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Round.8 再び巻き込まれる薬師と禁断の香水
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恋する乙女は、時として最も頼りになる協力者を見つける。
たとえその協力者が、どれほど嫌がっていたとしても——。
朝靄が立ち込める早朝、カミラは書斎で『淑女のための恋愛指南書』と格闘していた。机の上には開きっぱなしの本が三冊、走り書きのメモが散らばっている。昨日のアシュランとの庭園での出来事を思い出すと、まだ胸の鼓動が早くなる。
あの時の彼の腕の温もり、心臓の音、そして「君を離したくなくなる」という言葉——。
「でも、まだ足りませんわ!」
カミラは指南書のページを繰った。第九の秘訣を読んでいたが、どうも具体的な方法が書かれていない。
『第九の秘訣:心の距離を縮める——共有する秘密の力』
その下に、小さな文字で追記があった。
『ただし、時には外部の力を借りることも必要です。信頼できる協力者の助言は、恋路を照らす灯火となるでしょう』
「外部の力……協力者……」
カミラの頭に、一人の人物が浮かんだ。灰色の瞳を持つ、冷静沈着な魔法薬師。
「ルシアンですわ!」
*
王宮の地下にある魔法薬師の工房は、今日も薬草の香りに満ちていた。ガラス瓶が整然と並んだ棚、天井から吊り下げられた乾燥薬草、壁に描かれた複雑な魔法陣——全てが神秘的な雰囲気を醸し出している。
ルシアンは机に向かって何やら調合をしていた。黒髪が額にかかり、灰色の瞳は真剣そのものだ。白衣の袖を捲り上げた腕が、慎重に薬瓶を扱っている。
「ルシアン!」
カミラの明るい声に、ルシアンの手が止まった。
「……また貴女ですか」
振り返ったルシアンの表情は、明らかに迷惑そうだった。
「お久しぶりですわ」
「久しぶりではありません。三日前にも来られたでしょう」
ルシアンは肩を落とし、目の下のクマがより濃く見えた。
「確か、その時も『二度と巻き込まないでください』と申し上げたはずですが」
「でも、今回は本当に困っているのです」
「……その言葉も、前に聞きました。三回は。いや、四回でしたかね」
「ち、違いますわ! 今度こそ最後です!」
「その台詞も、五回目です」
ルシアンは机に額を打ちつけたくなる衝動をどうにか堪え、長く息を吐いた。
「ルシアン! この通りですわ」
カミラは両手を合わせて懇願する。その仕草があまりにも可愛らしくて、ルシアンは思わず視線を逸らした。
「……何の用件でしょうか」
「実は、魅力を高める香水のようなものを作っていただきたくて」
「香水?」
ルシアンの眉がわずかに上がった。
「はい。指南書に『外部の力を借りる』と書いてあって」
「また指南書ですか……」
ルシアンは頭を抱えた。あの指南書が全ての元凶だと、彼は確信している。
「魅力を高める香水など、媚薬と変わりません。以前も申し上げましたが——」
「でも、ルシアンの作る薬なら安全でしょう?」
カミラの信頼に満ちた眼差しに、ルシアンは反論できなくなった。
「……はあ」
重い溜息が工房に響く。
「分かりました。ただし、条件があります」
「何でしょう?」
「今回で本当に最後です。二度と、絶対に、私を恋愛相談に巻き込まないでください」
「はい! 約束します!」
カミラは嬉しそうに頷いた。しかし、ルシアンはその約束が守られないことを、経験上よく知っていた。
*
ルシアンは棚から様々な薬草を取り出し始めた。ローズの花びら、ジャスミンの精油、月光草の葉——慎重に計量していく。
「魅力を高めるというより、自然な魅力を引き出す香りにしましょう」
「まぁ、素敵ですわ!」
「ただし、使いすぎれば周囲の誰彼構わず惹きつけてしまうかもしれません。王子だけでなく、近衛兵や陛下まで。……その場合、私は責任を取りませんからね」
「そんなに効果が!」
「褒めていません。私は恐怖しています」
ルシアンの手際は見事だった。まるで芸術家が作品を生み出すかのように、正確で美しい。
「この香水は、つける人の本来持っている魅力を引き立てます。カミラ様の場合は……」
ルシアンはカミラを一瞥した。
「明るさと純真さ、そして少しの大胆さでしょうか」
「少しの大胆さ?」
