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12話:軍神降臨
4話:届いた伝令(チェスター)
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前線に到着したのは早朝だった。森を突っ切り、ラジェーナ砦を越えて馬に無理を言わせて走り抜け、陣についた時には転がる様に倒れる寸前だった。
遠く、陣営が見える。人の気配も見える。それを睨む騎士団陣営は一気に厳しい空気に包まれた。
「――用件は分かった」
団長用の大きなテントの中、一人冷静なファウストは頷いて立ち上がる。
その隣にいるアシュレーは心なしか青い顔をした。道中、ウェインが離脱した事を伝えると落ち着かない様子をみせていた。
「陣を引き払い、ラジェーナ砦を再度奪取する。チェスター、こちら側の扉は開いていなかったんだな?」
「はい」
「仕方がない、森を抜けて横合いから敵陣を強襲する。その後改めて砦を落とそう」
土埃だらけで、傷だらけ。それでもチェスターの怪我はまだ軽傷だ。共に来ていた先輩のチャールズはチェスターを庇い怪我をした。今は治療中だ。
「ですがファウスト様、このままでは背を突かれます。まずは目の前の敵を……」
「幸い昨日の時点で一番厄介だったダークブロンドの男と頬に傷のある男は王都側へと単騎で向かった事が確認され、戻ってきていない。人数は多くても今は雑魚ばかりだ。三十分でカタを付けるぞ」
言うが早いか、剣を手にして立ち上がる。この状況でも疲れも見せず、雄々しい姿は兵を導く軍神のそれだ。
「とりあえず片付け、時間を稼ぎその間に本陣を撤退させる。アシュレー、本陣の引き払いを頼む。オリヴァー、殿頼むぞ」
「畏まりました、ファウスト様」
仰せつかったオリヴァーが頭を下げ、アシュレーも剣を持って戦場へと向かう。その背中を呆然と見ていると、オリヴァーがトンと肩を叩いた。
「大丈夫、あの人を信じなさい。貴方も少し休んだら手伝ってください。本陣の引き払いは意外と時間がかかります」
穏やかに伝えられるその声にほっとさせられる。危機迫る状況なのに大丈夫だと思わせてくれる。師団長の存在の大きさを知ったようで、チェスターは薄らと目を潤ませた。
そして思う、どうかウェインや他の先輩も、無事であれと。
▼ランバート
砦の上から双眼鏡を使い、眼前の戦場を睨む。
幸い大砲はあの一台だけで補充はなく、シウスの風に煽られた敵陣は焼け野原状態だった。
だが、どこからか補充された総数は減っていないように見える。
砦の上から降りて、シウスに事を報告すると待機を言い渡された。こちらの負傷は大きく、補充なくして攻めに転じる事は不可能だ。
幸い伝令は森を抜けられたと考えられる。これは昨夜戻ってきたイゴールとクルーズの証言だった。チェスターとチャールズの二名が先へと向かった。
更にあちらに大砲がなくなった。これで無理矢理砦を破壊するという戦法は封じられたと考えられる。
だが同時に咎められ、悲しい顔をさせてしまった。
武器庫の破壊は物理的にかなりダメージを与えられた。だがその代償にランバートを失う事はできないのだと、シウスは説教と共に抱きしめ、短くなった髪を気遣わしく撫でてくれた。
その後、怪我人のところを回って様子を見て、ランバートはウェインのいる部屋を訪ねた。
処置室の隣にある部屋は重篤な状態が続いている怪我人の部屋で、エリオットが常駐している。
ウェインはどうにか息をしているという状況で、意識は戻らないまま。エリオットを含む医務班もほとんどがそこで忙しくしている。
「エリオット様、ウェイン様の状態は」
問えば、多少疲れの見える顔でエリオットは向き直る。そして、難しい顔をした。
「まだ危険です。矢は深く左肺を傷つけ、出血は多かった。止血の処置が大変だったくらいです。気胸の症状もあり、抜けるまで針で空気を抜いて閉じたのですが……」
それでも意識は戻らない。呼吸も苦しそうなままだ。
