生きるのがツラくてなにが悪い!

大田ネクロマンサー

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キスで変わる世界

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 彼の名は椎名アキラという。椎名という漢字がこれであっているかわからないが大抵の場合この漢字を使うだろう。下の名前は口頭で聞いただけだからどんな字でアキラと書くのかわからなかった。いやもはやそんなことはどうでもいい!

 家に入るなり僕は玄関ドアに背中からもたれかかり動けなくなる。

 人生で初めてキスをした。あんなかっこいい今風のイケメンが僕にキスをしてくれた!

 カバンをその辺に投げ捨てネクタイもちぎりとってベッドに飛び込む。枕に顔を埋めさっきのことを思い出す。


 唇が離れたら、彼の綺麗な睫毛がゆっくり動いて、あんなに遠かったキラキラが眼下に輝いてる。僕を覗き込むそのあざとい顔に思わず息を飲んだ。

「っ……」

「椎名アキラ。おっさんは?」

「す、す、須藤光輝……です……」

 椎名君が僕の頬を撫で、ふーんとニヤニヤ笑う。

「もう一回してほしい?」

 必死で頷くと、椎名君は笑った。

「じゃあ明日も会社帰り寄ってよ。俺の踊りも見てくれるでしょ?」

 その言葉にまた必死で頷いている間に、椎名君はその辺のものを片付け始める。

「も、もう帰るの?」

「うん。また明日な、おっさん」

 もう一回くらいしてくれないかなと期待している僕を尻目に椎名君は颯爽と歩き出した。



 その帰りざまの流し目! そしてあのかっこいい後ろ姿!! そして……。

「また明日ーーーー!!」

 我慢ができなくてベッドで足をバタバタさせてしまう。もう今日は歯磨きしない! 唇しか触れてないけど歯磨きしない!

 ベッドに仰向けになり、胸の鼓動を解放する。椎名アキラ君。なっんて素敵な名前なんだ……! それにとてもかっこいい。あんなかっこいい子僕の会社に1人もいない、いやこの街、いやこの国でもトップを争うイケメンではないだろうか。

 フワフワだけどツンツンした短髪にスッキリした襟足。彫りの深い顔になんていってもあの高い鼻! 目は一重だけどくっきりしててキラキラ輝いて……。

 これは明日100万円の壺を売られたら買ってしまうかもしれない。あの界隈でおじさんをたぶらかして詐欺を働いていたとしても! 僕にキスをしてくれた! それは揺るぎない事実なのだ! 壺を売られたら断ればいいだけなのだ!

 その時、ハッと気づいて再びうつ伏せになる。

 椎名君はいつも違う場所で友達と一緒にダンスをしていた。最近見かけなくなったから僕は随分探して、やっと見つけた時には椎名君しかいなかった。そして今日話しかけられた時言っていた。帰り道変えたのか、と。

 さらに! さっきは気が動転していて、友達と比べられるのか嫌なのかと思っていたけど、言っていた。誰目当てなんだよ、と!!

 再び枕に顔を埋めて考える。

 椎名君は僕のこと気がついてくれてた。そして、今日他の誰目当てで来てたんだと問われた。

「椎名君ーーーー!」

 我慢ができなくて足をバタバタさせてしまう。もう椎名君しか見てないです! 実際他の子なんかより群を抜いてかっこいいし、ダンスもうまかったから、こんなおじさん見向きもしてくれないだろう……っていうか全然! そんないやらしい意味ではなく! 本当に憧れていただけなんだ!!

 はわわわ……明日壺売られた時ちゃんと断れるかな……。でも万が一! 椎名君が、僕を好きだって言ってくれたら!!

 ……どうしよう。やだ……明日死んじゃうかもしれない。あんなかっこいい子が、僕を好きになるなんて……。そんな奇跡あるのかな……。

「でもまた明日ーーーー!」

 明日もダンス見せてくれるって言ってた! ついでに補足すると、キスしてくれた後、もう一回してほしい? と言ったわけなので、ダンスを見ることを条件にキスをしてくれるという契約であり、もし瑕疵があれば契約上こちらも契約期間内だったならば申し立てをできるのだ!

 もう壺を買わされることとごっちゃになってて、何を考えてるか分からなくなっちゃったけど!

 椎名君は! 明日もキスをしてくれるかもしれない! 頑張らなければ!

 頑張る? 頑張るって何を……。

 冷静になって起き上がった。ベッドの上で寝ながら暴れまわったのでスーツがしわくちゃになっていた。そしておもむろに時計を見るとびっくりするくらい時間が経っている。

 部屋を見渡せば一人暮らしだからやけにモノが少ない寂しい風景だった。しかし昨日見ていた自分の部屋とは全く違う。なんだか見ていてワクワクするのは、椎名君が来るかもしれないという淡い期待からだろう。どんなに否定しようと思っても心の隅で期待してしまう。

 クローゼットの前でスーツを脱ぐ。これも昨日見ていた風景とは全く異なっていた。

 明日ちゃんとした下着はいていこうかな……。

「じゃねーよ! なんもねーよ!」

 唐突な大声に自分自身がびっくりする。恋する36歳って怖い、でも明日が楽しみで胸が張り裂けそうだ。

 風呂に入っても酒をちびちびやっても、今日のあのキスを何度も思い出してはニヤニヤしてしまう。明日の運勢や、仕事のタスクや、若い子に人気のデートスポットなど、公私混同でネットを閲覧しているうちに、夜が明けてしまった。貫徹である。



 徹夜明けの朝は眩しい。桜は散ったが僕は春真っ只中だ。いい陽気の中出社も嬉しい。今日は金曜ということもあってか街中がウキウキしているように感じる。
 会社の自席に着くと黒船マーケターが先に出社して仕事をしていた。

「おはよう、早くからありがとうね。この間の……くぁ……企画の数値集計してくれてるの?」

「はい、須藤さん眠そうですね。彼氏が寝かせてくれなかったんですか?」

「いやぁ……そんな、まだそういう段では……彼氏?」

「あ、すみません。女子社員に言う感覚で言っちゃいましたよ」

「それにしてもセクハラじゃない? 気をつけないと後でおっかない目に遭うよ」

「ははっ、須藤さんおっかない目に遭ったんですか?」

「いや、僕はないけどさ、そういうご時世じゃない」

 会社の朝のどうでもいい会話も今日はすこぶる楽しくてニヤニヤが止まらない。昨日までの鬱屈とした気分はどこへいったのだろうかと思えるほど職場も輝いていた。

 この黒船マーケターに、いや会社中に、昨日若いイケメンにキスをされたことを自慢したい衝動を必死で堪える。そしてすっかり忘れていた昨日帰り際に抽出したデータを思い出し、仕事に取り掛かった。今日はちょっと早く仕事終わらせるぞ!
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