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妻の存在はなかったことにされていた
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スープが煮つまり過ぎないようにかき回す。
簡易のカマドに設置された大きな鍋には、多くの騎士達をもてなすだけの量がある。
それを用意して見張るのが今の私の役目だ。
間も無く凱旋途中の騎士団がここに到着する。
それを率いる騎士団長は、まだ妻としての私とまともに顔を合わせたことがない旦那様だ。
きっとあちらは私のことがわからないから、どんな顔で会えばいいのか緊張する。
いや、ここでは会うつもりはないから、こっそりと遠巻きに様子を窺うつもりだ。
私の方は幼い頃から夫であるラウルさんのことは知っていたし、少し前まで、戦地で一時的に視力を失っていたラウルさんと身分を隠して一ヶ月過ごしていた。
あれから心身ともに持ち直したラウルさんは私が側を離れた後、戦場に復帰して破竹の勢いで進軍し、今度こそ戦争を終わらせたと聞いた。
結局、ラウルさんには私が本当は妻であるとは告げられなかったなぁ。
伯爵家の娘が戦場にいるってことがバレては困ることもあったのだけど、ラウルさんとちゃんと向き合うのが怖かった。
私が必要でなくなる日も近いのではと思ったりもしている。
王都で再会する時、私は妻として今度こそラウルさんと対面しなければならない。
その時に、戦争が終わって私との結婚の意味がなくなっても受け入れてもらえるのか。
思わずため息が出る。
会うのは怖いのに、でも今は、王都に戻る足を引き返させてここにいる。
やっぱり、ラウルさんの無事な姿を早く見たくて、帰還途中にあるこの町で、騎士をもてなすための臨時募集に応じた。
普通の伯爵家なら、こんな場で令嬢が働くなど外聞が悪いと叱られるものだけど、ロウ家は普通ではない。
騎士団の先頭部隊が到着すると、みるみるうちに町が人の波に呑まれていった。
次々に空腹を満たす為にトレーを持って押し寄せる騎士達に、スープを注いでいく。
手元に集中しながらも、チラチラと辺りに視線を向けていた。
どこかにその姿はないかと。
スープの量を増やして欲しいとせっつく騎士に応じながら、一際目立つ一団が視界に入った。
ドクンと、自然と胸が大きく鳴った。
いた。
騎士団長、ラウル・ロウ。
その姿を確認できて安堵する。
私こと、ロウ伯爵家の三女、アレックス・ミリーナ・ロウの名目上の旦那様。
町長さんと話す姿には、視力を失っていた時の影響は無いように見える。
彼と私は、妻と夫として直接会った事はない。
結婚する前に、私がいつも離れたところからこっそりと眺めているだけだったから。
でも私は、後ろ姿だけでもわかる。
鍛えられた騎士達の中にいても目立つ。
手はスープを注ぎながらも、その洗練された立ち姿に見惚れていた。
今はキッチリと制服を着込み、激戦をくぐり抜けたピリッとした空気は周囲を圧倒していた。
「熱いので気を付けてくださいね。ゆっくり召し上がってください」
騎士達に声をかけながら、広い背中を見つめ続けていると、突然ラウルさんがクルリとこっちを向き、そして、バチっと音がしそうなほど私と視線が合ってしまっていた。
前は包帯で隠されていた、青と緑が混ざり合ったような不思議な色の瞳が私を見つめている。
より一層、胸の音がうるさくなる。
漆黒の髪を綺麗に後ろに流し、戦場帰りの荒んだものなど感じさせない姿にまた見惚れて、そして、ラウルさんの足が私の方に向けて動き出したところで我に返った。
おたまを握りしめたまま、どうすればいいのか焦る。
どんどんラウルさんが近付いて来る。
私に気付いたのか、いや、でも、ラウルさんは私の顔を知らない。
とうとう目の前に立ったラウルさんは、私から一切視線を外していない。
何が起きるのかと、列に並んでいた騎士達がざわざわとしだした。
「アリーナ……」
よく通る低い声に、
「は、はいっ」
誤魔化すこともできずに上擦った返事をしてしまった。
私の顔はわからないはずなのに、どうして気付いたのか。
えっ、アリーナと呼んだ?
「アリーナ。君を探していた」
「ど、どうしてですか」
アレックス・ミリーナ・ロウだとはバレてない?
