花の記憶

Yonekoto8484

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カーネーション

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ある朝、哲雄が先に起きて、新聞を読んでいると、幸子が寝室から出て来るなり、哲雄に尋ねた。
「あなたは、誰?なんで、ここにいるの?」

哲雄は、一瞬冗談だと思ったが、幸子の表情を見る限り、冗談ではないらしい。

「僕は、誰だって⁉︎あなたの旦那に決まっているだろう!知らないの⁉︎結婚して、40年以上経つのに…嘘だろう!寝ぼけているだろうが!」
哲雄が幸子を戒めるような口調で、声を荒げて言った。

そこまで言われると、幸子は夫のことを思い出したのか、単に馴れ馴れしく叱って来る見知らぬ男性にそれ以上怒鳴られるのが嫌だったのか、口をつぐみ、いつも通り、コーヒーを静かに飲みはじめた。

哲雄と幸子は午前中をほとんど口を聞かずにのんびりと過ごし、昼食を済ませてから、哲雄が薔薇の世話をしにしばらく外に出た。家の中へ帰って来て、小腹が空いたと思い、何かつまむものがないかテーブルへ目をやると、出て行く時に3本もあったバナナがなんとなくなっていたのである。哲雄は、さすがに驚き、幸子に尋ねた。
「バナナを3本も食べたの⁉︎食べ過ぎだろうが!」

「バナナ?食べていないわ。」
幸子が無関心に答えた。

「なら、なんでないのだ⁉︎」
哲雄が追及した。

「それはね、あなたが外に行っている間、不思議な女性が訪ねて来たの。彼女が食べたと思うの。」
幸子がお茶を濁すわけでもなく、真剣な顔で言った。

「ふざけるな!不思議な女性がやって来てバナナを僕らのバナナを食べるわけないだろう!あなたが食べただろう!忘れただけじゃないの⁉︎」
哲雄がムキになって、怒鳴った。

すると、幸子も、負けまいと、怒鳴り返した。
「本当だって言うの!私がバナナを3本も一人で食べる訳ないじゃないの⁉︎あの女性が食べたんだってば!なんで、信じてくれないの⁉︎」

いつもなら、言葉のやり取りが、なかなかけじめがつかずに、際限なくエスカレートして行くのだが、哲雄は、その日、珍しく我に返り、どんなに理屈を言い並べようと、幸子が自分がバナナを食べたことを認めることはないと観念し、違う部屋で過ごすことにした。幸子とずっと、べったり同じ部屋で過ごしていると、哲雄まで気がおかしくなりそうになるから、少し距離を置くことにしている。

午後も、特にこれといった用事がないので、午前中と同じく、ゆったりと過ごすつもりだったのだが、そう思っているところへ、突然玄関のドアが開く音がしたのである。

わざわざ確かめに行くまでもなく、哲雄と幸子には、誰がやって来たのか、すぐにわかった。呼び鈴も鳴らさず、ドアも叩かずに、突然家の中へ上がって来るのは、次男の幸太しかいないからである。

「お母さん、花を持って来たよ!」
玄関のドアが開く音がしたと思いきや、たちまち幸太の明るくて、屈託のない声が台所から聞こえて来た。

それまで、ぼんやりと壁を見つめて座っていた幸子は、幸太の声を耳にすると、生き返ったように飛び上がり、さっさと台所へと急いだ。

幸子と幸太には、名前が似ていることや、親子であることを遥かに超えた特別な絆があるのである。今でも、「うちの風来坊」と親戚に呼ばわりされる幸太だが、彼の若い頃というのは、今の姿がどこまでもまともで落ち着いて見えるくらい、酷く荒れた海を小さなカヌーで漕いで行くようなものであった。幸太は、荒れた青春の厳しい海に何度も、飲み込まれ、溺れそうになったけれど、その度に、救いの手を差し伸べ、幸太をまた立ち上がらせたのは、いつだって幸子であった。

アルコール中毒症と言う足枷をはめられ、もう自由になることはないと絶望しかけた時も、恋人に振られ、自暴自棄になり、自殺を考えた時も、そばに幸子がいたのである。従って、幸太にとって、幸子が母親であると同時に、救世主でもあり、命の恩人でもある。

幸太は、今も、決して地に足がついたと言えるような状態ではない。安定した職業についたことがなく、バイトを見つけても、三日坊主で、長続きはしない。恋愛に関しても同じような状況で、いろんな女性と関係を持つけれど、結婚などの安定した関係に発展することはない。幸太は、いつまでも、相手を見つけては喜び、振られては幸子に泣きつくの繰り返しである。まともな職業に就いていないため、賃貸の一軒家でも敷居が高くて、アパートの家賃すらも払えずに、安い家賃を払い、気前の良い友人の家に半分居候しているような状態だ。仕事がない時は、子供のころから可愛がってもらっている近所のおばあさんたちの庭の手入れをしたり、木の剪定をしたり、芝を刈ったりして、お小遣い程度の報酬をもらい、生活している。

幸太は、自由奔放で、マイペースで、たとえ出勤時刻などの当たり前に定められたルールでも守るのが困難である。仕事より、趣味の鹿狩りに時間とお金を費やしたいタイプで、食生活や衛生面のことなど、自己管理がからきりダメである。おそらく、一生、ちゃんとした職を手につけることも、結婚することも、無理だろう。その幸太のために、幸子ほど奔走し、手を焼いた者はいない。

