死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します

桃我タロー

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第二章 マリーハイツ公約編

第三十六話 深海の魔女(2)

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 食事を終え宿を出る頃には、風は幾分か穏やかになっていた。
 だが扉を開けた途端、港からの冷気が、服に染み付いた料理の温かい匂いを容赦なく剥ぎ取っていく。

「少し、歩きますか?」

 シュアラが問うと、カイは外套の襟を立てて頷いた。

「腹ごなしにはちょうどいいな。部屋にこもると、さっきの話が頭の中で腐りそうだ」

「腐る前に、紙の上に移しておきます」

「そういうとこだけは頼もしいな」

 宿の前の坂道は、海へ向かってなだらかに下っている。
 石畳の隙間には、昼間見た名も知らぬハーブが、夜露をまとって葉を固く閉じていた。

 坂の途中の石垣には、新しい切り出し石と、苔むした古い石がまだらに組み合わさっている場所があり、そこだけ時間が接ぎ木されたように見える。

「ここも、あの嵐で崩れたのでしょうね」

「十年前の傷跡か」

「十年で、これだけ戻るんですね」

「全部戻ったわけじゃねえさ」

 カイが、暗い海の方をちらりと見た。

「海の底に行ったもんは、戻ってこねえ」

 その先、小さな広場のあたりで、子どもの声がした。

「わたしは深海の魔女リリーシア! 波を止めるんだ!」

 甲高い声が、夜の静寂に鋭く跳ねた。

 二人が足を止めると、月明かりと港の灯りの中、二人の子どもが見えた。
 一人は、防波堤の上で腕を大きく広げ、海に向かって仁王立ちしている。もう一人は、波打ち際をばしゃばしゃと走り回り、両手をぶんぶん振りながら低い声を真似ていた。

「がおーっ、深海の怪物だぞー!」

「来ちゃだめ! この港はわたしが守るんだから!」

 魔女役の子が、必死の形相で叫ぶ。
 裸足の足が、濡れた石の上で滑りそうになりながらも踏ん張っている。

「見て、誰か見てる!」

 怪物役の子がこちらを指さした。魔女役の子が、少しだけ照れたように胸を張る。

「大丈夫、わたしが守るから!」

「……守る側か、連れていく側か、どっちにしても遊びにするんだな」

 カイが小さく呟く。

 怪物役の子が、突然くるりと方向を変えた。

「今度はお前が連れていかれる番だ!」

「ひどい!」

 二人は役を入れ替え、今度は港の方から丘の方へ駆け上がってくる。
 キャッキャという笑い声と、水の跳ねる音が混ざり合い、その名前をボールのように軽く放り合っていた。

「ヒーローごっこと、怪物ごっこか」

「どちらも、あの娘の名前で」

 シュアラは、布の下で唇を真一文字に結んだ。

(昼の学生たちは、帝都に引き抜かれた研究者としてのリリーシアを語った)

 魔導水庭の前で、楽しげに噂していた若者たち。
 「頭がよかった」「深海契約の研究に関わった」と、書類上の経歴をなぞるように淡々と語られた言葉。

(夜の老主人は、港を守り、そして生贄となった娘としてのリリーシアを語った)

 防波堤を越える絶望的な波と、水と光の壁。
 遺体の上がらなかった「失踪」という事実。

(そして今、目の前で子どもたちは――)

「港を守る魔女」として、腕を広げて叫び。
「人を連れていく魔女」として、追いかけっこにその名前を消費している。

 三つのリリーシアが、シュアラの頭の中でゆっくりと輪郭を重ねていく。だがピントは合わない。
 帝都の文書に印字された「リリーシア」という文字だけが、その輪郭の外側に、異物のようにぽつんと浮いていた。

「聞かねえのか?」

 隣で、カイが小声で尋ねる。

「何をです?」

「誰からその名前聞いたのかとかさ」

 シュアラは、子どもたちを一瞥し、すぐに視線を外した。

「今、彼らにとってはただの遊びです」

「遊びで済んでるうちがいい、って顔だな」

「はい」

 短く答える。

「あの名が、遊び以外の重さを持って耳に残る必要は、きっとまだありません」

「……そうか」

 カイは、それ以上何も言わなかった。

「行きましょうか」

 子どもたちの無邪気すぎる声を背に受けながら、シュアラは踵を返した。
 坂道を登る足音が、冷たい石壁に小さく、寂しく反響する。

*

 部屋に戻ると、簡素な寝台が二つと、小さな机がひとつあるだけだった。
 机の上には、宿の油ランプが一つ。ガラスの覆いの中で炎が揺れ、狭い部屋の壁に頼りない影を踊らせている。