「恋愛指南書を真に受けて、王子に夜這いをかけるような令嬢ですからね」
皮肉を返され、カミラは頬を赤らめた。
「あれは……」
「結構です。知りたくもありません」
ルシアンは素早く香水を調合していく。透明な液体が、やがて淡いピンク色に染まっていった。
「これで完成です」
美しいガラス瓶に入った香水を、ルシアンはカミラに手渡した。
「つけすぎないでください。本当に一滴で十分です」
「ありがとうございます、ルシアン!」
カミラは香水を大切そうに抱きしめた。
「それと……」
少しだけ目を伏せてから言う。
「アシュラン様は、もう十分に貴女に心を奪われています。香水などなくても、笑顔だけで十分なのでは?」
その言葉に、カミラは驚いて顔を上げた。
「本当に?」
「……今のは……ただの独り言です」
ルシアンはそっぽを向き、再び薬草に手を伸ばした。その横顔に、ほんの僅かな優しさが浮かんでいた。
*
その日の午後、カミラは新しい香水をつけて、アシュランの執務室を訪れた。ほんの一滴、手首につけただけなのに、甘く爽やかな香りが広がる。
「失礼いたします」
ノックして中に入ると、アシュランが書類から顔を上げた。
「やあ、カミ——」
アシュランの言葉が途中で止まった。彼の瞳が大きく見開かれる。
「どうなさいました?」
「その……香り……」
アシュランの声が掠れている。カミラが近づくたびに、甘い香りが漂ってくる。それは決して強すぎない、でも確実に彼の理性を揺さぶる香りだった。
「新しい香水ですの。お気に召しますか?」
カミラが微笑むと、アシュランは思わず立ち上がった。
「カミラ……君は……」
彼がカミラに近づいてくる。その瞳には、いつもの穏やかさとは違う、危険な光が宿っていた。
「アシュラン様?」
「その香り……ずるいよ」
アシュランがカミラの手を取った。そのまま引き寄せられ、カミラは再び彼の胸に抱き寄せられる。
「こんな香りをつけられたら……」
アシュランの顔が、カミラの髪に埋められる。深く息を吸い込むように、彼女の香りを確かめた。
「我慢できなくなってしまう」
その言葉に、カミラの心臓が激しく鼓動した。アシュランの腕が、昨日よりもずっと強く彼女を抱きしめている。
「アシュラン様……」
「君の香りだけで、もう頭がおかしくなりそうだ」
アシュランの声が、耳元で囁くように響く。その熱っぽい声に、カミラも身体が熱くなっていく。
二人の距離がどんどん縮まっていく。アシュランの顔が近づき、カミラは目を閉じた——
その時。
——ガチャリ。
扉が開く音がした。
「アシュラン様、例の書類が——」
入ってきたのはルシアンだった。
抱き合う二人を見て、ルシアンの表情が固まる。
「……失礼しました」
ルシアンは静かに扉を閉めようとする。
「ル、ルシアン!」
カミラは慌ててアシュランから離れた。顔が真っ赤になっている。
「いや、これは……」
「何も見ておりません」
ルシアンは無表情で答えた。しかし、その目には明らかに「やはりこうなると思っていました」という諦めの色が浮かんでいる。
「書類は机に置いておきます」
「ありがとう、ルシアン」
アシュランはにこやかに礼を述べたが、その笑みは明らかに『早く出ていけ』と告げているようだった。ルシアンは素早く書類を置くと、足早に部屋を出て行こうとした。
「ルシアン、お待ちになって」
カミラが呼び止める。
「何でしょうか」
「あの……、その……、今見たことは内密にしていただけませんか」
あたふたと慌てる様子のカミラに、ルシアンは小さく息を吐いた。
「当然です。私は王宮付きの薬師ですから、守秘義務は守ります」
カミラに近付こうとするアシュランを見なかったことにし、ルシアンはちらりと二人を見た。
「ただし、もう私に香水の調合は頼まないでください。貴女方の恋愛に、これ以上巻き込まれるのは御免です」
そう言って、ルシアンは部屋を出て行った。
淡々と扉を閉めかけながら、かすかにぼやく声が聞こえた。
「やはり……指南書は焚書処分が妥当です」
*
廊下を歩きながら、ルシアンは息を洩らす。
「まったく……幼い頃から、本当にあの二人は」
子供の頃の記憶が蘇る。いつもカミラが無茶をして、アシュランが心配し、自分がそれに巻き込まれる——そのパターンは今も変わっていない。
「でも……」
ルシアンの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
