俺の調教開発では美しい兄を飼犬にはできない

大田ネクロマンサー

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第7話 夜のいない食卓

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 2度目の平手打ちをされてから数日、夜の部屋に近寄れなかった。その代わりに夢精をしなくなった。相変わらず自慰も最後までできなかったが、その内容が少し変わった。それは兄が他の男に抱かれている想像であり、そして最後までできない理由は単純に悲しみからだった。

 部屋に近寄らないとこんなにも兄と会わないものかと感嘆する。ただ今日は話題があったので朝に話しかけてみたが、安定の無視で取り付く島がなかった。大学なんてもう春休みだろうに、夜は学校に行くと言っていた。だから自分でもどうかしていると思うが、学校帰りに夜の大学に来た。

 大学は自分の畏怖とは裏腹にとても朗らかで自由な雰囲気だった。街路樹を抜けて門のない学校に制服のまま入る。学校内にはちらほら人がいて、色とりどりの服を着て笑っているが、誰も制服姿の俺のことなど気にもとめていなかった。外のベンチで分厚い本を広げて蹇々諤々やっている人がいると思えば、片手にコーヒーを持って青春を謳歌するカップルもいる。

 今自分が感じている以上に新鮮な驚きだった。その驚きで自分が抱える全ての息苦しさが途端に幼稚なものに思える。夜はこの学校でどんな学生生活を謳歌しているのか思いを馳せたが、一緒に学生生活を送ることは一生ないのだとも胸が痛んだ。顔を上げた視線の先に、コの字の校舎を人だかりが通り過ぎる。その中から2人だけこちらに向かって歩いてきた。遠くからでも歩き方や立ち姿で夜とわかる。きっと夜もそれに気がついたのだろう。不自然に視線を逸らし、隣の男性が訝しがっていた。

「夜!」

 夜の前まで走り出す。前に着くと同時に隣の男を見た。

「学校見学?」

 隣の男は優しい声で話しかけるが、無視して夜に話しかける。

「兄さん、ちょっと時間ちょうだい。大事な話があるんだ」

「ええ!? 君、雪白君の弟なの!? 全然似てない……しかもかわいい……」

 夜が俺を無視し続けるので隣の男と話しているかのようになってしまう。空気を読めと男を睨んだ時に、男の視線に違和感を覚えた。

「夜、今日は家に帰ろう」

 俺が掴もうとした手を夜は叩き払い退ける。

「ちょ、ちょっとどうしたの? 喧嘩でもしてるの? 雪白君、今日は家に帰りなよ」

 今日は? 夜を宥めようとする男の横顔に、俺は確信めいたものがあった。だから夜の腕を強引に掴み歩き出す。引きずられるように少し歩いた先で夜が俺の手を振り解こうとしたから、腕を引っ張り顔を寄せた。

「夜、あの男はダメだ。お願いだから一緒に帰って。今までのことも全部謝る。気の済むようになにしてもいいから……!」

「離してっ!」

「離さない、夜。お願いだ。もう嫌なら俺が出ていくから」

「じゃあ今どっか行ってよ! 目の前からいなくなってよ!」

 そう言い放つ、憎悪と侮蔑を滲ませた夜の顔に、絶望よりも妙な納得感があった。そうか、と素直に思えた。超えてはいけない線を超えていないと思っていたのは自分だけで、とっくに俺は軽蔑されている。危険な感じのする隣の男よりも、自分の方がよっぽど危ないのだ。振り解こうとする夜の腕を渾身の力で握っていたが、花を手折るように腕を叩かれてそのまま腕を下ろされた。

「本当に大丈夫なの?」

 嘲笑まじりの声に顔を向ける気力もなかった。夜が男とどんな顔で歩き出すのかも見ることができなかった。最近立ち尽くすことが多い。地面を見ながらそう思ったが、袋小路には同じ地面しかないのだと少し笑った。



 家に帰ると予定調和のように、母親がはりきって料理を作っていた。

「灯! おかえりなさい! ケーキも買ってきてあるわよ」

 ダイニングには俺の誕生日を祝う料理が3人分、所狭しと並べられている。

「お母さん、兄さんは今日帰ってこれないかもしれないって……」

「え!? そんなこと聞いてないわよ? 大丈夫よちゃんと覚えてるから夜が帰ってくるまでちょっと待ってて」

「さっき会ったんだよ。先に誕生日プレゼント貰っちゃった」

「ええー、なに貰ったの?」

「秘密、学校の用事で忙しいからって合間に来てくれたんだよ」

「よかったわねぇ、でも言ってくれれば料理減らしたのに……」

「兄さんもきっとごめんって思ってるよ……でも俺が兄さんの分まで食べるから大丈夫。お母さんの料理独り占めだ!」

「もう、この前もお腹壊してたじゃない。ほどほどにね?」

 母と笑って料理の用意をはじめる。息をするように嘘を吐き、母の顔色を伺う。この嘘で固めた擬似的な感覚で本当の母親を思い出す。今考えれば母は何かに疲れ、育児放棄をしていたのだと思う。思い出の中の母はいつも後ろ姿だった。唯一覚えている顔は呪いの言葉とともに刻まれている。

「灯がいなければ」

 母は本当に俺を憎んでいるとは思えなくてどんなに邪険にされても抱っこをせがんだ覚えがある。今の夜と全く同じだ、そう思った時にストンと心が整理された。

 俺さえいなければ夜に嘘をつかせることも、母の手料理を食べる機会も奪うことはなかったのだ。俺さえいなければ夜にあんな憎悪や侮蔑の滲む顔をさせることもなければ、悲しい思いをさせることもなかった。俺さえいなければ息子をこんなに悲しませることもなければ、汚されることもなかったのに。卑しい保身で真実を眩ませ、今、生まれてこなければよかった人間の誕生日を、夜の母に祝おうとしてもらっている。

「おかあさん……ごめんね……」

 なにか言わなければ発狂しそうだった。でもその声は相変わらずくぐもって、自分が思う何倍も小さかった。母には聞こえなかったのだろう、無言でサラダを洗う音がする。

 もう誰に謝罪したって取り返しのつかないことをしたのだ。自分の気を晴らすためにこんなことをさらけ出し、これ以上彼らの人生に干渉することは許されない。
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