「やはり、君だ。アリーナ。君を探していた。ずっと、探していたんだ。俺には君が必要だ。どうか俺と結婚してほしい」
「はいぃっ?」
素っ頓狂な声をあげて、それから、反射的に言葉を返していた。
まさか、ラウルさんが突然求婚してくるとは思わなくて、それも、私とは知らずにだ。
混乱していた。
私達が紙面上の結婚をしたのは3年前。
私が16歳の時のことだ。
ラウルさんが教会で先に結婚証明書にサインすると、私の到着を待つ事なく、私の顔を見ることもなく、その足で戦場へ赴いた。
そうまでして急ぐ必要があった理由は、すぐそばに危機が迫っていたし、それに対処すべく、もうすでにいろんなことが同時進行的に動いている状況だった。
ラウルさんとの結婚もそのうちの一つだ。
大病を患った当時の団長の代わりに、平民出身のラウルさんが団長になるのを渋った国王を説得するためで、伯爵家が後ろ盾となるためだった。
国王の説得に時間を要したのも影響して、戦場に向かう途中で騎士団長の任命式が行われたほど、切羽詰まった状況だった。
あの時の結婚は突然で、それこそ私の意思など何一つ関係ない政略結婚だけど、何よりも国を思うお父様の決めたことだから従うつもりしかなかった。
ラウルさんもお父様も国を守るため。
そのことはよく理解していた。
私は紙切れ一枚の結婚が済むと、ただただラウルさんの帰りを待つ身となった。
戦場で必死に戦っている方を思うと遊ぶ気にもなれず、何かできればと仕事を見つけて、それで不安な気持ちを紛らわせていた。
その仕事の延長で、ラウルさんの手助けも、今日この場に来ることもできていたのだけど……
「ご、ご冗談を。一時の気の迷いです。こんな田舎者相手に、お戯れはおやめ下さい。帰りを待つ方がいらっしゃるのでは?騎士様」
「俺を待つ者などいない。君にとっては突然のことだが、俺は戦場にいる間、ずっと君のことを考えていた」
何の素振りも見せずに答えたラウルさんの声を聞き、そこで、スーッと何かが急激に冷え込んでいった。
この方は、ずっと仕事一筋の方だった。
任務に忠実で、以前は言い寄る女性などに見向きもしない方のはずだった。
「もう一度尋ねます。貴方の戯言に付き合うつもりはありません。貴方の帰りを待っている方がいらっしゃるのではないのですか?ご冗談でも口にして良いことと悪いことがありますよ」
「いない。俺には、そのような女性はいない」
さらに、何かが軋む音をあげた。
ほんの少しだけ、期待するものがあったのだと、自分自身ですら気付かなかった感情だ。
「君に助けられて、君と過ごした時が忘れられなかった。それを心の拠り所にして、最後の戦に赴いた。あの時に助けられたように、これからも俺には君が必要だ」
これはラウルさんの、ほんの気まぐれ。
殺伐とした戦場帰りに、どこかで癒しを求めるのは仕方のない事だ。
でも、ほんの少しでいいから、私の存在を思い出してほしかった。
ラウルさんの目を間近に見て、知ってしまった。
私のことなど、これっぽっちも気にしていないのだと。
いない存在なのだと。
名前だけの妻など、忘れて当然なのだと。
もう、盾となり、踏み台となる私の役目は終わったのだと。
離婚と言う二文字が頭をよぎった瞬間だった。
「アリーナ。どうか考えてほしい」
私の手を取り、許しを得るように跪くラウルさん。
信頼の証として何度も委ねてもらえたゴツゴツとした大きな手の温もりが、今はこんなにも私の心を軋ませている。
部下の前で堂々とこんな事をする方ではなかった。
冷静ではない証拠だ。
戸惑いと混乱は怒りと悲しみを呼び、両目からは憚ることもなく涙があふれる。
突然泣き出した私にラウルさんは狼狽え、心配をするような素振りを見せたそんな顔面に、感情をぶつけるようにおもいっきり平手打ちした。
おたまを投げ捨て、その場から走り出す。
頬を押さえて呆然と見送るラウルさんのことが腹立たしくて仕方がなかった。
本当に、腹立たしくて仕方がなかった。
それは間抜けな自分に対しても抱いた感情だった。
