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泡と消えても(人魚姫的な・ファンタジー)
泡と消えても1
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むかしむかし、あるところに、醜い人魚がいました。醜い人魚は、名をヘスリヒと言いました。ヘスリヒは人魚の国の嫌われ者でした。
人魚の国では、美しいものが何よりも尊く偉いのです。彼ははいつもひとりぼっちでした。
人魚は海の上の世界、人間の世界に憧れるようになりました。
人魚の国では、海面のそばまで行くのはご法度とされていました。人間は、とても恐ろしい存在と言われていました。
海の上は人間の船が行き交っています。嫌われ者の人魚のヘスリヒは、幼い頃から海面でそっと船を見るのがすきでした。
船乗りたちはいつでも活気に満ちていました。甲板上できびきびと動き周り、勇ましくマストに登って帆を張ったり畳んだり、ときには大合唱が聞こえてきました。
ヘスリヒはそこにまじってみたかったのです。船の上では、美しいものもそうでないものも平等に見えましたから。
ある船の上に、一際美しい男がいました。その船は海峡を挟んだ大陸と島を行ったり来たりしていました。
男が指示を飛ばすと、荒くれ者の男たちが一斉に動き出します。
みんなが彼を、インファンテと呼びます。きっと、彼の名前なのだろうと、ヘスリヒは思いました。
ヘスリヒは、インファンテの船をそっと追いかけるようになりました。
そして、いつしか彼に恋心を抱くようになりました。人間にしてもらって、彼のそばに行きたい、彼の役に立ちたい、そう思うようなったのです。
ヘスリヒは、人魚の魔女のところに行きました。
人魚の魔女は海の森の奥深くに暮らしていました。彼女は醜さによって疎まれましたが、魔力によって人魚たちに重宝されていました。
重宝にされても、人魚たちの目を見れば蔑まれているのはわかりました。彼女は人魚たちの中で暮らすのに疲れ果ててしまい、森の奥にひっそりと暮らしているのです。
ヘスリヒは彼女に頼みました。
「どうか私を人間に変えてください。私に差し上げられるものなら、なんでも差し上げます」
魔女はその醜い顔をさらに醜くしかめました。
「困ったねえ、お前さんから貰えるものがなにもないね……」
魔女は、人魚の美しい髪や鱗を対価にもらっていましたが、ヘスリヒには美しいところが一つもないのです。
ヘスリヒはとてもがっかりしました。醜い者同士、同情した魔女は、こう提案しました。
「それじゃあ、お前さんの寿命をもらうというのはどうだい?」
ヘスリヒはぱっと顔をあげて、顔を輝かせました。
命など惜しくありませんでした。この世界で、疎まれ、嫌われ、爪弾きにされるより、ずっといいと思っていたのです。
「いいかい、三年だけ寿命を残しといてあげよう。三年のうちに愛しのインファンテと心の通った接吻を交わすこと。そうすれば、お前さんは本当の人間になれる。それができなきゃ、お前さんは海の泡となって消えてしまう。いいね?」
ヘスリヒは大きく何度も頷きました。
そうして、魔女は彼に魔法を掛けました。七色の光りに包まれながら、彼の魚の下半身は二つにわかれて人間の足に変わりました。
魔女はヘスリヒの頭を、大きな空気の泡で包み、次に、魔法で人間の服を着せてくれました。
「さあ、おゆき。泡を使い果たさないうちにね」
海底は静かなものでしたが、海上は嵐に見舞われていました。
ヘスリヒが見たのは、高波に大きく揺れる、愛しのインファンテの武装交易船の姿でした。
酷い嵐に船は舵も効かずに大岩にぶつかりました。
そのとき、甲板にいたインファンテとほか数名が海に投げ出されてしまいました。
乗組員たちは、必死で沈みゆく船からボートを海に下ろして、それに乗り移っています。彼らはインファンテを助けようとしますが、この嵐ではうまくいきません。
ヘスリヒは急いでインファンテを助けに向かいました。
人間の足は泳ぎにくいものでしたが、それでも慣れてくると、人間たちとは比べ物にならないほど、ヘスリヒは速く泳げました。
溺れるインファンテを抱えます。その美しい顔は青ざめて生気がありません。ヘスリヒは急いで岸に向かいました。
インファンテを岸にあげると、インファンテが海を指さします。
「まだ、海に……仲間が……私が、助け、ないと……」
ヘスリヒは慣れない足で、左右に大きく体を揺らしてどうにか歩いて、再び海に向かい、インファンテの仲間たちを幾人も助けました。
インファンテの仲間たちは、奇跡的に死人が出ませんでした。
ヘスリヒは、城に招かれました。海の中の人魚の城と、同じぐらい立派な城でした。
インファンテというのは人間の言葉で、王子、という意味で、彼はこの人間の王国の第三王子なのでした。
王様がヘスリヒの手を取って言いました。
「あなたは我が国の恩人だ。王子をはじめ、この国の宝を大勢救ってくださった。お礼になんでも差し上げましょう」
ヘスリヒは言いました。
「どうか私を、皆さんの船の仲間にしていただきたいのです。王子様の乗る船に私も乗せていただきたいのです」
かくして、ヘスリヒは、インファンテの船の見習い乗組員となりました。お金を全く持っていなかったヘスリヒに、インファンテは木の器とスプーンをくれました。
船の上での生活は、それは大変なものでした。
男たちにとってヘスリヒは命の恩人とは言え、非常に奇異な存在でした。
スプーンの使い方すら見様見真似でおぼつかず、自分で服を着ることさえできなかったのですから。
海の男たちは陽気でしたが荒くれ者で、ヘスリヒがヘマをすると、「死にてえのか! このとんま!」と怒号が飛びました。
