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8章:ジェームダル潜入

2話:開戦を前に(ファウスト)

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 師団長達に状況を説明し、指示を出した後。ファウストは静かに部屋へと戻った。
 ファウストの部屋にはクローゼットの奥に隠すように、備え付けのケースがある。木製で板は厚く、外部からは何が入っているのかわからない。鍵もついているそれを開けるのは随分久しぶりに思えた。

 鍵を回し、扉を開けると出てくるのは長さ一メートル二十センチはある長刀だ。剣先から柄までが九十センチ以上ある。鞘には二カ所立派な金具があり、背負う為の剣帯がついている。そしてこの剣自体も壁に括り付ける形で固定具があり、鍵がなければ持ち出せないようになっている。

 昔はこの剣一本で戦場を渡り歩いた。いわば相棒だ。

 だが、カール戴冠後の動乱期を最後に数年は使わずにいたものだ。そしてファウスト自身もこれを使う日が来なければと思っていた。

 この剣を得て、黒皇という忌まわしい二つ名は完成した。戦場に立つ黒き皇。その姿を見て無事でいられることはない。
 馬の体を人ごと両断するこの剣は、決して折れる事もない。

 鍵を外し、剣帯に触れる。そしてそこに輝く飾りを指で撫でた。
 ランバートとお揃いの物。初めて祝った誕生日、何を贈ろうか考えてこれが浮かんだ。思えばあれは、独占欲だったのだろう。あの時にはもう、気持ちは傾いていたのだ。

「ランバート……」

 無事でいてくれ。無理をしてくれるな。頼むから、会いたい。
 フェオドールからの報告を聞いて、そうした気持ちはより高まっていった。

 だが、まずはやるべき事をやらなければならない。ジェームダル国境を睨み、少しでも開戦を遅らせる。その間に先発隊が戻ってきてくれればいいが、いつまでかかるかはわからない。
 今は、無事を祈るばかりだ。


 部屋を出て、兵の準備をしているアシュレーに近づいていく。ファウストの姿を見たアシュレーは僅かに苦笑した。

「貴方のその姿を見るのも、随分久しぶりです」
「俺もそう思うが、自然と馴染む。俺は所詮、こういう人間なんだと教えられているようだ」

 戦場の覇者、屍の上に立つ者。そういう生き方が合っているのだと物語るように、相棒は心強く背にある。

 フリムファクシに跨がり、隣りにアシュレーも並び、第一師団は報告のあった夜に王都を出発し、一路国境の砦を目指した。


▼カール

 国境に兵が集まっている。

 その報告を受けた夜、落ち着かない気持ちのまま私室の椅子に腰を下ろし、カールは項垂れていた。
 いつまで経っても慣れないものだ。戦が始まると聞いて、直接そこに力を貸すことはできない自分の無力さを思う。大事な臣下が、そして友が身を危険に晒すのに、自分はこの城に居なければならないのだから。

 疲れた息を吐き出す。するとそこへ、控えめな足音が近づいてきた。

「お気を、落とさないでください」
「デイジー?」

 声に驚いて戸口を見れば、彼女はなんとも薄い夜着にガウンを纏うばかりでそこにいる。その姿に、カールはただただ驚いていた。

 結婚して数ヶ月、二人の間に穏やかな育みの時間はあっても体の関係はまだない。カールは既に大人だが、デイジーはまだ幼い。恋愛に関しては更に初心で、キス一つで真っ赤になって照れてしまう。
 それでいいと思うのだ。何も無理に大人の真似をする事はない。確かな愛情を確かめる時間を経て、それからで良いと思っている。
 だからこそ寝室は分けた。内扉で繋がっているものの、ベッドは別にしてある。この時間に、その扉が開いた事は今までなかった。

「どうしたんだい、デイジー? 落ち着かない?」
「……はい」
「そうか。実は、私もだよ。良ければ隣りにおいで」

 ソファーの隣りに誘えば、デイジーは大人しく従って座る。
 それにしても、少し眼に毒だ。彼女は今日に限って随分とセクシーな姿をしている。透ける生地に花の刺繍をあしらったネグリジェでは、胸元を隠していないのと同じだ。大事な部分を覆う下着まで見えてしまっている。肩に掛けているガウンは、掛けてあるだけで体を隠せていない。

