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ある婚約破棄の秘密 続・後編
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本格的な家出ではなかった。『ちょっと長い外出』のつもりだった。
ただ、あの家は成美と大貴と、二人の間に生まれた娘の美貴の、三人の思い出と気配が詰まった『三人のための場所』だ。
あそこでは翔のことをきちんと考えることができない。
あいまいなまま、いつの間にか流されるように今までと同じ日々を送ってしまうだろう。
それはとてつもない罪悪に思えた。
成美は最寄駅から適当に電車に乗り、じっと座ったまま、つらつら考えつづける。
(専務は、私と大貴の結婚式の直後に、翔は亡くなったと言っていた…………じゃあ、あの頃には、おそらく…………)
大貴との新婚旅行や、新居への引っ越し。大貴に背を押されての転職活動や、二人で通った産婦人科。夫婦の様々な思い出が成美の脳裏によみがえる。
そのいずれの時も、翔はこの世にいなかったのだ。
「ああ」と成美は顔をおおう。
知ったところで、今さらどう償えばいいのか。
もはや翔は、謝罪も弁解も届かない距離まで去ってしまった。
彼がどこに眠っているのか。それすら成美は知らないというのに。
(幸せだと思っていた。あんな若くてきれいな人と結婚して、私を忘れて仲良く暮らしているんだと…………だから私も遠慮なく恨んで、大貴と幸せになって見かえしてやると思っていたのに…………)
そこで、はた、と思い至った。
(そういえば…………あの人…………たしか『ひいらぎ、もえか』?)
初めて出会った時、翔の隣に当たり前のように座っていた女を思い出す。
それから、とある寺で偶然、再会した二回目を。
(そうだ…………墓地で会った時、あの人はたしか『親戚の法事』って…………黒い着物…………喪服姿で………)
成美はスマホで『法事のマナー』を検索した。
(あの人に墓地で会ったのは、たしか美貴を出産する直前だったから、三年前。法事で親族が喪服を着用するのは、一般に三回忌まで。…………ひょっとして…………あの時、言っていた『親族』が翔のこと…………?)
閃くと、確認せずにはいられなくなった。
あの寺の場所はわかる。友人が郊外に開いたレストランのすぐ近所だ。
成美はスマホを操作してレストランへの行き方を検索し、電車を乗り換えた。
一時間少しかけて目的の駅にたどりつくとバスに乗り換え、目当ての寺に到着した。
しかし、ひいらぎもえかが立っていた墓の正確な位置までは覚えていない。
迷った末、成美は『辻本翔の墓参りに来た友人です』と名乗り、住職に訊ねてみた。
はたして。
翔はそこにいた。
『辻本家の墓』と刻まれた墓石の前まで案内され、成美は膝から力が抜けそうになった。
やはり翔はこの世にいなかったのだ。
成美に幸せを残し、自分は何一つ手に入れないまま、この世を去っていた。
成美は墓石を直視できず、逃げ出すように墓地を出た。
そのまま足の向くまま、道のつながるままに歩きつづける。
現実とは思えなかった。
翔が死んだことも、自分がこうして、彼の墓前から逃げ出したことも。
自分は今、悪い夢を見ていて、もう少ししたら隣に眠る夫が気づいて、起こしてくれるのではないか。
「あっ!」
ふらふらと歩きつづけた成美は突然、強い衝撃をうけて、アスファルトの道に倒れた。
「すみません! お怪我は!?」
若い男が慌ててしゃがみ込んでくる。
顔をあげると、人の少ない郊外の通りにはふつり合いなほど、凝ったデザインの小さな店がある。
男はその店の「店長です」と名乗り、「手当てをさせてください」と成美を店内に誘った。
「こちらにおかけください」
アンティークな飴色の腰掛に成美を座らせ、店の奥に引っ込む。
店内は別世界だった。毛足の長い深い緋色の絨毯が敷かれ、窓には金色のフリンジで縁どられた重そうなカーテンがかかっている。猫足のテーブルには白いレースのテーブルクロスがかっており、その上にずらりと金色の輝きが並んでいた。
昔の映画か、高級ホテルの一室でも見ている気分だ。
「お待たせしました」
店長は奥から救急箱を手に戻ってくると、遠慮する成美を「私の不注意ですから」と制して、またたく間に手当てを終えてしまった。
そして救急箱をしまいに引っ込んだかと思うと、今度は、銀の盆の上に陶器のティーセットを一式並べて戻ってくる。ポットの口からは、かすかに湯気がただよっていた。
「あいにくコーヒーは切らしておりまして。お口に合うといいのですが」
「そんな、お客でもないのに…………」
「怪我のお詫びです。よろしければ感想をお聞かせください」
店長は、これといった特徴のない顔に愛想のよい笑みを浮かべて、花が描かれたティーカップとソーサーを成美に差し出してきた。
断るのも気が引けて、成美はカップに口をつける。甘い香りが鼻先にただよった。
「おいしい…………」
普段、紅茶はあまり飲まない成美だが、この紅茶はおいしかった。
あれほど荒れ狂っていた心が、この紅茶の甘い香りを嗅いで、優しい味を口に含んだ途端、さざ波のように落ち着きをとり戻していく。
感想を述べる程度のゆとりも生まれた。
「すてきなお店ですね。お紅茶も内装も…………こちらは、アクセサリーのお店ですか?」
これだけの紅茶を出してきて、喫茶店でないというのも不思議だが、白いテーブルクロスの上に並ぶのは、すべて金細工のペンダントだ。
「砂時計を商っています。といっても、役目を終えればただのペンダントですので、アクセサリーの店というのも間違いではありません」
「砂時計、ですか?」
「はい。これだけを専門に扱っております」
店長は手近なテーブルから一つ、金色の鎖を手にとって見せた。
窓からさし込む陽光に小さな金色の砂時計が輝く。
可愛らしいペンダントだったが、これ一種類のみ、とすれば、ずいぶんマニアックな店だった。
「これは特別な砂時計でして。端的にいうと、時間を巻き戻す魔法の砂時計です」
「…………時間を巻き戻す…………?」
「はい」
店長は笑った。
「一つの砂時計につき、最大三回。一回につき、最長二年間、時間を巻き戻すことができます。三回巻き戻し終えたら、あとはただの砂時計ですので、ペンダントとしてお使いください」
突拍子もない話だった。つまりは、そういう『触れ込み』の品、というわけだろう。
内装といい、そういうロマンとか神秘的な雰囲気を売りにした店、というわけだ。
「つまり、おまじないとか、お守りのお店なんですね?」
「『魔法』です。といっても、扱っているのはこれ一種ですが」
語る店長の表情は、本当に事実を話しているようであり、ただ営業トークを面白おかしく話しているようにも見える。
「存外、多いんですよ。『あの頃に戻りたい』とおっしゃられる方は」
「あの頃に…………」
店長の言葉が成美の胸に沈んでいく。
数分後、成美はペンダントをにぎって店を出ていた。
手の中の砂時計を見つめながら、思う。
(もう一度…………あの頃に…………翔が生きていた頃に…………)
