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第8話 ひざまくら
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火曜日。
朝、映子先輩から『今日は用事ができたので、お昼には行けません』とメッセージが入った。
月、火、木は、映子先輩と一緒に昼食をとる約束だ。
月曜日に、しず香とのトラブルに映子先輩を巻き込んでしまった。そのことで、気を悪くしてしまったのかもしれない。
木曜日にはちゃんと謝りたい。
そんなことを考えながら歩いていると、しず香と顔を合わせてしまった。
一応話は落ち着いたのだけど、若干気まずい感じがする。
「昨日はごめん」
それがしず香の第一声だった。
もう一回バトルが勃発することも覚悟していたけれど、拍子抜けだ。でも、しず香がそう言ってくれてホッとした。
許せないという気持ちもある。だけどそれをほじくり返す趣味はない。それに、こうして面と向かって謝ることができるのは、しず香の良いところだと思う。
「それで……。あの睦さんって、本当に彼氏じゃないんだよね?」
そんな風に聞いてくるしず香のバイタリティは愛すべき点だと感じた。
「うん、本当に彼氏じゃないけど……」
「だったら、紹介してもらうことはできる?」
「いやぁ、やめた方がいいと思うよ」
私は素直な意見を口にする。
「どうして、やっぱり梢もあの人のこと、好きなの?」
いやいや、私、レズビアンだって言ったよね。
そんな、ちょっとおバカなところもしず香のかわいいところかもしれない。
「あの人、ちょっと引くくらいシスコンだよ」
睦さんには申し訳ないが、しず香には真っ当な恋をしてもらわないと私の身が持たない。
「シスコン?」
「うん。その上、引きこもりのゲーマーだし……」
しず香が黙る。
あの場に颯爽と現れた睦さんは、少し素敵に見えたかもしれない。
だけど、それは気のせいだ。
「そっか、そうなんだ……じゃあ、また、機会があったら……」
しず香の笑顔が若干ひきつっている。
そんな心の内を隠せないところもしず香のチャームポイントだと思う。
しず香とは友だちになれないと思っていたが、あんなことを経たからこそ、逆に友だちになれそうな気がしていた。
まだもう少し時間はかかるかもしれないが、ゆっくりと友だちになっていこう。
水曜日。
四限目の終わりに佑夏と顔を合わせた。
しず香たちとのトラブルは取り敢えず収まったことを伝えるとホッとした顔をしていた。
「なんだか、佑夏まで巻き込んじゃってゴメン」
「梢のせいじゃないでしょう。気にしないで。それより、先輩は大丈夫だった?」
「先輩?」
「梢たちがいなくなってから、すごく呆然としてたみたいで。声を掛けたんだけど、気付かなかったかもしれない。多分、結構動揺したんじゃないかな」
佑夏が心配そうに言う。
私と佑夏は以前にもしず香とひと悶着起こしている。
だからあそこでしず香が騒ぎ出したときも、少しは落ち着いて対応できたと思う。
だけど先輩は突然のことで混乱しただろう。
「先輩には今度ちゃんと謝っておくよ」
私は佑夏に笑顔で答えたが、心の中には不安が湧きおこる。
やはり火曜日の約束がキャンセルされたのはそのことが原因なのかもしれない。
でも佑夏に心配をさせたくはない。
「それよりも佑夏だよ。本当に大丈夫だった? あんまり噂がたつと、相手が困るでしょう?」
佑夏の好きな相手はこの大学の柳先生だ。もちろんしず香はそのことを知らないので柳先生の話は少しも出ていない。
それでも佑夏のことが噂になれば、どこでどう結び付くか分からない。
「ああ見えて結構ぼんやりしてるから、全然気づいてないんじゃないかな」
佑夏が言う。
私が持っている柳先生のイメージは『できる女』だ。佑夏が言った『ぼんやり』とは結び付かない。
だが幼いころから柳先生を見てきた佑夏が言うのならば間違いないのだろう。
佑夏は私の信じられないという表情に気付くとクスリと笑う。
そして私の耳元に顔を寄せて小声で言った。
「そうじゃなきゃ、何年も好きだって言い続けてる私の気持ちに気付かないわけないでしょう?」
それはそうかもしれない。
でも柳先生はきっと気付いている。それでも応えないのには、柳先生なりの理由があるのだろう。
「それに、本当にぼんやりしてるところはあるんだよ。私の家に勉強を教えに来てくれてたときなんて、靴と間違えてスリッパで来たこともあるし」
佑夏が笑った。柳先生の話をするときの佑夏は本当にかわいい。
だから少しだけ佑夏に協力してあげたくなった。
私は佑夏の腕に自分の腕を絡ませて体を寄せる。
「え? 何? どうしたの、突然」
佑夏は驚いて少し頬を赤らめる。
「ちょっと、大事な話があるんだ」
私は佑夏の耳元で言う。
そしてそのまま腕を引いて、人通りの少ない廊下の角を曲がる。
人目に付かないところまで佑夏を誘導して私は手を離した。
「一体何なの?」
佑夏は眉を寄せて少し怪訝な顔をする。
「まあ、ちょっと待ってよ」
私は耳を澄ませる。周りにほとんど人はいないので、かすかな足音も注意すれば聞き取ることができる。
そしてタイミングを見計らって少し大きな声で言う。
「ねえ佑夏、私のことが好きだって言ったの、本当?」
もちろん寝耳に水の佑夏は慌てて否定しようとするが、私は佑夏の口を押える。そして人差し指を自分の口に当てて静かにするようジェスチャーで伝えた。
次の瞬間、私たちのいる廊下の死角になる場所でバサバサと何かが落ちる音がした。
私と佑夏は音がした場所を覗き込んだ。
柳先生がしゃがみこんで慌てて教科書や資料の束を拾っている。
「み……柳先生、何をしてるんですか?」
柳先生はチラリと佑夏を見て真っ赤になっている。
「ぐ、偶然通りかかって、ちょっと落としちゃって」
柳先生は、まるでコントのように拾った先から荷物を落としていく。
