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Round.7 偶然の抱擁、理性の限界
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恋する乙女の切り札は、ときに「偶然」という名を借りた必然である。
——特に、それが愛する人の腕の中で起こるならば——。
夕暮れ時、カミラは自室のバルコニーで『淑女のための恋愛指南書』を広げていた。空は薄紫に染まり、遠くの山々が黄金色に縁どられている。柔らかな風が赤い髪を揺らし、レースのカーテンを舞わせた。手すりに置いた本は夕陽を受け、金文字が鈍く輝いている。
昨日の「料理作戦」は成功だった。アシュランが見せた優しい微笑み、「君の愛情が伝わってくる」という言葉を思い出すと、その言葉が心の中で何度も反芻される。
「次回は一緒に料理を……」
小さく呟いた声に、自分で頬が熱くなる。もはや作戦などではなく、ただ彼と時間を共にしたいだけなのかもしれなかった。
指南書の次の章をめくると、金文字がふわりと浮かび上がる。
『第八の秘訣:偶然という名の必然——身体的接触による効果』
『男性は女性を守りたいという本能を持っています。偶然を装った身体的接触は、その本能を刺激し、彼の保護欲を呼び覚ますでしょう。ただし、自然さが重要です。演技だと気づかれては元も子もありません』
「身体的……接触」
カミラは頬が熱くなるのを感じた。これまでの作戦よりもずっと大胆だ。夜這い未遂の時とは違う、もっと自然な形での接触。でも、昨日のアシュランの穏やかな言葉を思い出すと、不思議と勇気が湧いてくる。彼は自分を大切に思ってくれている。それは確かなことだから。
「偶然を装って……」
指南書の挿絵を見ると、男性に抱きとめられた女性が描かれている。とても幸せそうな表情だった。その絵の中の女性は、まるで世界で一番安全な場所にいるかのように、穏やかな笑みを浮かべている。
カミラは茜空を見上げ、深く息を吸った。明日こそ、新しい秘訣を実行しよう。もっと近づきたい、彼の温もりに。
「決めましたわ!」
*
翌日の庭園は、薔薇が盛りを迎えていた。噴水の水音、蜜蜂の羽音、小鳥のさえずりが重なり、石畳の小道には午後の光が白く差している。
今日のドレスは歩きやすいものを選んだ。薄い水色の生地が風に揺れ、足元のサンダルは石畳を歩くのに適している。今日は偶然を装ってアシュランに近づき、何かのきっかけで……。そんな計画を立てながら、カミラは庭園の小道を進んでいく。
そんなことを考えながら歩いていると、向こうから、見慣れたプラチナブロンドの髪が光を弾いて現れた。軽装の白シャツに紺のベスト。いつもの王子らしい威厳ではなく、少し肩の力の抜けた雰囲気に見える。
「やあ、カミラ。庭園の散歩かい?」
穏やかな声に、カミラの胸の奥がざわめいた。
「はい。薔薇がとても綺麗で」
二人は並んで歩き始める。石畳の小道は少し狭く、時々肩が触れそうになる。そのたびにカミラの心臓がどきりと跳ねた。アシュランの袖が自分の腕に触れるかもしれない、その距離感に、全身の神経が研ぎ澄まされていく。
「昨日の料理、本当に美味しかったよ」
アシュランの言葉に、カミラの胸躍る。
「ありがとうございます。次は……ぜひご一緒に」
「ふふ、楽しみにしている。君が真剣に包丁を握る姿も、なかなか愛らしかったからね」
その一言に、カミラは顔を伏せた。見られていたのだ。不器用な自分を。でも「愛らしい」と言われるなら、それも悪くない。
二人の会話が弾む中、カミラは作戦の実行タイミングを計っていた。庭園の奥には、大理石の階段がある。そこに差し掛かった時——今しかない、と思った。階段は三段ほどの高さで、決して危険ではないが、転ぶには十分な場所だ。
小さく声を上げた瞬間、体が傾いた。——ほんの軽い演技のつもりだったのに、思った以上に体が傾き、心臓が冷える。