じわじわと想像が現実的な質感を帯びて、成美の内側を侵食していく。
(もし戻れたら…………翔の別れ話を断って…………いえ、それよりもっと前に戻って、翔の病気を早く見つけて…………)
早期発見が叶えば、翔は死なずに済むかもしれない。
成美も彼を見捨てて死なせた罪悪感から解放される。
翔は生き延び、そして成美は――――
「――――っ」
成美は雷に打たれたように立ち尽くした。
胸の内で、荒れ狂っていた感情が剥がれ落ちて、真実がむき出しになっていく。
柊萌香は、兄の翔が眠る寺に来ていた。
兄の生前の友人から突然の連絡をうけ、「もしかして」と半信半疑でやってきたのである。
予想は的中していた。
「皆川…………いえ、内村成美さん」
兄の墓前に一人の女性がいた。
砂利道に膝をつき、うなだれ、金色に輝くチェーンをにぎっている。
「見つかって良かった。内村さんから連絡をいただいたんです。『成美と連絡がとれない』って。とりあえず、場所を移動しませんか?」
萌香は兄の元婚約者をうながすが、成美は顔をあげようとしない。
「…………お話は内村さんから伺いました。高橋部長…………今は専務ですね、全部しゃべったそうですね。上司のくせして、人の死に際の約束をなんだと思っているんだか」
萌香は成美の知らない情報を述べていく。
「三島という受付嬢に、なにやら吹き込まれたそうですが。その方、高橋専務と不倫関係だそうですよ。専務とのピロートークから、六年前のことを聞いたそうです。で、専務の愛人のくせして、内村本部長の正妻の座を狙って日々アプローチしていたけれど、本部長がまったくその気にならないので、腹いせに本部長の奥さんに嫌がらせをしたんだろう、と内村さんの推測でした。本当に、いい歳した大人達が何をやっているんだか」
柊萌香は吐き捨てるような口ぶりで説明した。
「立ってください。移動しましょう。今、内村さんに連絡しますから…………」
萌香は成美の腕をつかんで立ちあがらせようとするが、成美は動かない。
「…………後悔ですか? したところで、どうしようもないですよ。兄は逝きました。もう何も変えようがないんです。私もあなたも、何も――――」
「違うの…………――――」
成美がかすれた声を出し、力なく首をふる。
「後悔、じゃない…………後悔のほうが、よほどマシだった…………」
「? どういう意味です?」
「これ…………」
成美は顔をあげた。頬が濡れ、瞼があかく腫れあがっている。
にぎっていた手を開いて、萌香に見せた。金色の小さな砂時計が輝いている。
「さっき、買ったの。時間を巻き戻す魔法の砂時計と言われて。これで、翔の生きていた頃まで時間を巻き戻せたら、と思ったの…………」
「はあ」
萌香の反応は薄かった。どうやら、この手の話は興味がないタイプらしい。
成美はかまわずつづける。
「考えたのよ…………翔が生きていたら…………時間を巻き戻して、翔と別れる前に戻って、翔に病気のことを教えれば、翔は死なずに済んだんじゃないか。翔は今も生きていたんじゃないか、って…………でも…………」
「でも?」
「…………できなかった…………その先は考えられなかった…………」
成美は己に刃を突き立てる思いで言葉をしぼり出した。
「はじめはいい方法だと思ったわ。時間を巻き戻して、翔を助けて、翔が死なずに済むようにする。…………でも、そのあとは? 翔の病気が治れば、翔は私との婚約を破棄なんてしないでしょう? 翔との婚約が白紙にならなければ…………その時、私はどう動けばいいの?」
成美は墓石を凝視する。
「翔の病気の件が解決したら…………私は、そのまま翔と結婚するの? 翔と結婚して…………大貴や美貴は、どうなるの?」
成美は愕然と手の中の砂時計を見つめていた。
「もし、時間を巻き戻して、翔を助けられたら…………私は翔と結婚して、大貴とは結婚しなくなってしまうかもしれない。美貴にも会えないかもしれない。巻き戻したら、きっと今とはまったく違う人生に変わっている。そう思ったら…………使えなかったの。巻き戻せなかったのよ、時間を…………」
このペンダントが本物か、ただのアクセサリーかは、どうでもいい。
ただ、このペンダントは隠れていた成美の本心を暴き出した。
「私、真実を知って、すごく後悔した。翔を、あれほど私を心配して、私のために悪役にまでなってくれた人を…………そこまで愛してくれた人を、私は見捨てた。なにも知らず、なんの手助けもせず、ただ一人で死なせてしまった、って…………謝っても謝りきれないほど、ひどいことをしたと思ったのよ。だから、もし本当に時間を巻き戻せるなら…………って思った。でも…………いざ、戻った時のことを考えたら…………」
透明な滴がしたたり落ちる。
「『できない』って思ったのよ…………! 時間を巻き戻すことはできない、過去を変えることはできない、私…………今の人生を失いたくないのよ!!」
見えない血を吐き出すかのような告白だった。
「私、今の人生を失いたくない! 変えたくないの!! このまま大貴や美貴と生きていきたいのよ!! たとえ、翔を助けられると言われても…………美貴や大貴との未来を失うなんて、できない!! 私、大貴を愛しているの!! 美貴が大切なのよ!!」
「皆川さん」
「愛していたのに!! あの頃たしかに、翔を愛していたのに!! 翔と生きていくんだって、この人が私の人生の伴侶だって、確信して…………だから結婚を決めたのに…………なのに今、翔を助けられると聞いても、その道を選べないの!! 助けに行けないのよ!! 今、愛しているのは、大事なのは、大貴と美貴なんだもの!!」
成美は顔をおおって、わっ、と怒涛のごとく泣き出した。
萌香が膝をついて成美の肩に手を置くが、成美の涙はとまらない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、翔…………!!」
成美はくりかえす。
「ひどい女だとわかってる…………自分でもひどいと思う…………でも、選べないの。大貴も美貴も捨てられないのよ! 今、愛しているのは、大貴と美貴なのよ!!」
「皆川さん」
「私、翔のこと、ひどい男だと思っていた。私と婚約していたくせに、若い女に心変わりしてあっさり捨てた、最低な人間だって。でも違った。翔は最後まで私のことを想ってくれていた。病気になっても、自分を犠牲にしてまで私の幸せを考えてくれていたのに…………私は、そこまで愛してくれた翔に、なにも返せない! 過去に戻って、あの人を助ける気持ちさえ抱けない! 本当にひどいのは翔じゃない、私のほうよ! 私こそ最低の人間だったのよ!!」
成美は墓前に額をつき、砂利道に突っ伏して泣き叫ぶ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、翔」
ひたすらくりかえす。
それは懺悔だった。
「本当に愛していたのに、どうして私は…………ごめんなさい、翔…………」
成美は泣きつづけた。
やがてその泣き声もかすれ、疲れがにじんでくる。
「そろそろ、気が済みました?」
淡々と柊萌香が声をかけてきた。
