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10章:二王の邂逅とアルブレヒトの目的

5話:黒衣の宰相(ベリアンス)

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 アルブレヒトが行方不明となり、同時に神子姫も消えた。
 この事実はごく限られた者だけが知っている。多くの兵に知られればそれだけで和を乱す事になるからだ。

 アルブレヒトの生死はこの国において大きな問題になる。おそらく民はアルブレヒトを慕い、国内は混乱。逆に軍部の大半はアルブレヒトを嫌うが、同時に恐れている。
 過去、軍部は国の兵である事を鼻に掛けて何かと好き勝手をしていた。だが、前王の時代にアルブレヒトが軍を掌握しにかかるとそれができなくなったのだ。
 当然あれこれとしたのだが、あの方は頑固に全てを突っぱねたらしく、懐柔どころか上層が首を切られかねない事態になって煮え湯を飲まされていた。
 これは現在の上層が笑い話にしている。「死んでくれて清々した」と。

 愚かな。あの人が簡単に死ぬわけがない。果てしない希望の光を見せてくれたのだ。そして、国に踏みにじられてきた民に綺麗な手で触れる。服が汚れようとも、顔が汚れようとも気にもせずに愛おしんでくれる。
 あの人と出会って、ベリアンスは希望を見た。いや、ベリアンスばかりではない。辺境を守っていた仲間全員が、あの人の中に輝く未来を見たのだ。

 それなのに……

「どういう事だ、ナルサッハ! あの男が行方をくらませただと!」

 玉座の上で怒鳴り散らす男を見て、ベリアンスは溜息をつきたくなる。何故、こんな奴に膝をついて臣下の礼などしなければならない。本来あの場所にはアルブレヒトが座っていたはずなのだ。

 ベリアンスの隣で同じように臣下の礼をしている男は、不気味な程に物静かだ。
 黒衣に紫と、まるで魔王のようなローブを纏い、顔には髪や顔をすっぽりと隠す頭巾をしている。しかも頭巾の下は目元を隠す仮面までしているのだ。

「恐れながら、逃げ出したようです」
「だから、何故そのような事になったのかと問うているのだ! あの男は動けぬようにしていると、教会のクズ共が言っていただろ!」
「はい。陵辱し、体力を奪い、最近ではこのまま事切れるかと」
「そんな奴が逃げたというのは、どういう事だ!」
「何者かが、手引きしたようです」

 静かに抑揚もなく伝えられる内容に、腸が煮えくりかえる。
 あの人を陵辱した? 事切れる寸前? そんな事、聞いていない。こいつからの連絡では常に、「生きている。平気だ」と言われる。だが様子を聞いても曖昧にしか答えないままだ。

 あの綺麗な人を、穢したのか。お優しい人に無体を働いたのか。体を痛め、弱り、命すら危ういと言われる程に力を削り取ったのか!

「おそらく、他国からの手が伸びたのだろうと思います。厳密には、帝国だろうと」
「帝国がなぜあの男の事を知っている!」
「帝国の宰相は元々、アルブレヒト殿と同じ集落で暮らしていたエルの男と聞いています。先に潜入させていた者の誰かが、死の間際に何事か話したのかもしれません」
「ッ! 余計なことを!」

 行儀悪く玉座を殴り、更に蹴りつける。歴代の王が威厳を持って座ってきた場所に、なんて事をしたものだ。
 粗野な男。こんなのを主と仰がなければならないなんて。

「今どこにいる!」
「それもわかりません」
「帝国か!」
「死の際にあった者が、誰にも知られずに国境を越えたとは考えがたい。道中死んだか……もしも逃れたとすれば、帝国内でしょう」
「今すぐに帝国に攻め入れ!」

 ビシッと指を刺すキルヒアイスを、ベリアンスは冷めた目で見ていた。

「国境ラジェーナ砦にて現在帝国の精鋭部隊と睨み合いをしております」
「さっさと攻めぬか!」
「相手は帝国の黒皇ファウスト。単純な武力だけでも一騎当千の騎士を相手に有象無象ばかりではどうにもなりません。頃合いを図りつつ戦力を集めている段階です」
「徴兵せよ!」
「無駄に犠牲を増やすばかりかと思います」