「ここまでで、かなりの力を使ってしまっています。このまま出血が止まって、気胸の症状も治まってくれれば危険な状況を脱する事ができるのですが、危篤状況になれば危ない。再手術に耐えてくれるだけの力があるか、分かりません」
「……分かりました」
「それでも裂傷は大きくなかった。肺の一部切除まではしなくてすみました。それに、背中側からでよかった」
「それというのは?」
「もしあの位置を正面から受けていたら、ウェインは助からなかった。矢は綺麗に肋骨の隙間を付いていました。正面からなら、心臓の一部を傷つけた可能性があります。もしそうならなくても太い血管を傷つけ、大量出血を起こしたでしょう。砦に戻るまでに死んでいました」
運がよかったのだと、言えなくはない。だが、まだ油断はできない。
「他の者達は?」
「はい。ボリスは微熱があるようですが、意識はあります。少し指先が痺れるみたいですが、マッサージでかなり改善を実感できるようです。神経や筋に傷が付いている様子はなく、反射や動きにも問題はありませんでした」
本人は少し落ち込んでいた。この程度で動けないなんて情けないと。でも、今は静かに休んでいる。無理をして腕を痛めれば今後に響くし、意外なことにフェオドールの名を出すと大人しくなった。
いわく「悲しい顔をされるのは嫌だ」なんだそうだ。
「ハリーは元気です。多少コブになっていますが、頭痛や吐き気、目眩はなく、四肢の反応は正常です。記憶力のテスト、筆跡のブレもなく、計算テストも正常範囲内です。ですが今日一日は大人しく休むように言ってあります」
ハリーはつまらなそうだった。けれど元気にご飯も食べた。そして、他の人を心配していた。
「コンラッドは動けています。多少痛む様で足を庇っていますが。今はゼロスが側について助けながらです」
一番軽傷だったコンラッドにも、本当は休んでもらいたい。だが彼は負傷したボリスやハリーの分もと動きたがる。だからこそ、簡単な見回りやクリフの手伝いをお願いした。
「クルーズ先輩とイゴール先輩は痛むみたいで熱も少しあります。ですが、意識はあってずっとウェイン様を心配していました」
実際には泣きながら謝罪していた。残り一人となり、警戒を怠った。それに、ずっと気が進まなかった戦いだからだ。どこかで、「これ以上は戦いたくない」という気持ちがあったらしい。
結果、ウェインがこの状態になった。そんな甘い自分達が許せないと、動けないまま泣いていた。
「ランバートは?」
「え?」
問われて、一瞬きょとんとする。だがエリオットは気遣わしい顔をしてランバートを座らせ、上半身を脱がせて背中に回った。
「少し、肌がめくれていますね。水疱も少し。消毒は?」
「今朝方クリフに手伝ってもらい、洗ってもらって消毒と薬を」
「それでも辛いでしょ。それに、微熱がありますね?」
「……はい」
軽傷だし、ウェインがこの状態で煩わせたくなくて黙っていたが、多少怠く体が熱かった。火傷の影響だろうとは思ったが、悪化はしていないし黙って治療も受けている。多分明日には下がるだろうと思っていた。
「全体的に軽度ですし、綺麗に治ってくれるでしょうが範囲が広かったのが気にかかっていました」
エリオットは丁寧に薬を塗り直して綺麗な包帯にかえ、ランバートに服を着せて一つの薬包を渡した。
「微熱なら、この薬で下がると思います。痛みも止みますし、少しですが眠くなる成分も入っています。眠れなかったのでしょ?」
「少し」
背中がつくとヒリヒリと痛んで眠れなかったのだ。
「これを飲んで、貴方も少し休みなさい」
「ですが……」
「貴方も怪我人です、無理はいけない。私もいますし、シウスもいる。ラウルが見張りをしてくれていますし、貴方も休みなさい」
「……分かりました」
いつ状況が変化するか分からない。その時に動けないのでは話にならない。
ランバートは苦笑して薬をしまい、部屋に戻っていった。
思った以上に体は疲れていたんだと思う。薬を飲んで横になると、あっという間に意識が沈んでいった。
そうして見た夢は、妙にはっきりしていた。
宿舎にある訓練用の森。第二師団も訓練でよくお世話になる場所だ。
