰るよ」
なんだ、と若干ショックを受けている自分に気づく。
弟とのルームシェアは一ヶ月前に終わった。この一週間は宿舎に缶詰めだったが、今日は誰もいないワンルームに帰らなければならない。
「五十嵐拓也って……兄さん、知ってるよね?」
「え? ……ああ」
半年近く弟と一緒に生活したが、拓也の気配を感じたことは一度もなかった。二人の関係は気になってはいたのだが、関係が切れている可能性を思うと、迂闊にその名前を出すことはできず、今まで聞けないでいた。まさか、こんなタイミングで弟の口からその名が出ようとは……
「ごめんね。兄さん、拓也にいろいろ言われたでしょう?」
弟は肩をすくめた。
「あ……まあ……でもそれは俺が悪いから良いんだよ。目が覚めたっていうか……」
「そう……よかった」
「それで……拓也くんがどうしたんだよ」
「今日ね、拓也が帰ってくるんだ。だから今度、都合が会えば三人でご飯でもどうかなって……」
弟の頬はほんのりと赤く、緊張している。なるほどと凛義は思った。二人はそういう関係なのだ。
「ああ、いいよ。二人のこと、たくさん聞かせてくれ」
強張った弟の頬が弛緩した。
「ありがとう……」
「帰ってくるって、拓也くんはどこに行ってたんだ?」
「上海」
「上海?」
「うん。兄さんと一緒に住むことはね、拓也が提案したんだよ。電話した時、実は拓也もそばにいたんだ」
「上海へは何をしに?」
「お父さんを探しにって」
「え?」
店員がやってきた。牛タン定食を盆のまま二人の前に置く。店員にぺこりと頭を下げると、弟は両手を合わせて「いただきます」と言った。
凛義はそれどころではない。あれほど……父親は死んだと言い切っていた拓也が、なぜ。
「お父さんを探しにって……どういうことだよ」
「拓也ってね、お父さんは亡くなったって聞かされてたんだって。でも急に? なんかお父さんが生きてるって知って、それで上海に探しに行ったんだよ」
「なんで……」
「すごいよね。5年も消息が掴めなかったのに、半年で見つかるなんて」
「は?」
「兄さん、食べないの?」
初めて、面会に行った日のことを思い出した。
心臓がドクドクと波打つ。甲斐は……五十嵐が生きていると、警察から聞かされていたのではないか。「まだ五十嵐に未練があるんですか?」と聞いたとき、彼は否定したが、様子がおかしかった。
「兄さん……?」
喉の奥から、くぐもった声が出た。
雰囲気があまりにも違うから、凛義は一瞬、それが五十嵐拓也だと気づかなかった。相手が近づいてきて、目を凝らしてやっとわかった。
「なんや、瑠衣と会えるおもたら、余計なもんがくっ付いてきよって」
「余計なもんとはなんだよっ!」
弟が声を荒げる。
「拓也くん……きみのお父さんのこと……聞かせてくれるかな」
どうしても拓也から話を聞きたくて、弟と一緒に京都に来てしまった。
拓也は上質そうなコートに、センタープレスの入ったスラックスを穿いている。育ちの良さそうな好青年といった風貌だ。髪も短く整えられている。
拓也は長い腕で弟を抱きしめると、「瑠衣は部屋で待っとって」と言って、マンションに帰らせた。大人しくエントランスに入っていく弟の背中を見送ると、拓也は静かに歩き出した。すぐ近くの公園へ行くつもりだろう。
「甲斐さんには改めて謝りに行くつもりやから堪忍な」
歩き出してすぐ、拓也は言った。
「……一から説明してほしい」
「あの人が逮捕された後、俺は警察署に乗り込んだんや。あの人が勝手に、一方的にメールを送っとただけなのに、父ちゃんまで悪者扱いされたらたまらんやろ。……でも、父ちゃんは生きとるって聞かされた。いかにもマルボウ然としたコワモテ刑事にな」
拓也は苦笑した。吐く息が白い。
「俺……震えたわ。あの人になんちゅう酷いこと言ったんやおもて……父ちゃんはヤクザで、あの人は利用された側だった。あんた、あの人が初犯で実刑になったの、おかしいと思わなかったか?」
「……いや」
前例がないのだから、疑問など持ちようがない。
「父ちゃんは、八百長で不正に金を得とったんや。だから甲斐さんは三年なんて重すぎる判決を受けることになった。ヤクザの資金源になっとたからや」
「そんな……だって甲斐さんは」
「知らんかった。父ちゃんな、そーとー悪どいことしとったらしいで。さすがに日本じゃ生きられへんおもて、何もかも捨てて、墓まで建てて中国に高飛びしたんや。甲斐さんも連れていくつもりやったけど、奥さんに止められたんやて」
「奥さんが?」
「まあその辺のことはこれ読んでや」
拓也は足を止め、懐から茶封筒を取り出した。何も書かれていないが、凛義は警戒する。
「甲斐さん宛の手紙や。明日、俺はこれを持って甲斐さんに会いに行く。だから読むなら今のうちやで」
凛義は恐る恐る封筒を手に取った。中から便箋を引き抜き、開く。
「薄情なんだか、執念深いんだかようわからん男やわ。刑期満了したら中国来いて……まあ、甲斐さんにしてみれば一番幸せな形ちゃう? もうボートレーサーには戻れんのやし」
横書き、力強い達筆で、謝罪と新天地への誘いが記されていた。
「ごめんな。せっかく来てもらったのに、いいところ見せられなかった」
個室に案内され、弟に会うなり凛義は言った。
「ううん、全然。兄さんのレースが見られて嬉しかった」
「ありがとう。でもやっぱ練習しなきゃダメだな」
凛義は腕時計を見やった。
「今日、時間大丈夫か? 何時の新幹線とか決まってる?」
