婚前交渉バトル、開幕! 〜結婚まで待てない令嬢 vs 待ちたい王子〜

胃袋まんげつ

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Round.8 再び巻き込まれる薬師と禁断の香水

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 恋する乙女は、時として最も頼りになる協力者を見つける。

 たとえその協力者が、どれほど嫌がっていたとしても——。

 朝靄が立ち込める早朝、カミラは書斎で『淑女のための恋愛指南書』と格闘していた。机の上には開きっぱなしの本が三冊、走り書きのメモが散らばっている。昨日のアシュランとの庭園での出来事を思い出すと、まだ胸の鼓動が早くなる。

 あの時の彼の腕の温もり、心臓の音、そして「君を離したくなくなる」という言葉——。

「でも、まだ足りませんわ!」

 カミラは指南書のページを繰った。第九の秘訣を読んでいたが、どうも具体的な方法が書かれていない。

『第九の秘訣:心の距離を縮める——共有する秘密の力』

 その下に、小さな文字で追記があった。

『ただし、時には外部の力を借りることも必要です。信頼できる協力者の助言は、恋路を照らす灯火となるでしょう』

「外部の力……協力者……」

 カミラの頭に、一人の人物が浮かんだ。灰色の瞳を持つ、冷静沈着な魔法薬師。

「ルシアンですわ!」



 王宮の地下にある魔法薬師の工房は、今日も薬草の香りに満ちていた。ガラス瓶が整然と並んだ棚、天井から吊り下げられた乾燥薬草、壁に描かれた複雑な魔法陣——全てが神秘的な雰囲気を醸し出している。