だからこそ、これは夢だとはっきり分かる。今は前線砦にいる。王都に戻ってきた記憶はない。とても穏やかで懐かしい光景は少し胸に響いた。
「ランバート」
明るい声に顔を上げると、いつもと変わらない明るい笑みを見せるウェインがいる。本当にいつもと何も変わらない。今、生死の境を彷徨っているなんて思えない姿だ。
「ウェイン様?」
「ランバート、有り難う。色々楽しかったよ」
「え?」
何を、言っているのだろう。頭がこの言葉を拒絶している。まるで死に際の言葉だ。
それでもウェインは笑っている。真っ直ぐに見て、近づいて、抱きついて。
「不甲斐ない上官でごめんね。でも僕はランバートと一緒に仕事できて誇らしかった。有り難う」
「何を言っているんですか、ウェイン様。これからも貴方は俺の上官で、楽しい時間を過ごすんですよ」
震えながら触れた肩に、触れられなかった。まるで幽霊だ。すり抜けて……でもウェインは抱きついているんだ。
「そう、だね。そうなるように、僕も頑張っているんだけどね。頑張れるか、分からないんだ」
「なにを……なんの冗談を言っているんですか! 貴方は!」
見上げてくるウェインは泣き笑いだった。その顔に、言葉が出なくなった。
「アシュレーに、ごめんって言っておいて。楽しかった、幸せだった、愛してるって、言っておいて」
「ご自分で言ってください!」
「……そう、だね。でもね、念のため。ごめんね、嫌な事頼んで。でも、ランバートしか頼める相手、いなかったんだ」
頬を濡らしたウェインが消えて、森だけがある。
そのうちにランバートも意識が沈み込んで、また消えていく感覚に落ちていった。
目が覚めると、外は濃紺になって夜が近かった。
飛び起きて息を吐く。不安だからってなんて夢を見てしまったんだ。まるで、遺書のような。
「ランバート!」
アルブレヒトの声に驚いて飛び出した。そして、青い顔をしたアルブレヒトを見て、この予感が、あの夢がリアルな事に思えてランバートはウェインのいる部屋へと走っていった。
「ウェイン、しっかりなさい!」
扉は開けっぱなしで、人が出入している。エリオットの切迫した声に心臓がギュッと握られるような痛みを感じて部屋に飛び込んだ。
「っ!」
枕元が、綺麗な赤い血で濡れていた。ウェインの口元も同じだった。小柄な体はぐったりとしていて、片方の胸しか上下していない。
「手術準備! 血液確保! 急げ!」
「準備できました!」
「すぐに移動させる!」
運ばれていくウェインを見送って、確信した。あの夢はただの夢じゃない。ウェインが見せた、遺書だった。
あれから、何時間たったんだろう。ランバートはアルブレヒトと一緒に砦の中にある小さな祈りの間にいた。
前線のここでは死者も出る。だから死んだ者を弔い、祈りを捧げる為の場所。
アルブレヒトは祭壇の前に膝をついて、もうずっと手を組み祈っている。
「アルブレヒトさん」
「……例え命が短くとも、私は神の力を手放すべきではなかった」
「え?」
振り絞るような声に、ランバートは情けなく声を上げる。祈る事を止めないまま、アルブレヒトは尚も続けた。
「私は今まで神に対価を払う事で、失えない者の命を救って貰っていました。その力があれば、ウェインを救えたのに。今の私はただの人と同じく、こうして神に彼の無事を祈るしかできない。役立たずです……」
祈る手が震えている。絞り出す声に、ランバートは俯き隣に膝をついて、同じく祈った。
「それでも、貴方は生きなければならない人です。それにきっと、神は貴方を見ている。そう、思います」
どうか、諦めないでほしい。あんな悲しい遺言で終わらないでほしい。第一どんな顔でアシュレーに伝えればいいんだ。大切な人を失えば無事ではない。口では耐えると言っていたけれど、耐えられるものじゃない。きっと、壊れてしまう。
背後で人の気配がして、次々に膝をつくのがわかった。振り向くと第二師団が、そしてシウスやラウル、ジェームダルの面々までもが一心に祈っていた。