「気が済んだなら、移動しましょう。いくら墓地でも、長居しては寺の方に迷惑ですよ。まして大泣きされては。この辺りには気の利いたカフェなんてありませんけれど、二十分ほど歩けばレストランがあります」
成美は今はじめてその存在に気づいたかのように、柊萌香を見あげた。
「ひいらぎ、もえか、さん…………」
成美はさっき、彼女の口からさり気なく聞いた『兄』という単語を思い出す。
「あなた…………翔の妹?」
「ええ」
肯定した柊萌香は喪服ではなく、ロングスカートにブラウス、薄手のコートという普通の格好だったが、相変わらず美しい。女らしい艶に凛とした品が加わって、本当にこれが翔の血縁だろうか。
「…………妹がいるなんて、聞いたことなかった…………」
「子供の頃に両親が離婚して、別々に引きとられたんです。私は母に引きとられて『辻本萌香』から『柊萌香』に変わりました。兄とは定期的に会っていて…………結婚前に一度、婚約者を紹介したい、とも言われました。…………けっきょく、あんな形での出会いとなりましたが」
「そうね…………」
初めて萌香と出会った時。萌香は翔の『新しい若い恋人』として紹介されたのだ。
「すっかり、だまされたわ…………あなた達、あまり似ていないのね」
「よく言われました」
柊萌香は肩をすくめた。
「とりあえず、出ましょう。この辺りは今の時季でも、夕方になると一気に冷えますよ」
萌香にうながされたが、成美は立ちあがれない。力なくうなだれる。
「…………どうやって帰れというの?」
「運賃がないんですか?」
「…………そういう意味じゃないわ。…………そうじゃなくて…………どんな顔をして、あの家に帰ればいいの? 私は婚約までした男性を誤解して見捨てて、それを悔いていない女なのよ? そんな醜い自分勝手な人間が、どうして夫や娘の前に顔を出せるの?」
「普通に、いつもどおりに帰ればいいと思います。『ただいま』と言って」
「そんなこと」
「醜かろうが自分勝手だろうが、娘さんにとっては、母親はあなた一人だろうし、内村さんにとっても、あなたは唯一の妻でしょう。帰らないと心配するのでは?」
「それは…………」
たしかに、このまま成美が帰宅しなければ、大貴は大慌てで自分をさがしまわるだろう。
美貴だって、母親を求めて泣き出すに違いない。あの子はまだ三歳なのだ。
「でも…………」
「皆川さんは、内村さんと娘さんを愛しているのでしょう? 内村さんと娘さんも、あなたの帰りを待っている。なら、帰ればいい。簡単な話です」
「簡単じゃないわ! そんな単純な話じゃない! このまま、ここで私が帰ったら…………翔はどうなるの!? 翔だけが、一人ぼっちのまま…………!!」
「兄も、よく考えて覚悟を決めて選んだ道です。お気になさらず」
「気にするわよ! しないはず、ないでしょう!?」
「それでも気にしないでください。気にしてはならないんです。でないと、悪役を演じまでした兄の努力が水の泡になってしまう」
「…………っ」
柊萌香は、かつての婚約者の妹は言った。
「兄は一人になることを覚悟のうえで、あなたの手を放すことを決意したんです。悔しくても哀しくても苦しくても、あなたを内村さんに任せると。内村さんなら、自分以上にあなたを幸せにできる、と。もちろん、あなたが内村さんのプロポーズを受けるかは、賭けでした。でも兄はその賭けに挑み、そして勝った。あなたに真実を知られることなく、あなたを自分から解放して、新しい幸せにゆだねることができた。その結果に満足して逝ったんです。それを今さら『駄目でした』なんて言われたら、兄はどうすればいいんですか」
柊萌香が墓石を見つめる。成美も同じ石を見つめた。
この下に翔が眠っている。
「あなたは忘れていいんです。いえ、忘れなければならないんです。自分を醜い、と表現されましたが、醜かろうが汚かろうが、善人の仮面をかぶってでも、娘と夫のもとに戻ってください。兄は、それを望んでいたはずなんです。悪役になろうが泥をかぶろうが、良き母、良き妻を生き、幸せな人生を生きてください。でなければ、兄が報われない。命がけで重ねた努力すべてが無駄になってしまう。妹として、それだけは許せません」
翔の妹は断言した。
「兄に申し訳ないと思うなら、心から幸せになってください。それが兄の望みであり、もうこの世にはいない兄に対して、生きているあなたができるただ一つの償いであり、恩返しです」
成美を見おろしてきた萌香は美しかった。
艶っぽい美ではなく、哀しくとも前を見て進む者特有の清々しさだ。
成美は納得する。
たしかに顔立ちや雰囲気こそ似ていないが、この二人は兄妹だ。
萌香が口にした台詞はそのまま翔が口にしそうな台詞であり、萌香のまなざしはそのまま翔が心を決めた時の表情そのものだった。
いつだって翔は、自分を後回しにして相手の幸せを祈れる男性だった。
「でも…………」と成美は呟いた。萌香ではなく、翔に問う気持ちで。
「あんなに愛してくれた翔を、私は六年間で忘れてしまっていた…………心変わりしていたのよ。一度はたしかに愛した男性だったのに…………自分がこんなに浮気な女とは思わなかった。こんな軽い女が妻だなんて…………婚約者だったなんて…………大貴にも翔にも、合わせる顔がないわ」
「別に、問題はないと思いますが?」
柊萌香の返答はあっさりしていた。
「二人から同時にプロポーズされてふらふらしていたなら、ともかく。片方にはきっぱり別れを告げられたうえで、新しいプロポーズを受けたんです。どこに問題が? それとも、この世には『捨てられたあとも、変わらず相手を想いつづけなければならない』という決まりでもあるんですか? 私はそちらの生き方のほうが、よほど後ろ向きで不健全だと思いますけれど。 向こうから捨ててきたなら、遠慮なく、新しい人をさがせばいいと思います」
「それは…………」
「内村さんに捨てられていないのに、内村さん以外の男性と付き合っている、というなら問題ですけれど。どなたか心惹かれる方でも?」
「いないわよ!!」
「なら、問題ないと思いますが?」
「…………」
「家に帰ってください。今の家が嫌いなら話は別ですが、兄をふりかえれないほど大事なのでしょう? なら、すぐに帰ってください。兄もそれを望んでいます」
ともすれば冷たく聞こえてしまうほど、柊萌香の口調は淡々としていた。
成美も泣き喚いたことが子供っぽく思えてくる。
泣いても過去は変わらない。泥をかぶろうが、悪役になろうが、望んだ己と違う現実を突きつけられようが、自分には帰らなければならない場所、果たさなければならない役目が待っているのだ。
成美はもう一度、柊萌香を見あげた。
「翔は…………呆れているかしら? こんな私のこと…………私がこんな…………浮気な女だって…………忘れっぽい女だってこと、呆れて『冷たい女だ』って、あちらで軽蔑していないかしら――――?」
「その忘れっぽい部分もふくめて、愛していたのでは?」
即答だった。