 ルシアンは机に向かって何やら調合をしていた。黒髪が額にかかり、灰色の瞳は真剣そのものだ。白衣の袖を捲り上げた腕が、慎重に薬瓶を扱っている。

「ルシアン!」

 カミラの明るい声に、ルシアンの手が止まった。

「……また貴女ですか」

 振り返ったルシアンの表情は、明らかに迷惑そうだった。

「お久しぶりですわ」

「久しぶりではありません。三日前にも来られたでしょう」

 ルシアンは肩を落とし、目の下のクマがより濃く見えた。

「確か、その時も『二度と巻き込まないでください』と申し上げたはずですが」

「でも、今回は本当に困っているのです」

「……その言葉も、前に聞きました。三回は。いや、四回でしたかね」

「ち、違いますわ! 今度こそ最後です!」

「その台詞も、五回目です」

 ルシアンは机に額を打ちつけたくなる衝動をどうにか堪え、長く息を吐いた。

「ルシアン! この通りですわ」

 カミラは両手を合わせて懇願する。その仕草があまりにも可愛らしくて、ルシアンは思わず視線を逸らした。

「……何の用件でしょうか」

「実は、魅力を高める香水のようなものを作っていただきたくて」

「香水?」

 ルシアンの眉がわずかに上がった。

「はい。指南書に『外部の力を借りる』と書いてあって」

「また指南書ですか……」

 ルシアンは頭を抱えた。あの指南書が全ての元凶だと、彼は確信している。

「魅力を高める香水など、媚薬と変わりません。以前も申し上げましたが——」

「でも、ルシアンの作る薬なら安全でしょう?」

 カミラの信頼に満ちた眼差しに、ルシアンは反論できなくなった。

「……はあ」

 重い溜息が工房に響く。

「分かりました。ただし、条件があります」

「何でしょう?」

「今回で本当に最後です。二度と、絶対に、私を恋愛相談に巻き込まないでください」

「はい! 約束します!」

 カミラは嬉しそうに頷いた。しかし、ルシアンはその約束が守られないことを、経験上よく知っていた。



 ルシアンは棚から様々な薬草を取り出し始めた。ローズの花びら、ジャスミンの精油、月光草の葉——慎重に計量していく。

「魅力を高めるというより、自然な魅力を引き出す香りにしましょう」

「まぁ、素敵ですわ!」

「ただし、使いすぎれば周囲の誰彼構わず惹きつけてしまうかもしれません。王子だけでなく、近衛兵や陛下まで。……その場合、私は責任を取りませんからね」

「そんなに効果が!」

「褒めていません。私は恐怖しています」

 ルシアンの手際は見事だった。まるで芸術家が作品を生み出すかのように、正確で美しい。

「この香水は、つける人の本来持っている魅力を引き立てます。カミラ様の場合は……」

 ルシアンはカミラを一瞥した。

「明るさと純真さ、そして少しの大胆さでしょうか」

「少しの大胆さ?」

「恋愛指南書を真に受けて、王子に夜這いをかけるような令嬢ですからね」

皮肉を返され、カミラは頬を赤らめた。

「あれは……」

「結構です。知りたくもありません」

 ルシアンは素早く香水を調合していく。透明な液体が、やがて淡いピンク色に染まっていった。

「これで完成です」

 美しいガラス瓶に入った香水を、ルシアンはカミラに手渡した。

「つけすぎないでください。本当に一滴で十分です」

「ありがとうございます、ルシアン!」

 カミラは香水を大切そうに抱きしめた。

「それと……」

 少しだけ目を伏せてから言う。

「アシュラン様は、もう十分に貴女に心を奪われています。香水などなくても、笑顔だけで十分なのでは?」

 その言葉に、カミラは驚いて顔を上げた。

「本当に?」

「……今のは……ただの独り言です」

 ルシアンはそっぽを向き、再び薬草に手を伸ばした。その横顔に、ほんの僅かな優しさが浮かんでいた。



 その日の午後、カミラは新しい香水をつけて、アシュランの執務室を訪れた。ほんの一滴、手首につけただけなのに、甘く爽やかな香りが広がる。

「失礼いたします」

ノックして中に入ると、アシュランが書類から顔を上げた。

「やあ、カミ——」

 アシュランの言葉が途中で止まった。彼の瞳が大きく見開かれる。

「どうなさいました?」

「その……香り……」

アシュランの声が掠れている。カミラが近づくたびに、甘い香りが漂ってくる。それは決して強すぎない、でも確実に彼の理性を揺さぶる香りだった。

「新しい香水ですの。お気に召しますか?」

 カミラが微笑むと、アシュランは思わず立ち上がった。

「カミラ……君は……」

 彼がカミラに近づいてくる。その瞳には、いつもの穏やかさとは違う、危険な光が宿っていた。

「アシュラン様?」

「その香り……ずるいよ」

 アシュランがカミラの手を取った。そのまま引き寄せられ、カミラは再び彼の胸に抱き寄せられる。

「こんな香りをつけられたら……」

 アシュランの顔が、カミラの髪に埋められる。深く息を吸い込むように、彼女の香りを確かめた。

