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2② イヴォンネ
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聞いたところによると、ボワロー子爵令嬢は、あまりにも貧乏で、自ら市井に働きに出ていたのだ。
どこかの家のメイドでもしているのかと思えば、まさかの貿易商で働いていた。そこでどんなことをしていたのかは知らないが、貴族の事業でもない、民間の商人の下で働いているなどと、子爵令嬢にあるまじき話だった。
社交界にはほとんど現れず、その仕事を行なっていたのだから、クリストフ王子の婚約者と連れてこられても、誰もが反対して当然だ。
現王の願いで、王子の相手は本人が決めるべきだとされていた。その誓約は覆されることはなく、王妃は苦渋の決断で、婚約者候補として子爵令嬢を受け入れた。本格的な教育をするにも、基礎ができていないのではと訝しんだのである。
子爵令嬢は、クリストフ王子の優しさに付け込んで、同情を得たのだろう。王子は哀れに思い、手を差し伸べたにすぎない。騙された王子が哀れだ。
結局、盗みを働き、あまつ、王妃に飛びかかったのである。王妃が彼女を呼んで問いただしていた時に、乱暴を働いたのだ。
イヴォンネはちょうど、王妃との約束があった。王宮に行けば、王妃が令嬢を注意しに行ったことを知り、子爵令嬢のいる宮に訪れれば、大声で叫ぶメイドたちが助けを求めてきた。途中クリストフ王子と会い、偶然にも騒ぎに駆けつける形になったのだ。
王子を騙したどころか、王妃に飛びかかるなど、本来ならば処刑されるべきだろう。
しかし、クリストフ王子が悲しむからと、盗みを働いた罰で、遠くの離宮に送られることになった。そこで教育をされるということだが、更生されるのか、甚だ疑問だ。王妃もあまり期待していないようだった。
だから、今度こそ、クリストフ王子の心に留めるよう、王妃は王子との会話の機会を設けてくれる。
元来、王族の結婚については、王が決めることだった。しかし、現王は王子の相手は本人が決めるべきだとしている。
そのため、イヴォンネは、クリストフ王子の心に留まらなければならない。
けれど、それが難しいのだと、イヴォンネは挫けそうになる。
「彼の方は、誰にでもお優しいもの」
なのに、子爵令嬢はその心を留めることに成功したのだ。同情心を煽ったのならば、そんなことは看過できない。
子爵令嬢のように、クリストフ王子の優しい心を、弄ぶような真似はしたくない。
もっと近くで、自身を見てもらい、心を得なければならなかった。
「お美しいわ。オーグレン伯爵令嬢よ」
「連日、いらっしゃっているわね。やはり、令嬢がクリストフ様のお相手なんでしょうね」
メイドたちの囁きを後ろにして、ゆっくりと廊下を歩く。
その声を無視していたが、後ろを歩いていた令嬢たちも同じように囁いた。
「皆が、イヴォンネ様がお相手だとわかっているんですわ」
「当然でしょう。あの子爵令嬢、王宮で盗みを犯したのですもの」
令嬢たちの囁きは大きくなる。この話は口にせずとも、今では皆が知っている話だ。囁いている令嬢はあの場にいたし、話を聞いている令嬢たちの中の数人も、あの場にいたのだから。
それでも話したいのだろう。皆がボワロー子爵令嬢に怒りを抱いているのだ。
クリストフ王子はあれから塞ぎ込んでいる。そのため、王妃はクリストフ王子の慰めになればと、お茶会を催していた。
イヴォンネの後ろにいるのは、婚約者候補とされている令嬢たちだ。ボワロー子爵令嬢を婚約者候補とした手前、現王に競う姿を見せるために選んだだけだと、王妃は言う。そうであろう、彼女たちは皆、イヴォンネを立てていた。自身が選ばれれば良いと考えている者も少なくないが、その姿勢はイヴォンネの前では出すことはない。
ボワロー子爵令嬢以外にクリストフ王子が選ぶ者は、イヴォンネとは限らないのだから、彼女たちが夢見るのは当然だった。
