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第一章 ヴァルム試験国家編
第十七話 パンくず拾いの価値(1)
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「……それは、理屈としては破綻しています」
「知ってる」
「計算にも入りません」
「分かってる」
「では、なぜ——」
「そういうもんだよ。何より、絶対があるなら、お前は正解しか引かないだろうしな」
「確かに、そうですね」
少し自慢げな声に聞こえる。こいつにも感情はあるらしい。
カイは小さく笑う。
口にしてから、自分でも苦笑が漏れた。
彼女の理屈の世界にはあまり似合わない答えだ。
それでも、こういう無茶な前提がなければ、戦場では歩けない。
紙の下の方。走り書きのような文字が目に入る。
『ゲーム2』の欄に、「盤面設計者——仮・シュアラ」と走り書きがしてあった。
「勝手にゲームの主催者名乗ってんじゃねえ」
「仮です」
「仮ねえ……」
カイは、ペンの横に置かれた手を見る。
インクと炭と細かい傷にまみれた文官の手。
その手が兵の命の数字を握っていると思うと、少しだけ可笑しい。
そして、少しだけ怖い。
どちらの感情も完全には否定できなかった。
「なあ、軍師殿」
「はい」
「俺はな。戦場じゃ、自分の嗅覚と、横にいるやつの背中で動いてきた」
「ずいぶん乱暴な戦い方ですね」
「お前の言うことじゃねえな」
軽く睨むと、シュアラの口元がかすかに上がる。
笑った、というほどではない。
けれど、さっきまで数字だけを見ていた目が、少しだけこちらを向いた。
「数字の正しさでしか動かねえ砦なら、俺はとっくに死んでた。あの冬にな」
「……」
「だから、お前の数字は信じる。けど、その数字の外側を歩く役目は、こっちがやる」
それは、彼なりの宣言だった。
シュアラはペン先を持つ手を止め、しばらく黙ってカイを見つめる。
「……了解しました」
短い返事。
それでも、今の彼女の口から出たそれは、妙に重みを持って響いた。
「じゃあ、俺は寝る。心臓が止まったら困るだろ」
「心臓が勝手に酒臭い血を送るのは、もっと困ります」
「もう飲んでねえって」
口ではそう言いながら、マグの底に残った湯を思い出す。
かすかなぬるさと、紙とインクの匂い。
どれも、戦場の酒とは違う酔いを運んできていた。
「お前こそ、ちゃんと寝ろよ」
「今の一言で、進捗が五分ほど遅れました」
「ケチだな」
「冬は長くないので」
即答だった。
それが冗談か本気か、カイには判別がつかない。
たぶん両方なのだろう。
「……背中は、預けていいんですよね」
唐突に落ちてきた言葉に、カイは振り向いた。
シュアラは視線を紙に落としたまま、ペン先をいじっている。
「さっき、そうおっしゃったので」
「預ける気がなきゃ、こんな時間にここまで来ねえ」
それは、自分でも思っていたより素直に響いた。
その選択がどれほど無謀でも、今はそれしか選びたくなかった。
それだけ言って、マグを持ち上げる。
すっかりぬるくなった湯を飲み干し、扉の方へ向かう。
足元で、さっきとは別のパンくずを踏んだ。
カリリ、と小さな音が静寂の中でやけに大きく響く。
「今のは?」
背中越しに、試すような声が飛ぶ。
「心臓がたまに余計なことする例だ」
「心臓が自分で血管を踏みつぶすのは、医学的に推奨されません」
「じゃあ、ただの酔っぱらいの千鳥足だ」
「だから、今夜は——」
「昔飲んだぶんが、まだ血に残ってんだよ」
手をひらひらと振る。
カイはそのまま廊下の闇へ歩き出した。
扉が閉まる音が背中で小さく響く。
その向こうで、ペンが紙を走り出す気配が、すぐに戻ってきた。
*
ひとりになると、音の輪郭が変わる。
さっきまで部屋に満ちていた体温が抜ける。
シュアラは、自分の心音だけがやけに大きく聞こえるのを感じた。
静かな部屋で、鼓動がひとつひとつ数えられる。
数字に置き換える前の、生々しいリズムだ。
砕けたパンくずを指先で丁寧に集める。
砦の丸の上に寄せ集め、小さな山をつくった。
そこは砦で守り切った粉の、ほんの欠片だ。
それでも、今の彼女には十分な手がかりに思えた。
「……背中」
小さく口の中で転がす。