 だから言ったのだ、兵を鍛えておけと。
 現在のジェームダルは、ラン・カレイユを攻め落とした元辺境騎士団が主戦力。その他、この宰相ナルサッハが子飼いにしている暗殺遊撃部隊が強い。だが他はどこまで使えることか。なにせ、剣を振るよりも腹を肥やす事に専念していた奴等だ。

「ラン・カレイユの兵をお使いなさい」
「……なに?」
「最後まで戦った者達がいたでしょう? そいつらを招集しました。数日後には到着することでしょう」
「バカな! 奴等は協力はしない、殺せとずっと言っていたんだぞ! そんな奴等が従うはずが……っ!」

 まさか……

 覆面の宰相ナルサッハの表情は見えない。なのに何故か、その下の顔が笑みを作っていると思った。

「従う理由が、あるのでしょうね」

 それを聞いただけで、歯茎から血が出そうな程に奥歯を食いしばった。

「ベリアンス、従わなければセシリアがどうなるか。わかっているな?」

 ニヤリと歪んだ笑みを見せるキルヒアイスを、許されるなら今すぐに斬り殺してやりたい。どうなるかわかっているか? 既に彼女の心を踏みにじり、暴力を振るっているだろうが!
 それでも、捨てられない。父が死に、唯一の肉親になった。囚われ、傷つけられても彼女が生きている。それだけが、今のベリアンスにとって救いなのだから。


 ラン・カレイユ部隊の到着を待って、本格的に攻め入る事となった。
 今は城の外れにある部屋へと向かっている。

 この部屋は異様だ。部屋の中に檻がある。部屋の半分に鉄格子をはめている。
 姦通の罪を犯した奥院の妃を幽閉し、折檻するために作られたと聞いている。

 今はそこに、女性が一人。窓際の椅子に座る彼女はドアの音に怯えたが、入ってきたのがベリアンスとわかると疲れた顔に笑みを浮かべた。

「兄様」
「セシリア、平気か?」
「はい」

 綺麗な嘘を、妹セシリアはいつも言ってくれる。平気なわけがない。ここに囚われて五年、女の盛りとなり美しさに磨きのかかった一年程前からはその腕に、縄の跡が消えた事がない。

「すまない……」
「兄様」
「すまない、セシリア。俺は……」

 お前を犠牲にしている。幸せを奪い、心を奪い、今も助けられないまま強いてしまっている。

 母に似て嫋やかな美を身につけたセシリアは、崩れるベリアンスを心配し、気遣って腕を伸ばした。格子の隙間、細い彼女の腕は通る。そうして、頬に触れてくれる。

「兄様が苦しむ事ではないわ。私も、選んだのですもの」
「だが!」
「いいの、兄様。大丈夫、心配しないで」

 会えばただただ、謝るしかできない。その度にセシリアは慰めて、宥めて、送り出そうとしてくれる。
 苦しいのは彼女だ。将来、この子は穏やかな幼馴染みと結婚するはずだった。周囲の勧めもあったが、彼女自身もそれを嬉しそうにし、レーティスも恥ずかしそうに、でも嬉しそうに受けてくれた。
 穏やかな時だった。たったの一年だった。手を繋ぐのが精々で、キスなどもってのほか。そんな、初々しい二人を見ているのが密かな楽しみだった。

「兄様?」
「アルブレヒト様は、生きて帝国に逃れた」
「……え?」

 セシリアは青い瞳を驚きに大きく広げ、声もなく涙を一筋流した。

「それは、本当?」
「本当だ。帝国が手引きして匿ったようだ」
「よか、った……」

 安堵して泣く彼女に、ベリアンスは確信を持って頷く。そして手を伸ばし、肩を叩いた。

「きっと、他の奴も生きている。死を知らされても、実感がわかなかった。父が死んだ時にはすぐに、喪失感や悲しみがあったが奴等の死は、信じられなかった。今も、側にいる気がしている。だからきっと、大丈夫だ」