「きゃっ」
石段の硬さが迫った瞬間——
「カミラ!」
強い腕が腰を支えた。
視界いっぱいにアシュランの胸が迫る。抱きとめられた衝撃と同時に、温かな体温が全身を包んだ。
(あ……こんなに近い……)
息が乱れ、頬が彼の胸に触れる。薔薇よりも鮮やかな香りと、彼の心音が鼓膜を震わせた。
アシュランの腕はしっかりと彼女を抱き締め、背中を支えている。その余裕ある所作の裏で、彼自身の呼吸も僅かに乱れていた。
(こんなに……こんなに近いのですね)
カミラは、顔を上げられず、アシュランの胸に頬を寄せる。首筋にかかる自分の髪がくすぐったいはずなのに、彼は微動だにしない。石鹸と香水の匂いが鼻をくすぐり、熱い息が耳元にかかるたび、身体の奥が甘く痺れる。彼の心臓の音が、自分の鼓動と重なり合って、一つの旋律を奏でているかのようだった。
アシュランも動揺していた。腕の中のカミラの柔らかさ、細い身体の震え、そして甘い香り——全てが理性を削っていく。抱きとめた瞬間から、唇が危うく近づきそうになるのを、必死に堪えていた。彼女の髪からは花の香りがして、体温は驚くほど温かく、そして何より、この華奢な身体を守らなければという衝動が、胸の中で渦巻いている。
(このまま……触れてしまいそうだ)
時間が止まったかのようだった。噴水の音も、鳥の声も、世界から消え失せてしまったかのように。周りの景色がぼやけて、二人だけの空間が生まれたような錯覚に陥る。風が止み、葉擦れの音さえも遠くなっていく。
「……怪我はないか?」
アシュランの声が少し掠れている。耳元にかかる低い声が、妙に艶を帯びて聞こえる。喉が渇いて、言葉がうまく形にならない。
「は、はい……」
顔を上げたカミラの視線と、青い瞳が至近距離で重なる。吸い込まれそうなほど深いその色は、普段と違う熱を帯びていた。
——あと数センチ。互いの吐息が混ざり合った時。
「アシュラン様!」
遠くから騎士ライネルの声が響いた。緊急の報告らしい。その声が冷水のように二人を現実へと引き戻す。まるで魔法が解けたかのように、周囲の音が一気に戻ってきた。
二人は慌てて身を離した。腕の温もりが失われ、風がやけに冷たい。
*
「助けていただき……ありがとうございます」
俯くカミラに、アシュランは軽く首を振った。
「礼は不要だよ。僕が君を支えるのは当然のことだから」
さらりとした口調。けれど視線の奥に、まだ消えぬ熱がちらついていた。
ライネルが近づいてくる気配に、アシュランは背筋を伸ばした。
「報告があるようだ。後で続きを話そう」
歩き出す王子の背に、カミラは思い切って声をかける。
「あの……先ほどは、ライネルがいたから……離れてしまわれたのですか?」
「ふ……君は無邪気だな。そんなことを言うと、本当に抱きしめたまま離さなくなる」
足が止まる。
「もし誰もいなければ……このまま、その……私達は……」
大胆な問いに、アシュランは振り返る。表情は変わらず穏やかだ。だが青い瞳は僅かに細められ、獲物を射抜くような光を帯びていた。
「カミラ。そんなことを言われたら……」
彼は唇に淡い笑みを刻んだ。
「僕がどこまでするのか、君は分かっていて言っているのかな」
カミラの胸が一気に高鳴る。からかわれているのか、それとも本気なのか。
「今度は人のいない場所で——」
勇気を振り絞った瞬間、アシュランが制した。
「だめだよ。……結婚までは譲れない」
余裕ある声色の奥に、強い決意が滲む。
「だが覚えておいて」
彼は一歩近づき、囁く。
「君が僕を試せば試すほど……僕は君を離せなくなる」
残された言葉に、カミラの心臓は暴れ馬のように跳ねた。それではまたね、と爽やかな笑みの奥に、どこか試すような光を宿して去っていくアシュランを見送り、カミラはその場にへなへなとしゃがみ込んだ。
*
一人になったカミラは、胸に手を当てた。まだ心臓が高鳴っている。手のひらに伝わる拍動が、やけに大きく感じられる。ドレスの生地越しでも分かるほど、激しく脈打っている。