それでも、仕事を覚えていくと、もともとが人魚のヘスリヒは力も強くて、人の嫌がる仕事も引き受けたので、男たちの仲間に入れてもらえるようになり、可愛がられるようになりました。
船乗りたちからカードもサイコロも教えてもらいました。一緒に歌も歌いました。身の毛もよだつ幽霊船の話も聞かせてもらいました。大砲の打ち方も手入れも習いましたし、船上での戦い方も教えられました。
そんなことが、ヘスリヒには涙が出るほど嬉しかったのです。
そして、船の上では、いつもインファンテと一緒にいられました。彼から声を掛けられるたび、笑いかけられるたび、ヘスリヒは天にも昇る気持ちでした。
インファンテはヘスリヒに恩を感じて、立ち寄る街々で案内もしてくれました。土地土地のいろいろな食べ物を食べさせてくれました。
潮風に吹かれるインファンテの小麦色した横顔を見つめながら、彼が教えてくれる人間の世界のことに聞き入りました。
「ほら、見てご覧。これは、二千年も昔の古代ロメリアが築いた石垣なのだ」
「ロメ、リア?」
「ああ、そうだよ。大昔はここもロメリアの版図だったのだ」
ヘスリヒは、インファンテの言うことならなんでも覚えておきたいと思いました。
みんなでわいわいと食事をしながら、インファンテとたわいない話をしました。
「ヘスリヒ、君はどこで生まれたんだい?」
「ずっとずっと遠い海の向こうの国です」
「何という国?」
「さあ……名前もない、小さな小さな国でございます」
「お父上とお母上は、心配しているのではないか?」
「……私の国では、両親というものはないのです。子供は国の子なのです」
「随分変わった国だね。それで、君はどうして、その国を出たんだ?」
「国では、その……美しさが何よりも尊ばれるものですから。ですから、私はそこを出たのです」
「そこまで酷い顔じゃあないと思うがね」
インファンテの見え透いたお世辞に、ヘスリヒは笑顔を作って見せました。
「……そんな国のことは、忘れてしまうといい」
インファンテは励ましてくれました。
王子であるにも関わらず気さくなインファンテを知れば知るほど、ますます彼のことを好きになっていきました。
船の上での皆に慕われる船長としての彼も、陸の上でののんびりとした彼も、王子として礼服に身を包んだ彼も、すべてが好きでした。
船員たちは寄港地の浜辺で泳ぐこともありました。
競争すると、いつでもヘスリヒが一等でした。
「勝負にもならんじゃないか!」
「まったく、お前はたいしたやつだよ!」
「魚のヒレでもついているのか?」
船員たちが口々に褒めてくれます。インファンテも褒めてくれます。
「君には敵わないな。まるで人魚のようだ」
笑いながら、さっと大きな浴布で裸のヘスリヒを包みました。
ヘスリヒは、幸せでした。
でも、すぐに気づきました。
人間もまた、人魚と同様、美しいものを愛するのだと。
インファンテが祖国の港に帰ってくると、いつも美しい女性たちが待っています。
彼女たちは大きく手を降って、明るい笑顔を浮かべて、彼を出迎えます。彼もにこやかに応じます。
それに、インファンテには婚約者がいました。兄である王太子が推して、どこぞの国王の妹という、高貴な姫君と婚約しているのです。彼女が港で待っていたことがあったのだそうです。
「威張り散らかした、とんでもない性悪女だったぜ、ありゃ」
「美人は美人だが、インファンテより十五も上の年増の淫売だぜ。初対面のインファンテにしなだれかかって、こうやってな、胸を押し付けて」
「これまでの夫は次々早死して、インファンテは五番目の夫だそうだよ」
「ああ、おそろし!」
彼女を見たことがある船乗りたちは、口々に彼女を悪く言いました。
「王太子様はなんだってあんな女をあてがおうとするんだ?」
「あの宝石見ただろう、金に目がくらんだんだろうさ」
「違いないや、あの方ならさもありなん」
船乗りたちの会話は、ヘスリヒの耳を右から左に抜けていきました。
ですが、婚約者のいるインファンテが自分のことを愛することは、万に一つもないのだ、と、はっきり悟りました。
月日は流れて、三年の期限が迫っていました。
愛するインファンテとの別れを思うのは、耐えがたいことでした。
苦楽をともにした船乗りたちは兄弟も同然です。彼らとの別れも辛いことでした。
唯一、バジリオという若い船乗りには嫌われていましたが。
バジリオは、すれ違いざまに、誰にもばれないように、ヘスリヒの足を踏んだり、不細工、魚野郎と呼んだりしました。
それは悲しいことでしたが、時間の限られたヘスリヒにはバジリオに割く時間は惜しいものでした。
バジリオはインファンテの目にかけている船員でもありましたので、彼の悪行を聞けばインファンテも悲しむでしょうから。
泡になる日が刻一刻と迫る中、日に日にヘスリヒは思い詰めるようになっていきました。
「どうした、ヘスリヒ」
インファンテがヘスリヒのことを気にかけてくれます。
「悩みでもあるのか?」
「いいえ、悩みなんてございません!」
ヘスリヒは、無理やり笑って見せました。
「それならいいがね。君には元気で居てもらわないと。私の新航路を見つける旅に、ついてきてくれると言ったものな」
ああ、ついていけたら、どれだけ幸せでしょう。
もうすぐ死んでしまう身で、嘘になるとわかっていながら、ヘスリヒは答えました。
「ええ、もちろんです! 私を置いていってしまえば、一生恨みますよ、インファンテ!」
ヘスリヒは、冗談も言えるようになりました。自分自身の変化を嬉しく思いました。
人間にならなければ、長い人魚の生の中で、自分のそんな一面を知ることはなかったでしょう。
「そうだ、ともに行こう、世界の果てまで」
インファンテが、ヘスリヒの髪をくしゃくしゃと撫でました。
ある日のことでした。
「海賊だー!」
突然のことでした。マストの上の見張り台にいた船乗りが叫びます。
たちまち臨戦態勢となりました。