言葉の質量を量ろうとする癖は、帝都で身につけた。
役所の机の上で、言葉を数字や判子に置き換えてきた年月。
その癖はもはや呪いに近い習慣になっている。
戦場で、その言葉が持つ意味も知っている。
死角を預ける。命を委ねる。
数字に直せば、限りなく無限大に近いリスクだ。
だから、本来なら計算の外に追い出すべき項目だ。
「……本当に、計算が合わない人ですね、あの方は」
誰にともなく呟く。
ペン先で「心臓」と書かれた丸の縁をなぞる。
インクが乾きかけていて、指先にかすかなざらつきが残った。
蝋燭の火が小さく揺れる。
窓の外では風が石壁を撫でていた。
遠くで、夜番の兵士が交代の合図をしている。
その声が、砦の壁を伝ってかすかに届いた。
シュアラは床に広がる羊皮紙の海を見渡した。
粉。燻製。鉄。廃材。兵。子ども。村長。親方。ギルド。帝都。
その全部をつなぐ線が、一度カイという心臓を通り、また村々へと巡っていく。
心臓の丸の上には、先ほど集めたパンくずの小さな山。
飢えを遠ざけるための粉が、象徴のようにそこに乗っていた。
シュアラは小さく息を吐き、手帳を開いた。
新しいページの隅に、『天秤の再設計』とだけ書き添える。
その下に、今夜の自分への目安として「七割二分」と数字を置いた。
盤面のどこまで手を入れたか、あとどれだけ残っているかを示す、自分だけの印だ。
ペン先が紙を滑る感触が心地よい。
数字は冷たい。けれど、ここまで来たという形にして並べると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
冬はすでに半ばを過ぎつつある。
沈みかけていた皿は、ゆっくりと、だが確かに水平へ戻りつつあった。
石壁の向こう。
東の空が、わずかに紫を含んだ灰色に変わり始めている。
夜と朝の境目の色だ。
息を吐くと、その色の中に溶け込んでいくような気がした。
新しい一日の、冷たくも確かな光を予感しながら、シュアラは一度だけ深く目を閉じる。
瞼の裏に、さっきの男の背中が浮かぶ。
戦場で何度も見た背中。
その背中が今、自分の描いた盤面の上に立っている。
砦の心臓が、今夜は少しだけ力強く脈打っている——。
そんな予感が、胸の内側で静かに鼓動していた。
「知ってる」
「計算にも入りません」
「分かってる」
「では、なぜ——」
「そういうもんだよ。何より、絶対があるなら、お前は正解しか引かないだろうしな」
「確かに、そうですね」
少し自慢げな声に聞こえる。こいつにも感情はあるらしい。
カイは小さく笑う。
口にしてから、自分でも苦笑が漏れた。
彼女の理屈の世界にはあまり似合わない答えだ。
それでも、こういう無茶な前提がなければ、戦場では歩けない。
紙の下の方。走り書きのような文字が目に入る。
『ゲーム2』の欄に、「盤面設計者——仮・シュアラ」と走り書きがしてあった。
「勝手にゲームの主催者名乗ってんじゃねえ」
「仮です」
「仮ねえ……」
カイは、ペンの横に置かれた手を見る。
インクと炭と細かい傷にまみれた文官の手。
その手が兵の命の数字を握っていると思うと、少しだけ可笑しい。
そして、少しだけ怖い。
どちらの感情も完全には否定できなかった。
「なあ、軍師殿」
「はい」
「俺はな。戦場じゃ、自分の嗅覚と、横にいるやつの背中で動いてきた」
「ずいぶん乱暴な戦い方ですね」
「お前の言うことじゃねえな」
軽く睨むと、シュアラの口元がかすかに上がる。
笑った、というほどではない。
けれど、さっきまで数字だけを見ていた目が、少しだけこちらを向いた。
「数字の正しさでしか動かねえ砦なら、俺はとっくに死んでた。あの冬にな」
「……」
「だから、お前の数字は信じる。けど、その数字の外側を歩く役目は、こっちがやる」
それは、彼なりの宣言だった。
シュアラはペン先を持つ手を止め、しばらく黙ってカイを見つめる。
「……了解しました」
短い返事。
それでも、今の彼女の口から出たそれは、妙に重みを持って響いた。
「じゃあ、俺は寝る。心臓が止まったら困るだろ」
「心臓が勝手に酒臭い血を送るのは、もっと困ります」
「もう飲んでねえって」
口ではそう言いながら、マグの底に残った湯を思い出す。
かすかなぬるさと、紙とインクの匂い。
