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第二章 マリーハイツ公約編
第四十四話 共同作戦
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海が吠えたのではない。海そのものが、質量となって襲いかかった。
港が床板一枚のように跳ね上がる。
カイを呑み込んだ波は、暴力的な壁となって桟橋を薙ぎ払った。木の弾ける音、鉄の歪む悲鳴、そして白い飛沫が、視界のすべてを白濁させる。
衝撃。
シュアラの身体は木の葉のように宙を舞い、次の瞬間、背中から板張りに叩き付けられた。
「か、っ……!」
肺の中の空気が、強制的に絞り出される。
声も出ない。喉の奥に、冷たい空白だけが張り付いた。
指先から、ぬるりとした感触が抜け落ちそうになった。
記録用紙だ。
だが、それはもう紙ではなかった。海水を吸ってふやけた繊維の塊。強く握れば握るほど、指の間から崩れ落ちていく。
(離したら、終わる)
反射的に指を食い込ませる。爪が紙を裂き、滲んだ黒いインクが指紋を汚した。必死に書き留めた損害額が、波に溶けて意味を失っていく。
周囲で悲鳴が爆発した。
「まだ来るぞ!」
「桟橋から降りろ! 陸へ走れ!」
怒号。泣き声。破壊音。
それらが混然一体となり、塩辛い痛みになって鼓膜を刺す。
シュアラは這うように上体を起こした。背骨が軋み、左肩が焼けつくように熱い。どこかが裂けたのだろう。だが、損傷を確認するコストすら惜しい。
視線を上げる。帝都船。
リリーシアが、まだ立っていた。
首の拘束具が脈打ち、青白い燐光が彼女の顔を下から照らし出している。あれは照明ではない。深海のリズムを地上へ汲み上げるポンプだ。
(……本人じゃない)
直感した瞬間、胃の底が冷えた。
背後の海が膨れ上がる。
壁だ。港湾施設ごとすべてを押し潰す、流体の質量兵器。さっきカイが斬った波とは桁が違う。あれが落ちれば、人も、建物も、帳簿の行すら残らない。
――その時だった。
波の壁が、不自然に静止した。
一拍だけ。まるで標的を見定めたかのように。
(躊躇……? 誰が)
思考より早く、桟橋が爆ぜた。
黒い触手が海面を割り、板をえぐり取る。弾丸と化した木片がシュアラの頭上を薙いだ。ふわり、と切れた髪のひと房が、視界の端を舞う。
(殺される)
心臓が早鐘を打ち、膝ががくがくする。
だが、恐怖よりも強く、文官としての強迫観念が足を動かした。
(今ここで私が死ねば、この紙束はただのゴミになる。父の願いも、“未計上損失”として処理される)
病床の父。「生きろ」という最期の命令。帳簿を武器にすると誓った日。
シュアラは紙束を胸に抱き込み、踵を返した。
逃げる。町へ。安全圏へ。
濡れた板が靴底を滑らせる。転びかけ、手をつき、それでも走る。止まれば、次は直撃だ。
そのとき――ノイズが混じった。
群衆の悲鳴とは違う、高い、幼い音。
シュアラの足が止まる。
逃げ惑う人波の裂け目。そこに、小さな影があった。
三、四歳だろうか。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、立ち尽くしている。
見覚えがあった。確か、町で遊んでいた子だ。
なんでこんなところに、親はどうしたのか。そんな問いを立てるひまはない。
大人は誰も見ない。自分の命という荷物だけで手一杯だからだ。
(私も、自分を優先すべきだ。この子にかまっている暇はない。私が死んだら、父との契りが意味をなさなくなる)
当然の帰結。死人文官としての冷徹な計算。私が死ねば、全てが無駄になる。感情で動くのは、最も愚かな投資だ。
足を動かせ。町へ。安全な場所へ。
脳はそう命令した。
なのに―――――