「二人とも、幸せそうではあるな」
友人として、それだけで十分だった。
*
一方、執務室では——
「カミラ……」
アシュランは書類を放り出すようにして立ち上がると、彼女を引き寄せた。いつもより近付く距離にカミラは思わずヒィッ、と声を漏らす。
「その香り……ずるい」
「ルシアンに作っていただいたのです」
「ルシアンが……なるほど」
彼は小さく笑った。苦笑というより、獲物を見つけた猛禽のような微笑み。
「あ、あの!アシュラン様、その……、いつもより、少し距離が近すぎませんこと?」
「そうかな?」
「あ、あの、これ以上は……!」
アシュランは彼女の手首をすくい上げ、香りの染み込んだ肌に唇を近づける。
「こんなものを纏って……僕を誘惑しておいて、近付くな?…… へえ?」
青い瞳が妖しく細められ、背筋がぞくりとする。
「アシュラン様……? きょ、今日のご様子は少し……」
「怖い?」
「ええと……いえ……、いや、少しだけ……でも、その……格好いいですわ」
頬を真っ赤にするカミラを見て、アシュランは満足げに微笑んだ。
「なら、いい」
彼女の髪に顔を埋め、首筋に鼻先を寄せる。
「……結婚まで待つ。けれど、それまでの間、君は僕から逃げられない」
カミラは完全に押し込まれ、心臓が暴れ出すようだった。
「わ、分かりました……。では、結婚式の夜に」
「ふふ……君は本当に」
アシュランは彼女の顎を指で持ち上げ、ぞっとするように笑った。
「僕を試すのが好きだね。……だが、試すほど、君は僕に縛られる」
*
その日の夕方、カミラは自室で指南書を開いていた。
「ルシアンには本当に感謝しなければ」
香水作戦は大成功だった。けれど——
(……今日のアシュラン様、少し怖かったですわ。でも……、すごく格好よかった……)
頬に手を当て、じんわり広がる熱を抑えきれずにぼんやりと窓の外を眺める。
ページをめくると、次の秘訣が現れた。
『第十の秘訣:最後の一押し——勇気ある告白の力』
「勇気ある告白……」
カミラの瞳が輝いた。
婚前交渉バトルも、いよいよ佳境に入ってきた。
次はどんな作戦を立てようか——いや、もう作戦ではなく、本当の気持ちを伝える時が来たのかもしれない。
窓の外では、夕日が美しく沈んでいく。オレンジ色の光がカミラの赤い髪を照らしていた。
たとえその協力者が、どれほど嫌がっていたとしても——。
朝靄が立ち込める早朝、カミラは書斎で『淑女のための恋愛指南書』と格闘していた。机の上には開きっぱなしの本が三冊、走り書きのメモが散らばっている。昨日のアシュランとの庭園での出来事を思い出すと、まだ胸の鼓動が早くなる。
あの時の彼の腕の温もり、心臓の音、そして「君を離したくなくなる」という言葉——。
「でも、まだ足りませんわ!」
カミラは指南書のページを繰った。第九の秘訣を読んでいたが、どうも具体的な方法が書かれていない。
『第九の秘訣:心の距離を縮める——共有する秘密の力』
その下に、小さな文字で追記があった。
『ただし、時には外部の力を借りることも必要です。信頼できる協力者の助言は、恋路を照らす灯火となるでしょう』
「外部の力……協力者……」
カミラの頭に、一人の人物が浮かんだ。灰色の瞳を持つ、冷静沈着な魔法薬師。
「ルシアンですわ!」
*
王宮の地下にある魔法薬師の工房は、今日も薬草の香りに満ちていた。ガラス瓶が整然と並んだ棚、天井から吊り下げられた乾燥薬草、壁に描かれた複雑な魔法陣——全てが神秘的な雰囲気を醸し出している。
ルシアンは机に向かって何やら調合をしていた。黒髪が額にかかり、灰色の瞳は真剣そのものだ。白衣の袖を捲り上げた腕が、慎重に薬瓶を扱っている。
「ルシアン!」
カミラの明るい声に、ルシアンの手が止まった。
「……また貴女ですか」
振り返ったルシアンの表情は、明らかに迷惑そうだった。
「お久しぶりですわ」
「久しぶりではありません。三日前にも来られたでしょう」
ルシアンは肩を落とし、目の下のクマがより濃く見えた。
「確か、その時も『二度と巻き込まないでください』と申し上げたはずですが」
「でも、今回は本当に困っているのです」
「……その言葉も、前に聞きました。三回は。いや、四回でしたかね」
「ち、違いますわ! 今度こそ最後です!」
「その台詞も、五回目です」
