58 / 70
第二章 マリーハイツ公約編
第三十六話 深海の魔女(2)
しおりを挟む
食事を終え宿を出る頃には、風は幾分か穏やかになっていた。
だが扉を開けた途端、港からの冷気が、服に染み付いた料理の温かい匂いを容赦なく剥ぎ取っていく。
「少し、歩きますか?」
シュアラが問うと、カイは外套の襟を立てて頷いた。
「腹ごなしにはちょうどいいな。部屋にこもると、さっきの話が頭の中で腐りそうだ」
「腐る前に、紙の上に移しておきます」
「そういうとこだけは頼もしいな」
宿の前の坂道は、海へ向かってなだらかに下っている。
石畳の隙間には、昼間見た名も知らぬハーブが、夜露をまとって葉を固く閉じていた。
坂の途中の石垣には、新しい切り出し石と、苔むした古い石がまだらに組み合わさっている場所があり、そこだけ時間が接ぎ木されたように見える。
「ここも、あの嵐で崩れたのでしょうね」
「十年前の傷跡か」
「十年で、これだけ戻るんですね」
「全部戻ったわけじゃねえさ」
カイが、暗い海の方をちらりと見た。
「海の底に行ったもんは、戻ってこねえ」
その先、小さな広場のあたりで、子どもの声がした。
「わたしは深海の魔女リリーシア! 波を止めるんだ!」
甲高い声が、夜の静寂に鋭く跳ねた。
二人が足を止めると、月明かりと港の灯りの中、二人の子どもが見えた。
一人は、防波堤の上で腕を大きく広げ、海に向かって仁王立ちしている。もう一人は、波打ち際をばしゃばしゃと走り回り、両手をぶんぶん振りながら低い声を真似ていた。
「がおーっ、深海の怪物だぞー!」
「来ちゃだめ! この港はわたしが守るんだから!」
魔女役の子が、必死の形相で叫ぶ。
裸足の足が、濡れた石の上で滑りそうになりながらも踏ん張っている。
「見て、誰か見てる!」
怪物役の子がこちらを指さした。魔女役の子が、少しだけ照れたように胸を張る。
「大丈夫、わたしが守るから!」
「……守る側か、連れていく側か、どっちにしても遊びにするんだな」
カイが小さく呟く。
怪物役の子が、突然くるりと方向を変えた。
「今度はお前が連れていかれる番だ!」
「ひどい!」
二人は役を入れ替え、今度は港の方から丘の方へ駆け上がってくる。
キャッキャという笑い声と、水の跳ねる音が混ざり合い、その名前をボールのように軽く放り合っていた。
「ヒーローごっこと、怪物ごっこか」
「どちらも、あの娘の名前で」
シュアラは、布の下で唇を真一文字に結んだ。
(昼の学生たちは、帝都に引き抜かれた研究者としてのリリーシアを語った)
魔導水庭の前で、楽しげに噂していた若者たち。
「頭がよかった」「深海契約の研究に関わった」と、書類上の経歴をなぞるように淡々と語られた言葉。
(夜の老主人は、港を守り、そして生贄となった娘としてのリリーシアを語った)
防波堤を越える絶望的な波と、水と光の壁。
遺体の上がらなかった「失踪」という事実。
(そして今、目の前で子どもたちは――)
「港を守る魔女」として、腕を広げて叫び。
「人を連れていく魔女」として、追いかけっこにその名前を消費している。
三つのリリーシアが、シュアラの頭の中でゆっくりと輪郭を重ねていく。だがピントは合わない。
帝都の文書に印字された「リリーシア」という文字だけが、その輪郭の外側に、異物のようにぽつんと浮いていた。
「聞かねえのか?」
隣で、カイが小声で尋ねる。
「何をです?」
「誰からその名前聞いたのかとかさ」
シュアラは、子どもたちを一瞥し、すぐに視線を外した。
「今、彼らにとってはただの遊びです」
「遊びで済んでるうちがいい、って顔だな」
「はい」
短く答える。
「あの名が、遊び以外の重さを持って耳に残る必要は、きっとまだありません」
「……そうか」
カイは、それ以上何も言わなかった。
「行きましょうか」
子どもたちの無邪気すぎる声を背に受けながら、シュアラは踵を返した。
坂道を登る足音が、冷たい石壁に小さく、寂しく反響する。
*
部屋に戻ると、簡素な寝台が二つと、小さな机がひとつあるだけだった。
机の上には、宿の油ランプが一つ。ガラスの覆いの中で炎が揺れ、狭い部屋の壁に頼りない影を踊らせている。