 励ますように肩に触れながら、ベリアンスは何度も頷く。

 これは、でまかせではない。昔からベリアンスには不思議な直感があった。根拠はなく、気のせいかと思っても結局は当たっている事が多い現象だ。
 人の死を、感じる。アルブレヒトのように確信はない。だが死んだと知らされた時に、酷い喪失感がある。
 逆に死んだと聞かされてもそうした感覚がないときには生きている事が多く、ひょっこり帰って来たりした。

「レーティスもきっと、生きている」

 力強く伝えた。確信はないが、少しでも彼女の中に希望が生まれれば。

 けれど、セシリアは苦しそうな顔で微笑むばかりだ。

「有り難う、兄様」
「嫌いになったのか?」

 フルフルっと、セシリアは首を横に振る。けれど、その表情が晴れる事はない。自身を抱きしめ、触れて、暗い目をする。

「私はもう、あの人のお嫁さんにはなれないわ」
「そんなこと!」
「いいのです。わかっている。兄様も知らないふりをしなくていいわ。私は、あの男に二日と空かず抱かれ……嫌なのに、体は私の心を裏切ってしまう」
「セシリア……」
「今も怖いのです。あの男の事が大嫌いなのに……無理矢理の結果この腹に、命が宿ったら。それを思うと心が冷える。大切な人を心に抱きながら、他の男の子を宿すかもしれない。その恐怖に、毎日怯えて……っ」

 ボロボロと泣き始めるセシリアを、抱きしめる事ができない。剣を握るベリアンスの腕では、肘まで入れば精々だ。
 それでも腕を伸ばして、触れてた。女性としての尊厳を踏みにじられ、望まぬ未来に怯えている。男ではわからない、それはどんな拷問よりも辛い事だろう。

「こんな醜い女、優しいあの人には似合わない」
「そんな事はない! レーティスは優しい、だから」
「優しいわ! 例えこの腹にあの男の子がいても、きっと自分の子として一緒にって言ってくれる。他の男に散々抱かれた私も、愛してくれる。でも、それは私が……私が苦しい」

 泣きながらそう言われて、ベリアンスの中に絶望が溢れていく。
 「セシリアを差し出さなければ、故郷も、仲間も殺す」と、キルヒアイスは言った。既にアルブレヒトは囚われ、全員の前に切られた髪が投げつけられてからだ。動けなかった。
 そんな中で犠牲になったのが、彼女だ。泣きながら「手放さない! 逃げよう!」と言っていたレーティスをセシリアは強い言葉で別れてきた。
 あの時に、彼女は言ったのだ。「どうか、あの人に良い縁がありますように」と。自分ではないように。

 覚悟は、していた。いや、覚悟を繰り返す事で飲み込もうとしていた。けれど今を見て……できなくなっている。

 この格子を破り、手を引いて逃げられたならなんだってやる。兄妹二人で、生きていく。

「兄様」
「どうした?」
「兄様も、逃げてください」
「……え?」

 思わぬ言葉に呆けたように見た。その前で、セシリアはとても静かに笑っている。まだ、涙が乾かないのに。

「アルブレヒト様の側に行って」
「俺は!」
「私は枷ではないわ。兄様は騎士なのでしょ?」
「っ!」

 息が詰まる。騎士なんて、もう呼べない。薄汚い侵略者で、部下を守れなかった無様な上司で、妹を守れないクズ兄だ。
 それでも、捨てたくない。ここで彼女を捨てたら、本当のクズになってしまう。誰が捨てても自分だけは。これが、ベリアンスの強い意志だ。