「兄は忘れてほしかったんです。自分を忘れて、一日でも早く、新しい幸せへ進んでほしいと。だったら、あなたの忘れっぽさは、兄にとって安心材料だったはずです。あなたが忘れてくれたからこそ、兄は安心して逝けた。『一生、忘れない』なんて言われたほうが、兄は安心できなかったはずです。あなたが忘れっぽい浮気者というなら、その忘れっぽい部分に兄は救われたはずです。あなたの浮気者の部分を含めて、兄はあなたを愛していたんでしょう」
「――――っ!」
「もちろん、まだ存命の内村さん相手に忘れっぽいのは、論外ですが」
冗談か本気かわからない口ぶりで萌香は付け足す。
「翔…………っ」
成美はふたたび涙があふれる。
けれど今度は哀しみの涙ではない。
ぽろぽろと哀しみや苦しみが剥がれ落ちて、胸に風が吹き抜け、渦巻いていた後悔や自己嫌悪が押し流されて、優しい空気に入れ替えられる。
(翔、翔、翔)
翔の眠る墓の前で、一瞬、成美はたしかに自分を包む彼の腕を感じた。
(ああ、そうか)
成美は理解した。
(私は、今の私のままでいい――――)
浮気で軽率で忘れっぽくて、思い込みが激しくて単純で、それらを自覚しなかった愚か者で、それなのに恥ずかしげもなく夫や娘の前に戻ろうとしている――――卑怯で汚い自分のままでいいのだ。その自分のままで、家族の前に戻るしかないのだ。他に自分はいないのだから。
翔はこんな愚か者の自分を、それでも愛してくれていたのだ――――
成美はひとしきり、今度は静かに泣く。
やがて、すっかり痺れた足を叱咤しながら立ちあがって、萌香に礼を述べた。
「ありがとう、柊さん。あなたに会えなかったら私、きっと迷ったままだった」
萌香の口もとにも、ほころぶような笑みが浮かぶ。
「お礼を言われるほどのことではありません。私もあなたに落ち込まれたままでは、兄に顔向けできませんので。とはいえ…………」
萌香は釘を刺す。
「私は兄の妹ですが、兄自身ではありませんので。次にあなたが泣いていても、兄の代わりに慰めるような真似は一切しません。それは、あなたのご夫君にお願いしてください」
萌香は墓地の出口を示した。
ちょうど、夫の大貴がやって来るところだった。
「成美…………良かった。柊さんから連絡をもらって…………」
「大貴…………」
成美は足の痛みと痺れを忘れて、ふらつく足どりで夫へ駆け寄る。
「大貴…………大貴…………私、あなたを愛しているの。今、愛しているのは、あなたなのよ。…………我ながら、都合がいいと思う。でも…………それでも、あなたは私を愛してくれる? 私、家に、あなたと美貴のところに帰ってもいい?」
「当然だ」
大貴は断言した。
「僕も美貴も、成美の帰りを待っている。君が帰らないと言うなら、僕が引っぱって行く。僕も君を愛しているよ、成美。君と、君が産んだ美貴と、二人とも愛しているんだ。初めて出会った頃から、君を愛していた――――」
成美は夫の腕に包まれ、力いっぱい抱きしめられる。
成美もしっかりと抱き返した。
夫の体温の中で、成美は迷いが晴れて確固たる決意を露わにする。
(今の私の夫は、大貴一人。私はどんなに浮気でも卑怯でも、この人と美貴を守りながら幸せに生きていく――――)
夕方の風が二人を祝福するように、優しく吹いていく。
「帰ろう、成美。美貴が待っている。母に連絡して保育園に迎えに行ってもらったけれど、きっとママに会いたがっているはずだ」
「ええ。本当ね。娘を置いてきてしまうなんて…………母親失格だわ。――――もう二度と、置き去りなんてしない」
成美は大貴がさし出したハンカチで顔を拭き、乱れた髪を手でまとめて、夫に寄り添いながら萌香のほうを向く。
「連絡をありがとう、柊さん。助かりました」
「いいえ。偶然ですから」
大貴の礼に、柊萌香はなんてことないように応じる。
成美は最後に、なんとなく気にかかっていたことを訊ねてみた。
「柊さん…………初めて会った時と、ずいぶん印象が違うのね。私はてっきり…………」
「頭がお花畑の小娘と思っていました? だとすれば、成功ですね。婚約者のいる男性を寝取るなんて、まともな頭じゃできませんから。せいいっぱい、馬鹿な演技をしたんですよ」
そういって肩をすくめた彼女には、初めて見る茶目っ気があった。
「さて、帰りましょうか」
うながした萌香を、大貴が「ちょっと待ってくれ」と引き止め、墓前にしゃがむ。
そのまま手を合わせた夫の隣に膝をついて、成美も静かに手を合わせた。
心の中で翔に呼びかける。
(翔…………誤解していて、ごめんなさい。あなた一人に苦労を背負わせるような結果にしてしまって、ごめんなさい。きっと私がもう少し強ければ、あなたも真実を話してくれていたかもしれないのに…………。でも、どうかもう、私のことは心配しないで。私はちゃんと前へ進む。大貴と美貴と共に生きて行くと、心から決めたの。それがあなたへの最大の恩返しだと、あなたの気持ちに報いる道だと信じる。だから…………)
「行こうか」
大貴が決意を新たにした清々しい表情で立ちあがり、成美に手を差し出す。
成美もうなずいて、夫の差し出した手に自分の手を重ねた。
二人、並んで墓地を出ていく。
成美は一度だけ、一瞬だけ墓石をふりかえって、かすかにほほ笑んだ。
(だから、いつか私がこの世を離れて、あなたと再会した時。その時は『浮気な女だ』って叱ってね――――)
チリン、と店のドアが鳴り、数時間前に出ていったばかりの客が入店してくる。
客は買ったばかりの商品の返品を申し出てきた。
「なにか不備でもございましたか?」
「いいえ。でも、私には必要のない物とわかりましたから」
客はきっぱりと言いきる。
店長も「それでは」と、金色の小さな砂時計のペンダントを受けとった。
「またのお越しをお待ちしております」
店長の言葉に、成美も会釈を返して、店の外で待っていたタクシーに乗り込む。
だが心の中では、この先もあのペンダントを求めることはないだろう、と決めていた。
夫婦を乗せたタクシーが、最寄駅に向かって走り出す。
ただ、あの家は成美と大貴と、二人の間に生まれた娘の美貴の、三人の思い出と気配が詰まった『三人のための場所』だ。
あそこでは翔のことをきちんと考えることができない。
あいまいなまま、いつの間にか流されるように今までと同じ日々を送ってしまうだろう。
それはとてつもない罪悪に思えた。
成美は最寄駅から適当に電車に乗り、じっと座ったまま、つらつら考えつづける。
(専務は、私と大貴の結婚式の直後に、翔は亡くなったと言っていた…………じゃあ、あの頃には、おそらく…………)
大貴との新婚旅行や、新居への引っ越し。大貴に背を押されての転職活動や、二人で通った産婦人科。夫婦の様々な思い出が成美の脳裏によみがえる。
そのいずれの時も、翔はこの世にいなかったのだ。
「ああ」と成美は顔をおおう。
知ったところで、今さらどう償えばいいのか。
もはや翔は、謝罪も弁解も届かない距離まで去ってしまった。
彼がどこに眠っているのか。それすら成美は知らないというのに。
(幸せだと思っていた。あんな若くてきれいな人と結婚して、私を忘れて仲良く暮らしているんだと…………だから私も遠慮なく恨んで、大貴と幸せになって見かえしてやると思っていたのに…………)
そこで、はた、と思い至った。
(そういえば…………あの人…………たしか『ひいらぎ、もえか』?)