「狭いが、砦よりはあったかいな」
「文官としては、十分です」
「団長としても、十分だ」
カイはそう言って、片方の寝台に投げ出すように腰を下ろした。
シュアラは外套を外し、いつもの癖で机を椅子代わりにして腰かける。
懐から青い航路帳と、私的な小さな手帳を取り出した。
「もう書くのか」
「今書かないと、抜け落ちます」
「さっき“腐る前に”って言ってたやつか」
「はい」
まず手帳の方を開く。
先ほど戸籍室で見た名前を、記憶から引っ張り出し、もう一度、紙の上に定着させていく。
『名前:リリーシア・アルスリス』
『出自:マリーハイツの港町の娘(名家ではない/港じゅうで顔の知られた少女)』
ペン先が、カリカリと紙の上を滑る。
「書き写してると、何か見えてくるのか?」
「たまに、ですね」
問いかけに簡潔に返しながら、次の行を書く。
『嵐:十年ほど前の大嵐。港と船が危機、防波堤の一部損壊(現在は修復済み)』
年号は書かない。
「十年ほど」とだけ記す。正確な数字にしてしまえば、この町の人々が抱える曖昧な痛みが、どこか別物に変わってしまう気がした。
『町の語り:
港を守った娘/海に連れていかれた娘』
『子どもの遊び:
港を守る魔女/人を連れていく魔女として消費』
そこまで書いてから、ペンを一度空中で止めた。
(ヴァルムの砦で見た、帝都の深海契約関係者リストの名前)
冷徹な文字列。
「対象者」「出力」「安定度」「補填予算」。
(港の戸籍台帳にあった、失踪・死体なし・帝都に報告済みの記録)
紙の上では、ただの事務的な処理済みの案件。
「ここに、生きた顔が一つある」と誰かが気づかなければ、そのまま膨大な数字の海に沈んでしまう一行だ。
(マリーハイツの人々が語る、“深海の魔女リリーシア”)
感謝と恐怖と、少しの自慢話が、同じ名前の中で押し合いへし合いしている。
シュアラは、手帳の下段に、力を込めて一行を書き足した。
『いま書いた三つのリリーシアは、どれも同じ一人の人間のことだ』
「……それ、書類には書かねえんだな」
カイの声が飛んでくる。
「書類には書きません」
句点を打つ前に、ほんの一瞬迷う。
だが、線を引かなければ、線の外側に何も書けない。
ペン先が、紙の端をトンと叩いた。
『港で魚を数えていた一人の娘の名前が、帝都の文書では“深海契約対象者”という一行の肩書きに押し潰されている』
そこまで書いて、ペンを置いた。
「『被害者』とは書かないのか」
カイが問う。
シュアラは、しばし黙ってから首を振った。
「まだです」
「まだ?」
「帳簿の中で名前の在り処を確定させるには、明日、もう一度、この町の光の下を歩いてからでも遅くありません」
「真面目だな」
「団長も、十分真面目ですよ」
「そうか?」
「魚を二皿も平らげるほど真面目です」
「それはただの食欲だ」
カイが苦笑した。
そのとき、扉の方から、軽いノックの音がした。
「文官」
ノックの主は、案の定カイだった。
「開いています」
返事をすると、扉がわずかに開く。
さっきと同じ顔が、さっきと同じ声で訊いてくる。
「明日は、どう動く」
「デジャヴですね」
「ちゃんと答えろ」
「港と、ロッタ魔導水庭」
シュアラは、手帳の表紙を指先で叩きながら答えた。
「それから……アルスリス家を順に見ていきたいです」
「アルスリスんとこか」
カイが、短く息を吐く。
「海と光る庭と、連れていかれた娘か」
「順番を間違えると、見落とすものが出ますから」
「今から行くってのは、なしなんだな?」
カイが、半ば冗談めかして訊く。
「娘さんを失った家を、こんな夜更けに訪ねて『話を聞かせてください』と言うのは、さすがに礼を欠きます」
シュアラは、淡々と、しかし即座に返した。
「それに、あの家の人たちにとっては、あの嵐の夜は今日と地続きかもしれません。闇の中より、昼の光の下で聞く方が、まだ救いがあります」
「……そういうもんか」
カイは、腕を組んで天井を見上げた。
「順番を決めるのは得意だもんな、お前」
軽口のつもりだろうが、その言葉の奥に、かすかに別の意味――おそらくは信頼に近い何か――が滲んでいるのを感じた。
「沈む順番を、紙の上で先に決めるのは嫌いです」