佑夏は柳先生の側にしゃがみ、荷物を拾うのを手伝った。
荷物を無事に抱えて立ち上がった柳先生に私は言う。
「さっきの、ほんの冗談ですから。安心してくださいね」
「へ?」
柳先生が目を丸くする。その表情は、講義中に見たどんな表情とも違う。
「それじゃあ、佑夏、私は行くから、あとはよろしく」
私は手を振って二人の側を離れた。
二人はキョトンとした顔で私を見送った。
佑夏と話していたとき、柳先生が通りかかり、隠れて様子を伺っていることに気付いたのだ。
私と佑夏があやしい行動をとれば、柳先生は必ず来ると思ったが、ズバリその通りになった。
これが二人の背中を押すことになるかは分からないが、私の読み通り、柳先生も佑夏のことを特別に思っていることは分かった。
木曜日。
映子先輩と昼食をとる予定の日だ。
だが今日も映子先輩からキャンセルのメッセージが届いた。
避けられているのかもしれない。
私は一人で学食へと向かった。
映子先輩がいないので、日替わり定食を頼む必要もない。
注文の列に並んでみたものの、あまり食欲がなかったので、そのまま何も頼まずに学食を出ることにした。
振り返ったそのとき、窓際の一番奥の席に見覚えのある人を見つけた。
月曜日、睦さんを送って校門まで行ったときにすれ違った女性だ。
睦さんが「イイ女」と称した通り、遠目からでもその存在感は際立っている。
そして、その女性の隣に座る女性に目が留まった。
少し猫背でオドオドとした雰囲気の女性。それは映子先輩だった。
だけど一瞬、映子先輩だとは気付けなかった。髪の毛がさっぱりとしたショートボブになっていたからだ。
遠目からでも映子先輩の表情が見える。
映子先輩はあんな顔をしていたのか、と少し新鮮な気持ちになった。
映子先輩は隣の女性に何かを言われ、困ったような笑みを浮かべている。
映子先輩は恥ずかしそうで、うれしそうで、でも緊張はしていない。
私は映子先輩の隣の女性が何者なのかを理解した。
映子先輩にカメラを教え、写真部に部員を増やした、映子先輩の先輩。
小声の映子先輩の声を大きくさせる存在。
よかった。
食事の約束をキャンセルされていたのは、私を避けていたわけではない。
しず香のことで怒っていたわけでもない。
ただもう私は必要なくなった、それだけのことだ。
私はそのまま学食を立ち去った。
金曜日。
土曜日。
日曜日。
神奈さんの家には行かなかった。
先週、睦さんが引っ越しをして、はじめて恋人同士が二人きりで過ごす週末だ。
そんな神奈さんと鈴さんを邪魔するほど私は野暮じゃない。
何事もなく日々は過ぎていく。
特に用事もないので勉強をしていたのだが、さすがに勉強だけをし続けるのは苦痛だ。
読みたい本も、見たいテレビもない。
そこで私は部屋の大掃除をすることにした。
だが、それもすぐに終わってしまった。
私の部屋には何もない。
必要最低限の勉強道具や筆記用具。
本を買って読んでも、読み終わったらすぐに処分してしまう。
趣味もないし、何かに執着してコレクションすることもない。
この空っぽの部屋は、まるで私自身のようだ。
机の上の一枚の写真を見る。
ピントの合っていない私の顔が映った写真。
映子先輩は、ことのき、どんな私を写したかったのだろうか。
そして、いつもと同じように月曜日がやってくる。
一限目、教室に入ると、しず香と桐乃が手を挙げてあいさつをした。私もあいさつを返す。
しず香と桐乃はトラブルの前とほとんど変わらない笑顔を私に向けてくれた。
幾分か引いているように見えるのは杉本くんだ。
気になっていた女がレズビアンだと知ったら、心中穏やかではいられないのだろう。
そう考えると、重度のシスコンなのに、姉が同性の恋人を連れてきても悠然としている睦さんはすごい人のような気がする。
いつも普通に四人でゲームをしながらワイワイ過ごしていたので気付かなかった。
睦さんの評価を少し改めることにしよう。
二限目では、いつものように最前列の佑夏の隣に座る。
佑夏には少しお節介をしてしまった。あの後どうなっただろうか。
「佑夏?」
私は佑夏の顔を覗き込む。
「講義が終わってから話そう」
佑夏はそれだけ言って目をそらしてしまった。
お節介が悪い方向に行ってしまったのだろうか。
教室に現れた柳先生はいつもと同じに見える。少しだけ、佑夏に送る視線が少なくなっているかもしれない。
講義が終わり、柳先生が教室を去ると、佑夏が私の方を向いて「ありがとう」と小さな声で言った。
「それじゃあ、うまくいったの?」
私の声に、佑夏が頷く。
自分のことのようにうれしい。
「さっきはごめんね、講義前に話すとニヤケちゃって、講義を受けられない気がしたから」
「全然問題ないよー。よかった!」
「いやあ、でもさぁ、私が大学を卒業するまでは、手をつなぐのもダメだとか言い出して」
「なにそれ? 修行?」
佑夏が苦笑いする。
「でも相手の気持ちが分かってすっきりした。これからのことは、二人でゆっくり考えるよ」
佑夏が幸せそうな笑みを浮かべる。そして佑夏がハッとして時計を見た。
「今日は先輩とお昼の日だよね? ゴメンね、引き留めて」
「ああ、いいよ。大丈夫。先輩とのランチはやめたから」
「え?そうなの?」
私は頷く。
「じゃあ、アタシとご飯食べに行く?」
「いや、あんまり食欲ないから、中庭で寝てるよ」
「食欲ないって……そう言えば、ちょっと顔色悪いみたいだけど、大丈夫なの?」
「大丈夫。ちょっと早い夏バテかなぁ」
私は笑顔を浮かべて席を立ち、中庭へと向かった。
もう随分日射しが強くなってきたからか、中庭に出る人も少なくなったような気がする。
私は木陰にあるベンチに寝転がった。
講義を受けて友だちと話しす。
ごく普通の一日だ。
それなのに、どうしてこんなにつまらないのだろう。
私は目を閉じてまどろむ。
三限目は空きで四限目がある。でも今日はもう帰ってしまおうか。
そういえば高校の頃も毎日がつまらなかった。