「狭いが、砦よりはあったかいな」

「文官としては、十分です」

「団長としても、十分だ」

 カイはそう言って、片方の寝台に投げ出すように腰を下ろした。

 シュアラは外套を外し、いつもの癖で机を椅子代わりにして腰かける。
 懐から青い航路帳と、私的な小さな手帳を取り出した。

「もう書くのか」

「今書かないと、抜け落ちます」

「さっき“腐る前に”って言ってたやつか」

「はい」

 まず手帳の方を開く。
 先ほど戸籍室で見た名前を、記憶から引っ張り出し、もう一度、紙の上に定着させていく。

『名前:リリーシア・アルスリス』
『出自:マリーハイツの港町の娘(名家ではない/港じゅうで顔の知られた少女)』

 ペン先が、カリカリと紙の上を滑る。

「書き写してると、何か見えてくるのか?」

「たまに、ですね」

 問いかけに簡潔に返しながら、次の行を書く。

『嵐:十年ほど前の大嵐。港と船が危機、防波堤の一部損壊(現在は修復済み)』

 年号は書かない。
 「十年ほど」とだけ記す。正確な数字にしてしまえば、この町の人々が抱える曖昧な痛みが、どこか別物に変わってしまう気がした。

『町の語り:
 港を守った娘/海に連れていかれた娘』

『子どもの遊び:
 港を守る魔女/人を連れていく魔女として消費』

 そこまで書いてから、ペンを一度空中で止めた。

(ヴァルムの砦で見た、帝都の深海契約関係者リストの名前)

 冷徹な文字列。
 「対象者」「出力」「安定度」「補填予算」。

(港の戸籍台帳にあった、失踪・死体なし・帝都に報告済みの記録)

 紙の上では、ただの事務的な処理済みの案件。
 「ここに、生きた顔が一つある」と誰かが気づかなければ、そのまま膨大な数字の海に沈んでしまう一行だ。

(マリーハイツの人々が語る、“深海の魔女リリーシア”)

 感謝と恐怖と、少しの自慢話が、同じ名前の中で押し合いへし合いしている。

 シュアラは、手帳の下段に、力を込めて一行を書き足した。

『いま書いた三つのリリーシアは、どれも同じ一人の人間のことだ』

「……それ、書類には書かねえんだな」

 カイの声が飛んでくる。

「書類には書きません」

 句点を打つ前に、ほんの一瞬迷う。
 だが、線を引かなければ、線の外側に何も書けない。

 ペン先が、紙の端をトンと叩いた。

『港で魚を数えていた一人の娘の名前が、帝都の文書では“深海契約対象者”という一行の肩書きに押し潰されている』

 そこまで書いて、ペンを置いた。

「『被害者』とは書かないのか」

 カイが問う。
 シュアラは、しばし黙ってから首を振った。

「まだです」

「まだ?」

「帳簿の中で名前の在り処を確定させるには、明日、もう一度、この町の光の下を歩いてからでも遅くありません」

「真面目だな」

「団長も、十分真面目ですよ」

「そうか?」

「魚を二皿も平らげるほど真面目です」

「それはただの食欲だ」

 カイが苦笑した。

 そのとき、扉の方から、軽いノックの音がした。

「文官」

 ノックの主は、案の定カイだった。

「開いています」

 返事をすると、扉がわずかに開く。
 さっきと同じ顔が、さっきと同じ声で訊いてくる。

「明日は、どう動く」

「デジャヴですね」

「ちゃんと答えろ」

「港と、ロッタ魔導水庭」

 シュアラは、手帳の表紙を指先で叩きながら答えた。

「それから……アルスリス家を順に見ていきたいです」

「アルスリスんとこか」

 カイが、短く息を吐く。

「海と光る庭と、連れていかれた娘か」

「順番を間違えると、見落とすものが出ますから」

「今から行くってのは、なしなんだな?」

 カイが、半ば冗談めかして訊く。

「娘さんを失った家を、こんな夜更けに訪ねて『話を聞かせてください』と言うのは、さすがに礼を欠きます」

 シュアラは、淡々と、しかし即座に返した。

「それに、あの家の人たちにとっては、あの嵐の夜は今日と地続きかもしれません。闇の中より、昼の光の下で聞く方が、まだ救いがあります」

「……そういうもんか」

 カイは、腕を組んで天井を見上げた。

「順番を決めるのは得意だもんな、お前」

 軽口のつもりだろうが、その言葉の奥に、かすかに別の意味――おそらくは信頼に近い何か――が滲んでいるのを感じた。

「沈む順番を、紙の上で先に決めるのは嫌いです」

 シュアラは、それだけははっきりと言った。

「でも――」

 手帳を閉じ、ページの端を指先で強く押さえる。

「港と、この町と、あの娘の名前の“整理すべき順番”くらいは、先に並べておきたいと思います」

「……やっぱり真面目だな」

 カイは、しばらく黙ってから、口の端をわずかに上げた。

「じゃあ明日は、その順番で歩くか」

「はい」

「寝ろよ。ゼロ損耗も、深海の魔女も、寝不足でやる仕事じゃねえ」

「了解しました。団長も、魚の食べすぎで悪夢を見ませんように」

「……余計なお世話だ」

 カイは小さく笑い、扉の方へ向き直った。
 外の廊下からは、零札たちがぎこちない足取りで部屋へ戻る気配がする。彼らの足音もまた、どこか頼りない。

 扉が閉じ、部屋に灯りの輪だけが残った。

 シュアラは、一度だけ手帳の表紙に触れた。革の冷たい感触が指に伝わる。
 紙の向こうに、港の灯と、青い水庭の光と、深海の魔女と呼ばれた娘の輪郭が、かすかに重なって見える。

(帝都の帳簿が拾わなかった行を、一つだけ、こちら側で書き足しておく)

 心の中で、その決意を一行の文字として刻む。

 灯りを吹き消すと、窓の外で、遠くロッタ魔導水庭の青い光がまた一度だけ瞬いた。
 それは、夜の底から上がってきた、誰かのかすかな息継ぎのように見えた。
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