アシュランの腕の中の熱、彼の鼓動、そして最後の言葉——全てが頭の中で何度も再生される。まるで止まらぬオルゴールのように、同じ場面が繰り返し蘇る。彼の体温、石鹸の香り、耳元にかかった吐息、そして何より、あの青い瞳に映った自分の姿。
「今日の作戦は……大成功でしたわね」
頬を染めながら呟く。アシュランも動揺していたし、あの時確かに彼の鼓動も速くなっていた。彼の腕の力強さも、抱きしめられた時の熱も、まだ心に残っている。腰に回された腕の感触が、記憶から消えない。
その時、感情の高ぶりで魔法が暴発した。小さな光の粒が宙に舞い、薔薇の花びらのような形になって踊り始める。ピンクと白の光が、午後の庭園を幻想的に彩る。光の花びらが風に乗って舞い、まるでカミラの幸福感を表現しているかのようだった。
「また魔法が……」
でも今日は気にならなかった。光の花びらが舞い踊る中で、カミラは新たな決意を胸に刻んだ。もっと近づきたい。もっと彼を知りたい。もっと——。
「次は……さらに踏み込んで差し上げますわ」
*
その夜、アシュランは自室で書類を見つめていたが、文字が頭に入ってこない。インクの黒い文字が、ただの線にしか見えない。何度も同じ行を読み返しているが、内容が全く理解できない。
昼間のカミラの柔らかさが忘れられない。彼女を抱きとめた時の感触、髪の香り、困惑した表情——全てが鮮明に蘇ってくる。まるで身体が記憶しているかのように、腕の中の感触が消えない。彼女の体温、重さ、そして何より、あの時感じた保護欲が、まだ胸の中でくすぶっている。
(あの時、もし誰も来なかったら……)
考えるだけで胸が熱くなる。カミラの最後の言葉も、彼の理性を激しく揺さぶっていた。「人がいなければ」——その言葉が、何度も頭の中で反響する。
「人がいなければ……か」
アシュランは深く息を吐いた。机に肘をついて、額に手を当てる。
彼女の純真な問いかけが、どれほど危険な誘惑だったか。もし本当に二人きりだったら、きっと理性を保てなかっただろう。抱きしめたまま、もう二度と離したくないと思ってしまったかもしれない。いや、確実にそうしていた。唇を重ねて、全てを——。
「……危ういな。本当に、君は僕を追い詰める天才だ」
窓の外では月が輝いている。満月に近い、明るい月だった。カミラも同じ月を見ているのだろうか。同じ夜空を見上げているのだろうか。彼女も今、自分のことを考えているのだろうか。
アシュランは窓辺に立ち、月を見上げた。冷たい夜風が頬を撫でていく。
彼女との距離が少しずつ縮まっているのを感じる。でも、それと同時に理性を保つのが難しくなっているのも事実だった。触れるたびに、もっと触れたくなる。抱きしめるたびに、もっと近くにいたくなる。このままでは、本当に——。
……果たして、いつまで我慢できるのだろう。。
*
その頃、カミラの部屋では——
「今日の第八の秘訣も成功でしたわ」
カミラは指南書を開きながら呟いた。ベッドに腰掛けて、膝の上に本を広げる。アシュランの動揺ぶりを思い出すと、また胸がドキドキする。あの時の抱擁が、まだ身体に残っている気がする。彼の体温が、まだ肌に焼き付いている。
「でも、まだまだですわね」
ページを繰ると、次の秘訣が現れた。金色の文字が、ろうそくの灯りを受けて揺れる。
『第九の秘訣:心の距離を縮める——共有する秘密の力』
「共有する秘密……」
カミラの瞳が輝いた。今度はどんな作戦を立てようか。でも今夜は、アシュランの熱を思い出しながら眠りにつこう。あの時の彼の鼓動が、まだ耳に残っている。あの青い瞳に映った自分の姿が、まだ心に焼き付いている。
婚前交渉バトル——恋する令嬢の挑戦は、着実に王子の心に近づいている。
次はどんな「偶然」を演出しようか。いや、もう偶然ではなく、もっと直接的に——。
