婚前交渉バトル、開幕! 〜結婚まで待てない令嬢 vs 待ちたい王子〜

胃袋まんげつ

文字の大きさ
8 / 19

Round.8 再び巻き込まれる薬師と禁断の香水

しおりを挟む
 恋する乙女は、時として最も頼りになる協力者を見つける。

 たとえその協力者が、どれほど嫌がっていたとしても——。

 朝靄が立ち込める早朝、カミラは書斎で『淑女のための恋愛指南書』と格闘していた。机の上には開きっぱなしの本が三冊、走り書きのメモが散らばっている。昨日のアシュランとの庭園での出来事を思い出すと、まだ胸の鼓動が早くなる。

 あの時の彼の腕の温もり、心臓の音、そして「君を離したくなくなる」という言葉——。

「でも、まだ足りませんわ!」

 カミラは指南書のページを繰った。第九の秘訣を読んでいたが、どうも具体的な方法が書かれていない。

『第九の秘訣:心の距離を縮める——共有する秘密の力』

 その下に、小さな文字で追記があった。

『ただし、時には外部の力を借りることも必要です。信頼できる協力者の助言は、恋路を照らす灯火となるでしょう』

「外部の力……協力者……」

 カミラの頭に、一人の人物が浮かんだ。灰色の瞳を持つ、冷静沈着な魔法薬師。

「ルシアンですわ!」



 王宮の地下にある魔法薬師の工房は、今日も薬草の香りに満ちていた。ガラス瓶が整然と並んだ棚、天井から吊り下げられた乾燥薬草、壁に描かれた複雑な魔法陣——全てが神秘的な雰囲気を醸し出している。