ルシアンは机に額を打ちつけたくなる衝動をどうにか堪え、長く息を吐いた。
「ルシアン! この通りですわ」
カミラは両手を合わせて懇願する。その仕草があまりにも可愛らしくて、ルシアンは思わず視線を逸らした。
「……何の用件でしょうか」
「実は、魅力を高める香水のようなものを作っていただきたくて」
「香水?」
ルシアンの眉がわずかに上がった。
「はい。指南書に『外部の力を借りる』と書いてあって」
「また指南書ですか……」
ルシアンは頭を抱えた。あの指南書が全ての元凶だと、彼は確信している。
「魅力を高める香水など、媚薬と変わりません。以前も申し上げましたが——」
「でも、ルシアンの作る薬なら安全でしょう?」
カミラの信頼に満ちた眼差しに、ルシアンは反論できなくなった。
「……はあ」
重い溜息が工房に響く。
「分かりました。ただし、条件があります」
「何でしょう?」
「今回で本当に最後です。二度と、絶対に、私を恋愛相談に巻き込まないでください」
「はい! 約束します!」
カミラは嬉しそうに頷いた。しかし、ルシアンはその約束が守られないことを、経験上よく知っていた。
*
ルシアンは棚から様々な薬草を取り出し始めた。ローズの花びら、ジャスミンの精油、月光草の葉——慎重に計量していく。
「魅力を高めるというより、自然な魅力を引き出す香りにしましょう」
「まぁ、素敵ですわ!」
「ただし、使いすぎれば周囲の誰彼構わず惹きつけてしまうかもしれません。王子だけでなく、近衛兵や陛下まで。……その場合、私は責任を取りませんからね」
「そんなに効果が!」
「褒めていません。私は恐怖しています」
ルシアンの手際は見事だった。まるで芸術家が作品を生み出すかのように、正確で美しい。
「この香水は、つける人の本来持っている魅力を引き立てます。カミラ様の場合は……」
ルシアンはカミラを一瞥した。
「明るさと純真さ、そして少しの大胆さでしょうか」
「少しの大胆さ?」
「恋愛指南書を真に受けて、王子に夜這いをかけるような令嬢ですからね」
皮肉を返され、カミラは頬を赤らめた。
「あれは……」
「結構です。知りたくもありません」
ルシアンは素早く香水を調合していく。透明な液体が、やがて淡いピンク色に染まっていった。
「これで完成です」
美しいガラス瓶に入った香水を、ルシアンはカミラに手渡した。
「つけすぎないでください。本当に一滴で十分です」
「ありがとうございます、ルシアン!」
カミラは香水を大切そうに抱きしめた。
「それと……」
少しだけ目を伏せてから言う。
「アシュラン様は、もう十分に貴女に心を奪われています。香水などなくても、笑顔だけで十分なのでは?」
その言葉に、カミラは驚いて顔を上げた。
「本当に?」
「……今のは……ただの独り言です」
ルシアンはそっぽを向き、再び薬草に手を伸ばした。その横顔に、ほんの僅かな優しさが浮かんでいた。
*
その日の午後、カミラは新しい香水をつけて、アシュランの執務室を訪れた。ほんの一滴、手首につけただけなのに、甘く爽やかな香りが広がる。
「失礼いたします」
ノックして中に入ると、アシュランが書類から顔を上げた。
「やあ、カミ——」
アシュランの言葉が途中で止まった。彼の瞳が大きく見開かれる。
「どうなさいました?」
「その……香り……」
アシュランの声が掠れている。カミラが近づくたびに、甘い香りが漂ってくる。それは決して強すぎない、でも確実に彼の理性を揺さぶる香りだった。
「新しい香水ですの。お気に召しますか?」
カミラが微笑むと、アシュランは思わず立ち上がった。
「カミラ……君は……」
彼がカミラに近づいてくる。その瞳には、いつもの穏やかさとは違う、危険な光が宿っていた。
「アシュラン様?」
「その香り……ずるいよ」
アシュランがカミラの手を取った。そのまま引き寄せられ、カミラは再び彼の胸に抱き寄せられる。
「こんな香りをつけられたら……」
アシュランの顔が、カミラの髪に埋められる。深く息を吸い込むように、彼女の香りを確かめた。
「我慢できなくなってしまう」
その言葉に、カミラの心臓が激しく鼓動した。アシュランの腕が、昨日よりもずっと強く彼女を抱きしめている。
「アシュラン様……」
「君の香りだけで、もう頭がおかしくなりそうだ」
アシュランの声が、耳元で囁くように響く。その熱っぽい声に、カミラも身体が熱くなっていく。
