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船に乗って
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◇
槙野の入院している部屋まで向かう。まだ足は覚束無く、よろけてしまう。廊下を歩み、目的の部屋へ辿り着いた。足を止め、深呼吸をする。取手に手をかけ、ドアを開けた。
中から風が舞い込む。揺れる白いカーテンが見えた。窓際には一人の女性がいる。椅子に座り、本へ視線を落としていた。
その姿は紛れもなく槙野だった。私は口の中に溜まっていた唾液を嚥下する。一歩を踏み出すけれど、槙野は顔をあげない。
彼女の近くへ向かう。槙野が使っているであろうベッドに本が無造作に置かれていた。王子と姫が仲睦まじく手を繋いでいる絵、人魚がこちらに微笑んでいる絵────どの本も、児童向けの絵本だ。
「あの」
私は声を漏らす。そこでようやく気がついたのか、槙野がパッと顔をあげた。目をまん丸とさせ、口をあんぐりと開けている。夢の中で見た時より、幾分か幼く見えた。
「あなた、まゆちゃん……」
「はい」
看護師から聞いたところによると、槙野は治らない病気で入院しているらしい。ずっとこの病院でお世話になっているそうだ。
そんな日々を送っていたところ、ニュースでも話題になっている事故の当事者が入院してきたと聞いて、居ても立ってもいられなくなって、絵本の読み聞かせを始めたようだ。
十歳には少し幼すぎるんじゃない? と他人に言われても、彼女は読み聞かせをやめなかった。
「槙野、さん」
私は声に出して名前を呼んでみる。なぜ私が彼女の名前を知ることができたのだろうと考えたけれど、きっと眠っている私の耳に無意識に流れ込んできたに違いない。それで潜在的に記憶に焼き付いたのだ。
槙野は私に名前を呼ばれ、組んでいた足を下ろし、本を閉じた。
「いつも、絵本、読んでくれて、ありがとう」
言葉は途切れながらもきちんと空気に乗った。槙野は静かに微笑み「どういたしまして」と頭を下げる。
「ちゃんと、耳に、届いてたよ」
そう言われて、槙野は恥ずかしそうにはにかんだ。
「君が、目覚めて良かったよ」
彼女の呟きと同時に、部屋のドアが開く。「しおり、買ってきたわよ」と穏やかな声が聞こえた。振り返ると槙野に似た女性がいた。手には紙袋がぶら下がっている。
「あら。彼女は、もしかしてまゆちゃん?」
彼女はどうやら母親らしい。紙袋が揺れるたびに、芳醇な匂いが鼻腔をくすぐる。腹がグゥと鳴った。
「まゆちゃん。たい焼き、好き?」
槙野にそう言われ頷く。「じゃあ、一緒に食べよう」。槙野が紙袋を受け取り、中からたい焼きを取り出した。あんこは生地越しにでもわかるほどパンパンに詰まっていた。
彼女はもう一つのたい焼きを取り出す。かぶりついた断面から察するに中身はカスタードだ。夢と同じだなぁと思いながら、たい焼きにかぶりつく。じわりと滲んだ甘みに口元が緩む。
「カスタードも美味しそう」
ボソリと呟いた私に、彼女が「一口どう?」と促した。槙野の手の中にあるたい焼きを頬張る。
「美味しい」
「美味しいでしょ」
夢より幾分か優しい声音で、槙野がそう言った。視線を交わし、笑い合う。
あとで、私が見た夢の話を彼女に語ろうと思った。へんちくりんな夢に槙野が登場して私を助けてくれたこと。話したら、彼女はどんな顔をするのだろうか。想像しながら、口の中にあるたい焼きを飲み込んだ。
槙野の入院している部屋まで向かう。まだ足は覚束無く、よろけてしまう。廊下を歩み、目的の部屋へ辿り着いた。足を止め、深呼吸をする。取手に手をかけ、ドアを開けた。
中から風が舞い込む。揺れる白いカーテンが見えた。窓際には一人の女性がいる。椅子に座り、本へ視線を落としていた。
その姿は紛れもなく槙野だった。私は口の中に溜まっていた唾液を嚥下する。一歩を踏み出すけれど、槙野は顔をあげない。
彼女の近くへ向かう。槙野が使っているであろうベッドに本が無造作に置かれていた。王子と姫が仲睦まじく手を繋いでいる絵、人魚がこちらに微笑んでいる絵────どの本も、児童向けの絵本だ。
「あの」
私は声を漏らす。そこでようやく気がついたのか、槙野がパッと顔をあげた。目をまん丸とさせ、口をあんぐりと開けている。夢の中で見た時より、幾分か幼く見えた。
「あなた、まゆちゃん……」
「はい」
看護師から聞いたところによると、槙野は治らない病気で入院しているらしい。ずっとこの病院でお世話になっているそうだ。
そんな日々を送っていたところ、ニュースでも話題になっている事故の当事者が入院してきたと聞いて、居ても立ってもいられなくなって、絵本の読み聞かせを始めたようだ。
十歳には少し幼すぎるんじゃない? と他人に言われても、彼女は読み聞かせをやめなかった。
「槙野、さん」
私は声に出して名前を呼んでみる。なぜ私が彼女の名前を知ることができたのだろうと考えたけれど、きっと眠っている私の耳に無意識に流れ込んできたに違いない。それで潜在的に記憶に焼き付いたのだ。
槙野は私に名前を呼ばれ、組んでいた足を下ろし、本を閉じた。
「いつも、絵本、読んでくれて、ありがとう」
言葉は途切れながらもきちんと空気に乗った。槙野は静かに微笑み「どういたしまして」と頭を下げる。
「ちゃんと、耳に、届いてたよ」
そう言われて、槙野は恥ずかしそうにはにかんだ。
「君が、目覚めて良かったよ」
彼女の呟きと同時に、部屋のドアが開く。「しおり、買ってきたわよ」と穏やかな声が聞こえた。振り返ると槙野に似た女性がいた。手には紙袋がぶら下がっている。
「あら。彼女は、もしかしてまゆちゃん?」
彼女はどうやら母親らしい。紙袋が揺れるたびに、芳醇な匂いが鼻腔をくすぐる。腹がグゥと鳴った。
「まゆちゃん。たい焼き、好き?」
槙野にそう言われ頷く。「じゃあ、一緒に食べよう」。槙野が紙袋を受け取り、中からたい焼きを取り出した。あんこは生地越しにでもわかるほどパンパンに詰まっていた。
彼女はもう一つのたい焼きを取り出す。かぶりついた断面から察するに中身はカスタードだ。夢と同じだなぁと思いながら、たい焼きにかぶりつく。じわりと滲んだ甘みに口元が緩む。
「カスタードも美味しそう」
ボソリと呟いた私に、彼女が「一口どう?」と促した。槙野の手の中にあるたい焼きを頬張る。
「美味しい」
「美味しいでしょ」
夢より幾分か優しい声音で、槙野がそう言った。視線を交わし、笑い合う。
あとで、私が見た夢の話を彼女に語ろうと思った。へんちくりんな夢に槙野が登場して私を助けてくれたこと。話したら、彼女はどんな顔をするのだろうか。想像しながら、口の中にあるたい焼きを飲み込んだ。
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