「陛下」
「なに?」
「……戦が、始まるのですね」
「……うん、みたいだね」

 何とも歯切れが悪いが、そうとしか言いようがない。あまり不安にはさせたくないけれど、危機感は持って貰わなければならない。その塩梅が難しいと思う。

「デイジー、戦いが始まって激化したら、西の叔父上の所に行くんだよ」

 静かな言葉に重みを乗せて、カールは伝える。これだけは譲れない。そして真っ先にオスカルに言って書状を出した。
 デイジーを不幸にはできない。悲しませたとしても、命まで奪わせない。王妃となった彼女が敵に捕まれば苦しみしかないだろう。本当なら離縁してしまうほうが安全なのだろうが、それはしたくない。
 繋がりを、断ちたくはない。彼女との日々を、彼女の優しい笑みを、細やかな心を愛しているから。

「陛下は、どうなさるのですか?」
「民を捨てて逃げる王にはなれない。私にしかできない事もあるんだ」

 王が死なねば、終わらない戦もある。逆に言えばこの首で、戦を終える事もできる。王はその為にある。民を捨て、国を捨てて生き恥を晒して命長らえる道は選ぶつもりがなかった。

 デイジーはギュッと服の裾を握る。その手はとても震えていた。カールはそっと手を重ねて、ただ一つ「ごめん」と伝えた。

「陛下。今夜はとても大切なお願いをしに参りました」
「……駄目な事は、駄目だよ? それでもいい?」
「いいえ、良くありません。必ず聞き入れて下さらないと、私はここを動きません」
「デイジー、どうし……」
「私に貴方の御子をください」

 強い決意の言葉に、カールの方が目を丸くした。
 今にも泣きそうなバラ色の瞳が見つめてくる。髪を解き、手を伸ばすその手をどうしていいかわからず、されるがままに抱きつかれていた。

「貴方の情けを、私にください」
「でも、デイジー! 君はそういう経験はないだろ?」
「ありません。なので、どうすれば貴方が私を求めてくれるのかわかりません。奉仕などできるかどうかもわかりません。ですが、気持ちは本物です!」

 震えている細い体を、どうしたらいいだろう。戸惑うくせに、高鳴る鼓動はどうしたら静まってくれるのだろうか。

「無理をしなくてもいいんだよ?」
「無理ではありません」
「デイジー?」
「……貴方の代で、この国を終わらせたりはいたしません」
「え?」
「貴方に何かがあっても、私に子が残ればその子は王の子です。この国を継ぐ、正当な血筋です」

 静かに、でも確かに紡がれる言葉の重みを噛み締めて、カールは重く苦く、そして切なくなっていく。
 この国を恨んでもいい身の上の彼女が、この国の未来を憂えて子を成そうというのか。まだ若く無知な体で、それでも必死に言ってくれるのか……。

 でも、駄目だ。危険過ぎる。もしも知れれば彼女が狙われる。そんな事を、どうして願える。嬉しさと同じくらい、苦しさがこみ上げてくる。

「デイジー、できない。嬉しいけれど、幸せだけれど……最悪、君は逃げ続ける事になる。ずっと命を狙われる。私の子など宿して、君が不幸になるのは」
「貴方に何かあれば、私に幸せなどありません!」

 睨み付ける目から、ポロリと涙が一粒落ちた。真一文字に結んだ唇が、強情に震えていた。

「私の宿す命が、貴方と私を繋いでくれます。有事なら、帝国再興の希望になれる。何事もなければ、王家の安泰に繋がります。それに私は、その子を愛おしんで生きられます」

 寄り添う気持ちの強さを、感じたのかもしれない。言い出すと案外押しが強いのかもしれない。そして自分は、そんな彼女の全てが愛しいのだろう。

 縋る背中を大切に抱いて、カールは一つ頷いた。本当に希望となってくれるのなら……彼女の幸せになってくれるのなら、構わない。今までだって、時を待っていたに過ぎないのだから。

「愛しているよ、デイジー」
「はい、陛下。私も、愛しています」

 寄り添って、そっと交わした唇はこの夜初めて親愛ではなく、欲情を伝えていた。


▼ヴィンセント

 戦の気運が高まっている。それを聞いたヴィンセントは忙しい仕事を放り投げて家へ戻った。真っ先にやらねばならない事があるのだ。

「アネット、荷を纏めてくれ……て、何をしているんだ?」

 帰って早々に出迎えたアネットは家の者も一緒にあれこれと物品を取りだし、武器を磨いたりしている。そのお腹はドレスを押し上げ、ふっくらとした丸みがある。

「あぁ、お帰りなさい。何って、戦支度よ。日中、部下の人が知らせに来てくれたから」
「戦支度って……君はそんな事をしている場合ではない。部下数人をつけるから、安全な場所に行くんだ」