だけど受験という明確な目標があっただけよかったのかもしれない。
大学にだってテストはある。だから勉強をおろそかにするつもりはない。だけど、どこか気が抜けたような感じがしてしまう。
何か資格試験でも目指してみようか。
それとも、アルバイトでもはじめてみようか。
何か熱中できる趣味でも持つべきだろうか。
遠くで学生たちの楽しそうな声がする。
みんなは何が楽しくて大学に通っているのだろう。
「梢、お客さんだよ」
頭の上で声がした。
目を開けると佑夏の顔が見える。
体を起こして佑夏の方を見ると、なぜかそこに鈴さんがいた。
「鈴さん、なんでここにいるんですか」
思わず声を出した私に答えたのは佑夏だった。
「さっき、食堂で梢を探してたから連れてきた。他の大学の友だち?」
大学の友だちって、鈴さんを私たちと同じ年くらいだと思っているのか? それはちょっと言いすぎだろう。
「ちょっと待って、佑夏、この人アラサーだから」
「うそっ、若い、見えない」
佑夏は目を見開いて鈴さんを見た。
鈴さんはうれしそうな笑みを浮かべる。
「まあ、素直ないい子。佑夏ちゃんっていうと、もしかして年の差カップルの?」
鈴さんの言葉に、佑夏が私の方を鬼のような顔で見る。
「今度、ゆっくり話しましょう。私と神奈ちゃんの家に遊びに来てね」
そう言って、鈴さんは佑夏の手を握る。
「え、あ、はい……」
鈴さんの笑みに押されたように佑夏が頷いた。
私は鈴さんの言葉を聞き逃さなかった。
「ちょっと、鈴さんと神奈さんの家って、本当に引っ越したんですか?」
「神奈ちゃんに考える隙を与えないのがコツね」
鈴さんが得意気に言う。
「あ、あの、アタシはこれで……」
私と鈴さんの話が盛り上がる様子を見て、佑夏が後ずさりしながら言った。
「ああ、佑夏、ありがとう」
私が佑夏にお礼を言うと、鈴さんは笑顔で手を振った。
「なんで週末ウチに来なかったのよ。引っ越しの人手に計算してたのに。おかげで睦くんが倍働くことになったのよ」
鈴さんの言い分は勝手すぎる。
「その文句を言いにわざわざ来たんですか?」
「まさか。あなたが顔を出さないから、神奈ちゃんが心配しちゃってるからよ。そのせいでイチャイチャする場合じゃなくなってるんだから」
「仕事は?」
「外回りで、偶然この近くに来たのよ」
どこまでが本当でどこまでが嘘なのか分からない。
「一応、睦くんから大丈夫だって聞いたけど、睦くんの説明じゃよくわからないもの。ちゃんと報告に来なさいよ」
「あー、ごめんなさい」
心配させてしまったのは本当のようなので一応謝っておく。
「やっぱり、睦くんの言葉は信用できないわね。梢、全然大丈夫そうじゃないじゃない」
「え?」
「何、その顔。やつれてるわよ」
私は自分の頬を触る。だがそれでやつれているかどうかなんてわからない。
「いや、あの件は本当に大丈夫でした。もう、しず香たちとも普通に接してるし」
「それじゃあ、やつれてるのは、別の理由があるの?」
「夏バテですかね。ちょっと食欲がなかったので、そのせいかと」
「どれだけ季節先取りしてるのよ」
鈴さんはあきれた顔で言った。
それはそうだ。まだ六月に入ったばかりだ。
もうすぐ梅雨入りする頃だとはいえ、まだ夏バテするような季節ではない。
「何があったの? さあ、お姉さんに話してごらんなさい」
鈴さんが急に芝居じみた言い方をする。
「別に何もありませんよ。何もなくて退屈していただけです」
私の顔をじっと見つめる鈴さんから目をそらして私は言う。
「退屈ねえ。あ、さっき寝てたよね? だったら、お姉さんが膝枕で疲れを癒してあげましょうか?」
「まったく……」
冗談はやめてください、と言おうとして私は言葉を止めた。
「それじゃあ、お願いします」
私が言うと、鈴さんは少し驚いた顔をした後、ニッコリと笑った。
「どうしたの? 素直じゃない」
そうして鈴さんはベンチに座り、私はゴロンと寝転がり鈴さん膝に頭をのせる。
「梢、仰向けに寝ないの?」
「顔は見られたくないので」
私は体を抱えるように両手を前に組み、横向きに寝転がった。もちろん、顔は鈴さんの体とは反対側を向いている。
鈴さんの細い指が、やさしく私の頭をなでる。
これは心地いい。膝枕なんて幼い頃しか経験していないが、これをやりたがるカップルが多い理由が分かった。
「あー、眠い。寝ちゃったら寝言言っちゃうかも」
私は目を閉じてボソッと言う。鈴さんはそれに応えず、私の頭をなで続けていた。
「週末、あんまり暇だったから部屋の掃除をしたんですよね」
「暇ならウチに来ればよかったのに」
「寝言に話しかけるなんておかしいでしょう」
「最近独り言が多くて」
「年のせいですかね。アラサーですもんね」
頭をなでていた手がピタリと止まる。
「なんだか、失礼な寝言が聞こえるんだけど」
という声と、コツンと頭を軽く叩く衝撃を感じた。
でも、すぐにその手は私の頭をなでる作業を再開する。
「私の部屋、何もないんですよ。だから、あっという間に掃除も終わっちゃって。私って趣味も、好きなものも、熱中するものも、何にもないんです」
「ゲームには熱中してたじゃない」
「ゲームにはあんまり興味ないんですよ。神奈さん……オクトーブルさんと話したかっただけです」
「神奈ちゃん、愛されてるわねえ」
「部屋と同じです。私は本当に何もない空っぽの人間なんだって痛感しました」
「それこそ独りで考えてないで愚痴りに来なさいよ」
「いつもいつも、二人の邪魔はできないし」
「梢がいないときにイチャイチャしてるから気にする必要ないわ」
「睦さんだって一人暮らしをはじめてたし」
「睦くんのあれは一人暮らしっていうのかしら……」
「私も二人に甘えてないでしっかりしないと」
「甘えられるなら甘えればいいのよ。神奈ちゃんだって喜ぶし。どれだけ私たちに甘えたって、最後は梢自身が頑張らなきゃいけない。私たちは何もしてあげられないもの。甘えるのも頼るのも悪いことじゃないのよ。それで、梢が頑張ろうって思えるようになるなら、それでいいの」