シュアラは、それだけははっきりと言った。
「でも――」
手帳を閉じ、ページの端を指先で強く押さえる。
「港と、この町と、あの娘の名前の“整理すべき順番”くらいは、先に並べておきたいと思います」
「……やっぱり真面目だな」
カイは、しばらく黙ってから、口の端をわずかに上げた。
「じゃあ明日は、その順番で歩くか」
「はい」
「寝ろよ。ゼロ損耗も、深海の魔女も、寝不足でやる仕事じゃねえ」
「了解しました。団長も、魚の食べすぎで悪夢を見ませんように」
「……余計なお世話だ」
カイは小さく笑い、扉の方へ向き直った。
外の廊下からは、零札たちがぎこちない足取りで部屋へ戻る気配がする。彼らの足音もまた、どこか頼りない。
扉が閉じ、部屋に灯りの輪だけが残った。
シュアラは、一度だけ手帳の表紙に触れた。革の冷たい感触が指に伝わる。
紙の向こうに、港の灯と、青い水庭の光と、深海の魔女と呼ばれた娘の輪郭が、かすかに重なって見える。
(帝都の帳簿が拾わなかった行を、一つだけ、こちら側で書き足しておく)
心の中で、その決意を一行の文字として刻む。
灯りを吹き消すと、窓の外で、遠くロッタ魔導水庭の青い光がまた一度だけ瞬いた。
それは、夜の底から上がってきた、誰かのかすかな息継ぎのように見えた。
だが扉を開けた途端、港からの冷気が、服に染み付いた料理の温かい匂いを容赦なく剥ぎ取っていく。
「少し、歩きますか?」
シュアラが問うと、カイは外套の襟を立てて頷いた。
「腹ごなしにはちょうどいいな。部屋にこもると、さっきの話が頭の中で腐りそうだ」
「腐る前に、紙の上に移しておきます」
「そういうとこだけは頼もしいな」
宿の前の坂道は、海へ向かってなだらかに下っている。
石畳の隙間には、昼間見た名も知らぬハーブが、夜露をまとって葉を固く閉じていた。
坂の途中の石垣には、新しい切り出し石と、苔むした古い石がまだらに組み合わさっている場所があり、そこだけ時間が接ぎ木されたように見える。
「ここも、あの嵐で崩れたのでしょうね」
「十年前の傷跡か」
「十年で、これだけ戻るんですね」
「全部戻ったわけじゃねえさ」
カイが、暗い海の方をちらりと見た。
「海の底に行ったもんは、戻ってこねえ」
その先、小さな広場のあたりで、子どもの声がした。
「わたしは深海の魔女リリーシア! 波を止めるんだ!」
甲高い声が、夜の静寂に鋭く跳ねた。
二人が足を止めると、月明かりと港の灯りの中、二人の子どもが見えた。
一人は、防波堤の上で腕を大きく広げ、海に向かって仁王立ちしている。もう一人は、波打ち際をばしゃばしゃと走り回り、両手をぶんぶん振りながら低い声を真似ていた。
「がおーっ、深海の怪物だぞー!」
「来ちゃだめ! この港はわたしが守るんだから!」
魔女役の子が、必死の形相で叫ぶ。
裸足の足が、濡れた石の上で滑りそうになりながらも踏ん張っている。
「見て、誰か見てる!」
怪物役の子がこちらを指さした。魔女役の子が、少しだけ照れたように胸を張る。
「大丈夫、わたしが守るから!」
「……守る側か、連れていく側か、どっちにしても遊びにするんだな」
カイが小さく呟く。
怪物役の子が、突然くるりと方向を変えた。
「今度はお前が連れていかれる番だ!」
「ひどい!」
二人は役を入れ替え、今度は港の方から丘の方へ駆け上がってくる。
キャッキャという笑い声と、水の跳ねる音が混ざり合い、その名前をボールのように軽く放り合っていた。
「ヒーローごっこと、怪物ごっこか」
「どちらも、あの娘の名前で」
シュアラは、布の下で唇を真一文字に結んだ。
(昼の学生たちは、帝都に引き抜かれた研究者としてのリリーシアを語った)
魔導水庭の前で、楽しげに噂していた若者たち。
「頭がよかった」「深海契約の研究に関わった」と、書類上の経歴をなぞるように淡々と語られた言葉。
(夜の老主人は、港を守り、そして生贄となった娘としてのリリーシアを語った)
防波堤を越える絶望的な波と、水と光の壁。
遺体の上がらなかった「失踪」という事実。
(そして今、目の前で子どもたちは――)
「港を守る魔女」として、腕を広げて叫び。
「人を連れていく魔女」として、追いかけっこにその名前を消費している。