 ルシアンは机に向かって何やら調合をしていた。黒髪が額にかかり、灰色の瞳は真剣そのものだ。白衣の袖を捲り上げた腕が、慎重に薬瓶を扱っている。

「ルシアン!」

 カミラの明るい声に、ルシアンの手が止まった。

「……また貴女ですか」

 振り返ったルシアンの表情は、明らかに迷惑そうだった。

「お久しぶりですわ」

「久しぶりではありません。三日前にも来られたでしょう」

 ルシアンは肩を落とし、目の下のクマがより濃く見えた。

「確か、その時も『二度と巻き込まないでください』と申し上げたはずですが」

「でも、今回は本当に困っているのです」

「……その言葉も、前に聞きました。三回は。いや、四回でしたかね」

「ち、違いますわ! 今度こそ最後です!」

「その台詞も、五回目です」

 ルシアンは机に額を打ちつけたくなる衝動をどうにか堪え、長く息を吐いた。

「ルシアン! この通りですわ」

 カミラは両手を合わせて懇願する。その仕草があまりにも可愛らしくて、ルシアンは思わず視線を逸らした。

「……何の用件でしょうか」

「実は、魅力を高める香水のようなものを作っていただきたくて」

「香水?」

 ルシアンの眉がわずかに上がった。

「はい。指南書に『外部の力を借りる』と書いてあって」

「また指南書ですか……」

 ルシアンは頭を抱えた。あの指南書が全ての元凶だと、彼は確信している。

「魅力を高める香水など、媚薬と変わりません。以前も申し上げましたが——」

「でも、ルシアンの作る薬なら安全でしょう?」

 カミラの信頼に満ちた眼差しに、ルシアンは反論できなくなった。

「……はあ」

 重い溜息が工房に響く。

「分かりました。ただし、条件があります」

「何でしょう?」

「今回で本当に最後です。二度と、絶対に、私を恋愛相談に巻き込まないでください」

「はい! 約束します!」

 カミラは嬉しそうに頷いた。しかし、ルシアンはその約束が守られないことを、経験上よく知っていた。



 ルシアンは棚から様々な薬草を取り出し始めた。ローズの花びら、ジャスミンの精油、月光草の葉——慎重に計量していく。

「魅力を高めるというより、自然な魅力を引き出す香りにしましょう」

「まぁ、素敵ですわ!」

「ただし、使いすぎれば周囲の誰彼構わず惹きつけてしまうかもしれません。王子だけでなく、近衛兵や陛下まで。……その場合、私は責任を取りませんからね」

「そんなに効果が!」

「褒めていません。私は恐怖しています」

 ルシアンの手際は見事だった。まるで芸術家が作品を生み出すかのように、正確で美しい。

「この香水は、つける人の本来持っている魅力を引き立てます。カミラ様の場合は……」

 ルシアンはカミラを一瞥した。

「明るさと純真さ、そして少しの大胆さでしょうか」

「少しの大胆さ?」

「恋愛指南書を真に受けて、王子に夜這いをかけるような令嬢ですからね」

皮肉を返され、カミラは頬を赤らめた。

「あれは……」

「結構です。知りたくもありません」

 ルシアンは素早く香水を調合していく。透明な液体が、やがて淡いピンク色に染まっていった。

「これで完成です」

 美しいガラス瓶に入った香水を、ルシアンはカミラに手渡した。

「つけすぎないでください。本当に一滴で十分です」

「ありがとうございます、ルシアン!」

 カミラは香水を大切そうに抱きしめた。

「それと……」

 少しだけ目を伏せてから言う。

「アシュラン様は、もう十分に貴女に心を奪われています。香水などなくても、笑顔だけで十分なのでは?」

 その言葉に、カミラは驚いて顔を上げた。

「本当に?」

「……今のは……ただの独り言です」

 ルシアンはそっぽを向き、再び薬草に手を伸ばした。その横顔に、ほんの僅かな優しさが浮かんでいた。



 その日の午後、カミラは新しい香水をつけて、アシュランの執務室を訪れた。ほんの一滴、手首につけただけなのに、甘く爽やかな香りが広がる。

「失礼いたします」

ノックして中に入ると、アシュランが書類から顔を上げた。

「やあ、カミ——」

 アシュランの言葉が途中で止まった。彼の瞳が大きく見開かれる。

「どうなさいました?」

「その……香り……」

アシュランの声が掠れている。カミラが近づくたびに、甘い香りが漂ってくる。それは決して強すぎない、でも確実に彼の理性を揺さぶる香りだった。

「新しい香水ですの。お気に召しますか?」

 カミラが微笑むと、アシュランは思わず立ち上がった。

「カミラ……君は……」

 彼がカミラに近づいてくる。その瞳には、いつもの穏やかさとは違う、危険な光が宿っていた。

「アシュラン様?」

「その香り……ずるいよ」

 アシュランがカミラの手を取った。そのまま引き寄せられ、カミラは再び彼の胸に抱き寄せられる。

「こんな香りをつけられたら……」

 アシュランの顔が、カミラの髪に埋められる。深く息を吸い込むように、彼女の香りを確かめた。

「我慢できなくなってしまう」

 その言葉に、カミラの心臓が激しく鼓動した。アシュランの腕が、昨日よりもずっと強く彼女を抱きしめている。