波の音が聞こえてきそうな水面ダイヤルの腕時計だ。いろいろな高級腕時計をつけてきたが、これが一番しっくりくる。
「決めてないから大丈夫だよ。終電に間に合えば」
「だったら、うちに泊まっていくか?」
「ううん、今日は帰るよ」
なんだ、と若干ショックを受けている自分に気づく。
弟とのルームシェアは一ヶ月前に終わった。この一週間は宿舎に缶詰めだったが、今日は誰もいないワンルームに帰らなければならない。
「五十嵐拓也って……兄さん、知ってるよね?」
「え? ……ああ」
半年近く弟と一緒に生活したが、拓也の気配を感じたことは一度もなかった。二人の関係は気になってはいたのだが、関係が切れている可能性を思うと、迂闊にその名前を出すことはできず、今まで聞けないでいた。まさか、こんなタイミングで弟の口からその名が出ようとは……
「ごめんね。兄さん、拓也にいろいろ言われたでしょう?」
弟は肩をすくめた。
「あ……まあ……でもそれは俺が悪いから良いんだよ。目が覚めたっていうか……」
「そう……よかった」
「それで……拓也くんがどうしたんだよ」
「今日ね、拓也が帰ってくるんだ。だから今度、都合が会えば三人でご飯でもどうかなって……」
弟の頬はほんのりと赤く、緊張している。なるほどと凛義は思った。二人はそういう関係なのだ。
「ああ、いいよ。二人のこと、たくさん聞かせてくれ」
強張った弟の頬が弛緩した。
「ありがとう……」
「帰ってくるって、拓也くんはどこに行ってたんだ?」
「上海」
「上海?」
「うん。兄さんと一緒に住むことはね、拓也が提案したんだよ。電話した時、実は拓也もそばにいたんだ」
「上海へは何をしに?」
「お父さんを探しにって」
「え?」
店員がやってきた。牛タン定食を盆のまま二人の前に置く。店員にぺこりと頭を下げると、弟は両手を合わせて「いただきます」と言った。
凛義はそれどころではない。あれほど……父親は死んだと言い切っていた拓也が、なぜ。
「お父さんを探しにって……どういうことだよ」
「拓也ってね、お父さんは亡くなったって聞かされてたんだって。でも急に? なんかお父さんが生きてるって知って、それで上海に探しに行ったんだよ」
「なんで……」
「すごいよね。5年も消息が掴めなかったのに、半年で見つかるなんて」
「は?」
「兄さん、食べないの?」
初めて、面会に行った日のことを思い出した。
心臓がドクドクと波打つ。甲斐は……五十嵐が生きていると、警察から聞かされていたのではないか。「まだ五十嵐に未練があるんですか?」と聞いたとき、彼は否定したが、様子がおかしかった。
「兄さん……?」
喉の奥から、くぐもった声が出た。
雰囲気があまりにも違うから、凛義は一瞬、それが五十嵐拓也だと気づかなかった。相手が近づいてきて、目を凝らしてやっとわかった。
「なんや、瑠衣と会えるおもたら、余計なもんがくっ付いてきよって」
「余計なもんとはなんだよっ!」
弟が声を荒げる。
「拓也くん……きみのお父さんのこと……聞かせてくれるかな」
どうしても拓也から話を聞きたくて、弟と一緒に京都に来てしまった。
拓也は上質そうなコートに、センタープレスの入ったスラックスを穿いている。育ちの良さそうな好青年といった風貌だ。髪も短く整えられている。
拓也は長い腕で弟を抱きしめると、「瑠衣は部屋で待っとって」と言って、マンションに帰らせた。大人しくエントランスに入っていく弟の背中を見送ると、拓也は静かに歩き出した。すぐ近くの公園へ行くつもりだろう。
「甲斐さんには改めて謝りに行くつもりやから堪忍な」
歩き出してすぐ、拓也は言った。
「……一から説明してほしい」
「あの人が逮捕された後、俺は警察署に乗り込んだんや。あの人が勝手に、一方的にメールを送っとただけなのに、父ちゃんまで悪者扱いされたらたまらんやろ。……でも、父ちゃんは生きとるって聞かされた。いかにもマルボウ然としたコワモテ刑事にな」
拓也は苦笑した。吐く息が白い。
「俺……震えたわ。あの人になんちゅう酷いこと言ったんやおもて……父ちゃんはヤクザで、あの人は利用された側だった。あんた、あの人が初犯で実刑になったの、おかしいと思わなかったか?」
「……いや」
前例がないのだから、疑問など持ちようがない。
「父ちゃんは、八百長で不正に金を得とったんや。だから甲斐さんは三年なんて重すぎる判決を受けることになった。ヤクザの資金源になっとたからや」
「そんな……だって甲斐さんは」
「知らんかった。父ちゃんな、そーとー悪どいことしとったらしいで。さすがに日本じゃ生きられへんおもて、何もかも捨てて、墓まで建てて中国に高飛びしたんや。甲斐さんも連れていくつもりやったけど、奥さんに止められたんやて」
「奥さんが?」
「まあその辺のことはこれ読んでや」
拓也は足を止め、懐から茶封筒を取り出した。何も書かれていないが、凛義は警戒する。
「甲斐さん宛の手紙や。明日、俺はこれを持って甲斐さんに会いに行く。だから読むなら今のうちやで」
凛義は恐る恐る封筒を手に取った。中から便箋を引き抜き、開く。
「薄情なんだか、執念深いんだかようわからん男やわ。刑期満了したら中国来いて……まあ、甲斐さんにしてみれば一番幸せな形ちゃう? もうボートレーサーには戻れんのやし」
横書き、力強い達筆で、謝罪と新天地への誘いが記されていた。
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