神奈さんが私を甘やかし過ぎると言っていたが、鈴さんだって充分に私を甘やかす。
ちょっと涙が出そうだ。
「前に、鈴さんが言ってたこと、当たってたみたいです」
「ん? 何を言ったっけ?」
「時間をかけて好きになるタイプってヤツです」
寝言と独り言、という設定はまったく意味を成していなかったが、私は気にせずに話を続ける。
「なんだろう。なんでかなあ。好きとか思ってなかったんだけどな……」
「例の先輩?」
「なんか気になって、ほっとけなくて……。でも、必要とされなくなったって分かって、やっと気づいた」
「それって、ダメな人に捕まるパターンだから気を付けなさいよ」
「先輩は……ダメな人じゃないですよ。私は空っぽだけど、先輩はそうじゃないもん」
「好きになって、後悔してる?」
「後悔は、してない。……前に、人を好きになることは恥ずかしいことだと思わないって言ったことがあるんです」
「カッコイイじゃない」
「それは、神奈さんのことを考えて言った言葉で、その気持ちは嘘じゃない。だけど……先輩には、好きだとも言えないまま終わっちゃった」
「今からでも遅くないんじゃない?」
「もう、遅いですよ。だって先輩には……」
そのとき、私たちの元に別の声が届いた。
「あ、あの、鈴原さん……っ違う、誰?」
映子先輩の声だとすぐに気付いた。
後ろ姿でも、私と鈴さんの違いは分かると思うのだが、一体何を見ているんだろう。
私は鈴さんの膝の上から頭を起こす。
「映子先輩、何かご用ですか?」
「ひ……ざま、くら……」
映子先輩は口をあんぐりと開けている。先輩の言動はやはり面白い。
でもまあ、女性同士で膝枕をしているところを見たら、ちょっとは驚くものかもしれない。
「この子が映子先輩? もっさりしてないじゃない」
先ほど鈴さんに打ち明けてしまった話のことがある。私は視線で余計なことを言わないように鈴さんをけん制しながら言う。
「髪を切ったからですね。先週まではもっさりしてましたよ」
「へえ」
鈴さんは映子先輩の顔をマジマジと見た。
サッパリとしたショートボブにしたことで、黒縁の大きなメガネが余計に目立って見える。そのメガネが幾分か顔を隠してしまっているものの、きれいに切られた前髪のおかげで、映子先輩の表情は丸見えだ。
映子先輩は見知らぬ人に見つめられたことで、隠れ場所を探すように視線をあちこちに彷徨わせていた。
「それで、映子先輩、何のご用ですか?」
私が改めて聞くと、映子先輩はやっと思い出したように私を見た。
そして、すぐに目をそらす。
「あ、あの……。食堂に、来なかったから……」
「食欲がなかったので」
「あ、そ、そう……なんだ」
私と話ながらも、チラチラと鈴さんの様子を伺っている。
「あー、この人は……」
仕方なく鈴さんを紹介しようとすると、私の言葉を鈴さんが遮る。
「梢の彼女の鈴です」
またこの人は何を言い出すのか。
「違う、鈴原さんには……か、彼氏が……」
「彼氏?」
鈴さんがいぶかし気な顔で私を見た。
「睦さんです」
私の言葉で、鈴さんは納得したように頷く。
そういえば睦さんのことを映子先輩には説明していなかった。だが、もう説明する必要もないだろう。
「睦くんが彼氏っていうのは、ウソだから」
サラッと鈴さんが言う。
「ウソ?」
「そう。色々面倒そうなことが起きてたから。睦くんは私の代打ね」
「彼氏……じゃなくて、彼女……だから、膝枕……」
先輩は考え込むように俯いてしまう。
「だから、私たちの愛の語らいの邪魔をしないでほしいんだけど」
鈴さんは一体何がしたくてこんな嘘をついているのだろうか。
「鈴さん、何を言って……」
私が制止しようとすると、鈴さんがキッと私を睨む。
そして、すぐさまほんのりと笑顔を浮かべて映子先輩に向き直った。
「あなたは邪魔だから、さっさと消えてくれない?」
やさしい口調が余計に怖さを倍増させる。
映子先輩なら「は、はい……」と言って本当に帰ってしまうような気がした。
だが先輩はその場に留まったままだ。
「で、でも……、私も、鈴原さんに、用事があるから。テストの……過去問を、持ってきたの」
映子先輩は私をジッと見て言う。
映子先輩としっかり目が合ったのははじめてのような気がした。
これまでは、いくらのぞき込んでも、長い前髪に阻止されてしっかりと目を合わせることができなかった。
想像通り、映子先輩の目は澄んでいる。
少しだけ胸の鼓動が速くなる。
それに最初に交わした契約の内容を、映子先輩がちゃんと覚えていてくれたのもうれしい。
だけど私はそれを受け取る気はなかった。
「ありがとうございます。だけどあの契約は、もうやめましょう」
「契約を、やめる? な、なんで……」
先輩の顔が驚きに満ちた。
髪の毛で隠れていて分からなかったが、映子先輩の表情はこんなにも豊かだったのか。
「もう必要ないでしょう?」
「必要、ないって?」
「映子先輩の先輩、帰ってきたんですよね?」
「どうして、知ってる、の?」
その言葉に、私は曖昧に笑って答える。
「ずっと切らなかった髪を切ったのも、その先輩が帰ってきたからですよね?」
「あ、そ、そうだけど……そうじゃなくて……」
映子先輩が戸惑ったようにあたりを見回した。
そのとき、鈴さんが「はい、ストップ」と声を上げる。
「なんですか?」
「私、もう仕事に戻らないといけないから」
「はい、どうぞ」
私が言うと、鈴さんが私の頭を軽く叩く。
「この話はここまで。映子さん、今日、学校が終わったら梢と一緒にウチまで来なさい」
なぜかとても命令口調で鈴さんが言う。異論は受け付けない勢いだ。
「ちょっと、鈴さん?」
戸惑う私と同様に、映子先輩も目を白黒させている。
「梢は私を校門まで送って。それじゃあ映子さん、今夜また会いましょう」
そう言って鈴さんは笑みを浮かべると、私の手をグイグイと引っ張って歩き出してしまった。