「側に、いる」
「兄様」
「お前を捨てたりしない。側にいるから、だから……」

 どうか、希望を捨てないでくれ。

「……嫌なものを、見るかもしれないのに。私は、そんなの望んでいないわ」

 悲しそうに言うセシリアをどうしたらいいのか、ベリアンスには答えがわからないままだった。


 セシリアの部屋を出ると、ナルサッハがいた。不気味な容姿のまま、まるで待っていたようだった。

「妹殿の様子は、如何で?」

 まるで悪気のない声に、ベリアンスはイライラした。
 こいつがキルヒアイスを|誑(たぶら)かし、教会を|唆(そそのか)し、アルブレヒトを隠した。全ての元凶だ。

 イライラはすぐに行動になった。胸ぐらを掴み、ドンと壁に押し当てる。頭巾の奥にある瞳を、睨み付けた。

「貴様……セシリアには手を出させないと、あれほど豪語して俺を戦場に出したんじゃないのか!!」

 揺さぶり、数度頭を壁に叩きつける。それでも、ナルサッハは動じる様子はない。静かに凪いだままだ。

「それについては、私も申し訳なく思っています。他の女を宛がっていたのですが、どうにもすぐに飽きてしまったようで。気付いた時には」
「人ごとのように言うな!!」

 ガタン! と大きな音を立てて揺さぶられていた体が壁にぶつかる。その衝撃で、男の頭巾が落ちた。

 現れたのは、目を隠す仮面。口元は出ているが、仮面のない頬の辺りに酷い火傷の跡が残っている。色が変わり、皮膚に皺が寄ったまま。そのせいで火傷のある側の口元が常に僅か引きつっている。
 仮面から見える瞳はごくごく薄い緑色をしているが、火傷のある左側は白く濁って光を映していないことが容易にわかる。
 左側の髪の生え際も反対に比べれば上がっていて、そこまで火傷をしたのだとわかる。
 そしてその髪は、主と同じ綺麗な白髪だった。

「お前は……どうして主を裏切った。同胞で、お前にも心を砕いてくれていたのだろう、ナルサッハ!」

 ベリアンスはこの男が宰相になる前から知っている。昔はこんな頭巾を被っていなくて、顔の左を隠すように仮面を付けていた。そして、アルブレヒトの隣りにあったのだ。

 ナルサッハは酷く歪に笑った。自嘲も、憎悪も見せる鋭く不快な笑みだった。

「同胞だからこそ、ですよ」

 それ以上、ベリアンスは言葉がなかった。

 この男の傷を見るだけで、その生が生中なことではないとわかる。アルブレヒトも語らなかった。
 この男が何を抱え、何を思い、どんな憎しみを胸の奥で育てたのか、わからない。でも、あまりに長くその心に魔を飼ったのだろうことは察した。

「まぁ、結局はこうなりました。あの人は運がいい」
「なんだと?」
「せっかく絶望を与えたのに。男共に死ぬまで陵辱され、助けのこない絶望に心が壊れるのを待っていたのに。本当に図太い方です」
「貴様!!」
「……失敗です。いっそ、目の前に仲間を並べて毎日一人ずつ無残に切り刻んでいったほうが絶望したかもしれない」

 そう言ったナルサッハの口元には、綺麗な笑みが浮かんでいる。暗い光が淀んで、奥底で燃えている。底知れない憎悪を受け入れた、そんな様子にベリアンスが怯んでしまう。

「貴方がどうするか、これもまた楽しみです。自らの誇りを取って妹を捨てるのか。肉親の情を捨てられずあの人に剣を向けるのか」

 薄い薄い笑み。本当に他人の心を弄んでいるようなナルサッハをベリアンスは思わず殴った。カランと音を立てて仮面が外れる。その目元は左半分が肉色に醜く皺が寄っている。それでも元は美しい顔をしていたのだと、残る右半分が教えている。

「貴方の未来に、極上の絶望を。この国と共に、貴方もきっと心中することになる」
「!」

 高らかな笑い声を上げ、落ちた仮面を取り、ナルサッハは頭巾を手に遠ざかって行く。
 まるで呪いを受けたように動けなくなったベリアンスは、壁を打ってズルズル、座り込んでしまった。
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