身体は――――――逆方向へ踏み出していた。
「走って!!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。子どもが濡れた瞳で見上げてくる。
「一緒に逃げるの! 早くっ!!」
シュアラはストレスで頭の止まってしまった子供を抱え上げる。
軽い。
あまりに軽い。
だが、その小さな身体から伝わる体温だけが、やけに熱かった。
必死に息を早くしながら、崩れていく街を駆けていく。
やがて、開けた路地に出た。
子どもを下ろし、膝に手をついて荒い息を吐く。
(なぜ、こんな“非合理”を)
港からは破壊音が続いている。触手が板を叩く音は、命が数字へと変わる音だ。
(私は、たった一人を優先した。全体を救うべき指揮官として、文官として、最低の判断だ。私は……なんて、弱いんだろう)
拳を握りしめる。爪が皮膚に食い込む。
だが――不思議と、後悔はなかった。
冷徹な計算式で埋め尽くされていた胸の内に、温かいものが一筋、流れ込んでいる。
(私は、まだ人間だった。作戦のためにだれかを犠牲にしたいって思える人じゃ……なかった)
損得より先に身体が動いた。その事実が、今は恐怖よりも勝っていた。
シュアラは子どもの目線に合わせてしゃがんだ。
「いい? ここから先は――お姉ちゃんじゃなくても、誰でもいい。大人を見つけて、一緒に逃げて」
「……おねえちゃん―――うん、わかった」
「……いい子ね」
子供の頭を軽くなでて、シュアラは微笑んだ。
「……それじゃあね。絶対に……守ってみせるから」
守れる根拠などない。死なない確証もない。
でも、それでも――自分にはそれが何よりもかけがえのないものだった。
濡れた紙束を胸に押し当て直し、彼女は路地を出た。
戦場へ戻るために。
誰かのミライを、自分の手で幸せへと変えてみせるために。
*
港は、音の地獄だった。
金属音、破砕音、波音。そして断末魔。
触手に薙ぎ払われた兵士が、ありえない角度で空を舞う。海面に叩きつけられる前に、その命は終わっているだろう。海水に血が混じり、淡く濁っていく。
(帝都の兵士損害は、計り知れない数になっている。このまま無策でいれば、被害はさらに加速する)
(これを変えるには……やはりあの子を、見つけるしかない)
シュアラは奥歯を噛みしめ、混乱の渦中を目だけで捜索する。
数秒後、彼女の視界が少女を捉える。少女だ。
「……っ、見つけた!」
触手ひしめく戦場を駆け、その細い肩を掴む。
「ねぇあなた! これを止める方法は!? 何か知ってるんでしょ!」
リュシアが顔を上げた。
目の下には濃い隈。青ざめた唇。怯えが顔中に張り付いている――それなのに、瞳の奥だけが酷く冷たく澱んでいた。
「………………なんであなたに、教える必要があるんですか」
シュアラの頭に血が上る。
「そんなこと言っている場合じゃないでしょ! 人がッ――――人が、死んでるのよ!?」
「……そんなの、普通ですよ。戦場ですから。誰か死ぬなんて、指揮官なら当然の光景じゃないですか」
リュシアは淡々と、まるで機械の仕様書を読み上げるように言った。
「末端の人間は補充がききます。そんな人間の命を代えてまで、他国に情報漏洩をする方が、明らかに罪が重い」
シュアラの背筋が鳥肌立つ。
(この子は、本気だ。本気で――命を消耗品としか見ていない…………)
周りを見る。空気が変わるのを、シュアラは感じ取った。
けれど、幼いリュシアは気が付かない。
「……マリーハイツの化け物は、殺しに飽きたら沈みます。ただの災害ですよ? そんなの、適当に殺させて飽きるのを待てばいいじゃないですか」
「それに奴は、伝承によれば元々この海域で暴れていた異形ですから」
「海を荒らしていった後は、以前のように時々零札の漁師でも襲うようになるだけです」