どれも、戦場の酒とは違う酔いを運んできていた。
「お前こそ、ちゃんと寝ろよ」
「今の一言で、進捗が五分ほど遅れました」
「ケチだな」
「冬は長くないので」
即答だった。
それが冗談か本気か、カイには判別がつかない。
たぶん両方なのだろう。
「……背中は、預けていいんですよね」
唐突に落ちてきた言葉に、カイは振り向いた。
シュアラは視線を紙に落としたまま、ペン先をいじっている。
「さっき、そうおっしゃったので」
「預ける気がなきゃ、こんな時間にここまで来ねえ」
それは、自分でも思っていたより素直に響いた。
その選択がどれほど無謀でも、今はそれしか選びたくなかった。
それだけ言って、マグを持ち上げる。
すっかりぬるくなった湯を飲み干し、扉の方へ向かう。
足元で、さっきとは別のパンくずを踏んだ。
カリリ、と小さな音が静寂の中でやけに大きく響く。
「今のは?」
背中越しに、試すような声が飛ぶ。
「心臓がたまに余計なことする例だ」
「心臓が自分で血管を踏みつぶすのは、医学的に推奨されません」
「じゃあ、ただの酔っぱらいの千鳥足だ」
「だから、今夜は——」
「昔飲んだぶんが、まだ血に残ってんだよ」
手をひらひらと振る。
カイはそのまま廊下の闇へ歩き出した。
扉が閉まる音が背中で小さく響く。
その向こうで、ペンが紙を走り出す気配が、すぐに戻ってきた。
*
ひとりになると、音の輪郭が変わる。
さっきまで部屋に満ちていた体温が抜ける。
シュアラは、自分の心音だけがやけに大きく聞こえるのを感じた。
静かな部屋で、鼓動がひとつひとつ数えられる。
数字に置き換える前の、生々しいリズムだ。
砕けたパンくずを指先で丁寧に集める。
砦の丸の上に寄せ集め、小さな山をつくった。
そこは砦で守り切った粉の、ほんの欠片だ。
それでも、今の彼女には十分な手がかりに思えた。
「……背中」
小さく口の中で転がす。
言葉の質量を量ろうとする癖は、帝都で身につけた。
役所の机の上で、言葉を数字や判子に置き換えてきた年月。
その癖はもはや呪いに近い習慣になっている。
戦場で、その言葉が持つ意味も知っている。
死角を預ける。命を委ねる。
数字に直せば、限りなく無限大に近いリスクだ。
だから、本来なら計算の外に追い出すべき項目だ。
「……本当に、計算が合わない人ですね、あの方は」
誰にともなく呟く。
ペン先で「心臓」と書かれた丸の縁をなぞる。
インクが乾きかけていて、指先にかすかなざらつきが残った。
蝋燭の火が小さく揺れる。
窓の外では風が石壁を撫でていた。
遠くで、夜番の兵士が交代の合図をしている。
その声が、砦の壁を伝ってかすかに届いた。
シュアラは床に広がる羊皮紙の海を見渡した。
粉。燻製。鉄。廃材。兵。子ども。村長。親方。ギルド。帝都。
その全部をつなぐ線が、一度カイという心臓を通り、また村々へと巡っていく。
心臓の丸の上には、先ほど集めたパンくずの小さな山。
飢えを遠ざけるための粉が、象徴のようにそこに乗っていた。
シュアラは小さく息を吐き、手帳を開いた。
新しいページの隅に、『天秤の再設計』とだけ書き添える。
その下に、今夜の自分への目安として「七割二分」と数字を置いた。
盤面のどこまで手を入れたか、あとどれだけ残っているかを示す、自分だけの印だ。
ペン先が紙を滑る感触が心地よい。
数字は冷たい。けれど、ここまで来たという形にして並べると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
冬はすでに半ばを過ぎつつある。
沈みかけていた皿は、ゆっくりと、だが確かに水平へ戻りつつあった。
石壁の向こう。
東の空が、わずかに紫を含んだ灰色に変わり始めている。
夜と朝の境目の色だ。
息を吐くと、その色の中に溶け込んでいくような気がした。
新しい一日の、冷たくも確かな光を予感しながら、シュアラは一度だけ深く目を閉じる。
瞼の裏に、さっきの男の背中が浮かぶ。
戦場で何度も見た背中。
その背中が今、自分の描いた盤面の上に立っている。
砦の心臓が、今夜は少しだけ力強く脈打っている——。
そんな予感が、胸の内側で静かに鼓動していた。
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