振り返ると中庭には映子先輩が呆然と立ち尽くしていた。
朝、映子先輩から『今日は用事ができたので、お昼には行けません』とメッセージが入った。
月、火、木は、映子先輩と一緒に昼食をとる約束だ。
月曜日に、しず香とのトラブルに映子先輩を巻き込んでしまった。そのことで、気を悪くしてしまったのかもしれない。
木曜日にはちゃんと謝りたい。
そんなことを考えながら歩いていると、しず香と顔を合わせてしまった。
一応話は落ち着いたのだけど、若干気まずい感じがする。
「昨日はごめん」
それがしず香の第一声だった。
もう一回バトルが勃発することも覚悟していたけれど、拍子抜けだ。でも、しず香がそう言ってくれてホッとした。
許せないという気持ちもある。だけどそれをほじくり返す趣味はない。それに、こうして面と向かって謝ることができるのは、しず香の良いところだと思う。
「それで……。あの睦さんって、本当に彼氏じゃないんだよね?」
そんな風に聞いてくるしず香のバイタリティは愛すべき点だと感じた。
「うん、本当に彼氏じゃないけど……」
「だったら、紹介してもらうことはできる?」
「いやぁ、やめた方がいいと思うよ」
私は素直な意見を口にする。
「どうして、やっぱり梢もあの人のこと、好きなの?」
いやいや、私、レズビアンだって言ったよね。
そんな、ちょっとおバカなところもしず香のかわいいところかもしれない。
「あの人、ちょっと引くくらいシスコンだよ」
睦さんには申し訳ないが、しず香には真っ当な恋をしてもらわないと私の身が持たない。
「シスコン?」
「うん。その上、引きこもりのゲーマーだし……」
しず香が黙る。
あの場に颯爽と現れた睦さんは、少し素敵に見えたかもしれない。
だけど、それは気のせいだ。
「そっか、そうなんだ……じゃあ、また、機会があったら……」
しず香の笑顔が若干ひきつっている。
そんな心の内を隠せないところもしず香のチャームポイントだと思う。
しず香とは友だちになれないと思っていたが、あんなことを経たからこそ、逆に友だちになれそうな気がしていた。
まだもう少し時間はかかるかもしれないが、ゆっくりと友だちになっていこう。
水曜日。
四限目の終わりに佑夏と顔を合わせた。
しず香たちとのトラブルは取り敢えず収まったことを伝えるとホッとした顔をしていた。
「なんだか、佑夏まで巻き込んじゃってゴメン」
「梢のせいじゃないでしょう。気にしないで。それより、先輩は大丈夫だった?」
「先輩?」
「梢たちがいなくなってから、すごく呆然としてたみたいで。声を掛けたんだけど、気付かなかったかもしれない。多分、結構動揺したんじゃないかな」
佑夏が心配そうに言う。
私と佑夏は以前にもしず香とひと悶着起こしている。
だからあそこでしず香が騒ぎ出したときも、少しは落ち着いて対応できたと思う。
だけど先輩は突然のことで混乱しただろう。
「先輩には今度ちゃんと謝っておくよ」
私は佑夏に笑顔で答えたが、心の中には不安が湧きおこる。
やはり火曜日の約束がキャンセルされたのはそのことが原因なのかもしれない。
でも佑夏に心配をさせたくはない。
「それよりも佑夏だよ。本当に大丈夫だった? あんまり噂がたつと、相手が困るでしょう?」
佑夏の好きな相手はこの大学の柳先生だ。もちろんしず香はそのことを知らないので柳先生の話は少しも出ていない。
それでも佑夏のことが噂になれば、どこでどう結び付くか分からない。
「ああ見えて結構ぼんやりしてるから、全然気づいてないんじゃないかな」
佑夏が言う。
私が持っている柳先生のイメージは『できる女』だ。佑夏が言った『ぼんやり』とは結び付かない。
だが幼いころから柳先生を見てきた佑夏が言うのならば間違いないのだろう。
佑夏は私の信じられないという表情に気付くとクスリと笑う。
そして私の耳元に顔を寄せて小声で言った。
「そうじゃなきゃ、何年も好きだって言い続けてる私の気持ちに気付かないわけないでしょう?」
それはそうかもしれない。
でも柳先生はきっと気付いている。それでも応えないのには、柳先生なりの理由があるのだろう。
「それに、本当にぼんやりしてるところはあるんだよ。私の家に勉強を教えに来てくれてたときなんて、靴と間違えてスリッパで来たこともあるし」
佑夏が笑った。柳先生の話をするときの佑夏は本当にかわいい。
だから少しだけ佑夏に協力してあげたくなった。
私は佑夏の腕に自分の腕を絡ませて体を寄せる。
「え? 何? どうしたの、突然」
佑夏は驚いて少し頬を赤らめる。
「ちょっと、大事な話があるんだ」
私は佑夏の耳元で言う。
そしてそのまま腕を引いて、人通りの少ない廊下の角を曲がる。
人目に付かないところまで佑夏を誘導して私は手を離した。
「一体何なの?」
佑夏は眉を寄せて少し怪訝な顔をする。
「まあ、ちょっと待ってよ」
私は耳を澄ませる。周りにほとんど人はいないので、かすかな足音も注意すれば聞き取ることができる。
そしてタイミングを見計らって少し大きな声で言う。
「ねえ佑夏、私のことが好きだって言ったの、本当?」
もちろん寝耳に水の佑夏は慌てて否定しようとするが、私は佑夏の口を押える。そして人差し指を自分の口に当てて静かにするようジェスチャーで伝えた。
次の瞬間、私たちのいる廊下の死角になる場所でバサバサと何かが落ちる音がした。
私と佑夏は音がした場所を覗き込んだ。
柳先生がしゃがみこんで慌てて教科書や資料の束を拾っている。
「み……柳先生、何をしてるんですか?」
柳先生はチラリと佑夏を見て真っ赤になっている。
「ぐ、偶然通りかかって、ちょっと落としちゃって」
柳先生は、まるでコントのように拾った先から荷物を落としていく。
佑夏は柳先生の側にしゃがみ、荷物を拾うのを手伝った。
荷物を無事に抱えて立ち上がった柳先生に私は言う。
「さっきの、ほんの冗談ですから。安心してくださいね」
「へ?」