「アシュラン様……」

「君の香りだけで、もう頭がおかしくなりそうだ」

 アシュランの声が、耳元で囁くように響く。その熱っぽい声に、カミラも身体が熱くなっていく。

 二人の距離がどんどん縮まっていく。アシュランの顔が近づき、カミラは目を閉じた——

 その時。

 ——ガチャリ。

 扉が開く音がした。

「アシュラン様、例の書類が——」

 入ってきたのはルシアンだった。

 抱き合う二人を見て、ルシアンの表情が固まる。

「……失礼しました」

 ルシアンは静かに扉を閉めようとする。

「ル、ルシアン!」

 カミラは慌ててアシュランから離れた。顔が真っ赤になっている。

「いや、これは……」

「何も見ておりません」

 ルシアンは無表情で答えた。しかし、その目には明らかに「やはりこうなると思っていました」という諦めの色が浮かんでいる。

「書類は机に置いておきます」

「ありがとう、ルシアン」

 アシュランはにこやかに礼を述べたが、その笑みは明らかに『早く出ていけ』と告げているようだった。ルシアンは素早く書類を置くと、足早に部屋を出て行こうとした。

「ルシアン、お待ちになって」

 カミラが呼び止める。

「何でしょうか」

「あの……、その……、今見たことは内密にしていただけませんか」

 あたふたと慌てる様子のカミラに、ルシアンは小さく息を吐いた。

「当然です。私は王宮付きの薬師ですから、守秘義務は守ります」

 カミラに近付こうとするアシュランを見なかったことにし、ルシアンはちらりと二人を見た。

「ただし、もう私に香水の調合は頼まないでください。貴女方の恋愛に、これ以上巻き込まれるのは御免です」

 そう言って、ルシアンは部屋を出て行った。

 淡々と扉を閉めかけながら、かすかにぼやく声が聞こえた。

「やはり……指南書は焚書処分が妥当です」



 廊下を歩きながら、ルシアンは息を洩らす。

「まったく……幼い頃から、本当にあの二人は」

 子供の頃の記憶が蘇る。いつもカミラが無茶をして、アシュランが心配し、自分がそれに巻き込まれる——そのパターンは今も変わっていない。

「でも……」

 ルシアンの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。

「二人とも、幸せそうではあるな」

 友人として、それだけで十分だった。



 一方、執務室では——
「カミラ……」
 アシュランは書類を放り出すようにして立ち上がると、彼女を引き寄せた。いつもより近付く距離にカミラは思わずヒィッ、と声を漏らす。
「その香り……ずるい」
「ルシアンに作っていただいたのです」
「ルシアンが……なるほど」
彼は小さく笑った。苦笑というより、獲物を見つけた猛禽のような微笑み。
「あ、あの!アシュラン様、その……、いつもより、少し距離が近すぎませんこと?」

「そうかな?」

「あ、あの、これ以上は……!」
 アシュランは彼女の手首をすくい上げ、香りの染み込んだ肌に唇を近づける。
「こんなものを纏って……僕を誘惑しておいて、近付くな?…… へえ?」
 青い瞳が妖しく細められ、背筋がぞくりとする。
「アシュラン様……? きょ、今日のご様子は少し……」
「怖い?」
「ええと……いえ……、いや、少しだけ……でも、その……格好いいですわ」
 頬を真っ赤にするカミラを見て、アシュランは満足げに微笑んだ。
「なら、いい」
 彼女の髪に顔を埋め、首筋に鼻先を寄せる。
「……結婚まで待つ。けれど、それまでの間、君は僕から逃げられない」
 カミラは完全に押し込まれ、心臓が暴れ出すようだった。
「わ、分かりました……。では、結婚式の夜に」
「ふふ……君は本当に」
 アシュランは彼女の顎を指で持ち上げ、ぞっとするように笑った。
「僕を試すのが好きだね。……だが、試すほど、君は僕に縛られる」

 

 その日の夕方、カミラは自室で指南書を開いていた。
「ルシアンには本当に感謝しなければ」
 香水作戦は大成功だった。けれど——
(……今日のアシュラン様、少し怖かったですわ。でも……、すごく格好よかった……)
 頬に手を当て、じんわり広がる熱を抑えきれずにぼんやりと窓の外を眺める。
 ページをめくると、次の秘訣が現れた。
『第十の秘訣:最後の一押し——勇気ある告白の力』
「勇気ある告白……」
 カミラの瞳が輝いた。
 婚前交渉バトルも、いよいよ佳境に入ってきた。
 次はどんな作戦を立てようか——いや、もう作戦ではなく、本当の気持ちを伝える時が来たのかもしれない。
 窓の外では、夕日が美しく沈んでいく。オレンジ色の光がカミラの赤い髪を照らしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

バイトの時間なのでお先に失礼します!~普通科と特進科の相互理解~

スズキアカネ
恋愛
バイト三昧の変わり者な普通科の彼女と、美形・高身長・秀才の三拍子揃った特進科の彼。 何もかもが違う、相容れないはずの彼らの学園生活をハチャメチャに描いた和風青春現代ラブコメ。 ◇◆◇ 作品の転載転用は禁止です。著作権は放棄しておりません。 DO NOT REPOST.