「我慢できなくなってしまう」

 その言葉に、カミラの心臓が激しく鼓動した。アシュランの腕が、昨日よりもずっと強く彼女を抱きしめている。

「アシュラン様……」

「君の香りだけで、もう頭がおかしくなりそうだ」

 アシュランの声が、耳元で囁くように響く。その熱っぽい声に、カミラも身体が熱くなっていく。

 二人の距離がどんどん縮まっていく。アシュランの顔が近づき、カミラは目を閉じた——

 その時。

 ——ガチャリ。

 扉が開く音がした。

「アシュラン様、例の書類が——」

 入ってきたのはルシアンだった。

 抱き合う二人を見て、ルシアンの表情が固まる。

「……失礼しました」

 ルシアンは静かに扉を閉めようとする。

「ル、ルシアン!」

 カミラは慌ててアシュランから離れた。顔が真っ赤になっている。

「いや、これは……」

「何も見ておりません」

 ルシアンは無表情で答えた。しかし、その目には明らかに「やはりこうなると思っていました」という諦めの色が浮かんでいる。

「書類は机に置いておきます」

「ありがとう、ルシアン」

 アシュランはにこやかに礼を述べたが、その笑みは明らかに『早く出ていけ』と告げているようだった。ルシアンは素早く書類を置くと、足早に部屋を出て行こうとした。

「ルシアン、お待ちになって」

 カミラが呼び止める。

「何でしょうか」

「あの……、その……、今見たことは内密にしていただけませんか」

 あたふたと慌てる様子のカミラに、ルシアンは小さく息を吐いた。

「当然です。私は王宮付きの薬師ですから、守秘義務は守ります」

 カミラに近付こうとするアシュランを見なかったことにし、ルシアンはちらりと二人を見た。

「ただし、もう私に香水の調合は頼まないでください。貴女方の恋愛に、これ以上巻き込まれるのは御免です」

 そう言って、ルシアンは部屋を出て行った。

 淡々と扉を閉めかけながら、かすかにぼやく声が聞こえた。

「やはり……指南書は焚書処分が妥当です」



 廊下を歩きながら、ルシアンは息を洩らす。

「まったく……幼い頃から、本当にあの二人は」

 子供の頃の記憶が蘇る。いつもカミラが無茶をして、アシュランが心配し、自分がそれに巻き込まれる——そのパターンは今も変わっていない。

「でも……」

 ルシアンの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。

「二人とも、幸せそうではあるな」

 友人として、それだけで十分だった。



 一方、執務室では——
「カミラ……」
 アシュランは書類を放り出すようにして立ち上がると、彼女を引き寄せた。いつもより近付く距離にカミラは思わずヒィッ、と声を漏らす。
「その香り……ずるい」
「ルシアンに作っていただいたのです」
「ルシアンが……なるほど」
彼は小さく笑った。苦笑というより、獲物を見つけた猛禽のような微笑み。
「あ、あの!アシュラン様、その……、いつもより、少し距離が近すぎませんこと?」

「そうかな?」

「あ、あの、これ以上は……!」
 アシュランは彼女の手首をすくい上げ、香りの染み込んだ肌に唇を近づける。
「こんなものを纏って……僕を誘惑しておいて、近付くな?…… へえ?」
 青い瞳が妖しく細められ、背筋がぞくりとする。
「アシュラン様……? きょ、今日のご様子は少し……」
「怖い?」
「ええと……いえ……、いや、少しだけ……でも、その……格好いいですわ」
 頬を真っ赤にするカミラを見て、アシュランは満足げに微笑んだ。
「なら、いい」
 彼女の髪に顔を埋め、首筋に鼻先を寄せる。
「……結婚まで待つ。けれど、それまでの間、君は僕から逃げられない」
 カミラは完全に押し込まれ、心臓が暴れ出すようだった。
「わ、分かりました……。では、結婚式の夜に」
「ふふ……君は本当に」
 アシュランは彼女の顎を指で持ち上げ、ぞっとするように笑った。
「僕を試すのが好きだね。……だが、試すほど、君は僕に縛られる」

 

 その日の夕方、カミラは自室で指南書を開いていた。
「ルシアンには本当に感謝しなければ」
 香水作戦は大成功だった。けれど——
(……今日のアシュラン様、少し怖かったですわ。でも……、すごく格好よかった……)
 頬に手を当て、じんわり広がる熱を抑えきれずにぼんやりと窓の外を眺める。
 ページをめくると、次の秘訣が現れた。
『第十の秘訣:最後の一押し——勇気ある告白の力』
「勇気ある告白……」
 カミラの瞳が輝いた。
 婚前交渉バトルも、いよいよ佳境に入ってきた。
 次はどんな作戦を立てようか——いや、もう作戦ではなく、本当の気持ちを伝える時が来たのかもしれない。
 窓の外では、夕日が美しく沈んでいく。オレンジ色の光がカミラの赤い髪を照らしていた。
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