柳先生が目を丸くする。その表情は、講義中に見たどんな表情とも違う。
「それじゃあ、佑夏、私は行くから、あとはよろしく」
私は手を振って二人の側を離れた。
二人はキョトンとした顔で私を見送った。
佑夏と話していたとき、柳先生が通りかかり、隠れて様子を伺っていることに気付いたのだ。
私と佑夏があやしい行動をとれば、柳先生は必ず来ると思ったが、ズバリその通りになった。
これが二人の背中を押すことになるかは分からないが、私の読み通り、柳先生も佑夏のことを特別に思っていることは分かった。
木曜日。
映子先輩と昼食をとる予定の日だ。
だが今日も映子先輩からキャンセルのメッセージが届いた。
避けられているのかもしれない。
私は一人で学食へと向かった。
映子先輩がいないので、日替わり定食を頼む必要もない。
注文の列に並んでみたものの、あまり食欲がなかったので、そのまま何も頼まずに学食を出ることにした。
振り返ったそのとき、窓際の一番奥の席に見覚えのある人を見つけた。
月曜日、睦さんを送って校門まで行ったときにすれ違った女性だ。
睦さんが「イイ女」と称した通り、遠目からでもその存在感は際立っている。
そして、その女性の隣に座る女性に目が留まった。
少し猫背でオドオドとした雰囲気の女性。それは映子先輩だった。
だけど一瞬、映子先輩だとは気付けなかった。髪の毛がさっぱりとしたショートボブになっていたからだ。
遠目からでも映子先輩の表情が見える。
映子先輩はあんな顔をしていたのか、と少し新鮮な気持ちになった。
映子先輩は隣の女性に何かを言われ、困ったような笑みを浮かべている。
映子先輩は恥ずかしそうで、うれしそうで、でも緊張はしていない。
私は映子先輩の隣の女性が何者なのかを理解した。
映子先輩にカメラを教え、写真部に部員を増やした、映子先輩の先輩。
小声の映子先輩の声を大きくさせる存在。
よかった。
食事の約束をキャンセルされていたのは、私を避けていたわけではない。
しず香のことで怒っていたわけでもない。
ただもう私は必要なくなった、それだけのことだ。
私はそのまま学食を立ち去った。
金曜日。
土曜日。
日曜日。
神奈さんの家には行かなかった。
先週、睦さんが引っ越しをして、はじめて恋人同士が二人きりで過ごす週末だ。
そんな神奈さんと鈴さんを邪魔するほど私は野暮じゃない。
何事もなく日々は過ぎていく。
特に用事もないので勉強をしていたのだが、さすがに勉強だけをし続けるのは苦痛だ。
読みたい本も、見たいテレビもない。
そこで私は部屋の大掃除をすることにした。
だが、それもすぐに終わってしまった。
私の部屋には何もない。
必要最低限の勉強道具や筆記用具。
本を買って読んでも、読み終わったらすぐに処分してしまう。
趣味もないし、何かに執着してコレクションすることもない。
この空っぽの部屋は、まるで私自身のようだ。
机の上の一枚の写真を見る。
ピントの合っていない私の顔が映った写真。
映子先輩は、ことのき、どんな私を写したかったのだろうか。
そして、いつもと同じように月曜日がやってくる。
一限目、教室に入ると、しず香と桐乃が手を挙げてあいさつをした。私もあいさつを返す。
しず香と桐乃はトラブルの前とほとんど変わらない笑顔を私に向けてくれた。
幾分か引いているように見えるのは杉本くんだ。
気になっていた女がレズビアンだと知ったら、心中穏やかではいられないのだろう。
そう考えると、重度のシスコンなのに、姉が同性の恋人を連れてきても悠然としている睦さんはすごい人のような気がする。
いつも普通に四人でゲームをしながらワイワイ過ごしていたので気付かなかった。
睦さんの評価を少し改めることにしよう。
二限目では、いつものように最前列の佑夏の隣に座る。
佑夏には少しお節介をしてしまった。あの後どうなっただろうか。
「佑夏?」
私は佑夏の顔を覗き込む。
「講義が終わってから話そう」
佑夏はそれだけ言って目をそらしてしまった。
お節介が悪い方向に行ってしまったのだろうか。
教室に現れた柳先生はいつもと同じに見える。少しだけ、佑夏に送る視線が少なくなっているかもしれない。
講義が終わり、柳先生が教室を去ると、佑夏が私の方を向いて「ありがとう」と小さな声で言った。
「それじゃあ、うまくいったの?」
私の声に、佑夏が頷く。
自分のことのようにうれしい。
「さっきはごめんね、講義前に話すとニヤケちゃって、講義を受けられない気がしたから」
「全然問題ないよー。よかった!」
「いやあ、でもさぁ、私が大学を卒業するまでは、手をつなぐのもダメだとか言い出して」
「なにそれ? 修行?」
佑夏が苦笑いする。
「でも相手の気持ちが分かってすっきりした。これからのことは、二人でゆっくり考えるよ」
佑夏が幸せそうな笑みを浮かべる。そして佑夏がハッとして時計を見た。
「今日は先輩とお昼の日だよね? ゴメンね、引き留めて」
「ああ、いいよ。大丈夫。先輩とのランチはやめたから」
「え?そうなの?」
私は頷く。
「じゃあ、アタシとご飯食べに行く?」
「いや、あんまり食欲ないから、中庭で寝てるよ」
「食欲ないって……そう言えば、ちょっと顔色悪いみたいだけど、大丈夫なの?」
「大丈夫。ちょっと早い夏バテかなぁ」
私は笑顔を浮かべて席を立ち、中庭へと向かった。
もう随分日射しが強くなってきたからか、中庭に出る人も少なくなったような気がする。
私は木陰にあるベンチに寝転がった。
講義を受けて友だちと話しす。
ごく普通の一日だ。
それなのに、どうしてこんなにつまらないのだろう。
私は目を閉じてまどろむ。
三限目は空きで四限目がある。でも今日はもう帰ってしまおうか。
そういえば高校の頃も毎日がつまらなかった。
だけど受験という明確な目標があっただけよかったのかもしれない。
大学にだってテストはある。だから勉強をおろそかにするつもりはない。だけど、どこか気が抜けたような感じがしてしまう。