しかし、幸太には、一つ取り柄がある。人当たりの良さと言えよう。幸太は、幸子に対してもそうであるように、他人への恩を簡単に忘れずにお返しをしようとする律儀で優しいところがあり、人を助けるのにやぶさかでないから、昔から友達に恵まれている。近所のおばあさんたちが40歳超えのおじさんに芝を刈ったり、庭をきれいにしただけで、お小遣いをあげるのも、その人となりの賜物である。幸太も、おばあさんたちへの恩を忘れずに、自家製の野菜を次会った時に渡す。おばあさんたちが野菜をもらうと、お返しにまた幸太に何かを渡し、またお仕事をお願いしようという気持ちになる。物々交換というのは、原始的で、現代社会ではもはや用いられない経済形態だが、田舎社会にはその名残が残っているおかげで、幸太は、おばあさんたちとの関係が成り立ち、なんとか生活を営んでいるので、有難い。

性格も、幸子に似て竹を割ったようなもので、人を恨んだり、過去の過ちを引きずったりしない。人と何かと共通の話題を見つけ、話に花を咲かせるという技が板についていて、仕事付き合いや恋愛関係は別として、人付き合いに困ることはほとんどない。気さくで、誰にでも話しかけ、関係を持とうとするから顔が広く、敵があまりいない。幸太の裏表のない正直で、さっぱりとした性格が身を助け、近所の人に信頼され、慕われている。このところも、母譲りである。

そういう人柄の幸太だから、誰より色々と助けられ、支えられて来た生みの親の幸子の前に、しばしば、出し抜けに現れ、花束をプレゼントするのである。幸子には、口にこそ出さないが、しっかり者で立派に家庭を持ち暮らしている子供たちより、いつまでも素直で純粋な幸太のことが可愛くて、愛おしいようだ。

「お母さんは、赤が好きだから、赤いカーネーションにした。どう?綺麗?気に入ってくれるといいけど…。」
幸太が親を喜ばせたい幼い子供のような口ぶりで、幸子に言う。

「最高に綺麗だよ。ありがとう。」
幸子が幸せそうに頬を赤く染めながら、答える。

「ところで、まだあの薬を飲んでいるの、記憶力を助ける薬?薬は、やっぱり良くないから、やめたら?あの薬を飲んで、副作用で亡くなったと言う人の話をこの間聞いたぞ!」
幸太は、自分にとって未知の領域のことについて、何かと不安要素を見つけ、恐怖心を煽り立て、その不安の気持ちを人に押し付けたがる節がある。これも、数多い欠点の一つであるが、彼のことをよくわかっている人は、聞き流し上手になることで、左右されずに対応できるのである。

「飲まなければならないから、しょうがないだろう。」
哲雄がぶっきらぼうに息子の口に出した疑問を否定した。

幸太は、8人兄弟の他の7人と同様に、父親を恐れているから、キレられると、すぐに黙り込むのである。しかし、他の7人とは違って、幸太は、最初に出した話題がボツになっても、またすぐに次の話題を出し、会話を続けようとする。

「それでさ、最近ニュース見た?あの首相は、どう思う?ダメだろう?特定秘密保護法案とか、怖いだろう?あの法案を作っちゃったら、宇宙人が来たって、僕たちには知らされないよ!」
幸太は、特に政治と医療に関して、不安要素を見つけ出すのが得意で、その中身や目的を問わず、新しい動きを起こそうとする人物を無差別に嫌うタチである。昔ながらのいわゆる、「古き良き時代」を実体は知らないものの、理想として掲げ、憧れ続ける珍しい現代人である。

ところが、哲雄も、政治の話題になると、すぐに興奮する性格であるため、二人が政治の話題になると、すぐに白熱し、けんけん囂々になる。しかし、幸子がいると、そうならないように間に入るので、和む。

幸太がしばらく両親との会話を楽しみ、いよいよ話題が尽きると、幸子の隣に座り、悪戯っぽく言った。
「お母さん、帰る前にお母さんの歌を歌ってあげようか?」

「どんな歌?」
幸子がキョトンとした。

「あの歌だよ…いつもの。お母さんの歌よ。」
幸太は、ヒントを与えると、幸子が思い出してくれると確信した自信堂々とした調子で続けた。

「あっ、あの歌は、聞きたくないわ。」
幸子が息子の歌おうとしている歌を思い出したようで、激しく首を横に振った。

「サッちゃんはね サチコというんだ ほんとうはね…」
幸太が不評でも、歌い始める。

「幸太、いい加減にしろ!聞きたくないと言っているだろうが!」
哲雄は、景色ばんだ。

幸太は、父親の注意をよそに、歌い続ける。
「だけどちっちゃいから自分のことサッちゃんってよぶんだよ おかしいな サッちゃん…」

歌う前は、「聞きたくない!」と息子を止めようとした幸子は、幸太が音程を外して歌い出すと、吹き出し、照れ臭くて、楽しそうに聞き始めた。いつからか、最近難しいことを考えすぎて、引きつることの多い幸子の表情は、和み、朗らかになっていた。

幸太が帰っても、幸子は眠くなるまで、ずっと幸太が持って来てくれた赤いカーネーションを、目で笑いながら、嬉しそうに眺め続けた。
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