激しい大砲の打ち合いが始まりました。
大砲が船にあたり砕かれた木片が、船員たちに襲いかかります。
あちこちで悲鳴が上がりました。
打ち合いが終わると、船をぶつけて板を渡して、海賊どもが船に乗り込んできました。湾曲した刀を振り回しています。
海賊たちは誰かを探しているようでした。
海賊どもは、インファンテを探していたようなのです。
「居たぞ!」
インファンテに斬りかかろうとする海賊を、ヘスリヒはその怪力で持ち上げて、別の海賊にぶつけました。
「ば、化物か、こいつ!」
ひょろりとしたヘスリヒの剛力ぶりに、さしもの海賊たちもひるんだ様でした。
「引き上げるぞ、野郎ども!」
船員たちはなんとか、海賊を追い払うことに成功しました。
やっとのことで海賊たちを追い返したとき、甲板の上は地獄絵図となっていました。
海賊たちの死体、そして腕や足をぐちゃぐちゃに潰された仲間たち。あたりは血の海、体の一部が散乱していました。うめき声、悲鳴、絶叫があちこちから上がっています。
船医がせめて命は助けようと、手足を切断しています。それでも死ぬほうが多いでしょう。
ヘスリヒはインファンテが生きているのか、気が気ではありませんでした。
インファンテは生きていました。
彼は、怪我人ひとりひとりに優しい声を掛け、死にゆく者の不安を取り除いてやり、ねぎらいました。
ヘスリヒは船医の手伝いとして、怪我人を台に押さえつける仕事をしていました。
仲間たちの苦しむ姿は何度見ても、目を背けたくなる辛いものでした。人間はなんて残酷な生き物なのだろうと思いました。
その仕事がようやく終わったころ、インファンテは血まみれのヘスリヒにも声をかけてくれました。
「ヘスリヒ! 無事か!」
ヘスリヒは、インファンテの耳元で囁きました。
「お気をつけください、インファンテ。海賊はあなたを狙っているようでした」
「ああ、そのようだったな。これから生き残りを拷問にかける」
「さようですか」
「それよりも、また君に助けられたよ。その体のどこにあのような力が隠れているのだ?」
そう言って、インファンテはヘスリヒを抱擁しました。
「さ、さあ……」
ヘスリヒは抱きしめられて、目を白黒させました。多くの仲間が苦しむ中、場違いに胸の鼓動が激しくなります。
彼は私を、仲間としか見ていないのに。
「君が無事でよかった。一緒に世界の果てまで行く約束だものな」
その言葉を聞いたとき、ヘスリヒはもう死んでもいいと思いました。
人魚に生まれたことも、無駄ではなかったと思いました。
人魚でなければ、溺れる彼を助けることはできなかったでしょうし、今回も力になることは出来なかったでしょう。
もうすぐ消えてしまうけれども、それがヘスリヒの生きた意味になったのです。
そして、真逆ではありますが、もっと生きていたいと思いました。
生きて、いつまでもそばにいて、このかたをお守りしたいと思いました。このかたの大海を行く夢を叶える手伝いがしたいと。
インファンテは、私の命。
もったいないお言葉です、そう言おうとしたのに、声が詰まって出ませんでした。
大破した船は、通りかかった軍艦に曳航されてやっとのこと最寄りの港に寄港しました。
ここで怪我人の看病と船の修理をすることになったのです。
数日後のことです。
「ヘスリヒ、ちょっとこっちに来てくれ。怪力の君に運んでもらいたい荷物があってね」
港でバジリオに呼ばれ、インファンテのことは心配でしたが、ヘスリヒはバジリオのあとについていきました。
バジリオはどんどんと入り組んだ路地を入っていきました。
「まったく、馬鹿なやつ」
そのときでした。ヘスリヒは、腹に衝撃と灼熱を感じました。
前を歩いていたバジリオは振り返っていて、彼の手にはピストルが握られ、銃口からは硝煙があがっていました。
「バジ、リオ?」
船員は皆インファンテを敬愛していましたが、バジリオは特にインファンテに心酔する若い船乗りでした。
嫌われていることは知っていましたが、まさか撃たれるとは思いませんでした。
「この疫病神め! 目障りなんだよ、お前ごときがインファンテのそばをうろちょろと。お前が来て、インファンテは変わってしまった!」
地面に倒れたヘスリヒに、黒い影が落ちました。
ならず者の男たちが、下卑た笑いを浮かべてヘスリヒを取り囲みました。
ヘスリヒは腹から血を流しながら、男たちに乱暴に犯されました。
代わる代わる、ヘスリヒの男を受け入れたことのない穴に無理やり陰茎をねじ込みました。
男たちが無遠慮に腰を振り、白濁でヘスリヒを汚しました。
それをバジリオは満足げに眺め、大きな血溜まりを見てヘスリヒがもう助かることはないだろうという頃合いで、男たちに銀貨を握らせました。
「よかったなあ、ヘスリヒ。淫売のお前にちょうどいい冥土の土産だよなあ」
ヘスリヒは薄れゆく意識の中で、なお犯されながら、バジリオの去りゆく背中を見ていました。
ヘスリヒが目覚めると、そこはベッドの上でした。
酷い怪我をした船員たちと一緒に、ヘスリヒも寝かされていました。
酷く意識が朦朧としていました。
そこに、船員を見舞いにインファンテがやって来ました。
ヘスリヒの目がうっすらと開いているのを見ると、たちまちインファンテの顔に喜びの色が浮かびました。
「目が覚めたんだな、ヘスリヒ! 約束したものな!? 君が死ぬはずがないと思っていたのだ!」
ヘスリヒは、バジリオのことを、インファンテに言わなければならないと思いました。
「バジ、リオ……が……」
「ああ、済まない、君を守ってやれなかった。君がやつに撃たれたと、チアゴが教えてくれたよ。彼が君を見つけたんだ」
バジリオはどうなったのですか、目で聞くと、インファンテは目を伏せて答えてくれました。
「名前を出すのもおぞましい。奴は、万死に値する。船上裁判のもと、今朝、マストで絞首刑に処した。奴の犯した罪を思えば、一度の処刑では到底足りないが、残念ながら命は一つしかない」