三つのリリーシアが、シュアラの頭の中でゆっくりと輪郭を重ねていく。だがピントは合わない。
帝都の文書に印字された「リリーシア」という文字だけが、その輪郭の外側に、異物のようにぽつんと浮いていた。
「聞かねえのか?」
隣で、カイが小声で尋ねる。
「何をです?」
「誰からその名前聞いたのかとかさ」
シュアラは、子どもたちを一瞥し、すぐに視線を外した。
「今、彼らにとってはただの遊びです」
「遊びで済んでるうちがいい、って顔だな」
「はい」
短く答える。
「あの名が、遊び以外の重さを持って耳に残る必要は、きっとまだありません」
「……そうか」
カイは、それ以上何も言わなかった。
「行きましょうか」
子どもたちの無邪気すぎる声を背に受けながら、シュアラは踵を返した。
坂道を登る足音が、冷たい石壁に小さく、寂しく反響する。
*
部屋に戻ると、簡素な寝台が二つと、小さな机がひとつあるだけだった。
机の上には、宿の油ランプが一つ。ガラスの覆いの中で炎が揺れ、狭い部屋の壁に頼りない影を踊らせている。
「狭いが、砦よりはあったかいな」
「文官としては、十分です」
「団長としても、十分だ」
カイはそう言って、片方の寝台に投げ出すように腰を下ろした。
シュアラは外套を外し、いつもの癖で机を椅子代わりにして腰かける。
懐から青い航路帳と、私的な小さな手帳を取り出した。
「もう書くのか」
「今書かないと、抜け落ちます」
「さっき“腐る前に”って言ってたやつか」
「はい」
まず手帳の方を開く。
先ほど戸籍室で見た名前を、記憶から引っ張り出し、もう一度、紙の上に定着させていく。
『名前:リリーシア・アルスリス』
『出自:マリーハイツの港町の娘(名家ではない/港じゅうで顔の知られた少女)』
ペン先が、カリカリと紙の上を滑る。
「書き写してると、何か見えてくるのか?」
「たまに、ですね」
問いかけに簡潔に返しながら、次の行を書く。
『嵐:十年ほど前の大嵐。港と船が危機、防波堤の一部損壊(現在は修復済み)』
年号は書かない。
「十年ほど」とだけ記す。正確な数字にしてしまえば、この町の人々が抱える曖昧な痛みが、どこか別物に変わってしまう気がした。
『町の語り:
港を守った娘/海に連れていかれた娘』
『子どもの遊び:
港を守る魔女/人を連れていく魔女として消費』
そこまで書いてから、ペンを一度空中で止めた。
(ヴァルムの砦で見た、帝都の深海契約関係者リストの名前)
冷徹な文字列。
「対象者」「出力」「安定度」「補填予算」。
(港の戸籍台帳にあった、失踪・死体なし・帝都に報告済みの記録)
紙の上では、ただの事務的な処理済みの案件。
「ここに、生きた顔が一つある」と誰かが気づかなければ、そのまま膨大な数字の海に沈んでしまう一行だ。
(マリーハイツの人々が語る、“深海の魔女リリーシア”)
感謝と恐怖と、少しの自慢話が、同じ名前の中で押し合いへし合いしている。
シュアラは、手帳の下段に、力を込めて一行を書き足した。
『いま書いた三つのリリーシアは、どれも同じ一人の人間のことだ』
「……それ、書類には書かねえんだな」
カイの声が飛んでくる。
「書類には書きません」
句点を打つ前に、ほんの一瞬迷う。
だが、線を引かなければ、線の外側に何も書けない。
ペン先が、紙の端をトンと叩いた。
『港で魚を数えていた一人の娘の名前が、帝都の文書では“深海契約対象者”という一行の肩書きに押し潰されている』
そこまで書いて、ペンを置いた。
「『被害者』とは書かないのか」
カイが問う。
シュアラは、しばし黙ってから首を振った。
「まだです」
「まだ?」
「帳簿の中で名前の在り処を確定させるには、明日、もう一度、この町の光の下を歩いてからでも遅くありません」
「真面目だな」
「団長も、十分真面目ですよ」
「そうか?」
「魚を二皿も平らげるほど真面目です」
「それはただの食欲だ」
カイが苦笑した。
そのとき、扉の方から、軽いノックの音がした。
「文官」
ノックの主は、案の定カイだった。
「開いています」
返事をすると、扉がわずかに開く。
さっきと同じ顔が、さっきと同じ声で訊いてくる。
「明日は、どう動く」