神がいるのなら、この願いを聞き届けてほしい。彼の命を奪わないでほしい。こんな所で失っていい人じゃない。
その祈りは一晩中、窓から清らかな朝日が差し込むまでずっと続いていた。
▼エリオット
ウェインの手術を始めて、どのくらいたったか。額に汗が浮いてくる。それでも止血はどうにかなった。
「空気を抜きます」
彼の左肺は肺出血と気胸による空気でパンパンに膨らんでいた。それが、心臓まで圧迫していた。一時、心臓が止まりかけて急ぎ心臓マッサージをしながらの手術になった。
太い針を刺し、中の空気を抜く。これを繰り返して、排出できない空気を抜いていき、常の大きさまで戻すのだ。
それに、ほとんどが出血に伴う肥大だった。昨日も止血の手術をしたが、薄くなった部分からにじみ出していたようだった。
「呼吸と、心拍」
「保てています」
「早く空気を抜かないと」
だが焦れば危ない。きっと体力はギリギリだ。これを耐えただけ、彼は頑張っている。だが、次は駄目だ。意識が戻って回復を見せれば再手術も考えられるが、こう立て続けでは保たない。今、完璧に処置してしまわなければ。
無事に空気が抜け、左肺も僅かではあるが膨らみ、そしてしぼむ。動きは悪いが、徐々に回復すれば戻っていくだろう。多少の酸素不足は感じてもリハビリもできるはずだ。
心配した出血も見られない。閉じても、問題ないだろうか。
もう一度確かめてから、エリオットは開いた部分を閉じた。
空はすっかり夜になっていて、他の医務班も思わず息を吐く。
「経過はこちらで診るので、先生は少しお休みください」
「ですが……」
部下の声を否定して、血の付いた手袋や服を脱ごうとして、体が強ばった気がした。それに、酷い疲労も感じた。
「先生だって人間ですから、無理はできませんよ」
「交代です、先生。それに、何かあった時に先生が動けなかったら困るんですからね」
こうまで言われてしまうとどうしようもない。苦笑して、手術用の服も脱いでエリオットはウェインの部屋のソファーで仮眠を取ることにした。
お願いだから、このまま生きて。出血が止まり、気胸の症状が回復すれば動ける様になる。意識が早く戻って欲しい。また、あの屈託のない笑みを見せて欲しい。
エリオットは神に祈り、長い一日を終えた。
遠く、陣営が見える。人の気配も見える。それを睨む騎士団陣営は一気に厳しい空気に包まれた。
「――用件は分かった」
団長用の大きなテントの中、一人冷静なファウストは頷いて立ち上がる。
その隣にいるアシュレーは心なしか青い顔をした。道中、ウェインが離脱した事を伝えると落ち着かない様子をみせていた。
「陣を引き払い、ラジェーナ砦を再度奪取する。チェスター、こちら側の扉は開いていなかったんだな?」
「はい」
「仕方がない、森を抜けて横合いから敵陣を強襲する。その後改めて砦を落とそう」
土埃だらけで、傷だらけ。それでもチェスターの怪我はまだ軽傷だ。共に来ていた先輩のチャールズはチェスターを庇い怪我をした。今は治療中だ。
「ですがファウスト様、このままでは背を突かれます。まずは目の前の敵を……」
「幸い昨日の時点で一番厄介だったダークブロンドの男と頬に傷のある男は王都側へと単騎で向かった事が確認され、戻ってきていない。人数は多くても今は雑魚ばかりだ。三十分でカタを付けるぞ」
言うが早いか、剣を手にして立ち上がる。この状況でも疲れも見せず、雄々しい姿は兵を導く軍神のそれだ。
「とりあえず片付け、時間を稼ぎその間に本陣を撤退させる。アシュレー、本陣の引き払いを頼む。オリヴァー、殿頼むぞ」
「畏まりました、ファウスト様」
仰せつかったオリヴァーが頭を下げ、アシュレーも剣を持って戦場へと向かう。その背中を呆然と見ていると、オリヴァーがトンと肩を叩いた。
「大丈夫、あの人を信じなさい。貴方も少し休んだら手伝ってください。本陣の引き払いは意外と時間がかかります」
穏やかに伝えられるその声にほっとさせられる。危機迫る状況なのに大丈夫だと思わせてくれる。師団長の存在の大きさを知ったようで、チェスターは薄らと目を潤ませた。
そして思う、どうかウェインや他の先輩も、無事であれと。