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

【完結】男装の側近 〜双子の妹は腹黒王子の溺愛からは逃げられない〜

恋せよ恋
恋愛
「お前、なんだか......女っぽいよな?」 病弱な兄の身代わりで、男装し学園に入学したレオーネ。 完璧で美麗な騎士「レオン」として、 冷徹な第二王子・マクシミリアンの側近となったが…… 実は殿下には、初日から正体がバレていた!? 「俺を守って死ぬと言ったな。ならば一生、俺の隣で飼い殺されろ」 戦場では背中を預け合い、寝室では甘く追い詰められる。 正体がバレたら即破滅の「替え玉側近ライフ」は、 王子の執着全開な溺愛ルートへと強制突入する――! 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

不遇の花詠み仙女は後宮の華となる

松藤かるり
恋愛
髙の山奥にある華仙一族の隠れ里に住むは、華仙術に秀でた者の証として花痣を持ち生まれた娘、華仙紅妍。 花痣を理由に虐げられる生活を送っていた紅妍だが、そこにやってきたのは髙の第四皇子、秀礼だった。 姉の代わりになった紅妍は秀礼と共に山を下りるが、連れて行かれたのは死してなお生に縋る鬼霊が巣くう宮城だった。 宮城に連れてこられた理由、それは帝を苦しめる禍を解き放つこと。 秀礼の依頼を受けた紅妍だが簡単には終わらず、後宮には様々な事件が起きる。 花が詠みあげる記憶を拾う『花詠み』と、鬼霊の魂を花に渡して祓う『花渡し』。 二つの華仙術を武器に、妃となった紅妍が謎を解き明かす。 ・全6章+閑話2 13万字見込み ・一日3回更新(9時、15時、21時) 2月15日9時更新分で完結予定 *** ・華仙紅妍(かせんこうけん)  主人公。花痣を持つ華仙術師。  ある事情から華仙の名を捨て華紅妍と名乗り、冬花宮に住む華妃となる。 ・英秀礼(えいしゅうれい)  髙の第四皇子。璋貴妃の子。震礼宮を与えられている。 ・蘇清益(そ しんえき)  震礼宮付きの宦官。藍玉の伯父。 ・蘇藍玉(そ らんぎょく)  冬花宮 宮女長。清益の姪。 ・英融勒(えい ゆうろく)  髙の第二皇子。永貴妃の子。最禮宮を与えられている。 ・辛琳琳(しん りんりん)  辛皇后の姪。秀礼を慕っている。

天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎ ギルドで働くおっとり回復役リィナは、 自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。 ……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!? 「転ばないで」 「可愛いって言うのは僕の役目」 「固定回復役だから。僕の」 優しいのに過保護。 仲間のはずなのに距離が近い。 しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。 鈍感で頑張り屋なリィナと、 策を捨てるほど恋に負けていくカイの、 コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕! 「遅いままでいい――置いていかないから。」

籠の鳥〜見えない鎖に囚われて✿❦二人の愛から…逃れられない。

クラゲ散歩
恋愛
私。ユリアナ=オリーブ(17)は、自然豊かなオータム国にあるグローパー学院に在籍している。 3年生になって一ヶ月が経ったある日。学院長に呼ばれた。技術と魔術の発展しているフォール国にある。姉妹校のカイト学院に。同じクラスで3年生の男子3名と女子3名(私を含め)。計6名で、半年の交換留学をする事になった。 ユリアナは、気楽な気持ちで留学をしたのだが…まさか学院で…あの二人に会うなんて。これは…仕組まれていたの?幼い頃の記憶。 「早く。早く。逃げなきゃ。誰か〜私を…ここから…。」

冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない

彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。 酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。 「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」 そんなことを、言い出した。

『君だから、恋を知った 』――冷徹殿下×天然令嬢のじれ甘ロマンス――

だって、これも愛なの。
恋愛
冷徹と呼ばれる殿下と、おっとり天然な令嬢。 恋をまだ知らない彼女は、ただ彼を「優しい人」と信じていた。 けれど殿下は――彼女が気になって、心配で、嫉妬して、もだもだが止まらない。 すれ違い、戸惑い、やがて気づく初めての恋心。 星空の下で結ばれる両想いから、正式な婚約、そして新婚の日常へ。 じれじれの甘やかしを、小さな出来事とともに。

処理中です...