何か資格試験でも目指してみようか。
それとも、アルバイトでもはじめてみようか。
何か熱中できる趣味でも持つべきだろうか。
遠くで学生たちの楽しそうな声がする。
みんなは何が楽しくて大学に通っているのだろう。
「梢、お客さんだよ」
頭の上で声がした。
目を開けると佑夏の顔が見える。
体を起こして佑夏の方を見ると、なぜかそこに鈴さんがいた。
「鈴さん、なんでここにいるんですか」
思わず声を出した私に答えたのは佑夏だった。
「さっき、食堂で梢を探してたから連れてきた。他の大学の友だち?」
大学の友だちって、鈴さんを私たちと同じ年くらいだと思っているのか? それはちょっと言いすぎだろう。
「ちょっと待って、佑夏、この人アラサーだから」
「うそっ、若い、見えない」
佑夏は目を見開いて鈴さんを見た。
鈴さんはうれしそうな笑みを浮かべる。
「まあ、素直ないい子。佑夏ちゃんっていうと、もしかして年の差カップルの?」
鈴さんの言葉に、佑夏が私の方を鬼のような顔で見る。
「今度、ゆっくり話しましょう。私と神奈ちゃんの家に遊びに来てね」
そう言って、鈴さんは佑夏の手を握る。
「え、あ、はい……」
鈴さんの笑みに押されたように佑夏が頷いた。
私は鈴さんの言葉を聞き逃さなかった。
「ちょっと、鈴さんと神奈さんの家って、本当に引っ越したんですか?」
「神奈ちゃんに考える隙を与えないのがコツね」
鈴さんが得意気に言う。
「あ、あの、アタシはこれで……」
私と鈴さんの話が盛り上がる様子を見て、佑夏が後ずさりしながら言った。
「ああ、佑夏、ありがとう」
私が佑夏にお礼を言うと、鈴さんは笑顔で手を振った。
「なんで週末ウチに来なかったのよ。引っ越しの人手に計算してたのに。おかげで睦くんが倍働くことになったのよ」
鈴さんの言い分は勝手すぎる。
「その文句を言いにわざわざ来たんですか?」
「まさか。あなたが顔を出さないから、神奈ちゃんが心配しちゃってるからよ。そのせいでイチャイチャする場合じゃなくなってるんだから」
「仕事は?」
「外回りで、偶然この近くに来たのよ」
どこまでが本当でどこまでが嘘なのか分からない。
「一応、睦くんから大丈夫だって聞いたけど、睦くんの説明じゃよくわからないもの。ちゃんと報告に来なさいよ」
「あー、ごめんなさい」
心配させてしまったのは本当のようなので一応謝っておく。
「やっぱり、睦くんの言葉は信用できないわね。梢、全然大丈夫そうじゃないじゃない」
「え?」
「何、その顔。やつれてるわよ」
私は自分の頬を触る。だがそれでやつれているかどうかなんてわからない。
「いや、あの件は本当に大丈夫でした。もう、しず香たちとも普通に接してるし」
「それじゃあ、やつれてるのは、別の理由があるの?」
「夏バテですかね。ちょっと食欲がなかったので、そのせいかと」
「どれだけ季節先取りしてるのよ」
鈴さんはあきれた顔で言った。
それはそうだ。まだ六月に入ったばかりだ。
もうすぐ梅雨入りする頃だとはいえ、まだ夏バテするような季節ではない。
「何があったの? さあ、お姉さんに話してごらんなさい」
鈴さんが急に芝居じみた言い方をする。
「別に何もありませんよ。何もなくて退屈していただけです」
私の顔をじっと見つめる鈴さんから目をそらして私は言う。
「退屈ねえ。あ、さっき寝てたよね? だったら、お姉さんが膝枕で疲れを癒してあげましょうか?」
「まったく……」
冗談はやめてください、と言おうとして私は言葉を止めた。
「それじゃあ、お願いします」
私が言うと、鈴さんは少し驚いた顔をした後、ニッコリと笑った。
「どうしたの? 素直じゃない」
そうして鈴さんはベンチに座り、私はゴロンと寝転がり鈴さん膝に頭をのせる。
「梢、仰向けに寝ないの?」
「顔は見られたくないので」
私は体を抱えるように両手を前に組み、横向きに寝転がった。もちろん、顔は鈴さんの体とは反対側を向いている。
鈴さんの細い指が、やさしく私の頭をなでる。
これは心地いい。膝枕なんて幼い頃しか経験していないが、これをやりたがるカップルが多い理由が分かった。
「あー、眠い。寝ちゃったら寝言言っちゃうかも」
私は目を閉じてボソッと言う。鈴さんはそれに応えず、私の頭をなで続けていた。
「週末、あんまり暇だったから部屋の掃除をしたんですよね」
「暇ならウチに来ればよかったのに」
「寝言に話しかけるなんておかしいでしょう」
「最近独り言が多くて」
「年のせいですかね。アラサーですもんね」
頭をなでていた手がピタリと止まる。
「なんだか、失礼な寝言が聞こえるんだけど」
という声と、コツンと頭を軽く叩く衝撃を感じた。
でも、すぐにその手は私の頭をなでる作業を再開する。
「私の部屋、何もないんですよ。だから、あっという間に掃除も終わっちゃって。私って趣味も、好きなものも、熱中するものも、何にもないんです」
「ゲームには熱中してたじゃない」
「ゲームにはあんまり興味ないんですよ。神奈さん……オクトーブルさんと話したかっただけです」
「神奈ちゃん、愛されてるわねえ」
「部屋と同じです。私は本当に何もない空っぽの人間なんだって痛感しました」
「それこそ独りで考えてないで愚痴りに来なさいよ」
「いつもいつも、二人の邪魔はできないし」
「梢がいないときにイチャイチャしてるから気にする必要ないわ」
「睦さんだって一人暮らしをはじめてたし」
「睦くんのあれは一人暮らしっていうのかしら……」
「私も二人に甘えてないでしっかりしないと」
「甘えられるなら甘えればいいのよ。神奈ちゃんだって喜ぶし。どれだけ私たちに甘えたって、最後は梢自身が頑張らなきゃいけない。私たちは何もしてあげられないもの。甘えるのも頼るのも悪いことじゃないのよ。それで、梢が頑張ろうって思えるようになるなら、それでいいの」
神奈さんが私を甘やかし過ぎると言っていたが、鈴さんだって充分に私を甘やかす。
ちょっと涙が出そうだ。