刻一刻と別れのときが迫るなか、インファンテを亡き者にしようとしていたのが誰なのかが明るみにでました。
それは、王太子でした。父王が、後妻の子であるインファンテを、次の国王にするのではないかと猜疑心に苛まれてのことでした。
ヘスリヒが魔女に足をもらった日、インファンテの船が難破したのも、王太子が船大工に指示して、安定の悪い船を作らせたためでした。
船大工が罪の意識に苦しんで告白しました。
海賊を雇ったのも、王太子でした。
王太子は流刑地に送られて、そこで一生を過ごすことになりました。第二王子が王太子になりました。
男たちに強姦されてからというもの、ヘスリヒは自身がひどく汚れてしまったと思うようになりました。
洗っても洗っても、綺麗にならないのです。
その日、船員らはインファンテの城に慰労の宴に呼ばれていました。
飲めや歌えや踊れやの大騒ぎで、ヘスリヒはひさびさに物憂いことを頭の外に追いやることができました。
ヘスリヒはインファンテと、ふざけて村の男女のするように体を密着させて踊りました。
いえ、みんながそうやってふざけて踊ったのです。
それから、皆は酒を飲んで、気持ちよく寝入っててしまいました。
しかし、ヘスリヒは眠れませんでした。一人になると、嫌な記憶や考えが次々と頭に浮かびました。
ひとり、満月の照らす庭出ていました。
月の光に、穢れた身が浄化されればいいのに。そう思いました。
そうして、綺麗な身になって、泡になり、生まれ変わりたい。
人間の女に生まれ、インファンテと結ばれたいなど、だいそれたことは申しません。人間の男に生まれて、命の尽きるまで、インファンテのそばでお仕えしたい。
「眠れないのか」
驚いて振り返ると、インファンテでした。
「驚かせてしまったかな」
「いえ」
「ヘスリヒ、君は自分を醜いと言ったね」
「はい」
「月明かりの下の君は、美しいと思うよ」
ヘスリヒは曖昧に笑い、首を振りました。彼は褒めているつもりなのでしょうが、褒めているのか貶しているのかわかりません。
それに、ヘスリヒはもう、自分の容姿のことは、どうでもいいのです。
彼のそばに仕えるのには今のままで十分ですし、仲間の船乗りたちももう、誰も気にはしません。
「何を、考えていたのだ?」
「私の国の……おとぎ話を」
「起きてしまって目が冴えて、眠れないんだ。聞かせてくれないか」
「面白い話でもありませんし、私は話すのもうまくありませんよ」
「かまわないよ」
「そうおっしゃるなら……」
ヘスリヒは話し始めました。
「あるところに、それはそれは醜い人魚がいました。人魚は、人間の男に恋をして、魔女に寿命と引換に人間に変えてもらいました」
「……それで?」
「人魚は三年後、泡となって消えました」
「おい、ヘスリヒ。上手い、下手の問題じゃないぞ。酷い話だ」
「でも、人魚は男といられるだけで幸せでしたし、泡となった人魚は、風となって、いつまでも人間の男を守り続けるのですよ」
「人間の男はそんなことを望むのかね?」
「……そう、ですね。望まないでしょうね」
なんて一方通行の、破綻した物語でしょう。乾いた笑いが漏れました。ヘスリヒの目の奥がつんとしました。
インファンテがヘスリヒに歩み寄りながら言いました。
「偶然か? 知っていたかい? 君が来てからあとひと月で三年だよ。今日の君は、人魚のように消えてしまいそうだ」
「私は、人魚なんかじゃありませんよ」
「消えてしまっては困る。君は、私のそばに、ずっと……」
そのときです。
どん、と大きな音がして、インファンテが、地面に倒れました。
「……!!」
ヘスリヒの悲鳴は声になりませんでした。音に気づいて船乗りたちが起き出しました。
インファンテの胸からは、血が噴き出しています。両手で抑えても指の隙間から血が溢れていきます。
みな、インファンテの状況を見るだに、猛り狂って武器を取って外に駆け出しました。
胸部からどくどくと止め処なく流れ続けます。
ああ、彼が死んでしまう!
船医が駆けつけとき、ヘスリヒはインファンテの胸に真っ赤に濡れた両手を置いたまま叫びました。
「海の魔女よ、私はどうなっても構いません! どうか私の残りの命で、どうか、どうか、インファンテをお救いください……!!」
すると、どうでしょう。
蛍の光のような光の粒が幾万も集まって、インファンテを包み込みました。
光が失せたときには、血は止まり、インファンテの顔色は明るみ、鼓動は力強く、呼吸は確かになっていました。
船医とインファンテが、目を見開いています。
インファンテは起き上がって、ヘスリヒを抱きしめました。
その腕の中で、ヘスリヒは泡となっていきます。
「ヘスリヒ……!!」
「私は風となって、あなたを守ります。さようなら、ありがとう、インファンテ」
「行かないでくれ、ヘスリヒ……!」
インファンテはほとんど泡となったヘスリヒの唇に、キスをしました。
その瞬間、散り散りになった泡は一斉に寄り集まり、人の形に戻り、ふわりとインファンテの膝に落ちました。
存在を確かめるように、ヘスリヒを力いっぱい抱きしめました。
「ど、どうして? イン、ファンテ?」
「ああ! ジョアンと呼んでくれ、ヘスリヒ」
もう、可哀想な人魚はいません。
ーーーーーーーーーー
海の魔女はヘスリヒとジョアンの結ばれたのを知ると、お祝いの魔法を掛けました。
魔法は、遠い国の司祭を動かしました。
司祭は告発しました。
ジョアンの婚約者である王妹は、若さと美貌を保つため、沢山の若い女を監禁して、生き血をすすり、血を浴びている、と。
踏み込まれた彼女の城からは、おびただしい数の死体が見つかりました。
高貴な女は死刑は免れたものの、死ぬまで塔に閉じ込められることになりました。
海の魔女は、満足げにつぶやきました。