「……!! それって、今乗っ取られているあの子を――――」
「えぇ。見殺しにするだけですよ」
表情が変わらない。
抑揚のない声。それが逆に、痛々しいほどの異常性を際立たせる。
「元々、上からは使い潰していいって言われています」
「消耗品が使えなくなったら、また別の者から使えばいいだけですよ」
(……同じだ。帝都の貴族たちと同様に、人を道楽で使いつぶせる。……この子も――あちら側に立っている)
「……それくらい、文官のあなたなら分かるでしょう? 人命の上に立って、生かされてきた上級の方ならね」
その言葉に、シュアラは即答できなかった。自分も偶然、生まれが良かったから無事でいられただけで。
いつ、道を間違えてしまえば、彼女のようになる可能性があったかもしれないと、否定はできないのだから。
しかし――それが、彼女を咎めないという理由にはならない。
「……じゃあ逆に聞くけれど」
シュアラはリュシアの目を射抜くように見つめた。
「あなたは、なぜ自分が安全圏にいられると思ってるの?」
「決まってるじゃないですか。帝都が、私の価値を認めているからです」
「その“価値”って……数字以外にないの?」
「…………そうですが。いったい、何が言いたいのですか?」
「―――――――――このままだと――あなたも含めて、全員死ぬ」
リュシアの眉がぴくりと動いた。
「はぁ? 何を根拠に」
「さっきの波が、一瞬止まったのを見た?」
シュアラは戦場を指さず、言葉だけで追い詰める。
「私を殺さなかった。迷子を抱えた私を、狙わなかった。……変だと思わない?」
リュシアの喉がごくりと動く。
「……だから何です」
「答えは一つ。あれは、“帝都”を標的にしている」
シュアラは畳み掛ける。
「あなたが死ねば、制御が完全に切れる。だから、あれは帝都側の人間だけを削りに来てる。正確に、執拗に」
リュシアの顔から、さっと血の気が引いた。
「……ちょっと待って。それはつまり――」
「ええ、この可能性を知れば。死にたくない兵士たちは、どうやって動くかしらね」
周囲で兵士たちが後ずさる気配がした。
一人、また一人。リュシアから距離を取る。理屈ではない、生存本能だ。「標的」のそばにいたくないのだ。
「待って、待ってください! 役目でしょ!! 私を守るのが、役目でしょ!!!!」
仮面が剥がれ、十三歳の少女の声が漏れる。
「まって、まってくださいよ! 皆さん!! 助けてくれれば、お金だって上げます! 名誉だって、上げますから!!」
その言葉を聞こうとも、周りの兵士たちはいうことを聞かない。ただ、その場を離れていく。
リュシアが泣きそうな青ざめた顔で手を伸ばす。
「まって……! 待ってよ!!」
虚空に手を伸ばす。誰もその手を握らない。
「わたし、努力してきたじゃん……! だれよりも……成果を出して、役に立って……っ!」
「だれよりも、だれよりもっ、零札にならないように頑張ってきたのに……!!」
「なんで、誰も助けてくれないの!? ねぇ、なんで!? なんでなんでなんでぇえっ!! うぁあああぁあぁああああっ!!!!」
悲鳴じみた絶叫が、波音に吸われていく。
世界は彼女に何も返さない。
世界は、彼女を見捨てていく。
生まれたくそみたいな環境であがこうとも、容赦なく。
人々は彼女をごみとして、切り捨てた。
正しく、孤立無援といえた。
それは―――――最初の自分と、同じだった。
(この子は、いつも“捨てられる側”だった。ただ、それを知らされていなかっただけだった)
シュアラは一歩、踏み出した。
(彼女は、帝都によって潰された被害者だ。例えどれだけ悪いことだったとしても……彼女はまだ、変われるはずだ)
そう思い、怯える肩に手を置く。
「――――――貴方は……私が助けます」