▼ランバート
砦の上から双眼鏡を使い、眼前の戦場を睨む。
幸い大砲はあの一台だけで補充はなく、シウスの風に煽られた敵陣は焼け野原状態だった。
だが、どこからか補充された総数は減っていないように見える。
砦の上から降りて、シウスに事を報告すると待機を言い渡された。こちらの負傷は大きく、補充なくして攻めに転じる事は不可能だ。
幸い伝令は森を抜けられたと考えられる。これは昨夜戻ってきたイゴールとクルーズの証言だった。チェスターとチャールズの二名が先へと向かった。
更にあちらに大砲がなくなった。これで無理矢理砦を破壊するという戦法は封じられたと考えられる。
だが同時に咎められ、悲しい顔をさせてしまった。
武器庫の破壊は物理的にかなりダメージを与えられた。だがその代償にランバートを失う事はできないのだと、シウスは説教と共に抱きしめ、短くなった髪を気遣わしく撫でてくれた。
その後、怪我人のところを回って様子を見て、ランバートはウェインのいる部屋を訪ねた。
処置室の隣にある部屋は重篤な状態が続いている怪我人の部屋で、エリオットが常駐している。
ウェインはどうにか息をしているという状況で、意識は戻らないまま。エリオットを含む医務班もほとんどがそこで忙しくしている。
「エリオット様、ウェイン様の状態は」
問えば、多少疲れの見える顔でエリオットは向き直る。そして、難しい顔をした。
「まだ危険です。矢は深く左肺を傷つけ、出血は多かった。止血の処置が大変だったくらいです。気胸の症状もあり、抜けるまで針で空気を抜いて閉じたのですが……」
それでも意識は戻らない。呼吸も苦しそうなままだ。
「ここまでで、かなりの力を使ってしまっています。このまま出血が止まって、気胸の症状も治まってくれれば危険な状況を脱する事ができるのですが、危篤状況になれば危ない。再手術に耐えてくれるだけの力があるか、分かりません」
「……分かりました」
「それでも裂傷は大きくなかった。肺の一部切除まではしなくてすみました。それに、背中側からでよかった」
「それというのは?」
「もしあの位置を正面から受けていたら、ウェインは助からなかった。矢は綺麗に肋骨の隙間を付いていました。正面からなら、心臓の一部を傷つけた可能性があります。もしそうならなくても太い血管を傷つけ、大量出血を起こしたでしょう。砦に戻るまでに死んでいました」
運がよかったのだと、言えなくはない。だが、まだ油断はできない。
「他の者達は?」
「はい。ボリスは微熱があるようですが、意識はあります。少し指先が痺れるみたいですが、マッサージでかなり改善を実感できるようです。神経や筋に傷が付いている様子はなく、反射や動きにも問題はありませんでした」
本人は少し落ち込んでいた。この程度で動けないなんて情けないと。でも、今は静かに休んでいる。無理をして腕を痛めれば今後に響くし、意外なことにフェオドールの名を出すと大人しくなった。
いわく「悲しい顔をされるのは嫌だ」なんだそうだ。
「ハリーは元気です。多少コブになっていますが、頭痛や吐き気、目眩はなく、四肢の反応は正常です。記憶力のテスト、筆跡のブレもなく、計算テストも正常範囲内です。ですが今日一日は大人しく休むように言ってあります」
ハリーはつまらなそうだった。けれど元気にご飯も食べた。そして、他の人を心配していた。
「コンラッドは動けています。多少痛む様で足を庇っていますが。今はゼロスが側について助けながらです」
一番軽傷だったコンラッドにも、本当は休んでもらいたい。だが彼は負傷したボリスやハリーの分もと動きたがる。だからこそ、簡単な見回りやクリフの手伝いをお願いした。
「クルーズ先輩とイゴール先輩は痛むみたいで熱も少しあります。ですが、意識はあってずっとウェイン様を心配していました」
実際には泣きながら謝罪していた。残り一人となり、警戒を怠った。それに、ずっと気が進まなかった戦いだからだ。どこかで、「これ以上は戦いたくない」という気持ちがあったらしい。