「ヘスリヒとジョアンは、いつまでもいつまでも、幸せに暮らしましたとさ」
それは、もうひとつの祝福でした。
おしまい
初出:2024/12/12
人魚の国では、美しいものが何よりも尊く偉いのです。彼ははいつもひとりぼっちでした。
人魚は海の上の世界、人間の世界に憧れるようになりました。
人魚の国では、海面のそばまで行くのはご法度とされていました。人間は、とても恐ろしい存在と言われていました。
海の上は人間の船が行き交っています。嫌われ者の人魚のヘスリヒは、幼い頃から海面でそっと船を見るのがすきでした。
船乗りたちはいつでも活気に満ちていました。甲板上できびきびと動き周り、勇ましくマストに登って帆を張ったり畳んだり、ときには大合唱が聞こえてきました。
ヘスリヒはそこにまじってみたかったのです。船の上では、美しいものもそうでないものも平等に見えましたから。
ある船の上に、一際美しい男がいました。その船は海峡を挟んだ大陸と島を行ったり来たりしていました。
男が指示を飛ばすと、荒くれ者の男たちが一斉に動き出します。
みんなが彼を、インファンテと呼びます。きっと、彼の名前なのだろうと、ヘスリヒは思いました。
ヘスリヒは、インファンテの船をそっと追いかけるようになりました。
そして、いつしか彼に恋心を抱くようになりました。人間にしてもらって、彼のそばに行きたい、彼の役に立ちたい、そう思うようなったのです。
ヘスリヒは、人魚の魔女のところに行きました。
人魚の魔女は海の森の奥深くに暮らしていました。彼女は醜さによって疎まれましたが、魔力によって人魚たちに重宝されていました。
重宝にされても、人魚たちの目を見れば蔑まれているのはわかりました。彼女は人魚たちの中で暮らすのに疲れ果ててしまい、森の奥にひっそりと暮らしているのです。
ヘスリヒは彼女に頼みました。
「どうか私を人間に変えてください。私に差し上げられるものなら、なんでも差し上げます」
魔女はその醜い顔をさらに醜くしかめました。
「困ったねえ、お前さんから貰えるものがなにもないね……」
魔女は、人魚の美しい髪や鱗を対価にもらっていましたが、ヘスリヒには美しいところが一つもないのです。
ヘスリヒはとてもがっかりしました。醜い者同士、同情した魔女は、こう提案しました。
「それじゃあ、お前さんの寿命をもらうというのはどうだい?」
ヘスリヒはぱっと顔をあげて、顔を輝かせました。
命など惜しくありませんでした。この世界で、疎まれ、嫌われ、爪弾きにされるより、ずっといいと思っていたのです。
「いいかい、三年だけ寿命を残しといてあげよう。三年のうちに愛しのインファンテと心の通った接吻を交わすこと。そうすれば、お前さんは本当の人間になれる。それができなきゃ、お前さんは海の泡となって消えてしまう。いいね?」
ヘスリヒは大きく何度も頷きました。
そうして、魔女は彼に魔法を掛けました。七色の光りに包まれながら、彼の魚の下半身は二つにわかれて人間の足に変わりました。
魔女はヘスリヒの頭を、大きな空気の泡で包み、次に、魔法で人間の服を着せてくれました。
「さあ、おゆき。泡を使い果たさないうちにね」
海底は静かなものでしたが、海上は嵐に見舞われていました。
ヘスリヒが見たのは、高波に大きく揺れる、愛しのインファンテの武装交易船の姿でした。
酷い嵐に船は舵も効かずに大岩にぶつかりました。
そのとき、甲板にいたインファンテとほか数名が海に投げ出されてしまいました。
乗組員たちは、必死で沈みゆく船からボートを海に下ろして、それに乗り移っています。彼らはインファンテを助けようとしますが、この嵐ではうまくいきません。
ヘスリヒは急いでインファンテを助けに向かいました。
人間の足は泳ぎにくいものでしたが、それでも慣れてくると、人間たちとは比べ物にならないほど、ヘスリヒは速く泳げました。
溺れるインファンテを抱えます。その美しい顔は青ざめて生気がありません。ヘスリヒは急いで岸に向かいました。
インファンテを岸にあげると、インファンテが海を指さします。
「まだ、海に……仲間が……私が、助け、ないと……」
ヘスリヒは慣れない足で、左右に大きく体を揺らしてどうにか歩いて、再び海に向かい、インファンテの仲間たちを幾人も助けました。
インファンテの仲間たちは、奇跡的に死人が出ませんでした。
ヘスリヒは、城に招かれました。海の中の人魚の城と、同じぐらい立派な城でした。
インファンテというのは人間の言葉で、王子、という意味で、彼はこの人間の王国の第三王子なのでした。
王様がヘスリヒの手を取って言いました。
「あなたは我が国の恩人だ。王子をはじめ、この国の宝を大勢救ってくださった。お礼になんでも差し上げましょう」
ヘスリヒは言いました。
「どうか私を、皆さんの船の仲間にしていただきたいのです。王子様の乗る船に私も乗せていただきたいのです」
かくして、ヘスリヒは、インファンテの船の見習い乗組員となりました。お金を全く持っていなかったヘスリヒに、インファンテは木の器とスプーンをくれました。
船の上での生活は、それは大変なものでした。
男たちにとってヘスリヒは命の恩人とは言え、非常に奇異な存在でした。
スプーンの使い方すら見様見真似でおぼつかず、自分で服を着ることさえできなかったのですから。
海の男たちは陽気でしたが荒くれ者で、ヘスリヒがヘマをすると、「死にてえのか! このとんま!」と怒号が飛びました。
それでも、仕事を覚えていくと、もともとが人魚のヘスリヒは力も強くて、人の嫌がる仕事も引き受けたので、男たちの仲間に入れてもらえるようになり、可愛がられるようになりました。
船乗りたちからカードもサイコロも教えてもらいました。一緒に歌も歌いました。身の毛もよだつ幽霊船の話も聞かせてもらいました。大砲の打ち方も手入れも習いましたし、船上での戦い方も教えられました。