窓の外の月が、二人の恋を静かに見守っていた。白い光が部屋に差し込み、カミラの赤い髪をほのかに照らしている。レースのカーテンが風に揺れ、月光が部屋の中で踊っていた。
——特に、それが愛する人の腕の中で起こるならば——。
夕暮れ時、カミラは自室のバルコニーで『淑女のための恋愛指南書』を広げていた。空は薄紫に染まり、遠くの山々が黄金色に縁どられている。柔らかな風が赤い髪を揺らし、レースのカーテンを舞わせた。手すりに置いた本は夕陽を受け、金文字が鈍く輝いている。
昨日の「料理作戦」は成功だった。アシュランが見せた優しい微笑み、「君の愛情が伝わってくる」という言葉を思い出すと、その言葉が心の中で何度も反芻される。
「次回は一緒に料理を……」
小さく呟いた声に、自分で頬が熱くなる。もはや作戦などではなく、ただ彼と時間を共にしたいだけなのかもしれなかった。
指南書の次の章をめくると、金文字がふわりと浮かび上がる。
『第八の秘訣:偶然という名の必然——身体的接触による効果』
『男性は女性を守りたいという本能を持っています。偶然を装った身体的接触は、その本能を刺激し、彼の保護欲を呼び覚ますでしょう。ただし、自然さが重要です。演技だと気づかれては元も子もありません』
「身体的……接触」
カミラは頬が熱くなるのを感じた。これまでの作戦よりもずっと大胆だ。夜這い未遂の時とは違う、もっと自然な形での接触。でも、昨日のアシュランの穏やかな言葉を思い出すと、不思議と勇気が湧いてくる。彼は自分を大切に思ってくれている。それは確かなことだから。
「偶然を装って……」
指南書の挿絵を見ると、男性に抱きとめられた女性が描かれている。とても幸せそうな表情だった。その絵の中の女性は、まるで世界で一番安全な場所にいるかのように、穏やかな笑みを浮かべている。
カミラは茜空を見上げ、深く息を吸った。明日こそ、新しい秘訣を実行しよう。もっと近づきたい、彼の温もりに。
「決めましたわ!」
*
翌日の庭園は、薔薇が盛りを迎えていた。噴水の水音、蜜蜂の羽音、小鳥のさえずりが重なり、石畳の小道には午後の光が白く差している。
今日のドレスは歩きやすいものを選んだ。薄い水色の生地が風に揺れ、足元のサンダルは石畳を歩くのに適している。今日は偶然を装ってアシュランに近づき、何かのきっかけで……。そんな計画を立てながら、カミラは庭園の小道を進んでいく。
そんなことを考えながら歩いていると、向こうから、見慣れたプラチナブロンドの髪が光を弾いて現れた。軽装の白シャツに紺のベスト。いつもの王子らしい威厳ではなく、少し肩の力の抜けた雰囲気に見える。
「やあ、カミラ。庭園の散歩かい?」
穏やかな声に、カミラの胸の奥がざわめいた。
「はい。薔薇がとても綺麗で」
二人は並んで歩き始める。石畳の小道は少し狭く、時々肩が触れそうになる。そのたびにカミラの心臓がどきりと跳ねた。アシュランの袖が自分の腕に触れるかもしれない、その距離感に、全身の神経が研ぎ澄まされていく。
「昨日の料理、本当に美味しかったよ」
アシュランの言葉に、カミラの胸躍る。
「ありがとうございます。次は……ぜひご一緒に」
「ふふ、楽しみにしている。君が真剣に包丁を握る姿も、なかなか愛らしかったからね」
その一言に、カミラは顔を伏せた。見られていたのだ。不器用な自分を。でも「愛らしい」と言われるなら、それも悪くない。
二人の会話が弾む中、カミラは作戦の実行タイミングを計っていた。庭園の奥には、大理石の階段がある。そこに差し掛かった時——今しかない、と思った。階段は三段ほどの高さで、決して危険ではないが、転ぶには十分な場所だ。
小さく声を上げた瞬間、体が傾いた。——ほんの軽い演技のつもりだったのに、思った以上に体が傾き、心臓が冷える。
「きゃっ」
石段の硬さが迫った瞬間——
「カミラ!」
強い腕が腰を支えた。
視界いっぱいにアシュランの胸が迫る。抱きとめられた衝撃と同時に、温かな体温が全身を包んだ。
(あ……こんなに近い……)