結果、ウェインがこの状態になった。そんな甘い自分達が許せないと、動けないまま泣いていた。
「ランバートは?」
「え?」
問われて、一瞬きょとんとする。だがエリオットは気遣わしい顔をしてランバートを座らせ、上半身を脱がせて背中に回った。
「少し、肌がめくれていますね。水疱も少し。消毒は?」
「今朝方クリフに手伝ってもらい、洗ってもらって消毒と薬を」
「それでも辛いでしょ。それに、微熱がありますね?」
「……はい」
軽傷だし、ウェインがこの状態で煩わせたくなくて黙っていたが、多少怠く体が熱かった。火傷の影響だろうとは思ったが、悪化はしていないし黙って治療も受けている。多分明日には下がるだろうと思っていた。
「全体的に軽度ですし、綺麗に治ってくれるでしょうが範囲が広かったのが気にかかっていました」
エリオットは丁寧に薬を塗り直して綺麗な包帯にかえ、ランバートに服を着せて一つの薬包を渡した。
「微熱なら、この薬で下がると思います。痛みも止みますし、少しですが眠くなる成分も入っています。眠れなかったのでしょ?」
「少し」
背中がつくとヒリヒリと痛んで眠れなかったのだ。
「これを飲んで、貴方も少し休みなさい」
「ですが……」
「貴方も怪我人です、無理はいけない。私もいますし、シウスもいる。ラウルが見張りをしてくれていますし、貴方も休みなさい」
「……分かりました」
いつ状況が変化するか分からない。その時に動けないのでは話にならない。
ランバートは苦笑して薬をしまい、部屋に戻っていった。
思った以上に体は疲れていたんだと思う。薬を飲んで横になると、あっという間に意識が沈んでいった。
そうして見た夢は、妙にはっきりしていた。
宿舎にある訓練用の森。第二師団も訓練でよくお世話になる場所だ。
だからこそ、これは夢だとはっきり分かる。今は前線砦にいる。王都に戻ってきた記憶はない。とても穏やかで懐かしい光景は少し胸に響いた。
「ランバート」
明るい声に顔を上げると、いつもと変わらない明るい笑みを見せるウェインがいる。本当にいつもと何も変わらない。今、生死の境を彷徨っているなんて思えない姿だ。
「ウェイン様?」
「ランバート、有り難う。色々楽しかったよ」
「え?」
何を、言っているのだろう。頭がこの言葉を拒絶している。まるで死に際の言葉だ。
それでもウェインは笑っている。真っ直ぐに見て、近づいて、抱きついて。
「不甲斐ない上官でごめんね。でも僕はランバートと一緒に仕事できて誇らしかった。有り難う」
「何を言っているんですか、ウェイン様。これからも貴方は俺の上官で、楽しい時間を過ごすんですよ」
震えながら触れた肩に、触れられなかった。まるで幽霊だ。すり抜けて……でもウェインは抱きついているんだ。
「そう、だね。そうなるように、僕も頑張っているんだけどね。頑張れるか、分からないんだ」
「なにを……なんの冗談を言っているんですか! 貴方は!」
見上げてくるウェインは泣き笑いだった。その顔に、言葉が出なくなった。
「アシュレーに、ごめんって言っておいて。楽しかった、幸せだった、愛してるって、言っておいて」
「ご自分で言ってください!」
「……そう、だね。でもね、念のため。ごめんね、嫌な事頼んで。でも、ランバートしか頼める相手、いなかったんだ」
頬を濡らしたウェインが消えて、森だけがある。
そのうちにランバートも意識が沈み込んで、また消えていく感覚に落ちていった。
目が覚めると、外は濃紺になって夜が近かった。
飛び起きて息を吐く。不安だからってなんて夢を見てしまったんだ。まるで、遺書のような。
「ランバート!」
アルブレヒトの声に驚いて飛び出した。そして、青い顔をしたアルブレヒトを見て、この予感が、あの夢がリアルな事に思えてランバートはウェインのいる部屋へと走っていった。
「ウェイン、しっかりなさい!」
扉は開けっぱなしで、人が出入している。エリオットの切迫した声に心臓がギュッと握られるような痛みを感じて部屋に飛び込んだ。
「っ!」
枕元が、綺麗な赤い血で濡れていた。ウェインの口元も同じだった。小柄な体はぐったりとしていて、片方の胸しか上下していない。