初めて出会った時、翔の隣に当たり前のように座っていた女を思い出す。
それから、とある寺で偶然、再会した二回目を。
(そうだ…………墓地で会った時、あの人はたしか『親戚の法事』って…………黒い着物…………喪服姿で………)
成美はスマホで『法事のマナー』を検索した。
(あの人に墓地で会ったのは、たしか美貴を出産する直前だったから、三年前。法事で親族が喪服を着用するのは、一般に三回忌まで。…………ひょっとして…………あの時、言っていた『親族』が翔のこと…………?)
閃くと、確認せずにはいられなくなった。
あの寺の場所はわかる。友人が郊外に開いたレストランのすぐ近所だ。
成美はスマホを操作してレストランへの行き方を検索し、電車を乗り換えた。
一時間少しかけて目的の駅にたどりつくとバスに乗り換え、目当ての寺に到着した。
しかし、ひいらぎもえかが立っていた墓の正確な位置までは覚えていない。
迷った末、成美は『辻本翔の墓参りに来た友人です』と名乗り、住職に訊ねてみた。
はたして。
翔はそこにいた。
『辻本家の墓』と刻まれた墓石の前まで案内され、成美は膝から力が抜けそうになった。
やはり翔はこの世にいなかったのだ。
成美に幸せを残し、自分は何一つ手に入れないまま、この世を去っていた。
成美は墓石を直視できず、逃げ出すように墓地を出た。
そのまま足の向くまま、道のつながるままに歩きつづける。
現実とは思えなかった。
翔が死んだことも、自分がこうして、彼の墓前から逃げ出したことも。
自分は今、悪い夢を見ていて、もう少ししたら隣に眠る夫が気づいて、起こしてくれるのではないか。
「あっ!」
ふらふらと歩きつづけた成美は突然、強い衝撃をうけて、アスファルトの道に倒れた。
「すみません! お怪我は!?」
若い男が慌ててしゃがみ込んでくる。
顔をあげると、人の少ない郊外の通りにはふつり合いなほど、凝ったデザインの小さな店がある。
男はその店の「店長です」と名乗り、「手当てをさせてください」と成美を店内に誘った。
「こちらにおかけください」
アンティークな飴色の腰掛に成美を座らせ、店の奥に引っ込む。
店内は別世界だった。毛足の長い深い緋色の絨毯が敷かれ、窓には金色のフリンジで縁どられた重そうなカーテンがかかっている。猫足のテーブルには白いレースのテーブルクロスがかっており、その上にずらりと金色の輝きが並んでいた。
昔の映画か、高級ホテルの一室でも見ている気分だ。
「お待たせしました」
店長は奥から救急箱を手に戻ってくると、遠慮する成美を「私の不注意ですから」と制して、またたく間に手当てを終えてしまった。
そして救急箱をしまいに引っ込んだかと思うと、今度は、銀の盆の上に陶器のティーセットを一式並べて戻ってくる。ポットの口からは、かすかに湯気がただよっていた。
「あいにくコーヒーは切らしておりまして。お口に合うといいのですが」
「そんな、お客でもないのに…………」
「怪我のお詫びです。よろしければ感想をお聞かせください」
店長は、これといった特徴のない顔に愛想のよい笑みを浮かべて、花が描かれたティーカップとソーサーを成美に差し出してきた。
断るのも気が引けて、成美はカップに口をつける。甘い香りが鼻先にただよった。
「おいしい…………」
普段、紅茶はあまり飲まない成美だが、この紅茶はおいしかった。
あれほど荒れ狂っていた心が、この紅茶の甘い香りを嗅いで、優しい味を口に含んだ途端、さざ波のように落ち着きをとり戻していく。
感想を述べる程度のゆとりも生まれた。
「すてきなお店ですね。お紅茶も内装も…………こちらは、アクセサリーのお店ですか?」
これだけの紅茶を出してきて、喫茶店でないというのも不思議だが、白いテーブルクロスの上に並ぶのは、すべて金細工のペンダントだ。
「砂時計を商っています。といっても、役目を終えればただのペンダントですので、アクセサリーの店というのも間違いではありません」
「砂時計、ですか?」
「はい。これだけを専門に扱っております」
店長は手近なテーブルから一つ、金色の鎖を手にとって見せた。
窓からさし込む陽光に小さな金色の砂時計が輝く。
可愛らしいペンダントだったが、これ一種類のみ、とすれば、ずいぶんマニアックな店だった。
「これは特別な砂時計でして。端的にいうと、時間を巻き戻す魔法の砂時計です」
「…………時間を巻き戻す…………?」
「はい」
店長は笑った。
「一つの砂時計につき、最大三回。一回につき、最長二年間、時間を巻き戻すことができます。三回巻き戻し終えたら、あとはただの砂時計ですので、ペンダントとしてお使いください」
突拍子もない話だった。つまりは、そういう『触れ込み』の品、というわけだろう。
内装といい、そういうロマンとか神秘的な雰囲気を売りにした店、というわけだ。
「つまり、おまじないとか、お守りのお店なんですね?」
「『魔法』です。といっても、扱っているのはこれ一種ですが」
語る店長の表情は、本当に事実を話しているようであり、ただ営業トークを面白おかしく話しているようにも見える。
「存外、多いんですよ。『あの頃に戻りたい』とおっしゃられる方は」
「あの頃に…………」
店長の言葉が成美の胸に沈んでいく。
数分後、成美はペンダントをにぎって店を出ていた。
手の中の砂時計を見つめながら、思う。
(もう一度…………あの頃に…………翔が生きていた頃に…………)
じわじわと想像が現実的な質感を帯びて、成美の内側を侵食していく。
(もし戻れたら…………翔の別れ話を断って…………いえ、それよりもっと前に戻って、翔の病気を早く見つけて…………)
早期発見が叶えば、翔は死なずに済むかもしれない。
成美も彼を見捨てて死なせた罪悪感から解放される。
翔は生き延び、そして成美は――――
「――――っ」
成美は雷に打たれたように立ち尽くした。
胸の内で、荒れ狂っていた感情が剥がれ落ちて、真実がむき出しになっていく。
柊萌香は、兄の翔が眠る寺に来ていた。
兄の生前の友人から突然の連絡をうけ、「もしかして」と半信半疑でやってきたのである。
予想は的中していた。
「皆川…………いえ、内村成美さん」
兄の墓前に一人の女性がいた。
砂利道に膝をつき、うなだれ、金色に輝くチェーンをにぎっている。
「見つかって良かった。内村さんから連絡をいただいたんです。『成美と連絡がとれない』って。とりあえず、場所を移動しませんか?」
萌香は兄の元婚約者をうながすが、成美は顔をあげようとしない。