 彼女のお腹には子がいる。今で四ヶ月、安定してきているとはいえ、油断はできない。だからこそ逃がそうと帰ってくれば、随分勇ましい様子だ。
 だがアネットは聞く様子がない。備蓄の事や女性達でも戦えるようにと抗う姿勢を見せている。

「アネット!」
「嫌よ」
「頼むから、言う事を聞いてくれ。君に何かあれば私は苦しくてたまらない。あと半年もすればその子が生まれるんだよ? 王都が戦火に巻き込まれてしまえば、安全なお産もできないだろ」

 彼女を愛している。そしてその身に宿る命も今から愛している。日々大きくなるだろうお腹を撫で、味わったことのない幸せを得ているのだ。

 それでも、アネットは強い瞳が睨み付けてくる。この気の強さと瞳は好きなのだが、今は悩みどころだ。

「貴方に何かがあれば、私だって生きる糧を失うわ。若い身空で子供抱えて生きろと言うの? 無責任な事を言わないで頂戴」
「アネット」
「貴方に何かあれば、私は添い遂げます。あの世でも、家族三人で暮らしていけるわよ」

 強い瞳が揺れたのは、心が揺れたからに他ならない。とても遠回しに伝えられる愛情のようなものに息が詰まる。
 ヴィンセントはここを離れられない。混乱するだろう国を支えるのが役割だ。城が攻められれば命もないかもしれない。
 だからといって愛しい妻と子を道連れになんてできるはずもないのだ。

「頼む、離れてくれ。その子を無事に産んで欲しいんだ。私もそれを糧に頑張るから」
「……嫌よ」

 ギュッと抱きついてくる腕に力がこもっている。涙なんて見せない彼女の肩が震えていた。
 どうする事も出来ずに困っていると、不意にドアが丁寧にノックされる。そして、予想していない人物がひょっこりと顔を出した。

「あら、アネットちゃん! まだ脱出の準備できてないの?」
「小母様!!」

 声に反応したアネットが目を丸くする。そこには相変わらず身綺麗にしたシルヴィア・ヒッテルスバッハ夫人がクスクスと笑って立っていた。

「さぁ、行きますよ。二人ほど医者も同行させたから安心して。本当はハムレットがよかったんだけど、あの子もなんだか思い詰めていてここに残るってきかなくって。ほら、変人だけど医者としての腕は確かだから」
「あの、小母様! 私ここに……」
「駄目よ」

 有無を言わせぬ声に、アネットはビクリと震える。流石社交界を仕切る女夫人だ、その言葉も声も表情も、優雅でありながら凄みが違う。

「アネットちゃん、女にできる戦いをしなければ」
「女の、戦い?」
「中にいては助けられない事も、外ならできる。資金が足りないなら稼ぎ出せばいい。食べ物が足りないなら調達するわよ。王都の混乱で入れない他国の商人は出てくる。そういうものを取り込み、搾り取るの。例え王都が混乱しようとも、地方がそれを支えれば復旧も早いわ。その為の事をするのよ」

 毒の花とはいったものだ。艶やかな笑みは美しい。だが、その奥に過分な毒を含んでいる。彼女が言う事は簡単ではない。だが、できるとなれば助かる。地方が力をため込み、それを王都に送ってくれる。多少苦しくとも、持ち堪える力になる。

「それに、貴方の一番なすべき事はお腹の子を無事に産む事。終わった後、旦那様に元気な子を抱かせてあげる事よ。血を繋ぐ事は女にしかできないわ。だからこそ、その命には大事な意味があるのよ」

 自身の体を見下ろして、アネットはそっと腹を撫でる。その手に、ヴィンセントも重ねた。

「私の生きる力になる。諦めない力になる。この子を生きてこの腕に抱くために、私は決して諦めはしない」
「ヴィンセント……」
「だから、行ってくれ。余裕があれば手紙を出す。離れても、日々君を思っている」