簡易のカマドに設置された大きな鍋には、多くの騎士達をもてなすだけの量がある。
それを用意して見張るのが今の私の役目だ。
間も無く凱旋途中の騎士団がここに到着する。
それを率いる騎士団長は、まだ妻としての私とまともに顔を合わせたことがない旦那様だ。
きっとあちらは私のことがわからないから、どんな顔で会えばいいのか緊張する。
いや、ここでは会うつもりはないから、こっそりと遠巻きに様子を窺うつもりだ。
私の方は幼い頃から夫であるラウルさんのことは知っていたし、少し前まで、戦地で一時的に視力を失っていたラウルさんと身分を隠して一ヶ月過ごしていた。
あれから心身ともに持ち直したラウルさんは私が側を離れた後、戦場に復帰して破竹の勢いで進軍し、今度こそ戦争を終わらせたと聞いた。
結局、ラウルさんには私が本当は妻であるとは告げられなかったなぁ。
伯爵家の娘が戦場にいるってことがバレては困ることもあったのだけど、ラウルさんとちゃんと向き合うのが怖かった。
私が必要でなくなる日も近いのではと思ったりもしている。
王都で再会する時、私は妻として今度こそラウルさんと対面しなければならない。
その時に、戦争が終わって私との結婚の意味がなくなっても受け入れてもらえるのか。
思わずため息が出る。
会うのは怖いのに、でも今は、王都に戻る足を引き返させてここにいる。
やっぱり、ラウルさんの無事な姿を早く見たくて、帰還途中にあるこの町で、騎士をもてなすための臨時募集に応じた。
普通の伯爵家なら、こんな場で令嬢が働くなど外聞が悪いと叱られるものだけど、ロウ家は普通ではない。
騎士団の先頭部隊が到着すると、みるみるうちに町が人の波に呑まれていった。
次々に空腹を満たす為にトレーを持って押し寄せる騎士達に、スープを注いでいく。
手元に集中しながらも、チラチラと辺りに視線を向けていた。
どこかにその姿はないかと。
スープの量を増やして欲しいとせっつく騎士に応じながら、一際目立つ一団が視界に入った。
ドクンと、自然と胸が大きく鳴った。
いた。
騎士団長、ラウル・ロウ。
その姿を確認できて安堵する。
私こと、ロウ伯爵家の三女、アレックス・ミリーナ・ロウの名目上の旦那様。
町長さんと話す姿には、視力を失っていた時の影響は無いように見える。
彼と私は、妻と夫として直接会った事はない。
結婚する前に、私がいつも離れたところからこっそりと眺めているだけだったから。
でも私は、後ろ姿だけでもわかる。
鍛えられた騎士達の中にいても目立つ。
手はスープを注ぎながらも、その洗練された立ち姿に見惚れていた。
今はキッチリと制服を着込み、激戦をくぐり抜けたピリッとした空気は周囲を圧倒していた。
「熱いので気を付けてくださいね。ゆっくり召し上がってください」
騎士達に声をかけながら、広い背中を見つめ続けていると、突然ラウルさんがクルリとこっちを向き、そして、バチっと音がしそうなほど私と視線が合ってしまっていた。
前は包帯で隠されていた、青と緑が混ざり合ったような不思議な色の瞳が私を見つめている。
より一層、胸の音がうるさくなる。
漆黒の髪を綺麗に後ろに流し、戦場帰りの荒んだものなど感じさせない姿にまた見惚れて、そして、ラウルさんの足が私の方に向けて動き出したところで我に返った。
おたまを握りしめたまま、どうすればいいのか焦る。
どんどんラウルさんが近付いて来る。
私に気付いたのか、いや、でも、ラウルさんは私の顔を知らない。
とうとう目の前に立ったラウルさんは、私から一切視線を外していない。
何が起きるのかと、列に並んでいた騎士達がざわざわとしだした。
「アリーナ……」
よく通る低い声に、
「は、はいっ」
誤魔化すこともできずに上擦った返事をしてしまった。
私の顔はわからないはずなのに、どうして気付いたのか。
えっ、アリーナと呼んだ?
「アリーナ。君を探していた」
「ど、どうしてですか」
アレックス・ミリーナ・ロウだとはバレてない?