リュシアが顔を上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔は、さっきの迷子と同じだった。
「……貴方には、責任がある。とても、とっても大きな責任がある」
「その責任は、貴方が一生かかっても返せないかもしれない。けど、それでも、生きて、けじめを取らないといけない」
「勿論、生きて償うのは、辛い。……死ぬよりずっと。そう、死ぬより痛いと思う」
シュアラは、震える少女の手を強く握った。
「でも、それでも。部品じゃなく――人間として生きるなら」
「あなたは、まだ引き返せる。だから――私は、貴方を助けて見せる」
一瞬の静寂。
波と悲鳴の轟音の中に、二人だけの空白が生まれた。
その隙を、怪物は見逃さない。
海面が爆発し、巨大な触手が槍のように伸びた。先端が鋭く尖り、二人をまとめて串刺しにする軌道を描く。
それは、彼ら二人の命を散らす一撃になる―――――
はずだった。
「うぉらぁっ!!!!」
裂帛の気合いと共に、銀閃が走った。
迫りくる触手が、空中で両断される。断面から黒い体液がぶちまけられ、鉄錆と潮の臭いが鼻をついた。
そこに立っていたのは、海に消えたはずの男だった。
カイ。
ずぶ濡れの髪から海水を滴らせ、服は肌に張り付いている。だがその瞳だけが、不敵に燃えていた。
「団長……!?」
「根性で、這い上がってきた」
カイは剣を構え直す。ニッと笑ったその顔には疲労が濃いが、闘志は衰えていない。
「それより状況は!」
「最悪です」
シュアラは即座に思考を切り替える。
「でも、勝率はゼロじゃない。……彼女が、情報を吐きます」
「了解。二人が話し終わるまで、俺が時間を稼ぐ!」
「お願いします!」
カイが前へ出る。迫る触手を斬り、払い、受ける。銀色の剣閃が、港の時間を物理的に繋ぎ止める。
シュアラはリュシアの肩を揺さぶった。
「止め方を! あれを無力化する手順は!」
リュシアが袖で乱暴に涙を拭う。目は赤い。だが、その瞳に技師としての理知が戻る。
「……魔力供給を断つ必要があります。ですが海上では、海水から無尽蔵に吸い上げられる。停止する可能性は……ほぼゼロです」
「なら、海上から地上へ誘き出せば?」
「……は?」
「海から引き剥がせば、勝率は上がる?」
リュシアは瞬きをした。計算。シミュレーション。
「……可能性はあるでしょう。でも、どうやって」
「簡単よ」
シュアラは戦場を見据えて言った。
「“私たち”が逃げるんじゃない。“標的”を動かすの」
リュシアが息を呑む。
「まさか……」
「そう、お察しの通り。零札を使わせてもらう」
「彼らはクラーケンからしたら殺す標的じゃない。だから彼らが避難誘導していたとしても、殺される可能性は低い」
「何より彼らは……自分たちの価値がないって、思っている。けれど、今回の作戦で自信をつけさせれば、きっと……自分は必要だって思えるようになるはずだから」
「……なるほど。そこまで、考えていたんですね。でも、どうやって兵士たちを狙わせないようにするんですか?」
「それは――私たちが囮になることで解決しましょう。可能な限り死傷者はゼロにしたいですし……何より、最強の人がいますから」
「オイオイ、俺がいないと成り立たない作戦すぎないか?」
「できないんですか?」
「んなわけないだろ」
「フフッ、そういうと思っていました」
シュアラとカイが子気味良いやり取りを交わす。
その姿を見ていた、リュシアは小さくつぶやいた。
「………………なるほど。どうりで、あの人の言うとおり―――」
「あのひと?」
「――いえ―――――こちらの話です」
シュアラの脳裏に疑問符がうかぶ中、リュシアが決意した顔で告げる。
「その作戦、飲みます。……損失を最小限に抑えるために。そして――自分の罪を、清算するために」
港の先で、カイの剣が一際強く輝いた。