息が乱れ、頬が彼の胸に触れる。薔薇よりも鮮やかな香りと、彼の心音が鼓膜を震わせた。
アシュランの腕はしっかりと彼女を抱き締め、背中を支えている。その余裕ある所作の裏で、彼自身の呼吸も僅かに乱れていた。
(こんなに……こんなに近いのですね)
カミラは、顔を上げられず、アシュランの胸に頬を寄せる。首筋にかかる自分の髪がくすぐったいはずなのに、彼は微動だにしない。石鹸と香水の匂いが鼻をくすぐり、熱い息が耳元にかかるたび、身体の奥が甘く痺れる。彼の心臓の音が、自分の鼓動と重なり合って、一つの旋律を奏でているかのようだった。
アシュランも動揺していた。腕の中のカミラの柔らかさ、細い身体の震え、そして甘い香り——全てが理性を削っていく。抱きとめた瞬間から、唇が危うく近づきそうになるのを、必死に堪えていた。彼女の髪からは花の香りがして、体温は驚くほど温かく、そして何より、この華奢な身体を守らなければという衝動が、胸の中で渦巻いている。
(このまま……触れてしまいそうだ)
時間が止まったかのようだった。噴水の音も、鳥の声も、世界から消え失せてしまったかのように。周りの景色がぼやけて、二人だけの空間が生まれたような錯覚に陥る。風が止み、葉擦れの音さえも遠くなっていく。
「……怪我はないか?」
アシュランの声が少し掠れている。耳元にかかる低い声が、妙に艶を帯びて聞こえる。喉が渇いて、言葉がうまく形にならない。
「は、はい……」
顔を上げたカミラの視線と、青い瞳が至近距離で重なる。吸い込まれそうなほど深いその色は、普段と違う熱を帯びていた。
——あと数センチ。互いの吐息が混ざり合った時。
「アシュラン様!」
遠くから騎士ライネルの声が響いた。緊急の報告らしい。その声が冷水のように二人を現実へと引き戻す。まるで魔法が解けたかのように、周囲の音が一気に戻ってきた。
二人は慌てて身を離した。腕の温もりが失われ、風がやけに冷たい。
*
「助けていただき……ありがとうございます」
俯くカミラに、アシュランは軽く首を振った。
「礼は不要だよ。僕が君を支えるのは当然のことだから」
さらりとした口調。けれど視線の奥に、まだ消えぬ熱がちらついていた。
ライネルが近づいてくる気配に、アシュランは背筋を伸ばした。
「報告があるようだ。後で続きを話そう」
歩き出す王子の背に、カミラは思い切って声をかける。
「あの……先ほどは、ライネルがいたから……離れてしまわれたのですか?」
「ふ……君は無邪気だな。そんなことを言うと、本当に抱きしめたまま離さなくなる」
足が止まる。
「もし誰もいなければ……このまま、その……私達は……」
大胆な問いに、アシュランは振り返る。表情は変わらず穏やかだ。だが青い瞳は僅かに細められ、獲物を射抜くような光を帯びていた。
「カミラ。そんなことを言われたら……」
彼は唇に淡い笑みを刻んだ。
「僕がどこまでするのか、君は分かっていて言っているのかな」
カミラの胸が一気に高鳴る。からかわれているのか、それとも本気なのか。
「今度は人のいない場所で——」
勇気を振り絞った瞬間、アシュランが制した。
「だめだよ。……結婚までは譲れない」
余裕ある声色の奥に、強い決意が滲む。
「だが覚えておいて」
彼は一歩近づき、囁く。
「君が僕を試せば試すほど……僕は君を離せなくなる」
残された言葉に、カミラの心臓は暴れ馬のように跳ねた。それではまたね、と爽やかな笑みの奥に、どこか試すような光を宿して去っていくアシュランを見送り、カミラはその場にへなへなとしゃがみ込んだ。
*
一人になったカミラは、胸に手を当てた。まだ心臓が高鳴っている。手のひらに伝わる拍動が、やけに大きく感じられる。ドレスの生地越しでも分かるほど、激しく脈打っている。
アシュランの腕の中の熱、彼の鼓動、そして最後の言葉——全てが頭の中で何度も再生される。まるで止まらぬオルゴールのように、同じ場面が繰り返し蘇る。彼の体温、石鹸の香り、耳元にかかった吐息、そして何より、あの青い瞳に映った自分の姿。