「子爵令嬢を離宮に連れて、教育を受けさせるなど、王妃様もお優しいですこと」
「本当に。修道院に更迭なら、わかりますけれど」
「父親の子爵は、婚約者候補として支給された金銭を、全て使ってしまったのでしょう? 貧乏だからと慈悲で与えてくださったものを」
「親子揃って、なんて人たちなのかしら」
「街でも囁かれているそうですわ。クリストフ様を騙したのですから、皆が噂していますわよ」
令嬢たちはどこで話を聞いたのか、街での噂も耳にしているようだ。
それを聞いているだけで、悔しさが込み上げてくる。クリストフ王子の悲しみを、誰もが知っているのだから。
それなのに、
「クリストフ様、なにか憂えごとでも?」
カップを前に、クリストフは他所を向いて、何度目かのため息をつく。イヴォンネの声に気付くと、すぐに姿勢を正した。
「いや、元気にしているかと」
誰と言われずともわかる。
「どうしてそのような心配を。クリストフ様を苦しめた方ではないですか。クリストフ様はお優しすぎますわ」
「僕が無理に城に連れてきてしまったのだから、当然だよ。街ではとても明るい女性だったんだ。城に連れてきて、少しずつ口数が少なくなっていってしまった」
「ですが、裏切ったのは彼女では?」
「そうだけれどね。でも、彼女が長く苦労していたことは、僕には想像もできないことなんだよ」
そう言って、再び考え事をしはじめたのか、どこを見るでもなく虚ろな表情になる。
貧乏子爵令嬢が街で働いていたからといって、王子がその人の苦労を全て汲み取る必要はない。それなのに、クリストフ王子は、あれだけの真似をした、ボワロー子爵令嬢の今までの苦労を嘆く。
未だクリストフ王子の心の中には、ボワロー子爵令嬢がいるのだ。
そして、こんなにも優しい人を苦しめている。
どうして、そんな女性を?
「許せないわ」
呟きに、クリストフ王子は何か言ったのかと首を傾げる。
「いえ、どうか元気を出してくださいませ」
「ありがとう」
クリストフ王子は遠慮げに、柔らかな微笑みを見せる。
この人の優しさを、簡単に裏切った女性が、心の底から憎かった。
どこかの家のメイドでもしているのかと思えば、まさかの貿易商で働いていた。そこでどんなことをしていたのかは知らないが、貴族の事業でもない、民間の商人の下で働いているなどと、子爵令嬢にあるまじき話だった。
社交界にはほとんど現れず、その仕事を行なっていたのだから、クリストフ王子の婚約者と連れてこられても、誰もが反対して当然だ。
現王の願いで、王子の相手は本人が決めるべきだとされていた。その誓約は覆されることはなく、王妃は苦渋の決断で、婚約者候補として子爵令嬢を受け入れた。本格的な教育をするにも、基礎ができていないのではと訝しんだのである。
子爵令嬢は、クリストフ王子の優しさに付け込んで、同情を得たのだろう。王子は哀れに思い、手を差し伸べたにすぎない。騙された王子が哀れだ。
結局、盗みを働き、あまつ、王妃に飛びかかったのである。王妃が彼女を呼んで問いただしていた時に、乱暴を働いたのだ。
イヴォンネはちょうど、王妃との約束があった。王宮に行けば、王妃が令嬢を注意しに行ったことを知り、子爵令嬢のいる宮に訪れれば、大声で叫ぶメイドたちが助けを求めてきた。途中クリストフ王子と会い、偶然にも騒ぎに駆けつける形になったのだ。
王子を騙したどころか、王妃に飛びかかるなど、本来ならば処刑されるべきだろう。
しかし、クリストフ王子が悲しむからと、盗みを働いた罰で、遠くの離宮に送られることになった。そこで教育をされるということだが、更生されるのか、甚だ疑問だ。王妃もあまり期待していないようだった。
だから、今度こそ、クリストフ王子の心に留めるよう、王妃は王子との会話の機会を設けてくれる。
元来、王族の結婚については、王が決めることだった。しかし、現王は王子の相手は本人が決めるべきだとしている。
そのため、イヴォンネは、クリストフ王子の心に留まらなければならない。