「前に、鈴さんが言ってたこと、当たってたみたいです」
「ん? 何を言ったっけ?」
「時間をかけて好きになるタイプってヤツです」
寝言と独り言、という設定はまったく意味を成していなかったが、私は気にせずに話を続ける。
「なんだろう。なんでかなあ。好きとか思ってなかったんだけどな……」
「例の先輩?」
「なんか気になって、ほっとけなくて……。でも、必要とされなくなったって分かって、やっと気づいた」
「それって、ダメな人に捕まるパターンだから気を付けなさいよ」
「先輩は……ダメな人じゃないですよ。私は空っぽだけど、先輩はそうじゃないもん」
「好きになって、後悔してる?」
「後悔は、してない。……前に、人を好きになることは恥ずかしいことだと思わないって言ったことがあるんです」
「カッコイイじゃない」
「それは、神奈さんのことを考えて言った言葉で、その気持ちは嘘じゃない。だけど……先輩には、好きだとも言えないまま終わっちゃった」
「今からでも遅くないんじゃない?」
「もう、遅いですよ。だって先輩には……」
そのとき、私たちの元に別の声が届いた。
「あ、あの、鈴原さん……っ違う、誰?」
映子先輩の声だとすぐに気付いた。
後ろ姿でも、私と鈴さんの違いは分かると思うのだが、一体何を見ているんだろう。
私は鈴さんの膝の上から頭を起こす。
「映子先輩、何かご用ですか?」
「ひ……ざま、くら……」
映子先輩は口をあんぐりと開けている。先輩の言動はやはり面白い。
でもまあ、女性同士で膝枕をしているところを見たら、ちょっとは驚くものかもしれない。
「この子が映子先輩? もっさりしてないじゃない」
先ほど鈴さんに打ち明けてしまった話のことがある。私は視線で余計なことを言わないように鈴さんをけん制しながら言う。
「髪を切ったからですね。先週まではもっさりしてましたよ」
「へえ」
鈴さんは映子先輩の顔をマジマジと見た。
サッパリとしたショートボブにしたことで、黒縁の大きなメガネが余計に目立って見える。そのメガネが幾分か顔を隠してしまっているものの、きれいに切られた前髪のおかげで、映子先輩の表情は丸見えだ。
映子先輩は見知らぬ人に見つめられたことで、隠れ場所を探すように視線をあちこちに彷徨わせていた。
「それで、映子先輩、何のご用ですか?」
私が改めて聞くと、映子先輩はやっと思い出したように私を見た。
そして、すぐに目をそらす。
「あ、あの……。食堂に、来なかったから……」
「食欲がなかったので」
「あ、そ、そう……なんだ」
私と話ながらも、チラチラと鈴さんの様子を伺っている。
「あー、この人は……」
仕方なく鈴さんを紹介しようとすると、私の言葉を鈴さんが遮る。
「梢の彼女の鈴です」
またこの人は何を言い出すのか。
「違う、鈴原さんには……か、彼氏が……」
「彼氏?」
鈴さんがいぶかし気な顔で私を見た。
「睦さんです」
私の言葉で、鈴さんは納得したように頷く。
そういえば睦さんのことを映子先輩には説明していなかった。だが、もう説明する必要もないだろう。
「睦くんが彼氏っていうのは、ウソだから」
サラッと鈴さんが言う。
「ウソ?」
「そう。色々面倒そうなことが起きてたから。睦くんは私の代打ね」
「彼氏……じゃなくて、彼女……だから、膝枕……」
先輩は考え込むように俯いてしまう。
「だから、私たちの愛の語らいの邪魔をしないでほしいんだけど」
鈴さんは一体何がしたくてこんな嘘をついているのだろうか。
「鈴さん、何を言って……」
私が制止しようとすると、鈴さんがキッと私を睨む。
そして、すぐさまほんのりと笑顔を浮かべて映子先輩に向き直った。
「あなたは邪魔だから、さっさと消えてくれない?」
やさしい口調が余計に怖さを倍増させる。
映子先輩なら「は、はい……」と言って本当に帰ってしまうような気がした。
だが先輩はその場に留まったままだ。
「で、でも……、私も、鈴原さんに、用事があるから。テストの……過去問を、持ってきたの」
映子先輩は私をジッと見て言う。
映子先輩としっかり目が合ったのははじめてのような気がした。
これまでは、いくらのぞき込んでも、長い前髪に阻止されてしっかりと目を合わせることができなかった。
想像通り、映子先輩の目は澄んでいる。
少しだけ胸の鼓動が速くなる。
それに最初に交わした契約の内容を、映子先輩がちゃんと覚えていてくれたのもうれしい。
だけど私はそれを受け取る気はなかった。
「ありがとうございます。だけどあの契約は、もうやめましょう」
「契約を、やめる? な、なんで……」
先輩の顔が驚きに満ちた。
髪の毛で隠れていて分からなかったが、映子先輩の表情はこんなにも豊かだったのか。
「もう必要ないでしょう?」
「必要、ないって?」
「映子先輩の先輩、帰ってきたんですよね?」
「どうして、知ってる、の?」
その言葉に、私は曖昧に笑って答える。
「ずっと切らなかった髪を切ったのも、その先輩が帰ってきたからですよね?」
「あ、そ、そうだけど……そうじゃなくて……」
映子先輩が戸惑ったようにあたりを見回した。
そのとき、鈴さんが「はい、ストップ」と声を上げる。
「なんですか?」
「私、もう仕事に戻らないといけないから」
「はい、どうぞ」
私が言うと、鈴さんが私の頭を軽く叩く。
「この話はここまで。映子さん、今日、学校が終わったら梢と一緒にウチまで来なさい」
なぜかとても命令口調で鈴さんが言う。異論は受け付けない勢いだ。
「ちょっと、鈴さん?」
戸惑う私と同様に、映子先輩も目を白黒させている。
「梢は私を校門まで送って。それじゃあ映子さん、今夜また会いましょう」
そう言って鈴さんは笑みを浮かべると、私の手をグイグイと引っ張って歩き出してしまった。
振り返ると中庭には映子先輩が呆然と立ち尽くしていた。
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