「今日の作戦は……大成功でしたわね」
頬を染めながら呟く。アシュランも動揺していたし、あの時確かに彼の鼓動も速くなっていた。彼の腕の力強さも、抱きしめられた時の熱も、まだ心に残っている。腰に回された腕の感触が、記憶から消えない。
その時、感情の高ぶりで魔法が暴発した。小さな光の粒が宙に舞い、薔薇の花びらのような形になって踊り始める。ピンクと白の光が、午後の庭園を幻想的に彩る。光の花びらが風に乗って舞い、まるでカミラの幸福感を表現しているかのようだった。
「また魔法が……」
でも今日は気にならなかった。光の花びらが舞い踊る中で、カミラは新たな決意を胸に刻んだ。もっと近づきたい。もっと彼を知りたい。もっと——。
「次は……さらに踏み込んで差し上げますわ」
*
その夜、アシュランは自室で書類を見つめていたが、文字が頭に入ってこない。インクの黒い文字が、ただの線にしか見えない。何度も同じ行を読み返しているが、内容が全く理解できない。
昼間のカミラの柔らかさが忘れられない。彼女を抱きとめた時の感触、髪の香り、困惑した表情——全てが鮮明に蘇ってくる。まるで身体が記憶しているかのように、腕の中の感触が消えない。彼女の体温、重さ、そして何より、あの時感じた保護欲が、まだ胸の中でくすぶっている。
(あの時、もし誰も来なかったら……)
考えるだけで胸が熱くなる。カミラの最後の言葉も、彼の理性を激しく揺さぶっていた。「人がいなければ」——その言葉が、何度も頭の中で反響する。
「人がいなければ……か」
アシュランは深く息を吐いた。机に肘をついて、額に手を当てる。
彼女の純真な問いかけが、どれほど危険な誘惑だったか。もし本当に二人きりだったら、きっと理性を保てなかっただろう。抱きしめたまま、もう二度と離したくないと思ってしまったかもしれない。いや、確実にそうしていた。唇を重ねて、全てを——。
「……危ういな。本当に、君は僕を追い詰める天才だ」
窓の外では月が輝いている。満月に近い、明るい月だった。カミラも同じ月を見ているのだろうか。同じ夜空を見上げているのだろうか。彼女も今、自分のことを考えているのだろうか。
アシュランは窓辺に立ち、月を見上げた。冷たい夜風が頬を撫でていく。
彼女との距離が少しずつ縮まっているのを感じる。でも、それと同時に理性を保つのが難しくなっているのも事実だった。触れるたびに、もっと触れたくなる。抱きしめるたびに、もっと近くにいたくなる。このままでは、本当に——。
……果たして、いつまで我慢できるのだろう。。
*
その頃、カミラの部屋では——
「今日の第八の秘訣も成功でしたわ」
カミラは指南書を開きながら呟いた。ベッドに腰掛けて、膝の上に本を広げる。アシュランの動揺ぶりを思い出すと、また胸がドキドキする。あの時の抱擁が、まだ身体に残っている気がする。彼の体温が、まだ肌に焼き付いている。
「でも、まだまだですわね」
ページを繰ると、次の秘訣が現れた。金色の文字が、ろうそくの灯りを受けて揺れる。
『第九の秘訣:心の距離を縮める——共有する秘密の力』
「共有する秘密……」
カミラの瞳が輝いた。今度はどんな作戦を立てようか。でも今夜は、アシュランの熱を思い出しながら眠りにつこう。あの時の彼の鼓動が、まだ耳に残っている。あの青い瞳に映った自分の姿が、まだ心に焼き付いている。
婚前交渉バトル——恋する令嬢の挑戦は、着実に王子の心に近づいている。
次はどんな「偶然」を演出しようか。いや、もう偶然ではなく、もっと直接的に——。
窓の外の月が、二人の恋を静かに見守っていた。白い光が部屋に差し込み、カミラの赤い髪をほのかに照らしている。レースのカーテンが風に揺れ、月光が部屋の中で踊っていた。
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