けれど、それが難しいのだと、イヴォンネは挫けそうになる。
「彼の方は、誰にでもお優しいもの」
なのに、子爵令嬢はその心を留めることに成功したのだ。同情心を煽ったのならば、そんなことは看過できない。
子爵令嬢のように、クリストフ王子の優しい心を、弄ぶような真似はしたくない。
もっと近くで、自身を見てもらい、心を得なければならなかった。
「お美しいわ。オーグレン伯爵令嬢よ」
「連日、いらっしゃっているわね。やはり、令嬢がクリストフ様のお相手なんでしょうね」
メイドたちの囁きを後ろにして、ゆっくりと廊下を歩く。
その声を無視していたが、後ろを歩いていた令嬢たちも同じように囁いた。
「皆が、イヴォンネ様がお相手だとわかっているんですわ」
「当然でしょう。あの子爵令嬢、王宮で盗みを犯したのですもの」
令嬢たちの囁きは大きくなる。この話は口にせずとも、今では皆が知っている話だ。囁いている令嬢はあの場にいたし、話を聞いている令嬢たちの中の数人も、あの場にいたのだから。
それでも話したいのだろう。皆がボワロー子爵令嬢に怒りを抱いているのだ。
クリストフ王子はあれから塞ぎ込んでいる。そのため、王妃はクリストフ王子の慰めになればと、お茶会を催していた。
イヴォンネの後ろにいるのは、婚約者候補とされている令嬢たちだ。ボワロー子爵令嬢を婚約者候補とした手前、現王に競う姿を見せるために選んだだけだと、王妃は言う。そうであろう、彼女たちは皆、イヴォンネを立てていた。自身が選ばれれば良いと考えている者も少なくないが、その姿勢はイヴォンネの前では出すことはない。
ボワロー子爵令嬢以外にクリストフ王子が選ぶ者は、イヴォンネとは限らないのだから、彼女たちが夢見るのは当然だった。
「子爵令嬢を離宮に連れて、教育を受けさせるなど、王妃様もお優しいですこと」
「本当に。修道院に更迭なら、わかりますけれど」
「父親の子爵は、婚約者候補として支給された金銭を、全て使ってしまったのでしょう? 貧乏だからと慈悲で与えてくださったものを」
「親子揃って、なんて人たちなのかしら」
「街でも囁かれているそうですわ。クリストフ様を騙したのですから、皆が噂していますわよ」
令嬢たちはどこで話を聞いたのか、街での噂も耳にしているようだ。
それを聞いているだけで、悔しさが込み上げてくる。クリストフ王子の悲しみを、誰もが知っているのだから。
それなのに、
「クリストフ様、なにか憂えごとでも?」
カップを前に、クリストフは他所を向いて、何度目かのため息をつく。イヴォンネの声に気付くと、すぐに姿勢を正した。
「いや、元気にしているかと」
誰と言われずともわかる。
「どうしてそのような心配を。クリストフ様を苦しめた方ではないですか。クリストフ様はお優しすぎますわ」
「僕が無理に城に連れてきてしまったのだから、当然だよ。街ではとても明るい女性だったんだ。城に連れてきて、少しずつ口数が少なくなっていってしまった」
「ですが、裏切ったのは彼女では?」
「そうだけれどね。でも、彼女が長く苦労していたことは、僕には想像もできないことなんだよ」
そう言って、再び考え事をしはじめたのか、どこを見るでもなく虚ろな表情になる。
貧乏子爵令嬢が街で働いていたからといって、王子がその人の苦労を全て汲み取る必要はない。それなのに、クリストフ王子は、あれだけの真似をした、ボワロー子爵令嬢の今までの苦労を嘆く。
未だクリストフ王子の心の中には、ボワロー子爵令嬢がいるのだ。
そして、こんなにも優しい人を苦しめている。
どうして、そんな女性を?
「許せないわ」
呟きに、クリストフ王子は何か言ったのかと首を傾げる。
「いえ、どうか元気を出してくださいませ」
「ありがとう」
クリストフ王子は遠慮げに、柔らかな微笑みを見せる。
この人の優しさを、簡単に裏切った女性が、心の底から憎かった。
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