二人の距離がどんどん縮まっていく。アシュランの顔が近づき、カミラは目を閉じた——
その時。
——ガチャリ。
扉が開く音がした。
「アシュラン様、例の書類が——」
入ってきたのはルシアンだった。
抱き合う二人を見て、ルシアンの表情が固まる。
「……失礼しました」
ルシアンは静かに扉を閉めようとする。
「ル、ルシアン!」
カミラは慌ててアシュランから離れた。顔が真っ赤になっている。
「いや、これは……」
「何も見ておりません」
ルシアンは無表情で答えた。しかし、その目には明らかに「やはりこうなると思っていました」という諦めの色が浮かんでいる。
「書類は机に置いておきます」
「ありがとう、ルシアン」
アシュランはにこやかに礼を述べたが、その笑みは明らかに『早く出ていけ』と告げているようだった。ルシアンは素早く書類を置くと、足早に部屋を出て行こうとした。
「ルシアン、お待ちになって」
カミラが呼び止める。
「何でしょうか」
「あの……、その……、今見たことは内密にしていただけませんか」
あたふたと慌てる様子のカミラに、ルシアンは小さく息を吐いた。
「当然です。私は王宮付きの薬師ですから、守秘義務は守ります」
カミラに近付こうとするアシュランを見なかったことにし、ルシアンはちらりと二人を見た。
「ただし、もう私に香水の調合は頼まないでください。貴女方の恋愛に、これ以上巻き込まれるのは御免です」
そう言って、ルシアンは部屋を出て行った。
淡々と扉を閉めかけながら、かすかにぼやく声が聞こえた。
「やはり……指南書は焚書処分が妥当です」
*
廊下を歩きながら、ルシアンは息を洩らす。
「まったく……幼い頃から、本当にあの二人は」
子供の頃の記憶が蘇る。いつもカミラが無茶をして、アシュランが心配し、自分がそれに巻き込まれる——そのパターンは今も変わっていない。
「でも……」
ルシアンの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
「二人とも、幸せそうではあるな」
友人として、それだけで十分だった。
*
一方、執務室では——
「カミラ……」
アシュランは書類を放り出すようにして立ち上がると、彼女を引き寄せた。いつもより近付く距離にカミラは思わずヒィッ、と声を漏らす。
「その香り……ずるい」
「ルシアンに作っていただいたのです」
「ルシアンが……なるほど」
彼は小さく笑った。苦笑というより、獲物を見つけた猛禽のような微笑み。
「あ、あの!アシュラン様、その……、いつもより、少し距離が近すぎませんこと?」
「そうかな?」
「あ、あの、これ以上は……!」
アシュランは彼女の手首をすくい上げ、香りの染み込んだ肌に唇を近づける。
「こんなものを纏って……僕を誘惑しておいて、近付くな?…… へえ?」
青い瞳が妖しく細められ、背筋がぞくりとする。
「アシュラン様……? きょ、今日のご様子は少し……」
「怖い?」
「ええと……いえ……、いや、少しだけ……でも、その……格好いいですわ」
頬を真っ赤にするカミラを見て、アシュランは満足げに微笑んだ。
「なら、いい」
彼女の髪に顔を埋め、首筋に鼻先を寄せる。
「……結婚まで待つ。けれど、それまでの間、君は僕から逃げられない」
カミラは完全に押し込まれ、心臓が暴れ出すようだった。
「わ、分かりました……。では、結婚式の夜に」
「ふふ……君は本当に」
アシュランは彼女の顎を指で持ち上げ、ぞっとするように笑った。
「僕を試すのが好きだね。……だが、試すほど、君は僕に縛られる」
*
その日の夕方、カミラは自室で指南書を開いていた。
「ルシアンには本当に感謝しなければ」
香水作戦は大成功だった。けれど——
(……今日のアシュラン様、少し怖かったですわ。でも……、すごく格好よかった……)
頬に手を当て、じんわり広がる熱を抑えきれずにぼんやりと窓の外を眺める。
ページをめくると、次の秘訣が現れた。
『第十の秘訣:最後の一押し——勇気ある告白の力』
「勇気ある告白……」
カミラの瞳が輝いた。
婚前交渉バトルも、いよいよ佳境に入ってきた。
次はどんな作戦を立てようか——いや、もう作戦ではなく、本当の気持ちを伝える時が来たのかもしれない。
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