そんなことが、ヘスリヒには涙が出るほど嬉しかったのです。
そして、船の上では、いつもインファンテと一緒にいられました。彼から声を掛けられるたび、笑いかけられるたび、ヘスリヒは天にも昇る気持ちでした。
インファンテはヘスリヒに恩を感じて、立ち寄る街々で案内もしてくれました。土地土地のいろいろな食べ物を食べさせてくれました。
潮風に吹かれるインファンテの小麦色した横顔を見つめながら、彼が教えてくれる人間の世界のことに聞き入りました。
「ほら、見てご覧。これは、二千年も昔の古代ロメリアが築いた石垣なのだ」
「ロメ、リア?」
「ああ、そうだよ。大昔はここもロメリアの版図だったのだ」
ヘスリヒは、インファンテの言うことならなんでも覚えておきたいと思いました。
みんなでわいわいと食事をしながら、インファンテとたわいない話をしました。
「ヘスリヒ、君はどこで生まれたんだい?」
「ずっとずっと遠い海の向こうの国です」
「何という国?」
「さあ……名前もない、小さな小さな国でございます」
「お父上とお母上は、心配しているのではないか?」
「……私の国では、両親というものはないのです。子供は国の子なのです」
「随分変わった国だね。それで、君はどうして、その国を出たんだ?」
「国では、その……美しさが何よりも尊ばれるものですから。ですから、私はそこを出たのです」
「そこまで酷い顔じゃあないと思うがね」
インファンテの見え透いたお世辞に、ヘスリヒは笑顔を作って見せました。
「……そんな国のことは、忘れてしまうといい」
インファンテは励ましてくれました。
王子であるにも関わらず気さくなインファンテを知れば知るほど、ますます彼のことを好きになっていきました。
船の上での皆に慕われる船長としての彼も、陸の上でののんびりとした彼も、王子として礼服に身を包んだ彼も、すべてが好きでした。
船員たちは寄港地の浜辺で泳ぐこともありました。
競争すると、いつでもヘスリヒが一等でした。
「勝負にもならんじゃないか!」
「まったく、お前はたいしたやつだよ!」
「魚のヒレでもついているのか?」
船員たちが口々に褒めてくれます。インファンテも褒めてくれます。
「君には敵わないな。まるで人魚のようだ」
笑いながら、さっと大きな浴布で裸のヘスリヒを包みました。
ヘスリヒは、幸せでした。
でも、すぐに気づきました。
人間もまた、人魚と同様、美しいものを愛するのだと。
インファンテが祖国の港に帰ってくると、いつも美しい女性たちが待っています。
彼女たちは大きく手を降って、明るい笑顔を浮かべて、彼を出迎えます。彼もにこやかに応じます。
それに、インファンテには婚約者がいました。兄である王太子が推して、どこぞの国王の妹という、高貴な姫君と婚約しているのです。彼女が港で待っていたことがあったのだそうです。
「威張り散らかした、とんでもない性悪女だったぜ、ありゃ」
「美人は美人だが、インファンテより十五も上の年増の淫売だぜ。初対面のインファンテにしなだれかかって、こうやってな、胸を押し付けて」
「これまでの夫は次々早死して、インファンテは五番目の夫だそうだよ」
「ああ、おそろし!」
彼女を見たことがある船乗りたちは、口々に彼女を悪く言いました。
「王太子様はなんだってあんな女をあてがおうとするんだ?」
「あの宝石見ただろう、金に目がくらんだんだろうさ」
「違いないや、あの方ならさもありなん」
船乗りたちの会話は、ヘスリヒの耳を右から左に抜けていきました。
ですが、婚約者のいるインファンテが自分のことを愛することは、万に一つもないのだ、と、はっきり悟りました。
月日は流れて、三年の期限が迫っていました。
愛するインファンテとの別れを思うのは、耐えがたいことでした。
苦楽をともにした船乗りたちは兄弟も同然です。彼らとの別れも辛いことでした。
唯一、バジリオという若い船乗りには嫌われていましたが。
バジリオは、すれ違いざまに、誰にもばれないように、ヘスリヒの足を踏んだり、不細工、魚野郎と呼んだりしました。
それは悲しいことでしたが、時間の限られたヘスリヒにはバジリオに割く時間は惜しいものでした。
バジリオはインファンテの目にかけている船員でもありましたので、彼の悪行を聞けばインファンテも悲しむでしょうから。
泡になる日が刻一刻と迫る中、日に日にヘスリヒは思い詰めるようになっていきました。
「どうした、ヘスリヒ」
インファンテがヘスリヒのことを気にかけてくれます。
「悩みでもあるのか?」
「いいえ、悩みなんてございません!」
ヘスリヒは、無理やり笑って見せました。
「それならいいがね。君には元気で居てもらわないと。私の新航路を見つける旅に、ついてきてくれると言ったものな」
ああ、ついていけたら、どれだけ幸せでしょう。
もうすぐ死んでしまう身で、嘘になるとわかっていながら、ヘスリヒは答えました。
「ええ、もちろんです! 私を置いていってしまえば、一生恨みますよ、インファンテ!」
ヘスリヒは、冗談も言えるようになりました。自分自身の変化を嬉しく思いました。
人間にならなければ、長い人魚の生の中で、自分のそんな一面を知ることはなかったでしょう。
「そうだ、ともに行こう、世界の果てまで」
インファンテが、ヘスリヒの髪をくしゃくしゃと撫でました。
ある日のことでした。
「海賊だー!」
突然のことでした。マストの上の見張り台にいた船乗りが叫びます。
たちまち臨戦態勢となりました。
激しい大砲の打ち合いが始まりました。
大砲が船にあたり砕かれた木片が、船員たちに襲いかかります。
あちこちで悲鳴が上がりました。
打ち合いが終わると、船をぶつけて板を渡して、海賊どもが船に乗り込んできました。湾曲した刀を振り回しています。
海賊たちは誰かを探しているようでした。