絶望的な戦場に、反撃の狼煙が上がる。
帝都の技術と、砦の意地。ちぐはぐな共同戦線が、今ここで結ばれた。
港が床板一枚のように跳ね上がる。
カイを呑み込んだ波は、暴力的な壁となって桟橋を薙ぎ払った。木の弾ける音、鉄の歪む悲鳴、そして白い飛沫が、視界のすべてを白濁させる。
衝撃。
シュアラの身体は木の葉のように宙を舞い、次の瞬間、背中から板張りに叩き付けられた。
「か、っ……!」
肺の中の空気が、強制的に絞り出される。
声も出ない。喉の奥に、冷たい空白だけが張り付いた。
指先から、ぬるりとした感触が抜け落ちそうになった。
記録用紙だ。
だが、それはもう紙ではなかった。海水を吸ってふやけた繊維の塊。強く握れば握るほど、指の間から崩れ落ちていく。
(離したら、終わる)
反射的に指を食い込ませる。爪が紙を裂き、滲んだ黒いインクが指紋を汚した。必死に書き留めた損害額が、波に溶けて意味を失っていく。
周囲で悲鳴が爆発した。
「まだ来るぞ!」
「桟橋から降りろ! 陸へ走れ!」
怒号。泣き声。破壊音。
それらが混然一体となり、塩辛い痛みになって鼓膜を刺す。
シュアラは這うように上体を起こした。背骨が軋み、左肩が焼けつくように熱い。どこかが裂けたのだろう。だが、損傷を確認するコストすら惜しい。
視線を上げる。帝都船。
リリーシアが、まだ立っていた。
首の拘束具が脈打ち、青白い燐光が彼女の顔を下から照らし出している。あれは照明ではない。深海のリズムを地上へ汲み上げるポンプだ。
(……本人じゃない)
直感した瞬間、胃の底が冷えた。
背後の海が膨れ上がる。
壁だ。港湾施設ごとすべてを押し潰す、流体の質量兵器。さっきカイが斬った波とは桁が違う。あれが落ちれば、人も、建物も、帳簿の行すら残らない。
――その時だった。
波の壁が、不自然に静止した。
一拍だけ。まるで標的を見定めたかのように。
(躊躇……? 誰が)
思考より早く、桟橋が爆ぜた。
黒い触手が海面を割り、板をえぐり取る。弾丸と化した木片がシュアラの頭上を薙いだ。ふわり、と切れた髪のひと房が、視界の端を舞う。
(殺される)
心臓が早鐘を打ち、膝ががくがくする。
だが、恐怖よりも強く、文官としての強迫観念が足を動かした。
(今ここで私が死ねば、この紙束はただのゴミになる。父の願いも、“未計上損失”として処理される)
病床の父。「生きろ」という最期の命令。帳簿を武器にすると誓った日。
シュアラは紙束を胸に抱き込み、踵を返した。
逃げる。町へ。安全圏へ。
濡れた板が靴底を滑らせる。転びかけ、手をつき、それでも走る。止まれば、次は直撃だ。
そのとき――ノイズが混じった。
群衆の悲鳴とは違う、高い、幼い音。
シュアラの足が止まる。
逃げ惑う人波の裂け目。そこに、小さな影があった。
三、四歳だろうか。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、立ち尽くしている。
見覚えがあった。確か、町で遊んでいた子だ。
なんでこんなところに、親はどうしたのか。そんな問いを立てるひまはない。
大人は誰も見ない。自分の命という荷物だけで手一杯だからだ。
(私も、自分を優先すべきだ。この子にかまっている暇はない。私が死んだら、父との契りが意味をなさなくなる)
当然の帰結。死人文官としての冷徹な計算。私が死ねば、全てが無駄になる。感情で動くのは、最も愚かな投資だ。
足を動かせ。町へ。安全な場所へ。
脳はそう命令した。
なのに―――――
身体は――――――逆方向へ踏み出していた。
「走って!!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。子どもが濡れた瞳で見上げてくる。
「一緒に逃げるの! 早くっ!!」