「デジャヴですね」
「ちゃんと答えろ」
「港と、ロッタ魔導水庭」
シュアラは、手帳の表紙を指先で叩きながら答えた。
「それから……アルスリス家を順に見ていきたいです」
「アルスリスんとこか」
カイが、短く息を吐く。
「海と光る庭と、連れていかれた娘か」
「順番を間違えると、見落とすものが出ますから」
「今から行くってのは、なしなんだな?」
カイが、半ば冗談めかして訊く。
「娘さんを失った家を、こんな夜更けに訪ねて『話を聞かせてください』と言うのは、さすがに礼を欠きます」
シュアラは、淡々と、しかし即座に返した。
「それに、あの家の人たちにとっては、あの嵐の夜は今日と地続きかもしれません。闇の中より、昼の光の下で聞く方が、まだ救いがあります」
「……そういうもんか」
カイは、腕を組んで天井を見上げた。
「順番を決めるのは得意だもんな、お前」
軽口のつもりだろうが、その言葉の奥に、かすかに別の意味――おそらくは信頼に近い何か――が滲んでいるのを感じた。
「沈む順番を、紙の上で先に決めるのは嫌いです」
シュアラは、それだけははっきりと言った。
「でも――」
手帳を閉じ、ページの端を指先で強く押さえる。
「港と、この町と、あの娘の名前の“整理すべき順番”くらいは、先に並べておきたいと思います」
「……やっぱり真面目だな」
カイは、しばらく黙ってから、口の端をわずかに上げた。
「じゃあ明日は、その順番で歩くか」
「はい」
「寝ろよ。ゼロ損耗も、深海の魔女も、寝不足でやる仕事じゃねえ」
「了解しました。団長も、魚の食べすぎで悪夢を見ませんように」
「……余計なお世話だ」
カイは小さく笑い、扉の方へ向き直った。
外の廊下からは、零札たちがぎこちない足取りで部屋へ戻る気配がする。彼らの足音もまた、どこか頼りない。
扉が閉じ、部屋に灯りの輪だけが残った。
シュアラは、一度だけ手帳の表紙に触れた。革の冷たい感触が指に伝わる。
紙の向こうに、港の灯と、青い水庭の光と、深海の魔女と呼ばれた娘の輪郭が、かすかに重なって見える。
(帝都の帳簿が拾わなかった行を、一つだけ、こちら側で書き足しておく)
心の中で、その決意を一行の文字として刻む。
灯りを吹き消すと、窓の外で、遠くロッタ魔導水庭の青い光がまた一度だけ瞬いた。
それは、夜の底から上がってきた、誰かのかすかな息継ぎのように見えた。
1
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」
魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。
鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。
(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
なぜ、私に関係あるのかしら?
シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」
彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。
そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。
「…レオンハルト・トレヴァントだ」
非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。
そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。
「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」
この判断によって、どうなるかなども考えずに…
※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。
※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、
※ 画像はAIにて作成しております
