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船に乗って

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 たい焼きだった。薄茶色の生地に、ついた微かな焦げ目。パンパンの腹には、いっぱいのあんこが詰まっているだろう。
 槙野がそれを手で掴んだ。そのまま、私に差し出す。彼女の手にはビタビタと跳ねているたい焼きが乗っていた。

「旅のお供に。食べて」

 さも当然のように食べろと促され、私は唾液を嚥下した。真顔の槙野を見て、手の上にあるたい焼きを見て、また槙野を見る。「お腹空いてないの?」と問われ、同時に私の腹が鳴った。
 私はぺこりと頭を下げてそれを受け取る。未だに動くたい焼きは、滑りはないものの本物の魚みたいに動いていた。けれど鼻腔を刺激するのは、芳醇な生地の匂いだ。
 ガブリとかぶりついた。魚はビクンと痙攣する。あんこと生地の甘みが口いっぱいに広がった。
 歯で噛みちぎり、咀嚼した。飲み込み、もう一度かぶりつく。魚はもう動かない。

「美味しい」
「よかったね」

 もう一匹、魚が真横を通過した。槙野がそれを素早く取り、自身の口に運ぶ。「これ、カスタードだ」といい、断面を見せた。「美味しそうですね」というと「食べる?」と言われた。私は身を近づける。彼女がかぶりついた部分を避け、生地へ歯をたてた。口内にあんことは違った甘みが広がり、頬が緩む。

「美味しい」
「美味しいね」

 槙野が表情筋を動かさずに頷く。やがて何かに気がついたのか、視線を私の後ろへ投げた。「どうかしたの?」という前にドドドと後ろから音が聞こえた。私は身を強張らせる。
 真横を大量のたい焼きが通過した。魚群という言葉がピッタリである。船を避け、通り過ぎていくそれを槙野と私は黙って眺めた。

「あ、進む」

 魚群の勢いで船が動いた。「このまま進めば、目的地に辿り着けるかも」と槙野が続ける。彼女のいう目的地とは何処なのだろうと、駆け抜けるたい焼きたちを横目に動きを早める船に揺られた。
 衝撃で、船がぐらりと傾いた。私は悲鳴をあげる。槙野は何も反応しなかった。
 通り過ぎていったたい焼きが、目の前で通せんぼをしている。槙野は眉毛を歪め、唇を曲げた。
 大きな束になったたい焼きは、人型の化け物へと進化した。一人では小さな魚でも、集まれば大きくなる。いつか読んだ絵本で見たことがあるなぁと思った。
 瞬間、人型の化け物が手を振り上げる。そのまま勢いよく水面へ叩きつけた。
 衝撃で船がひっくり返った。私はあっという間に真っ黒な海へ落ちた。もちろん、槙野も。
 目を開けると、暗い世界が広がっていた。息ができない。私は海水に落ちたまま、どんどん沈んでいく。人魚が剥がした鱗がキラキラと水面で光っている様が、揺らめいて見えた。
 ────私、泳げないんだ。
 そこでようやく、自分が泳げないことを思い出した。ぶくぶくと気泡が口から漏れ、消えていく。けれど、不思議と苦しくはなかった。何処か居心地がいい、それでいて安心するような感覚。
 ────このまま一番下まで落ちて、眠りたい。
 体の力が抜けていく。瞼が重くなってきた。もう何もかも、どうでも良くなる。

「まだ、あなたの旅は終わってない」

 何処かから声がした。私を鱗が包む。遠くからバシャバシャと槙野が水を掻き分け泳いでくる。私の手首をグッと掴み、水面へ引き上げようとした。

「寝ないで。いかないで。まだ、終わってないの。終われないの」

 水中なのに、槙野の声がはっきりと聞こえた。手首を掴む力が強まる。彼女からの体温がじわりと滲み、私を安心させた。
 ふと横を見ると、鱗たちも一緒に水面へ上がろうとしている。「まだダメ」「寝ないで」「起きて」「一緒に行こう」。鱗たちが声をかけてくる。
 そうだね。そうだ。まだ私は、眠っちゃいけない。
 自分に言い聞かせていると、水面へ到着した。「ぷは」と声を上げ、顔を出す。
 たい焼きの化け物がまだそこにはいた。「うわぁ」と情けない声をあげると、すでに船の上に戻った槙野が私を引きずり戻す。
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