シュアラはストレスで頭の止まってしまった子供を抱え上げる。
軽い。
あまりに軽い。
だが、その小さな身体から伝わる体温だけが、やけに熱かった。
必死に息を早くしながら、崩れていく街を駆けていく。
やがて、開けた路地に出た。
子どもを下ろし、膝に手をついて荒い息を吐く。
(なぜ、こんな“非合理”を)
港からは破壊音が続いている。触手が板を叩く音は、命が数字へと変わる音だ。
(私は、たった一人を優先した。全体を救うべき指揮官として、文官として、最低の判断だ。私は……なんて、弱いんだろう)
拳を握りしめる。爪が皮膚に食い込む。
だが――不思議と、後悔はなかった。
冷徹な計算式で埋め尽くされていた胸の内に、温かいものが一筋、流れ込んでいる。
(私は、まだ人間だった。作戦のためにだれかを犠牲にしたいって思える人じゃ……なかった)
損得より先に身体が動いた。その事実が、今は恐怖よりも勝っていた。
シュアラは子どもの目線に合わせてしゃがんだ。
「いい? ここから先は――お姉ちゃんじゃなくても、誰でもいい。大人を見つけて、一緒に逃げて」
「……おねえちゃん―――うん、わかった」
「……いい子ね」
子供の頭を軽くなでて、シュアラは微笑んだ。
「……それじゃあね。絶対に……守ってみせるから」
守れる根拠などない。死なない確証もない。
でも、それでも――自分にはそれが何よりもかけがえのないものだった。
濡れた紙束を胸に押し当て直し、彼女は路地を出た。
戦場へ戻るために。
誰かのミライを、自分の手で幸せへと変えてみせるために。
*
港は、音の地獄だった。
金属音、破砕音、波音。そして断末魔。
触手に薙ぎ払われた兵士が、ありえない角度で空を舞う。海面に叩きつけられる前に、その命は終わっているだろう。海水に血が混じり、淡く濁っていく。
(帝都の兵士損害は、計り知れない数になっている。このまま無策でいれば、被害はさらに加速する)
(これを変えるには……やはりあの子を、見つけるしかない)
シュアラは奥歯を噛みしめ、混乱の渦中を目だけで捜索する。
数秒後、彼女の視界が少女を捉える。少女だ。
「……っ、見つけた!」
触手ひしめく戦場を駆け、その細い肩を掴む。
「ねぇあなた! これを止める方法は!? 何か知ってるんでしょ!」
リュシアが顔を上げた。
目の下には濃い隈。青ざめた唇。怯えが顔中に張り付いている――それなのに、瞳の奥だけが酷く冷たく澱んでいた。
「………………なんであなたに、教える必要があるんですか」
シュアラの頭に血が上る。
「そんなこと言っている場合じゃないでしょ! 人がッ――――人が、死んでるのよ!?」
「……そんなの、普通ですよ。戦場ですから。誰か死ぬなんて、指揮官なら当然の光景じゃないですか」
リュシアは淡々と、まるで機械の仕様書を読み上げるように言った。
「末端の人間は補充がききます。そんな人間の命を代えてまで、他国に情報漏洩をする方が、明らかに罪が重い」
シュアラの背筋が鳥肌立つ。
(この子は、本気だ。本気で――命を消耗品としか見ていない…………)
周りを見る。空気が変わるのを、シュアラは感じ取った。
けれど、幼いリュシアは気が付かない。
「……マリーハイツの化け物は、殺しに飽きたら沈みます。ただの災害ですよ? そんなの、適当に殺させて飽きるのを待てばいいじゃないですか」
「それに奴は、伝承によれば元々この海域で暴れていた異形ですから」
「海を荒らしていった後は、以前のように時々零札の漁師でも襲うようになるだけです」
「……!! それって、今乗っ取られているあの子を――――」
「えぇ。見殺しにするだけですよ」
表情が変わらない。
抑揚のない声。それが逆に、痛々しいほどの異常性を際立たせる。
「元々、上からは使い潰していいって言われています」