「手術準備! 血液確保! 急げ!」
「準備できました!」
「すぐに移動させる!」
運ばれていくウェインを見送って、確信した。あの夢はただの夢じゃない。ウェインが見せた、遺書だった。
あれから、何時間たったんだろう。ランバートはアルブレヒトと一緒に砦の中にある小さな祈りの間にいた。
前線のここでは死者も出る。だから死んだ者を弔い、祈りを捧げる為の場所。
アルブレヒトは祭壇の前に膝をついて、もうずっと手を組み祈っている。
「アルブレヒトさん」
「……例え命が短くとも、私は神の力を手放すべきではなかった」
「え?」
振り絞るような声に、ランバートは情けなく声を上げる。祈る事を止めないまま、アルブレヒトは尚も続けた。
「私は今まで神に対価を払う事で、失えない者の命を救って貰っていました。その力があれば、ウェインを救えたのに。今の私はただの人と同じく、こうして神に彼の無事を祈るしかできない。役立たずです……」
祈る手が震えている。絞り出す声に、ランバートは俯き隣に膝をついて、同じく祈った。
「それでも、貴方は生きなければならない人です。それにきっと、神は貴方を見ている。そう、思います」
どうか、諦めないでほしい。あんな悲しい遺言で終わらないでほしい。第一どんな顔でアシュレーに伝えればいいんだ。大切な人を失えば無事ではない。口では耐えると言っていたけれど、耐えられるものじゃない。きっと、壊れてしまう。
背後で人の気配がして、次々に膝をつくのがわかった。振り向くと第二師団が、そしてシウスやラウル、ジェームダルの面々までもが一心に祈っていた。
神がいるのなら、この願いを聞き届けてほしい。彼の命を奪わないでほしい。こんな所で失っていい人じゃない。
その祈りは一晩中、窓から清らかな朝日が差し込むまでずっと続いていた。
▼エリオット
ウェインの手術を始めて、どのくらいたったか。額に汗が浮いてくる。それでも止血はどうにかなった。
「空気を抜きます」
彼の左肺は肺出血と気胸による空気でパンパンに膨らんでいた。それが、心臓まで圧迫していた。一時、心臓が止まりかけて急ぎ心臓マッサージをしながらの手術になった。
太い針を刺し、中の空気を抜く。これを繰り返して、排出できない空気を抜いていき、常の大きさまで戻すのだ。
それに、ほとんどが出血に伴う肥大だった。昨日も止血の手術をしたが、薄くなった部分からにじみ出していたようだった。
「呼吸と、心拍」
「保てています」
「早く空気を抜かないと」
だが焦れば危ない。きっと体力はギリギリだ。これを耐えただけ、彼は頑張っている。だが、次は駄目だ。意識が戻って回復を見せれば再手術も考えられるが、こう立て続けでは保たない。今、完璧に処置してしまわなければ。
無事に空気が抜け、左肺も僅かではあるが膨らみ、そしてしぼむ。動きは悪いが、徐々に回復すれば戻っていくだろう。多少の酸素不足は感じてもリハビリもできるはずだ。
心配した出血も見られない。閉じても、問題ないだろうか。
もう一度確かめてから、エリオットは開いた部分を閉じた。
空はすっかり夜になっていて、他の医務班も思わず息を吐く。
「経過はこちらで診るので、先生は少しお休みください」
「ですが……」
部下の声を否定して、血の付いた手袋や服を脱ごうとして、体が強ばった気がした。それに、酷い疲労も感じた。
「先生だって人間ですから、無理はできませんよ」
「交代です、先生。それに、何かあった時に先生が動けなかったら困るんですからね」
こうまで言われてしまうとどうしようもない。苦笑して、手術用の服も脱いでエリオットはウェインの部屋のソファーで仮眠を取ることにした。
お願いだから、このまま生きて。出血が止まり、気胸の症状が回復すれば動ける様になる。意識が早く戻って欲しい。また、あの屈託のない笑みを見せて欲しい。
エリオットは神に祈り、長い一日を終えた。
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