「…………お話は内村さんから伺いました。高橋部長…………今は専務ですね、全部しゃべったそうですね。上司のくせして、人の死に際の約束をなんだと思っているんだか」
萌香は成美の知らない情報を述べていく。
「三島という受付嬢に、なにやら吹き込まれたそうですが。その方、高橋専務と不倫関係だそうですよ。専務とのピロートークから、六年前のことを聞いたそうです。で、専務の愛人のくせして、内村本部長の正妻の座を狙って日々アプローチしていたけれど、本部長がまったくその気にならないので、腹いせに本部長の奥さんに嫌がらせをしたんだろう、と内村さんの推測でした。本当に、いい歳した大人達が何をやっているんだか」
柊萌香は吐き捨てるような口ぶりで説明した。
「立ってください。移動しましょう。今、内村さんに連絡しますから…………」
萌香は成美の腕をつかんで立ちあがらせようとするが、成美は動かない。
「…………後悔ですか? したところで、どうしようもないですよ。兄は逝きました。もう何も変えようがないんです。私もあなたも、何も――――」
「違うの…………――――」
成美がかすれた声を出し、力なく首をふる。
「後悔、じゃない…………後悔のほうが、よほどマシだった…………」
「? どういう意味です?」
「これ…………」
成美は顔をあげた。頬が濡れ、瞼があかく腫れあがっている。
にぎっていた手を開いて、萌香に見せた。金色の小さな砂時計が輝いている。
「さっき、買ったの。時間を巻き戻す魔法の砂時計と言われて。これで、翔の生きていた頃まで時間を巻き戻せたら、と思ったの…………」
「はあ」
萌香の反応は薄かった。どうやら、この手の話は興味がないタイプらしい。
成美はかまわずつづける。
「考えたのよ…………翔が生きていたら…………時間を巻き戻して、翔と別れる前に戻って、翔に病気のことを教えれば、翔は死なずに済んだんじゃないか。翔は今も生きていたんじゃないか、って…………でも…………」
「でも?」
「…………できなかった…………その先は考えられなかった…………」
成美は己に刃を突き立てる思いで言葉をしぼり出した。
「はじめはいい方法だと思ったわ。時間を巻き戻して、翔を助けて、翔が死なずに済むようにする。…………でも、そのあとは? 翔の病気が治れば、翔は私との婚約を破棄なんてしないでしょう? 翔との婚約が白紙にならなければ…………その時、私はどう動けばいいの?」
成美は墓石を凝視する。
「翔の病気の件が解決したら…………私は、そのまま翔と結婚するの? 翔と結婚して…………大貴や美貴は、どうなるの?」
成美は愕然と手の中の砂時計を見つめていた。
「もし、時間を巻き戻して、翔を助けられたら…………私は翔と結婚して、大貴とは結婚しなくなってしまうかもしれない。美貴にも会えないかもしれない。巻き戻したら、きっと今とはまったく違う人生に変わっている。そう思ったら…………使えなかったの。巻き戻せなかったのよ、時間を…………」
このペンダントが本物か、ただのアクセサリーかは、どうでもいい。
ただ、このペンダントは隠れていた成美の本心を暴き出した。
「私、真実を知って、すごく後悔した。翔を、あれほど私を心配して、私のために悪役にまでなってくれた人を…………そこまで愛してくれた人を、私は見捨てた。なにも知らず、なんの手助けもせず、ただ一人で死なせてしまった、って…………謝っても謝りきれないほど、ひどいことをしたと思ったのよ。だから、もし本当に時間を巻き戻せるなら…………って思った。でも…………いざ、戻った時のことを考えたら…………」
透明な滴がしたたり落ちる。
「『できない』って思ったのよ…………! 時間を巻き戻すことはできない、過去を変えることはできない、私…………今の人生を失いたくないのよ!!」
見えない血を吐き出すかのような告白だった。
「私、今の人生を失いたくない! 変えたくないの!! このまま大貴や美貴と生きていきたいのよ!! たとえ、翔を助けられると言われても…………美貴や大貴との未来を失うなんて、できない!! 私、大貴を愛しているの!! 美貴が大切なのよ!!」
「皆川さん」
「愛していたのに!! あの頃たしかに、翔を愛していたのに!! 翔と生きていくんだって、この人が私の人生の伴侶だって、確信して…………だから結婚を決めたのに…………なのに今、翔を助けられると聞いても、その道を選べないの!! 助けに行けないのよ!! 今、愛しているのは、大事なのは、大貴と美貴なんだもの!!」
成美は顔をおおって、わっ、と怒涛のごとく泣き出した。
萌香が膝をついて成美の肩に手を置くが、成美の涙はとまらない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、翔…………!!」
成美はくりかえす。
「ひどい女だとわかってる…………自分でもひどいと思う…………でも、選べないの。大貴も美貴も捨てられないのよ! 今、愛しているのは、大貴と美貴なのよ!!」
「皆川さん」
「私、翔のこと、ひどい男だと思っていた。私と婚約していたくせに、若い女に心変わりしてあっさり捨てた、最低な人間だって。でも違った。翔は最後まで私のことを想ってくれていた。病気になっても、自分を犠牲にしてまで私の幸せを考えてくれていたのに…………私は、そこまで愛してくれた翔に、なにも返せない! 過去に戻って、あの人を助ける気持ちさえ抱けない! 本当にひどいのは翔じゃない、私のほうよ! 私こそ最低の人間だったのよ!!」
成美は墓前に額をつき、砂利道に突っ伏して泣き叫ぶ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、翔」
ひたすらくりかえす。
それは懺悔だった。
「本当に愛していたのに、どうして私は…………ごめんなさい、翔…………」
成美は泣きつづけた。
やがてその泣き声もかすれ、疲れがにじんでくる。
「そろそろ、気が済みました?」
淡々と柊萌香が声をかけてきた。
「気が済んだなら、移動しましょう。いくら墓地でも、長居しては寺の方に迷惑ですよ。まして大泣きされては。この辺りには気の利いたカフェなんてありませんけれど、二十分ほど歩けばレストランがあります」
成美は今はじめてその存在に気づいたかのように、柊萌香を見あげた。
「ひいらぎ、もえか、さん…………」
成美はさっき、彼女の口からさり気なく聞いた『兄』という単語を思い出す。
「あなた…………翔の妹?」
「ええ」