「消耗品が使えなくなったら、また別の者から使えばいいだけですよ」
(……同じだ。帝都の貴族たちと同様に、人を道楽で使いつぶせる。……この子も――あちら側に立っている)
「……それくらい、文官のあなたなら分かるでしょう? 人命の上に立って、生かされてきた上級の方ならね」
その言葉に、シュアラは即答できなかった。自分も偶然、生まれが良かったから無事でいられただけで。
いつ、道を間違えてしまえば、彼女のようになる可能性があったかもしれないと、否定はできないのだから。
しかし――それが、彼女を咎めないという理由にはならない。
「……じゃあ逆に聞くけれど」
シュアラはリュシアの目を射抜くように見つめた。
「あなたは、なぜ自分が安全圏にいられると思ってるの?」
「決まってるじゃないですか。帝都が、私の価値を認めているからです」
「その“価値”って……数字以外にないの?」
「…………そうですが。いったい、何が言いたいのですか?」
「―――――――――このままだと――あなたも含めて、全員死ぬ」
リュシアの眉がぴくりと動いた。
「はぁ? 何を根拠に」
「さっきの波が、一瞬止まったのを見た?」
シュアラは戦場を指さず、言葉だけで追い詰める。
「私を殺さなかった。迷子を抱えた私を、狙わなかった。……変だと思わない?」
リュシアの喉がごくりと動く。
「……だから何です」
「答えは一つ。あれは、“帝都”を標的にしている」
シュアラは畳み掛ける。
「あなたが死ねば、制御が完全に切れる。だから、あれは帝都側の人間だけを削りに来てる。正確に、執拗に」
リュシアの顔から、さっと血の気が引いた。
「……ちょっと待って。それはつまり――」
「ええ、この可能性を知れば。死にたくない兵士たちは、どうやって動くかしらね」
周囲で兵士たちが後ずさる気配がした。
一人、また一人。リュシアから距離を取る。理屈ではない、生存本能だ。「標的」のそばにいたくないのだ。
「待って、待ってください! 役目でしょ!! 私を守るのが、役目でしょ!!!!」
仮面が剥がれ、十三歳の少女の声が漏れる。
「まって、まってくださいよ! 皆さん!! 助けてくれれば、お金だって上げます! 名誉だって、上げますから!!」
その言葉を聞こうとも、周りの兵士たちはいうことを聞かない。ただ、その場を離れていく。
リュシアが泣きそうな青ざめた顔で手を伸ばす。
「まって……! 待ってよ!!」
虚空に手を伸ばす。誰もその手を握らない。
「わたし、努力してきたじゃん……! だれよりも……成果を出して、役に立って……っ!」
「だれよりも、だれよりもっ、零札にならないように頑張ってきたのに……!!」
「なんで、誰も助けてくれないの!? ねぇ、なんで!? なんでなんでなんでぇえっ!! うぁあああぁあぁああああっ!!!!」
悲鳴じみた絶叫が、波音に吸われていく。
世界は彼女に何も返さない。
世界は、彼女を見捨てていく。
生まれたくそみたいな環境であがこうとも、容赦なく。
人々は彼女をごみとして、切り捨てた。
正しく、孤立無援といえた。
それは―――――最初の自分と、同じだった。
(この子は、いつも“捨てられる側”だった。ただ、それを知らされていなかっただけだった)
シュアラは一歩、踏み出した。
(彼女は、帝都によって潰された被害者だ。例えどれだけ悪いことだったとしても……彼女はまだ、変われるはずだ)
そう思い、怯える肩に手を置く。
「――――――貴方は……私が助けます」
リュシアが顔を上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔は、さっきの迷子と同じだった。
「……貴方には、責任がある。とても、とっても大きな責任がある」