海賊どもは、インファンテを探していたようなのです。
「居たぞ!」
インファンテに斬りかかろうとする海賊を、ヘスリヒはその怪力で持ち上げて、別の海賊にぶつけました。
「ば、化物か、こいつ!」
ひょろりとしたヘスリヒの剛力ぶりに、さしもの海賊たちもひるんだ様でした。
「引き上げるぞ、野郎ども!」
船員たちはなんとか、海賊を追い払うことに成功しました。
やっとのことで海賊たちを追い返したとき、甲板の上は地獄絵図となっていました。
海賊たちの死体、そして腕や足をぐちゃぐちゃに潰された仲間たち。あたりは血の海、体の一部が散乱していました。うめき声、悲鳴、絶叫があちこちから上がっています。
船医がせめて命は助けようと、手足を切断しています。それでも死ぬほうが多いでしょう。
ヘスリヒはインファンテが生きているのか、気が気ではありませんでした。
インファンテは生きていました。
彼は、怪我人ひとりひとりに優しい声を掛け、死にゆく者の不安を取り除いてやり、ねぎらいました。
ヘスリヒは船医の手伝いとして、怪我人を台に押さえつける仕事をしていました。
仲間たちの苦しむ姿は何度見ても、目を背けたくなる辛いものでした。人間はなんて残酷な生き物なのだろうと思いました。
その仕事がようやく終わったころ、インファンテは血まみれのヘスリヒにも声をかけてくれました。
「ヘスリヒ! 無事か!」
ヘスリヒは、インファンテの耳元で囁きました。
「お気をつけください、インファンテ。海賊はあなたを狙っているようでした」
「ああ、そのようだったな。これから生き残りを拷問にかける」
「さようですか」
「それよりも、また君に助けられたよ。その体のどこにあのような力が隠れているのだ?」
そう言って、インファンテはヘスリヒを抱擁しました。
「さ、さあ……」
ヘスリヒは抱きしめられて、目を白黒させました。多くの仲間が苦しむ中、場違いに胸の鼓動が激しくなります。
彼は私を、仲間としか見ていないのに。
「君が無事でよかった。一緒に世界の果てまで行く約束だものな」
その言葉を聞いたとき、ヘスリヒはもう死んでもいいと思いました。
人魚に生まれたことも、無駄ではなかったと思いました。
人魚でなければ、溺れる彼を助けることはできなかったでしょうし、今回も力になることは出来なかったでしょう。
もうすぐ消えてしまうけれども、それがヘスリヒの生きた意味になったのです。
そして、真逆ではありますが、もっと生きていたいと思いました。
生きて、いつまでもそばにいて、このかたをお守りしたいと思いました。このかたの大海を行く夢を叶える手伝いがしたいと。
インファンテは、私の命。
もったいないお言葉です、そう言おうとしたのに、声が詰まって出ませんでした。
大破した船は、通りかかった軍艦に曳航されてやっとのこと最寄りの港に寄港しました。
ここで怪我人の看病と船の修理をすることになったのです。
数日後のことです。
「ヘスリヒ、ちょっとこっちに来てくれ。怪力の君に運んでもらいたい荷物があってね」
港でバジリオに呼ばれ、インファンテのことは心配でしたが、ヘスリヒはバジリオのあとについていきました。
バジリオはどんどんと入り組んだ路地を入っていきました。
「まったく、馬鹿なやつ」
そのときでした。ヘスリヒは、腹に衝撃と灼熱を感じました。
前を歩いていたバジリオは振り返っていて、彼の手にはピストルが握られ、銃口からは硝煙があがっていました。
「バジ、リオ?」
船員は皆インファンテを敬愛していましたが、バジリオは特にインファンテに心酔する若い船乗りでした。
嫌われていることは知っていましたが、まさか撃たれるとは思いませんでした。
「この疫病神め! 目障りなんだよ、お前ごときがインファンテのそばをうろちょろと。お前が来て、インファンテは変わってしまった!」
地面に倒れたヘスリヒに、黒い影が落ちました。
ならず者の男たちが、下卑た笑いを浮かべてヘスリヒを取り囲みました。
ヘスリヒは腹から血を流しながら、男たちに乱暴に犯されました。
代わる代わる、ヘスリヒの男を受け入れたことのない穴に無理やり陰茎をねじ込みました。
男たちが無遠慮に腰を振り、白濁でヘスリヒを汚しました。
それをバジリオは満足げに眺め、大きな血溜まりを見てヘスリヒがもう助かることはないだろうという頃合いで、男たちに銀貨を握らせました。
「よかったなあ、ヘスリヒ。淫売のお前にちょうどいい冥土の土産だよなあ」
ヘスリヒは薄れゆく意識の中で、なお犯されながら、バジリオの去りゆく背中を見ていました。
ヘスリヒが目覚めると、そこはベッドの上でした。
酷い怪我をした船員たちと一緒に、ヘスリヒも寝かされていました。
酷く意識が朦朧としていました。
そこに、船員を見舞いにインファンテがやって来ました。
ヘスリヒの目がうっすらと開いているのを見ると、たちまちインファンテの顔に喜びの色が浮かびました。
「目が覚めたんだな、ヘスリヒ! 約束したものな!? 君が死ぬはずがないと思っていたのだ!」
ヘスリヒは、バジリオのことを、インファンテに言わなければならないと思いました。
「バジ、リオ……が……」
「ああ、済まない、君を守ってやれなかった。君がやつに撃たれたと、チアゴが教えてくれたよ。彼が君を見つけたんだ」
バジリオはどうなったのですか、目で聞くと、インファンテは目を伏せて答えてくれました。
「名前を出すのもおぞましい。奴は、万死に値する。船上裁判のもと、今朝、マストで絞首刑に処した。奴の犯した罪を思えば、一度の処刑では到底足りないが、残念ながら命は一つしかない」
刻一刻と別れのときが迫るなか、インファンテを亡き者にしようとしていたのが誰なのかが明るみにでました。
それは、王太子でした。父王が、後妻の子であるインファンテを、次の国王にするのではないかと猜疑心に苛まれてのことでした。