『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』
鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」
幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された
公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。
その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、
彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。
目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。
だが、中身は何ひとつ変わっていない。
にもかかわらず、
かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、
「やり直したい」とすり寄ってくる。
「見かけが変わっても、中身は同じです。
それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」
静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。
やがて彼女に興味を示したのは、
隣国ノルディアの王太子エドワルド。
彼が見ていたのは、美貌ではなく――
対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。
これは、
外見で価値を決められた令嬢が、
「選ばれる人生」をやめ、
自分の意思で未来を選び直す物語。
静かなざまぁと、
対等な関係から始まる大人の恋。
そして――
自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。
---
王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!
ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。
なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。
お前のような地味な女は不要だと婚約破棄されたので、持て余していた聖女の力で隣国のクールな皇子様を救ったら、ベタ惚れされました
夏見ナイ
恋愛
伯爵令嬢リリアーナは、強大すぎる聖女の力を隠し「地味で無能」と虐げられてきた。婚約者の第二王子からも疎まれ、ついに夜会で「お前のような地味な女は不要だ!」と衆人の前で婚約破棄を突きつけられる。
全てを失い、あてもなく国を出た彼女が森で出会ったのは、邪悪な呪いに蝕まれ死にかけていた一人の美しい男性。彼こそが隣国エルミート帝国が誇る「氷の皇子」アシュレイだった。
持て余していた聖女の力で彼を救ったリリアーナは、「お前の力がいる」と帝国へ迎えられる。クールで無愛想なはずの皇子様が、なぜか私にだけは不器用な優しさを見せてきて、次第にその愛は甘く重い執着へと変わっていき……?
これは、不要とされた令嬢が、最高の愛を見つけて世界で一番幸せになる物語。
勘当された悪役令嬢は平民になって幸せに暮らしていたのになぜか人生をやり直しさせられる
千環
恋愛
第三王子の婚約者であった侯爵令嬢アドリアーナだが、第三王子が想いを寄せる男爵令嬢を害した罪で婚約破棄を言い渡されたことによりスタングロム侯爵家から勘当され、平民アニーとして生きることとなった。
なんとか日々を過ごす内に12年の歳月が流れ、ある時出会った10歳年上の平民アレクと結ばれて、可愛い娘チェルシーを授かり、とても幸せに暮らしていたのだが……道に飛び出して馬車に轢かれそうになった娘を助けようとしたアニーは気付けば6歳のアドリアーナに戻っていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる