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第二章 マリーハイツ公約編
第四十一話 零札の子ども
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午前の部の議題が、ひとまず区切りを迎えた。
マリーハイツ役場二階の会議室には、まだ紙とインクの匂いが濃く残っている。
机の上には、航路案を書き込んだ海図と、その横に並べられた名簿の束。
その一番下の行だけ、なぜかインクの黒が濃く見えた。
シュアラは、指先で紙の端をそっとそろえながら、喉の奥に残る苦味を飲み下した。
「想定損耗」「切り離し」「責任者」——そんな言葉が、午前中だけで何度も飛び交った。
扉の向こうで、海がかすかに鳴っている。
ここからは見えないが、港の風の匂いまで、紙に上書きされてしまったような気がした。
「——午前はここまでとしましょう。午後は、数字の整理からですな」
海務院の士官が、疲れを悟らせない声で区切りをつける。
椅子の脚が床を引く音が、一斉に鳴った。
町側の人間は、階下の控室へと流れていく。
午後の話し合いに備え、漁師たちや網元たちと顔を合わせる必要があるのだろう。
ヴァルム砦の面々は、出入口近くで固まり、短く言葉を交わしていた。
カイが組んだ腕をほどき、零札たちに何事か言い聞かせている。
フィンが、書類を抱えたまま大きく伸びをした。
帝都の士官たちは別室に移動し、条文の手直しをするらしい。
書記官が紙束を抱えて出ていく背中に、朱肉の赤が一瞬だけ見えた。
そんな人の流れを見送りながら、シュアラは椅子から立ち上がった。
「少し——風を浴びてきます」
自分でも、唐突な言葉だと思った。
だが、あの名簿の黒を見続けていると、胸の奥が固まりきってしまいそうだった。
カイが、すぐに顔を上げる。
「一人で行く気か」
「屋上からの眺めがいいと、昨日ここで聞いたので」
シュアラは、努めて軽い調子で言った。
でも、その声が、少しだけ震えているのに気づいた。
「港の風を吸っておかないと、数字の顔が揃わない気がしまして」
カイは不機嫌そうに眉をしかめた。
「だったらなおさら俺も——」
「団長は、ここで皆さんと午後の段取りを固めてください」
シュアラは静かに遮った。
「零札の方々とも、まだ話しておきたいことがあるでしょう?」
その言葉に、零札の男たちがちらりとカイを振り返る。
カイは舌打ちしそうになる口を、なんとか飲み込んだようだった。
「……屋上だな?」
「ええ。すぐ戻ります」
そう答えたところで、背後から白い影が動いた。
「よろしければ、ご一緒しても?」
リュシア・フォン・クラウゼが、紙束を小脇に抱えたまま立っていた。
いつもの制服のスカートに、厚底の靴。
子どもめいた背丈のまま、大人びた笑みを浮かべている。
「高いところから見る港、好きなんです。数字にしやすいので」
言葉の内容のわりに、声は柔らかかった。
でも、その柔らかさの下に、何かが引っかかっているような気がした。
カイが、険しい視線を向ける。
「おい、嬢ちゃん。死人——」
言いかけて、シュアラが先に口を開く。
「構いませんよ、少技士殿。ご一緒しましょう」
カイの方を振り向き、シュアラは短く付け足した。
「……ただし、念のため一つだけ」
彼女は近くのヴァルム兵に視線を送る。
「団長の部下に、少技士殿の武具の確認だけお願いできますか。形式として」
リュシアは、目を丸くしたあと、すぐに肩をすくめて両手を差し出した。
「どうぞ。わたし、刃物は数字の中にしか持ってませんから」
兵士が、袖口や腰回り、厚底の靴の中を手早く探る。
出てきたのは、小さな折り畳み式の計算盤と、尖ったペンと定規だけだった。
「危険物は、ペンくらいだな」
「ペンは危険ですよ。間違った契約書にも、正しい切り離し命令にも、同じようにインクを流せますから」
リュシアは冗談とも本気ともつかない声で言った。
その口元に、わずかな笑みが浮かんでいる。でも、目は笑っていない。
カイが、なおも渋い顔をする。
「本当に二人で行くつもりか」
シュアラは、少しだけ目を細めた。
(ここで彼女が、屋上でナイフを抜くような真似をするだろうか)
屋上は、人目がない分、証拠が残りやすい。
死人文官を落としたとなれば、マリーハイツとの交渉は一気に暗礁に乗り上げる。
海務院の顔にも傷がつく。帝都の上層や、ギルドや、もっと遠くの「盤面」を考える連中が、それを良しとするだろうか。
少なくとも——少技士一人の思いつきでできる手ではない。
(ここで手を出すには、リスクが高すぎる)
そう判断したうえで、シュアラはカイに向き直った。
「何かあれば、屋上からでも叫びます。その前に、数字を投げつけるつもりですが」
カイは、苦い息を吐いた。
「……叫ぶ声が聞こえねえ距離なら、屋上ごとぶち抜く」
「それは心強いですね」
シュアラは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
フィンが、半ば呆れ顔で肩をすくめる。
「隊長、ここで死人——シュアラを止めても、あの人、別の隙見つけて勝手に行きますよ」
「フィン」
「はいはい。分かってます。屋上への階段の前に一人、門番置いておきますよ。それでいいでしょう、書記官殿?」
こうして、屋上への道筋が、形式上も整えられた。
*
役場の階段をのぼる途中、石の壁が少しずつ狭くなる。
上階へ行くほど、外からの音は遠ざかるはずなのに——不思議と、港のざわめきははっきりと聞こえた。
リュシアが、軽い足取りで隣を歩く。
厚底の靴が、石段を小気味よく叩いた。
「書記官殿って、よく風を浴びに行く人ですか?」
「今日は、たまたまです」
「よかった。いつもそうなら、わたし、もっと早く誘いたかったので」
さらりと出てきた呼び方に、シュアラは小さく片眉を上げた。
その呼び方の軽さが、どこか引っかかる。
(砦の連中は、もっと縁起の悪いあだ名で呼びたがるのに)
彼女は、わざと本名もあだ名も避けている。
知っているのに口にしない人間の距離の取り方だ。
「……わたしのことを、どこまでご存じで?」
階段を折り返すところで、シュアラは何気ないふりをしてそう問うた。
「そうですね」
リュシアは一段上から振り返り、少し考えるふりをする。
その「考えるふり」が、やけに丁寧だった。
「帝都の帳簿に名前のない人、というところまでは。あとは、現地で見た分だけですよ」
「名前のない人」
「はい。本来なら、死亡処理の印が押されているはずの行に、うっすら跡だけ残っている人、というか」
その言葉の端に、小さな揺れがあった。
それは、帝都の上の方でしか見られない種類の帳簿だ。
(……やっぱり、帝都の“奥”に触れている)
シュアラは、胸の奥で小さく舌打ちしたくなった。
だが、表の顔は崩さない。
「正式な肩書きでは『臨時書記官』としか書かれていませんけど」
「だからこそ、現場では皆さん、いろいろな呼び方を考えるんでしょうね」
リュシアは、階段を上りながら肩をすくめた。
「ヴァルム砦の人たちのセンス、嫌いじゃないですよ。少し不吉すぎますけど」
その言葉の後、一瞬だけ間が空いた。
(あのあだ名まで、耳に入っているわけだ)
シュアラは心の中で苦笑した。
だが、彼女は一度もその言葉を口にはしない。
(情報の源を、絶対に言わない。——誰かにそう躾けられた目だ)
その目が、今、自分を見ている。
階段をのぼりきると、重たい扉が一枚。
フィンが言っていた通り、ヴァルムの兵士が一人、扉の横に立っていた。
「中に他の人間はいません。鍵は開けておきます」
兵士は短く告げ、視線だけで「異常があればすぐ呼べ」と伝えてくる。
シュアラはうなずき、扉の取っ手に手をかけた。
ぎい、と金属の軋む音。
次の瞬間、光と風が、階段の陰から一気に流れ込んできた。
*
屋上は、思っていたより広かった。
低い胸壁がぐるりと巡らされ、その向こうに、丘陵の港町と海がひらけている。
空は淡い青。
冬の手前、冷たさと柔らかさが混じった風が頬を撫でていく。
港からは、帆とマストのきしむ音、かすかな魚の匂い。
カモメが輪を描きながら飛び、時折、白い腹を光にさらした。
「……本当に、いい眺めですね」
シュアラは、胸壁に近づきながら呟いた。
「港も船も、人も。ここから見ると、小さな駒みたいです」
「駒、という表現は、ちょっと好きです」
隣に立ったリュシアが、同じように身を乗り出した。
厚底の靴が、胸壁の影に半分隠れる。
「上から見ると、数字にしやすいでしょう?数えやすいし、距離も分かりやすい」
「数字にしやすい、ですか」
「はい。たとえば、あそこの桟橋の船。あれが沈んだら、何人分の荷と人が消えるか、とか」
リュシアは、港の一角を指さした。
漁船が三隻、横並びに停泊している場所だ。
「わたしたちはいつも、そういう見方をします。海図も、港も、人も。上から均して、数字にして——どこまで沈んでいいか決める」
その言葉の端に、小さな揺れがあった。
カモメの声が、ひときわ大きくかすれた。
(“どこまで沈んでいいか”を、最初から当たり前の前提にしている)
シュアラは、眉の奥に小さな痛みを覚えた。
(この前提の置き方……)
誰かが必ず沈む、と最初から決めている目。
それは、シュアラが幼いころから見てきた、零札上がりの官吏たちの目と同じだった。
「……その“わたしたち”は、どこでそう教わるんです?」
問いかけると、リュシアは少しだけ顎を動かした。
「帝都です。……もう少し狭く言うなら、孤児院ですね」
ほんのわずかな間を置いて、続ける。
その間が、やけに長く感じられた。
「帝都零札孤児院、第七計算棟。わたしの育ちの家です」
やはり——と、喉の奥で言葉が折れた。
その折れ方が、やけに痛かった。
シュアラは一瞬、別の光景を思い出していた。
父の執務室の隅で、山積みの書類に飽きて、窓から見える中庭を眺めていた幼い自分。
そこを通る、妙に姿勢の良い若い官吏たち。
財務長官だった父が、何度か言ったのだ。
「零札上がりは、数字を外したことがない。だからこそ、信用できる」と。
彼らは皆、同じ目をしていた。
感謝と恐怖と誇りが、きれいに均された目。
「結果を出せば沈まない」と信じる目。
(その目だ)
いま隣で海を見ている少女の瞳は、その目と同じ色をしていた。
リュシアは、胸壁にもたれかかるように片肘をついた。
風が、前髪の端を揺らす。
「頭数と、勘定と、損耗の計算をするところ、ですね」
「計算棟、ですか」
「はい。毎朝、名簿を読み上げる時間があるんです。縦にずらっと並んだ名前があって、一番下の行から順番に、奉仕隊の人が呼びに来る」
彼女の視線は、港ではなく、少し遠くの空へ向いていた。
かつての天井の高さを思い出しているようにも見える。
その目が、一瞬だけ焦点を失った。
「呼ばれた子の名前には、赤い線が引かれます。そこから先は——違う帳簿に移るので」
「違う、帳簿」
「はい。“奉仕隊”とか、“深海の方”とか」
リュシアは、何でもないことを話すように言った。
でも、その「何でもない」が、やけに重かった。
「わたしたちの名簿からは、きれいに消えるんです。行数が詰められて、また一番下が空く。そしたら、次の子の名前がそこに書かれる」
その言葉の端に、小さな揺れがあった。
カモメが一羽、屋上の上を横切っていく。
翼の端が風を裂く音が、かすかにした。
「……計算を外しただけで?」
口から滑り出たシュアラの言葉は、思った以上に弱かった。
リュシアは首を傾げた。
「“だけ”、ですかね。それとも“それ以上”ですかね」
少し考えるように目を細め、それから肩をすくめる。
「でも、そういう決まりでした。計算を外す回数が多い子から、順番に線を引かれる。そうすると、その上にいる子は安心できるでしょう?」
「安心……」
「自分の番が、少し遅くなるから」
リュシアの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
楽しそうではない。懐かしむようでもない。
ただ、その仕組みを「きれい」と評する人間の顔だった。
でも、その笑みの下に、何かが引っかかっている。
(帝都零札孤児院。——やっぱり)
シュアラは、胸の奥に生ぬるい違和感を覚えた。
父のもとで見た「零札出身の官吏」たちも、同じ理屈で笑っていた。
「失敗した分だけ誰かが沈む。だから失敗しないことが、何よりの忠誠だ」と。
彼らは皆、誰かの沈む音を聞きながら、自分の番を遅らせてきた人間だ。
(この子もそうだ。自分の番を遅らせるために、他人の順番を整えている)
最初から、「誰かは沈む」という前提で作られた行動原理。
その匂いを、シュアラはよく知っていた。
「最初は、怖かったですよ。名簿の紙をめくる音だけで、背中が冷たくなりました」
リュシアは、自分の腕を軽く抱いた。
その指先が、わずかに震えている。
「でも、だんだん慣れます。上の行の子が赤線を引かれるのを見て、『ああ、今日も自分じゃなかった』って、少しだけ熱くなる」
その「熱くなる」という言葉が、やけに冷たく聞こえた。
シュアラは、胸の奥がざわつくのを感じた。
怒りとも違う。哀れみとも違う。
その感情に名前をつける前に、リュシアが続けた。
「零札だったわたしを拾って、ここまで育ててくれたのは帝国ですから」
風が一瞬止まり、彼女の声だけがはっきりと聞こえる。
その声に、小さな揺れがあった。
「数字の間違いを直す方法も、名簿から上に上がる方法も、全部、帝国が教えてくれました。結果を出せば、線を引かれる番を、少しずつ遅らせられるって」
その言葉の端に、引っかかりがあった。
シュアラは、横顔を盗み見た。
リュシアの瞳には、憎しみはなかった。
感謝と、恐怖と、誇りと、諦めと——それらすべてが均されたあとの、奇妙な静けさだけがあった。
「だから、沈める順番くらいちゃんと守らないと」
彼女は、空に向かって片手を伸ばした。
指先の向こうで、カモメがくるりと輪を描く。
その手が、わずかに震えている。
「約束を破ったら、次に沈むの、わたしですし」
風が、その言葉をさらっていった。
だが意味だけは、屋上の石に染み込むように、そこに残った。
その意味が、胸の奥に重く沈んでいく。
(沈む順番を決める側に立つことで、自分の番を遅らせる子)
シュアラは、手すりを握る指に力が入るのを自覚した。
(帝国が作った“成果”であり、一番深く歪められた犠牲者)
港の方から、子どもの声が聞こえた。
どこかの桟橋で、カモメを追いかけ回しているらしい。
その足元の波打ち際に、名も知らぬ誰かの「沈む順番」が重なって見えた。
「……鳥はいいですよね」
リュシアがぽつりと言った。
「沈む順番を考えなくていいし。上から見てても、誰から落ちるかなんて、あんまり気にしてなさそうで」
「翼があって、風を掴めるからでしょうか」
「かもしれませんね。わたしは、風を掴むより、落ちる高さを計算する方が得意ですけど」
冗談めかした言葉の裏側に、ひやりとしたものがあった。
その冷たさが、声の端に滲んでいる。
その冷たさが、声の端に滲んでいる。
ふと、屋上の端から見下ろすと、役場の中庭が小さく見えた。
そこを、白い影が横切っていく。
白い儀礼ドレス。
首元の金具。
刻印の入った腕。
リリーシアが、護衛に付き添われながら歩いていた。
中庭を行く役場の職員たちが、ちらりと彼女を見やり、小声で何事か囁き合う。
「……十年前と、同じ顔だな」
そんな断片が、風に乗って屋上まで届いた。
リュシアも、その姿に気づいたらしい。
一瞬だけ視線がそちらへ向かい——すぐに港へ戻る。
その動きが、やけに速かった。
そのわずかな揺れを、シュアラは見逃さなかった。
(紙の上で死んだ女が、二人)
その二人が、今、同じ屋上に立っている。
自分もまた、帝国の戸籍では「死亡処理済み」だ。
リリーシアは、「人間」としての欄を消され、「兵器」として別の帳簿に書き直された。
どちらも、帳簿の都合で殺され、別の形で使われている。
「書記官殿は」
リュシアが、不意にこちらを向いた。
「自分の名前が、もう一度帳簿に“生きている”って書かれる未来、考えたことあります?」
シュアラは、返事を失った。
胸の内側で、薄い封筒の手触りがよみがえる。
父が用意した、自分用の「死亡証明」。
それを握りしめてここまで来たからこそ、帝都の目をすり抜け、ヴァルムとマリーハイツを結ぶ線を引けた。
その封筒を破り捨てることは、帝国に「生きている」証を差し出すことと同義だ。
(帳簿に戻れば、捕まるかもしれない)
(戻らなければ、守れないものがある)
沈黙の間を、風が通り抜ける。
その沈黙が、やけに長く感じられた。
リュシアは、しばらく待ってから、少しだけ笑った。
「今は、“死んだまま”だから好きに帳簿を書き換えられてますけど」
「好きに、というほど自由ではありません」
「それでも、わたしよりはずっと自由ですよ」
リュシアは、胸に手を当てた。
その手が、わずかに震えている。
「わたしの名前は、とっくに帝都の帳簿の真ん中に書かれています。消すことも、欄外に移すこともできない位置に」
「……零札の名簿からは、もう消えたのですね」
「はい。“零札からの大出世”ですから」
自嘲の色は、微かだが確かにあった。
「だから、明日も数字で勝たないといけません」
リュシアの声が、少し低くなる。
「帝都案と、書記官殿の案。どっちが“得”か、“安全”か。港の人たちは、きれいな方の数字を選びます」
「きれいな数字が、きれいな現実を保証するとは限りませんが」
「でも、“そう書いてある紙”は、いつだって強いですよ」
リュシアは、胸壁から身を離した。
「わたし、そういう紙の上で生きてきたので」
その言葉の後、一瞬だけ間が空いた。
屋上の扉の方から、誰かが呼ぶ声がした。
休憩がそろそろ終わるのだろう。
「行きましょうか、書記官殿」
リュシアがそう言ったとき、シュアラはようやく、さっきの問いに答える言葉を見つけた。
「……帳簿に“生きている”と書かれる覚悟が、今のわたしにあるかどうかは」
風を吸い込み、吐き出す。
「これから、数字が並んだ紙の上を見てから考えることにします」
リュシアは、少しだけ目を丸くし、それから満足げにうなずいた。
「いいですね。それ、わたし好みの先延ばし方です」
二人は、屋上をあとにした。
扉が閉まる直前、港の方で、カモメの群れが一斉に飛び立つのが見えた。
白い鳥たちは、沈む順番など知らない顔で、空に細い輪を描いていた。
だが、役場二階の会議室の机には——
これから、その誰かを「沈んでよい」と並べるための紙束が、きれいに揃えられて待っている。
その欄外に、死人文官の名前を書き足す覚悟が、自分にあるのかどうか。
シュアラは、自分の胸の奥で、その問いだけを握りしめたまま、再び紙の匂いのする階へと降りていった。
マリーハイツ役場二階の会議室には、まだ紙とインクの匂いが濃く残っている。
机の上には、航路案を書き込んだ海図と、その横に並べられた名簿の束。
その一番下の行だけ、なぜかインクの黒が濃く見えた。
シュアラは、指先で紙の端をそっとそろえながら、喉の奥に残る苦味を飲み下した。
「想定損耗」「切り離し」「責任者」——そんな言葉が、午前中だけで何度も飛び交った。
扉の向こうで、海がかすかに鳴っている。
ここからは見えないが、港の風の匂いまで、紙に上書きされてしまったような気がした。
「——午前はここまでとしましょう。午後は、数字の整理からですな」
海務院の士官が、疲れを悟らせない声で区切りをつける。
椅子の脚が床を引く音が、一斉に鳴った。
町側の人間は、階下の控室へと流れていく。
午後の話し合いに備え、漁師たちや網元たちと顔を合わせる必要があるのだろう。
ヴァルム砦の面々は、出入口近くで固まり、短く言葉を交わしていた。
カイが組んだ腕をほどき、零札たちに何事か言い聞かせている。
フィンが、書類を抱えたまま大きく伸びをした。
帝都の士官たちは別室に移動し、条文の手直しをするらしい。
書記官が紙束を抱えて出ていく背中に、朱肉の赤が一瞬だけ見えた。
そんな人の流れを見送りながら、シュアラは椅子から立ち上がった。
「少し——風を浴びてきます」
自分でも、唐突な言葉だと思った。
だが、あの名簿の黒を見続けていると、胸の奥が固まりきってしまいそうだった。
カイが、すぐに顔を上げる。
「一人で行く気か」
「屋上からの眺めがいいと、昨日ここで聞いたので」
シュアラは、努めて軽い調子で言った。
でも、その声が、少しだけ震えているのに気づいた。
「港の風を吸っておかないと、数字の顔が揃わない気がしまして」
カイは不機嫌そうに眉をしかめた。
「だったらなおさら俺も——」
「団長は、ここで皆さんと午後の段取りを固めてください」
シュアラは静かに遮った。
「零札の方々とも、まだ話しておきたいことがあるでしょう?」
その言葉に、零札の男たちがちらりとカイを振り返る。
カイは舌打ちしそうになる口を、なんとか飲み込んだようだった。
「……屋上だな?」
「ええ。すぐ戻ります」
そう答えたところで、背後から白い影が動いた。
「よろしければ、ご一緒しても?」
リュシア・フォン・クラウゼが、紙束を小脇に抱えたまま立っていた。
いつもの制服のスカートに、厚底の靴。
子どもめいた背丈のまま、大人びた笑みを浮かべている。
「高いところから見る港、好きなんです。数字にしやすいので」
言葉の内容のわりに、声は柔らかかった。
でも、その柔らかさの下に、何かが引っかかっているような気がした。
カイが、険しい視線を向ける。
「おい、嬢ちゃん。死人——」
言いかけて、シュアラが先に口を開く。
「構いませんよ、少技士殿。ご一緒しましょう」
カイの方を振り向き、シュアラは短く付け足した。
「……ただし、念のため一つだけ」
彼女は近くのヴァルム兵に視線を送る。
「団長の部下に、少技士殿の武具の確認だけお願いできますか。形式として」
リュシアは、目を丸くしたあと、すぐに肩をすくめて両手を差し出した。
「どうぞ。わたし、刃物は数字の中にしか持ってませんから」
兵士が、袖口や腰回り、厚底の靴の中を手早く探る。
出てきたのは、小さな折り畳み式の計算盤と、尖ったペンと定規だけだった。
「危険物は、ペンくらいだな」
「ペンは危険ですよ。間違った契約書にも、正しい切り離し命令にも、同じようにインクを流せますから」
リュシアは冗談とも本気ともつかない声で言った。
その口元に、わずかな笑みが浮かんでいる。でも、目は笑っていない。
カイが、なおも渋い顔をする。
「本当に二人で行くつもりか」
シュアラは、少しだけ目を細めた。
(ここで彼女が、屋上でナイフを抜くような真似をするだろうか)
屋上は、人目がない分、証拠が残りやすい。
死人文官を落としたとなれば、マリーハイツとの交渉は一気に暗礁に乗り上げる。
海務院の顔にも傷がつく。帝都の上層や、ギルドや、もっと遠くの「盤面」を考える連中が、それを良しとするだろうか。
少なくとも——少技士一人の思いつきでできる手ではない。
(ここで手を出すには、リスクが高すぎる)
そう判断したうえで、シュアラはカイに向き直った。
「何かあれば、屋上からでも叫びます。その前に、数字を投げつけるつもりですが」
カイは、苦い息を吐いた。
「……叫ぶ声が聞こえねえ距離なら、屋上ごとぶち抜く」
「それは心強いですね」
シュアラは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
フィンが、半ば呆れ顔で肩をすくめる。
「隊長、ここで死人——シュアラを止めても、あの人、別の隙見つけて勝手に行きますよ」
「フィン」
「はいはい。分かってます。屋上への階段の前に一人、門番置いておきますよ。それでいいでしょう、書記官殿?」
こうして、屋上への道筋が、形式上も整えられた。
*
役場の階段をのぼる途中、石の壁が少しずつ狭くなる。
上階へ行くほど、外からの音は遠ざかるはずなのに——不思議と、港のざわめきははっきりと聞こえた。
リュシアが、軽い足取りで隣を歩く。
厚底の靴が、石段を小気味よく叩いた。
「書記官殿って、よく風を浴びに行く人ですか?」
「今日は、たまたまです」
「よかった。いつもそうなら、わたし、もっと早く誘いたかったので」
さらりと出てきた呼び方に、シュアラは小さく片眉を上げた。
その呼び方の軽さが、どこか引っかかる。
(砦の連中は、もっと縁起の悪いあだ名で呼びたがるのに)
彼女は、わざと本名もあだ名も避けている。
知っているのに口にしない人間の距離の取り方だ。
「……わたしのことを、どこまでご存じで?」
階段を折り返すところで、シュアラは何気ないふりをしてそう問うた。
「そうですね」
リュシアは一段上から振り返り、少し考えるふりをする。
その「考えるふり」が、やけに丁寧だった。
「帝都の帳簿に名前のない人、というところまでは。あとは、現地で見た分だけですよ」
「名前のない人」
「はい。本来なら、死亡処理の印が押されているはずの行に、うっすら跡だけ残っている人、というか」
その言葉の端に、小さな揺れがあった。
それは、帝都の上の方でしか見られない種類の帳簿だ。
(……やっぱり、帝都の“奥”に触れている)
シュアラは、胸の奥で小さく舌打ちしたくなった。
だが、表の顔は崩さない。
「正式な肩書きでは『臨時書記官』としか書かれていませんけど」
「だからこそ、現場では皆さん、いろいろな呼び方を考えるんでしょうね」
リュシアは、階段を上りながら肩をすくめた。
「ヴァルム砦の人たちのセンス、嫌いじゃないですよ。少し不吉すぎますけど」
その言葉の後、一瞬だけ間が空いた。
(あのあだ名まで、耳に入っているわけだ)
シュアラは心の中で苦笑した。
だが、彼女は一度もその言葉を口にはしない。
(情報の源を、絶対に言わない。——誰かにそう躾けられた目だ)
その目が、今、自分を見ている。
階段をのぼりきると、重たい扉が一枚。
フィンが言っていた通り、ヴァルムの兵士が一人、扉の横に立っていた。
「中に他の人間はいません。鍵は開けておきます」
兵士は短く告げ、視線だけで「異常があればすぐ呼べ」と伝えてくる。
シュアラはうなずき、扉の取っ手に手をかけた。
ぎい、と金属の軋む音。
次の瞬間、光と風が、階段の陰から一気に流れ込んできた。
*
屋上は、思っていたより広かった。
低い胸壁がぐるりと巡らされ、その向こうに、丘陵の港町と海がひらけている。
空は淡い青。
冬の手前、冷たさと柔らかさが混じった風が頬を撫でていく。
港からは、帆とマストのきしむ音、かすかな魚の匂い。
カモメが輪を描きながら飛び、時折、白い腹を光にさらした。
「……本当に、いい眺めですね」
シュアラは、胸壁に近づきながら呟いた。
「港も船も、人も。ここから見ると、小さな駒みたいです」
「駒、という表現は、ちょっと好きです」
隣に立ったリュシアが、同じように身を乗り出した。
厚底の靴が、胸壁の影に半分隠れる。
「上から見ると、数字にしやすいでしょう?数えやすいし、距離も分かりやすい」
「数字にしやすい、ですか」
「はい。たとえば、あそこの桟橋の船。あれが沈んだら、何人分の荷と人が消えるか、とか」
リュシアは、港の一角を指さした。
漁船が三隻、横並びに停泊している場所だ。
「わたしたちはいつも、そういう見方をします。海図も、港も、人も。上から均して、数字にして——どこまで沈んでいいか決める」
その言葉の端に、小さな揺れがあった。
カモメの声が、ひときわ大きくかすれた。
(“どこまで沈んでいいか”を、最初から当たり前の前提にしている)
シュアラは、眉の奥に小さな痛みを覚えた。
(この前提の置き方……)
誰かが必ず沈む、と最初から決めている目。
それは、シュアラが幼いころから見てきた、零札上がりの官吏たちの目と同じだった。
「……その“わたしたち”は、どこでそう教わるんです?」
問いかけると、リュシアは少しだけ顎を動かした。
「帝都です。……もう少し狭く言うなら、孤児院ですね」
ほんのわずかな間を置いて、続ける。
その間が、やけに長く感じられた。
「帝都零札孤児院、第七計算棟。わたしの育ちの家です」
やはり——と、喉の奥で言葉が折れた。
その折れ方が、やけに痛かった。
シュアラは一瞬、別の光景を思い出していた。
父の執務室の隅で、山積みの書類に飽きて、窓から見える中庭を眺めていた幼い自分。
そこを通る、妙に姿勢の良い若い官吏たち。
財務長官だった父が、何度か言ったのだ。
「零札上がりは、数字を外したことがない。だからこそ、信用できる」と。
彼らは皆、同じ目をしていた。
感謝と恐怖と誇りが、きれいに均された目。
「結果を出せば沈まない」と信じる目。
(その目だ)
いま隣で海を見ている少女の瞳は、その目と同じ色をしていた。
リュシアは、胸壁にもたれかかるように片肘をついた。
風が、前髪の端を揺らす。
「頭数と、勘定と、損耗の計算をするところ、ですね」
「計算棟、ですか」
「はい。毎朝、名簿を読み上げる時間があるんです。縦にずらっと並んだ名前があって、一番下の行から順番に、奉仕隊の人が呼びに来る」
彼女の視線は、港ではなく、少し遠くの空へ向いていた。
かつての天井の高さを思い出しているようにも見える。
その目が、一瞬だけ焦点を失った。
「呼ばれた子の名前には、赤い線が引かれます。そこから先は——違う帳簿に移るので」
「違う、帳簿」
「はい。“奉仕隊”とか、“深海の方”とか」
リュシアは、何でもないことを話すように言った。
でも、その「何でもない」が、やけに重かった。
「わたしたちの名簿からは、きれいに消えるんです。行数が詰められて、また一番下が空く。そしたら、次の子の名前がそこに書かれる」
その言葉の端に、小さな揺れがあった。
カモメが一羽、屋上の上を横切っていく。
翼の端が風を裂く音が、かすかにした。
「……計算を外しただけで?」
口から滑り出たシュアラの言葉は、思った以上に弱かった。
リュシアは首を傾げた。
「“だけ”、ですかね。それとも“それ以上”ですかね」
少し考えるように目を細め、それから肩をすくめる。
「でも、そういう決まりでした。計算を外す回数が多い子から、順番に線を引かれる。そうすると、その上にいる子は安心できるでしょう?」
「安心……」
「自分の番が、少し遅くなるから」
リュシアの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
楽しそうではない。懐かしむようでもない。
ただ、その仕組みを「きれい」と評する人間の顔だった。
でも、その笑みの下に、何かが引っかかっている。
(帝都零札孤児院。——やっぱり)
シュアラは、胸の奥に生ぬるい違和感を覚えた。
父のもとで見た「零札出身の官吏」たちも、同じ理屈で笑っていた。
「失敗した分だけ誰かが沈む。だから失敗しないことが、何よりの忠誠だ」と。
彼らは皆、誰かの沈む音を聞きながら、自分の番を遅らせてきた人間だ。
(この子もそうだ。自分の番を遅らせるために、他人の順番を整えている)
最初から、「誰かは沈む」という前提で作られた行動原理。
その匂いを、シュアラはよく知っていた。
「最初は、怖かったですよ。名簿の紙をめくる音だけで、背中が冷たくなりました」
リュシアは、自分の腕を軽く抱いた。
その指先が、わずかに震えている。
「でも、だんだん慣れます。上の行の子が赤線を引かれるのを見て、『ああ、今日も自分じゃなかった』って、少しだけ熱くなる」
その「熱くなる」という言葉が、やけに冷たく聞こえた。
シュアラは、胸の奥がざわつくのを感じた。
怒りとも違う。哀れみとも違う。
その感情に名前をつける前に、リュシアが続けた。
「零札だったわたしを拾って、ここまで育ててくれたのは帝国ですから」
風が一瞬止まり、彼女の声だけがはっきりと聞こえる。
その声に、小さな揺れがあった。
「数字の間違いを直す方法も、名簿から上に上がる方法も、全部、帝国が教えてくれました。結果を出せば、線を引かれる番を、少しずつ遅らせられるって」
その言葉の端に、引っかかりがあった。
シュアラは、横顔を盗み見た。
リュシアの瞳には、憎しみはなかった。
感謝と、恐怖と、誇りと、諦めと——それらすべてが均されたあとの、奇妙な静けさだけがあった。
「だから、沈める順番くらいちゃんと守らないと」
彼女は、空に向かって片手を伸ばした。
指先の向こうで、カモメがくるりと輪を描く。
その手が、わずかに震えている。
「約束を破ったら、次に沈むの、わたしですし」
風が、その言葉をさらっていった。
だが意味だけは、屋上の石に染み込むように、そこに残った。
その意味が、胸の奥に重く沈んでいく。
(沈む順番を決める側に立つことで、自分の番を遅らせる子)
シュアラは、手すりを握る指に力が入るのを自覚した。
(帝国が作った“成果”であり、一番深く歪められた犠牲者)
港の方から、子どもの声が聞こえた。
どこかの桟橋で、カモメを追いかけ回しているらしい。
その足元の波打ち際に、名も知らぬ誰かの「沈む順番」が重なって見えた。
「……鳥はいいですよね」
リュシアがぽつりと言った。
「沈む順番を考えなくていいし。上から見てても、誰から落ちるかなんて、あんまり気にしてなさそうで」
「翼があって、風を掴めるからでしょうか」
「かもしれませんね。わたしは、風を掴むより、落ちる高さを計算する方が得意ですけど」
冗談めかした言葉の裏側に、ひやりとしたものがあった。
その冷たさが、声の端に滲んでいる。
その冷たさが、声の端に滲んでいる。
ふと、屋上の端から見下ろすと、役場の中庭が小さく見えた。
そこを、白い影が横切っていく。
白い儀礼ドレス。
首元の金具。
刻印の入った腕。
リリーシアが、護衛に付き添われながら歩いていた。
中庭を行く役場の職員たちが、ちらりと彼女を見やり、小声で何事か囁き合う。
「……十年前と、同じ顔だな」
そんな断片が、風に乗って屋上まで届いた。
リュシアも、その姿に気づいたらしい。
一瞬だけ視線がそちらへ向かい——すぐに港へ戻る。
その動きが、やけに速かった。
そのわずかな揺れを、シュアラは見逃さなかった。
(紙の上で死んだ女が、二人)
その二人が、今、同じ屋上に立っている。
自分もまた、帝国の戸籍では「死亡処理済み」だ。
リリーシアは、「人間」としての欄を消され、「兵器」として別の帳簿に書き直された。
どちらも、帳簿の都合で殺され、別の形で使われている。
「書記官殿は」
リュシアが、不意にこちらを向いた。
「自分の名前が、もう一度帳簿に“生きている”って書かれる未来、考えたことあります?」
シュアラは、返事を失った。
胸の内側で、薄い封筒の手触りがよみがえる。
父が用意した、自分用の「死亡証明」。
それを握りしめてここまで来たからこそ、帝都の目をすり抜け、ヴァルムとマリーハイツを結ぶ線を引けた。
その封筒を破り捨てることは、帝国に「生きている」証を差し出すことと同義だ。
(帳簿に戻れば、捕まるかもしれない)
(戻らなければ、守れないものがある)
沈黙の間を、風が通り抜ける。
その沈黙が、やけに長く感じられた。
リュシアは、しばらく待ってから、少しだけ笑った。
「今は、“死んだまま”だから好きに帳簿を書き換えられてますけど」
「好きに、というほど自由ではありません」
「それでも、わたしよりはずっと自由ですよ」
リュシアは、胸に手を当てた。
その手が、わずかに震えている。
「わたしの名前は、とっくに帝都の帳簿の真ん中に書かれています。消すことも、欄外に移すこともできない位置に」
「……零札の名簿からは、もう消えたのですね」
「はい。“零札からの大出世”ですから」
自嘲の色は、微かだが確かにあった。
「だから、明日も数字で勝たないといけません」
リュシアの声が、少し低くなる。
「帝都案と、書記官殿の案。どっちが“得”か、“安全”か。港の人たちは、きれいな方の数字を選びます」
「きれいな数字が、きれいな現実を保証するとは限りませんが」
「でも、“そう書いてある紙”は、いつだって強いですよ」
リュシアは、胸壁から身を離した。
「わたし、そういう紙の上で生きてきたので」
その言葉の後、一瞬だけ間が空いた。
屋上の扉の方から、誰かが呼ぶ声がした。
休憩がそろそろ終わるのだろう。
「行きましょうか、書記官殿」
リュシアがそう言ったとき、シュアラはようやく、さっきの問いに答える言葉を見つけた。
「……帳簿に“生きている”と書かれる覚悟が、今のわたしにあるかどうかは」
風を吸い込み、吐き出す。
「これから、数字が並んだ紙の上を見てから考えることにします」
リュシアは、少しだけ目を丸くし、それから満足げにうなずいた。
「いいですね。それ、わたし好みの先延ばし方です」
二人は、屋上をあとにした。
扉が閉まる直前、港の方で、カモメの群れが一斉に飛び立つのが見えた。
白い鳥たちは、沈む順番など知らない顔で、空に細い輪を描いていた。
だが、役場二階の会議室の机には——
これから、その誰かを「沈んでよい」と並べるための紙束が、きれいに揃えられて待っている。
その欄外に、死人文官の名前を書き足す覚悟が、自分にあるのかどうか。
シュアラは、自分の胸の奥で、その問いだけを握りしめたまま、再び紙の匂いのする階へと降りていった。
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