肯定した柊萌香は喪服ではなく、ロングスカートにブラウス、薄手のコートという普通の格好だったが、相変わらず美しい。女らしい艶に凛とした品が加わって、本当にこれが翔の血縁だろうか。
「…………妹がいるなんて、聞いたことなかった…………」
「子供の頃に両親が離婚して、別々に引きとられたんです。私は母に引きとられて『辻本萌香』から『柊萌香』に変わりました。兄とは定期的に会っていて…………結婚前に一度、婚約者を紹介したい、とも言われました。…………けっきょく、あんな形での出会いとなりましたが」
「そうね…………」
初めて萌香と出会った時。萌香は翔の『新しい若い恋人』として紹介されたのだ。
「すっかり、だまされたわ…………あなた達、あまり似ていないのね」
「よく言われました」
柊萌香は肩をすくめた。
「とりあえず、出ましょう。この辺りは今の時季でも、夕方になると一気に冷えますよ」
萌香にうながされたが、成美は立ちあがれない。力なくうなだれる。
「…………どうやって帰れというの?」
「運賃がないんですか?」
「…………そういう意味じゃないわ。…………そうじゃなくて…………どんな顔をして、あの家に帰ればいいの? 私は婚約までした男性を誤解して見捨てて、それを悔いていない女なのよ? そんな醜い自分勝手な人間が、どうして夫や娘の前に顔を出せるの?」
「普通に、いつもどおりに帰ればいいと思います。『ただいま』と言って」
「そんなこと」
「醜かろうが自分勝手だろうが、娘さんにとっては、母親はあなた一人だろうし、内村さんにとっても、あなたは唯一の妻でしょう。帰らないと心配するのでは?」
「それは…………」
たしかに、このまま成美が帰宅しなければ、大貴は大慌てで自分をさがしまわるだろう。
美貴だって、母親を求めて泣き出すに違いない。あの子はまだ三歳なのだ。
「でも…………」
「皆川さんは、内村さんと娘さんを愛しているのでしょう? 内村さんと娘さんも、あなたの帰りを待っている。なら、帰ればいい。簡単な話です」
「簡単じゃないわ! そんな単純な話じゃない! このまま、ここで私が帰ったら…………翔はどうなるの!? 翔だけが、一人ぼっちのまま…………!!」
「兄も、よく考えて覚悟を決めて選んだ道です。お気になさらず」
「気にするわよ! しないはず、ないでしょう!?」
「それでも気にしないでください。気にしてはならないんです。でないと、悪役を演じまでした兄の努力が水の泡になってしまう」
「…………っ」
柊萌香は、かつての婚約者の妹は言った。
「兄は一人になることを覚悟のうえで、あなたの手を放すことを決意したんです。悔しくても哀しくても苦しくても、あなたを内村さんに任せると。内村さんなら、自分以上にあなたを幸せにできる、と。もちろん、あなたが内村さんのプロポーズを受けるかは、賭けでした。でも兄はその賭けに挑み、そして勝った。あなたに真実を知られることなく、あなたを自分から解放して、新しい幸せにゆだねることができた。その結果に満足して逝ったんです。それを今さら『駄目でした』なんて言われたら、兄はどうすればいいんですか」
柊萌香が墓石を見つめる。成美も同じ石を見つめた。
この下に翔が眠っている。
「あなたは忘れていいんです。いえ、忘れなければならないんです。自分を醜い、と表現されましたが、醜かろうが汚かろうが、善人の仮面をかぶってでも、娘と夫のもとに戻ってください。兄は、それを望んでいたはずなんです。悪役になろうが泥をかぶろうが、良き母、良き妻を生き、幸せな人生を生きてください。でなければ、兄が報われない。命がけで重ねた努力すべてが無駄になってしまう。妹として、それだけは許せません」
翔の妹は断言した。
「兄に申し訳ないと思うなら、心から幸せになってください。それが兄の望みであり、もうこの世にはいない兄に対して、生きているあなたができるただ一つの償いであり、恩返しです」
成美を見おろしてきた萌香は美しかった。
艶っぽい美ではなく、哀しくとも前を見て進む者特有の清々しさだ。
成美は納得する。
たしかに顔立ちや雰囲気こそ似ていないが、この二人は兄妹だ。
萌香が口にした台詞はそのまま翔が口にしそうな台詞であり、萌香のまなざしはそのまま翔が心を決めた時の表情そのものだった。
いつだって翔は、自分を後回しにして相手の幸せを祈れる男性だった。
「でも…………」と成美は呟いた。萌香ではなく、翔に問う気持ちで。
「あんなに愛してくれた翔を、私は六年間で忘れてしまっていた…………心変わりしていたのよ。一度はたしかに愛した男性だったのに…………自分がこんなに浮気な女とは思わなかった。こんな軽い女が妻だなんて…………婚約者だったなんて…………大貴にも翔にも、合わせる顔がないわ」
「別に、問題はないと思いますが?」
柊萌香の返答はあっさりしていた。
「二人から同時にプロポーズされてふらふらしていたなら、ともかく。片方にはきっぱり別れを告げられたうえで、新しいプロポーズを受けたんです。どこに問題が? それとも、この世には『捨てられたあとも、変わらず相手を想いつづけなければならない』という決まりでもあるんですか? 私はそちらの生き方のほうが、よほど後ろ向きで不健全だと思いますけれど。 向こうから捨ててきたなら、遠慮なく、新しい人をさがせばいいと思います」
「それは…………」
「内村さんに捨てられていないのに、内村さん以外の男性と付き合っている、というなら問題ですけれど。どなたか心惹かれる方でも?」
「いないわよ!!」
「なら、問題ないと思いますが?」
「…………」
「家に帰ってください。今の家が嫌いなら話は別ですが、兄をふりかえれないほど大事なのでしょう? なら、すぐに帰ってください。兄もそれを望んでいます」
ともすれば冷たく聞こえてしまうほど、柊萌香の口調は淡々としていた。
成美も泣き喚いたことが子供っぽく思えてくる。
泣いても過去は変わらない。泥をかぶろうが、悪役になろうが、望んだ己と違う現実を突きつけられようが、自分には帰らなければならない場所、果たさなければならない役目が待っているのだ。
成美はもう一度、柊萌香を見あげた。
「翔は…………呆れているかしら? こんな私のこと…………私がこんな…………浮気な女だって…………忘れっぽい女だってこと、呆れて『冷たい女だ』って、あちらで軽蔑していないかしら――――?」
「その忘れっぽい部分もふくめて、愛していたのでは?」
即答だった。