「その責任は、貴方が一生かかっても返せないかもしれない。けど、それでも、生きて、けじめを取らないといけない」
「勿論、生きて償うのは、辛い。……死ぬよりずっと。そう、死ぬより痛いと思う」
シュアラは、震える少女の手を強く握った。
「でも、それでも。部品じゃなく――人間として生きるなら」
「あなたは、まだ引き返せる。だから――私は、貴方を助けて見せる」
一瞬の静寂。
波と悲鳴の轟音の中に、二人だけの空白が生まれた。
その隙を、怪物は見逃さない。
海面が爆発し、巨大な触手が槍のように伸びた。先端が鋭く尖り、二人をまとめて串刺しにする軌道を描く。
それは、彼ら二人の命を散らす一撃になる―――――
はずだった。
「うぉらぁっ!!!!」
裂帛の気合いと共に、銀閃が走った。
迫りくる触手が、空中で両断される。断面から黒い体液がぶちまけられ、鉄錆と潮の臭いが鼻をついた。
そこに立っていたのは、海に消えたはずの男だった。
カイ。
ずぶ濡れの髪から海水を滴らせ、服は肌に張り付いている。だがその瞳だけが、不敵に燃えていた。
「団長……!?」
「根性で、這い上がってきた」
カイは剣を構え直す。ニッと笑ったその顔には疲労が濃いが、闘志は衰えていない。
「それより状況は!」
「最悪です」
シュアラは即座に思考を切り替える。
「でも、勝率はゼロじゃない。……彼女が、情報を吐きます」
「了解。二人が話し終わるまで、俺が時間を稼ぐ!」
「お願いします!」
カイが前へ出る。迫る触手を斬り、払い、受ける。銀色の剣閃が、港の時間を物理的に繋ぎ止める。
シュアラはリュシアの肩を揺さぶった。
「止め方を! あれを無力化する手順は!」
リュシアが袖で乱暴に涙を拭う。目は赤い。だが、その瞳に技師としての理知が戻る。
「……魔力供給を断つ必要があります。ですが海上では、海水から無尽蔵に吸い上げられる。停止する可能性は……ほぼゼロです」
「なら、海上から地上へ誘き出せば?」
「……は?」
「海から引き剥がせば、勝率は上がる?」
リュシアは瞬きをした。計算。シミュレーション。
「……可能性はあるでしょう。でも、どうやって」
「簡単よ」
シュアラは戦場を見据えて言った。
「“私たち”が逃げるんじゃない。“標的”を動かすの」
リュシアが息を呑む。
「まさか……」
「そう、お察しの通り。零札を使わせてもらう」
「彼らはクラーケンからしたら殺す標的じゃない。だから彼らが避難誘導していたとしても、殺される可能性は低い」
「何より彼らは……自分たちの価値がないって、思っている。けれど、今回の作戦で自信をつけさせれば、きっと……自分は必要だって思えるようになるはずだから」
「……なるほど。そこまで、考えていたんですね。でも、どうやって兵士たちを狙わせないようにするんですか?」
「それは――私たちが囮になることで解決しましょう。可能な限り死傷者はゼロにしたいですし……何より、最強の人がいますから」
「オイオイ、俺がいないと成り立たない作戦すぎないか?」
「できないんですか?」
「んなわけないだろ」
「フフッ、そういうと思っていました」
シュアラとカイが子気味良いやり取りを交わす。
その姿を見ていた、リュシアは小さくつぶやいた。
「………………なるほど。どうりで、あの人の言うとおり―――」
「あのひと?」
「――いえ―――――こちらの話です」
シュアラの脳裏に疑問符がうかぶ中、リュシアが決意した顔で告げる。
「その作戦、飲みます。……損失を最小限に抑えるために。そして――自分の罪を、清算するために」
港の先で、カイの剣が一際強く輝いた。
絶望的な戦場に、反撃の狼煙が上がる。
帝都の技術と、砦の意地。ちぐはぐな共同戦線が、今ここで結ばれた。
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