ヘスリヒが魔女に足をもらった日、インファンテの船が難破したのも、王太子が船大工に指示して、安定の悪い船を作らせたためでした。
船大工が罪の意識に苦しんで告白しました。
海賊を雇ったのも、王太子でした。
王太子は流刑地に送られて、そこで一生を過ごすことになりました。第二王子が王太子になりました。
男たちに強姦されてからというもの、ヘスリヒは自身がひどく汚れてしまったと思うようになりました。
洗っても洗っても、綺麗にならないのです。
その日、船員らはインファンテの城に慰労の宴に呼ばれていました。
飲めや歌えや踊れやの大騒ぎで、ヘスリヒはひさびさに物憂いことを頭の外に追いやることができました。
ヘスリヒはインファンテと、ふざけて村の男女のするように体を密着させて踊りました。
いえ、みんながそうやってふざけて踊ったのです。
それから、皆は酒を飲んで、気持ちよく寝入っててしまいました。
しかし、ヘスリヒは眠れませんでした。一人になると、嫌な記憶や考えが次々と頭に浮かびました。
ひとり、満月の照らす庭出ていました。
月の光に、穢れた身が浄化されればいいのに。そう思いました。
そうして、綺麗な身になって、泡になり、生まれ変わりたい。
人間の女に生まれ、インファンテと結ばれたいなど、だいそれたことは申しません。人間の男に生まれて、命の尽きるまで、インファンテのそばでお仕えしたい。
「眠れないのか」
驚いて振り返ると、インファンテでした。
「驚かせてしまったかな」
「いえ」
「ヘスリヒ、君は自分を醜いと言ったね」
「はい」
「月明かりの下の君は、美しいと思うよ」
ヘスリヒは曖昧に笑い、首を振りました。彼は褒めているつもりなのでしょうが、褒めているのか貶しているのかわかりません。
それに、ヘスリヒはもう、自分の容姿のことは、どうでもいいのです。
彼のそばに仕えるのには今のままで十分ですし、仲間の船乗りたちももう、誰も気にはしません。
「何を、考えていたのだ?」
「私の国の……おとぎ話を」
「起きてしまって目が冴えて、眠れないんだ。聞かせてくれないか」
「面白い話でもありませんし、私は話すのもうまくありませんよ」
「かまわないよ」
「そうおっしゃるなら……」
ヘスリヒは話し始めました。
「あるところに、それはそれは醜い人魚がいました。人魚は、人間の男に恋をして、魔女に寿命と引換に人間に変えてもらいました」
「……それで?」
「人魚は三年後、泡となって消えました」
「おい、ヘスリヒ。上手い、下手の問題じゃないぞ。酷い話だ」
「でも、人魚は男といられるだけで幸せでしたし、泡となった人魚は、風となって、いつまでも人間の男を守り続けるのですよ」
「人間の男はそんなことを望むのかね?」
「……そう、ですね。望まないでしょうね」
なんて一方通行の、破綻した物語でしょう。乾いた笑いが漏れました。ヘスリヒの目の奥がつんとしました。
インファンテがヘスリヒに歩み寄りながら言いました。
「偶然か? 知っていたかい? 君が来てからあとひと月で三年だよ。今日の君は、人魚のように消えてしまいそうだ」
「私は、人魚なんかじゃありませんよ」
「消えてしまっては困る。君は、私のそばに、ずっと……」
そのときです。
どん、と大きな音がして、インファンテが、地面に倒れました。
「……!!」
ヘスリヒの悲鳴は声になりませんでした。音に気づいて船乗りたちが起き出しました。
インファンテの胸からは、血が噴き出しています。両手で抑えても指の隙間から血が溢れていきます。
みな、インファンテの状況を見るだに、猛り狂って武器を取って外に駆け出しました。
胸部からどくどくと止め処なく流れ続けます。
ああ、彼が死んでしまう!
船医が駆けつけとき、ヘスリヒはインファンテの胸に真っ赤に濡れた両手を置いたまま叫びました。
「海の魔女よ、私はどうなっても構いません! どうか私の残りの命で、どうか、どうか、インファンテをお救いください……!!」
すると、どうでしょう。
蛍の光のような光の粒が幾万も集まって、インファンテを包み込みました。
光が失せたときには、血は止まり、インファンテの顔色は明るみ、鼓動は力強く、呼吸は確かになっていました。
船医とインファンテが、目を見開いています。
インファンテは起き上がって、ヘスリヒを抱きしめました。
その腕の中で、ヘスリヒは泡となっていきます。
「ヘスリヒ……!!」
「私は風となって、あなたを守ります。さようなら、ありがとう、インファンテ」
「行かないでくれ、ヘスリヒ……!」
インファンテはほとんど泡となったヘスリヒの唇に、キスをしました。
その瞬間、散り散りになった泡は一斉に寄り集まり、人の形に戻り、ふわりとインファンテの膝に落ちました。
存在を確かめるように、ヘスリヒを力いっぱい抱きしめました。
「ど、どうして? イン、ファンテ?」
「ああ! ジョアンと呼んでくれ、ヘスリヒ」
もう、可哀想な人魚はいません。
ーーーーーーーーーー
海の魔女はヘスリヒとジョアンの結ばれたのを知ると、お祝いの魔法を掛けました。
魔法は、遠い国の司祭を動かしました。
司祭は告発しました。
ジョアンの婚約者である王妹は、若さと美貌を保つため、沢山の若い女を監禁して、生き血をすすり、血を浴びている、と。
踏み込まれた彼女の城からは、おびただしい数の死体が見つかりました。
高貴な女は死刑は免れたものの、死ぬまで塔に閉じ込められることになりました。
海の魔女は、満足げにつぶやきました。
「ヘスリヒとジョアンは、いつまでもいつまでも、幸せに暮らしましたとさ」
それは、もうひとつの祝福でした。
おしまい
初出:2024/12/12
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