「兄は忘れてほしかったんです。自分を忘れて、一日でも早く、新しい幸せへ進んでほしいと。だったら、あなたの忘れっぽさは、兄にとって安心材料だったはずです。あなたが忘れてくれたからこそ、兄は安心して逝けた。『一生、忘れない』なんて言われたほうが、兄は安心できなかったはずです。あなたが忘れっぽい浮気者というなら、その忘れっぽい部分に兄は救われたはずです。あなたの浮気者の部分を含めて、兄はあなたを愛していたんでしょう」
「――――っ!」
「もちろん、まだ存命の内村さん相手に忘れっぽいのは、論外ですが」
冗談か本気かわからない口ぶりで萌香は付け足す。
「翔…………っ」
成美はふたたび涙があふれる。
けれど今度は哀しみの涙ではない。
ぽろぽろと哀しみや苦しみが剥がれ落ちて、胸に風が吹き抜け、渦巻いていた後悔や自己嫌悪が押し流されて、優しい空気に入れ替えられる。
(翔、翔、翔)
翔の眠る墓の前で、一瞬、成美はたしかに自分を包む彼の腕を感じた。
(ああ、そうか)
成美は理解した。
(私は、今の私のままでいい――――)
浮気で軽率で忘れっぽくて、思い込みが激しくて単純で、それらを自覚しなかった愚か者で、それなのに恥ずかしげもなく夫や娘の前に戻ろうとしている――――卑怯で汚い自分のままでいいのだ。その自分のままで、家族の前に戻るしかないのだ。他に自分はいないのだから。
翔はこんな愚か者の自分を、それでも愛してくれていたのだ――――
成美はひとしきり、今度は静かに泣く。
やがて、すっかり痺れた足を叱咤しながら立ちあがって、萌香に礼を述べた。
「ありがとう、柊さん。あなたに会えなかったら私、きっと迷ったままだった」
萌香の口もとにも、ほころぶような笑みが浮かぶ。
「お礼を言われるほどのことではありません。私もあなたに落ち込まれたままでは、兄に顔向けできませんので。とはいえ…………」
萌香は釘を刺す。
「私は兄の妹ですが、兄自身ではありませんので。次にあなたが泣いていても、兄の代わりに慰めるような真似は一切しません。それは、あなたのご夫君にお願いしてください」
萌香は墓地の出口を示した。
ちょうど、夫の大貴がやって来るところだった。
「成美…………良かった。柊さんから連絡をもらって…………」
「大貴…………」
成美は足の痛みと痺れを忘れて、ふらつく足どりで夫へ駆け寄る。
「大貴…………大貴…………私、あなたを愛しているの。今、愛しているのは、あなたなのよ。…………我ながら、都合がいいと思う。でも…………それでも、あなたは私を愛してくれる? 私、家に、あなたと美貴のところに帰ってもいい?」
「当然だ」
大貴は断言した。
「僕も美貴も、成美の帰りを待っている。君が帰らないと言うなら、僕が引っぱって行く。僕も君を愛しているよ、成美。君と、君が産んだ美貴と、二人とも愛しているんだ。初めて出会った頃から、君を愛していた――――」
成美は夫の腕に包まれ、力いっぱい抱きしめられる。
成美もしっかりと抱き返した。
夫の体温の中で、成美は迷いが晴れて確固たる決意を露わにする。
(今の私の夫は、大貴一人。私はどんなに浮気でも卑怯でも、この人と美貴を守りながら幸せに生きていく――――)
夕方の風が二人を祝福するように、優しく吹いていく。
「帰ろう、成美。美貴が待っている。母に連絡して保育園に迎えに行ってもらったけれど、きっとママに会いたがっているはずだ」
「ええ。本当ね。娘を置いてきてしまうなんて…………母親失格だわ。――――もう二度と、置き去りなんてしない」
成美は大貴がさし出したハンカチで顔を拭き、乱れた髪を手でまとめて、夫に寄り添いながら萌香のほうを向く。
「連絡をありがとう、柊さん。助かりました」
「いいえ。偶然ですから」
大貴の礼に、柊萌香はなんてことないように応じる。
成美は最後に、なんとなく気にかかっていたことを訊ねてみた。
「柊さん…………初めて会った時と、ずいぶん印象が違うのね。私はてっきり…………」
「頭がお花畑の小娘と思っていました? だとすれば、成功ですね。婚約者のいる男性を寝取るなんて、まともな頭じゃできませんから。せいいっぱい、馬鹿な演技をしたんですよ」
そういって肩をすくめた彼女には、初めて見る茶目っ気があった。
「さて、帰りましょうか」
うながした萌香を、大貴が「ちょっと待ってくれ」と引き止め、墓前にしゃがむ。
そのまま手を合わせた夫の隣に膝をついて、成美も静かに手を合わせた。
心の中で翔に呼びかける。
(翔…………誤解していて、ごめんなさい。あなた一人に苦労を背負わせるような結果にしてしまって、ごめんなさい。きっと私がもう少し強ければ、あなたも真実を話してくれていたかもしれないのに…………。でも、どうかもう、私のことは心配しないで。私はちゃんと前へ進む。大貴と美貴と共に生きて行くと、心から決めたの。それがあなたへの最大の恩返しだと、あなたの気持ちに報いる道だと信じる。だから…………)
「行こうか」
大貴が決意を新たにした清々しい表情で立ちあがり、成美に手を差し出す。
成美もうなずいて、夫の差し出した手に自分の手を重ねた。
二人、並んで墓地を出ていく。
成美は一度だけ、一瞬だけ墓石をふりかえって、かすかにほほ笑んだ。
(だから、いつか私がこの世を離れて、あなたと再会した時。その時は『浮気な女だ』って叱ってね――――)
チリン、と店のドアが鳴り、数時間前に出ていったばかりの客が入店してくる。
客は買ったばかりの商品の返品を申し出てきた。
「なにか不備でもございましたか?」
「いいえ。でも、私には必要のない物とわかりましたから」
客はきっぱりと言いきる。
店長も「それでは」と、金色の小さな砂時計のペンダントを受けとった。
「またのお越しをお待ちしております」
店長の言葉に、成美も会釈を返して、店の外で待っていたタクシーに乗り込む。
だが心の中では、この先もあのペンダントを求めることはないだろう、と決めていた。
夫婦を乗せたタクシーが、最寄駅に向かって走り出す。
応援ありがとうございます!
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雪那さん、立て続けの感想ありがとうございます!
今回の件で、美優は男性や恋愛に対して慎重になるでしょうが、その分、いい相手を見つけると思います!
モルトさん、感想ありがとうございます。
モルトさんの胸をいっぱいにできたなら、なによりです。
相手は忘れている約束を果たす。
その行動で、美優の成長と二人の友情を表現してみました。