「やはり、君だ。アリーナ。君を探していた。ずっと、探していたんだ。俺には君が必要だ。どうか俺と結婚してほしい」
「はいぃっ?」
素っ頓狂な声をあげて、それから、反射的に言葉を返していた。
まさか、ラウルさんが突然求婚してくるとは思わなくて、それも、私とは知らずにだ。
混乱していた。
私達が紙面上の結婚をしたのは3年前。
私が16歳の時のことだ。
ラウルさんが教会で先に結婚証明書にサインすると、私の到着を待つ事なく、私の顔を見ることもなく、その足で戦場へ赴いた。
そうまでして急ぐ必要があった理由は、すぐそばに危機が迫っていたし、それに対処すべく、もうすでにいろんなことが同時進行的に動いている状況だった。
ラウルさんとの結婚もそのうちの一つだ。
大病を患った当時の団長の代わりに、平民出身のラウルさんが団長になるのを渋った国王を説得するためで、伯爵家が後ろ盾となるためだった。
国王の説得に時間を要したのも影響して、戦場に向かう途中で騎士団長の任命式が行われたほど、切羽詰まった状況だった。
あの時の結婚は突然で、それこそ私の意思など何一つ関係ない政略結婚だけど、何よりも国を思うお父様の決めたことだから従うつもりしかなかった。
ラウルさんもお父様も国を守るため。
そのことはよく理解していた。
私は紙切れ一枚の結婚が済むと、ただただラウルさんの帰りを待つ身となった。
戦場で必死に戦っている方を思うと遊ぶ気にもなれず、何かできればと仕事を見つけて、それで不安な気持ちを紛らわせていた。
その仕事の延長で、ラウルさんの手助けも、今日この場に来ることもできていたのだけど……
「ご、ご冗談を。一時の気の迷いです。こんな田舎者相手に、お戯れはおやめ下さい。帰りを待つ方がいらっしゃるのでは?騎士様」
「俺を待つ者などいない。君にとっては突然のことだが、俺は戦場にいる間、ずっと君のことを考えていた」
何の素振りも見せずに答えたラウルさんの声を聞き、そこで、スーッと何かが急激に冷え込んでいった。
この方は、ずっと仕事一筋の方だった。
任務に忠実で、以前は言い寄る女性などに見向きもしない方のはずだった。
「もう一度尋ねます。貴方の戯言に付き合うつもりはありません。貴方の帰りを待っている方がいらっしゃるのではないのですか?ご冗談でも口にして良いことと悪いことがありますよ」
「いない。俺には、そのような女性はいない」
さらに、何かが軋む音をあげた。
ほんの少しだけ、期待するものがあったのだと、自分自身ですら気付かなかった感情だ。
「君に助けられて、君と過ごした時が忘れられなかった。それを心の拠り所にして、最後の戦に赴いた。あの時に助けられたように、これからも俺には君が必要だ」
これはラウルさんの、ほんの気まぐれ。
殺伐とした戦場帰りに、どこかで癒しを求めるのは仕方のない事だ。
でも、ほんの少しでいいから、私の存在を思い出してほしかった。
ラウルさんの目を間近に見て、知ってしまった。
私のことなど、これっぽっちも気にしていないのだと。
いない存在なのだと。
名前だけの妻など、忘れて当然なのだと。
もう、盾となり、踏み台となる私の役目は終わったのだと。
離婚と言う二文字が頭をよぎった瞬間だった。
「アリーナ。どうか考えてほしい」
私の手を取り、許しを得るように跪くラウルさん。
信頼の証として何度も委ねてもらえたゴツゴツとした大きな手の温もりが、今はこんなにも私の心を軋ませている。
部下の前で堂々とこんな事をする方ではなかった。
冷静ではない証拠だ。
戸惑いと混乱は怒りと悲しみを呼び、両目からは憚ることもなく涙があふれる。
突然泣き出した私にラウルさんは狼狽え、心配をするような素振りを見せたそんな顔面に、感情をぶつけるようにおもいっきり平手打ちした。
おたまを投げ捨て、その場から走り出す。
頬を押さえて呆然と見送るラウルさんのことが腹立たしくて仕方がなかった。
本当に、腹立たしくて仕方がなかった。
それは間抜けな自分に対しても抱いた感情だった。
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