 家の者達も静かに頷いている。それを見て、アネットはグッと拳を握った。

「少しだけ待ってください。準備します」
「えぇ、ゆっくりでいいわ」

 自室へと向かった彼女の背中を見て、ヴィンセントもようやく息をついた。その隣りに、シルヴィアが並んで真剣な目をしている。

「ヒッテルスバッハの領地に匿うわ。大丈夫、牧歌的な所よ。産婆もいるから安心なさい」
「何から何まで、申し訳ありません」
「いいのよ、アネットちゃんは私の娘みたいなものだもの」

 そう言って笑ったシルヴィアに、ヴィンセントは頭が上がらないままだ。

「あの人もこっちに残るわ。アレクシスと婚約者は連れていく。何かあればハムレットを訪ねなさい。あの子、王都から離れないみたいだから」
「わかりました」
「あんたも、諦めては駄目よ。結局最後は諦めの悪い人間が残るわ。潔くなんてバカな事を考えないで、かっこ悪く生きなさい」
「はい」

 アネットがトランクを持って姿を現す。慌てて側に行って荷を持って、表の馬車に積み込み、最後に一度彼女を抱きしめてキスをした。
 離れていく馬車の影を見送って、ヴィンセントは強く己に気合を入れて城へと戻っていった。


▼オリヴァー

 先行した第一師団とファウストから遅れて翌朝、オリヴァーは第四師団を二班に分けて準備を始めていた。今日の昼にはここを発ち、手前のバロッサにて拠点を構える。丁度王都と国境の中間にある港町であり、物資輸送に適している為だ。

 昨夜は少し眠れなかった。行軍と言っても今まで眠れないなんて事はなかったのに、胸を不安が埋め尽くして寝付けなかったのだ。

 そうしていると、不意に来客を伝えられる。この忙しいのに一体誰がと、半ば怒りさえ感じながら応接室へと入ったオリヴァーは、そこにいる人を見て途端に動けなくなった。

「すまない、忙しいとは思ったんだが……どうしても、会っておきたくて」
「アレックス……」

 彼の顔を見ただけで、ふつりと緊張の糸が切れた。不安に押し流されそうな心が折れて、涙がこぼれ落ちて止まらなくなる。
 そっと近づいたアレックスの腕の中は温かく、力強い。背に回った腕の確かさを体の全てで感じている。

「不安だったんだな」
「こんな事、初めてで……」
「今までは不安はなかったのかい?」
「ありません。こんな……離れる事が苦しいなんて」

 知ってしまった。今苦しいのは紛れもなく、幸せだからだ。得る事はないと思っていた伴侶がいて、大切な場所があって離れがたい。初めて自分の命の重さを感じている。死ぬ事があるという恐怖を感じている。

 優しい腕は甘やかす。不安を埋めるように寄り添っている。ジワジワと熱が染みて、オリヴァーはただただ泣いていた。

「オリヴァー、一つ君に伝えずにしてしまった事があるんだが。許してもらえるだろうか?」
「なん、ですか?」

 不意に甘く問われて顔を上げた。少しだけ申し訳なさそうな表情をしたアレックスは、だがしっかりと伝えてきた。

「シウス殿にお願いして、君の身元引き受けを申し出てきた」
「……え?」
「本来は家族でなければならないそうだが、シウス殿が身元を保証してくれたのでね。後日、君の母君にも同意の書類をもらえば正式に受理される」
「それ、は……」

 身元の引き受け。それは、もし万が一死んだ時に、遺体を誰が引き取るかを指定するものだ。誰もいなければ騎士団の墓に合葬される。
 オリヴァーも合葬のつもりでいた。今更家族の墓には入りたくなかったから。でも……

「君に何があっても、側にいる。俺達は夫婦なんだから、同じ墓で構わないだろ?」
「それは、でも……本当に?」
「勿論だ。だから、安心して行っておいで。何の憂いもなく、力を尽くしておいで。でも、忘れてはいけないよ。君の無事の帰りを待つ者がここにいる。君に何かがあれば悲しみに暮れる者がここにいるんだ。それだけは、忘れないで」

 強く抱きしめてくる腕の中で、オリヴァーは頷いた。
 胸を埋めた不安は自然と落ち着いてくる。そして強く、アレックスを思う。ここに、帰ってくると。

「忘れません、絶対に。貴方の所へ、生きて戻ります」
「あぁ、頼むよ」
「はい!」

 初めて、生きて戻らなければと強く思う。死んだら仕方がないではない強い意志が宿っていく。

 その日の午後、アレックスに見送られてオリヴァーはバロッサへ向けて軍を走らせた。
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