約束へと続くストローク

葛城騰成

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第四章 心煌めくストローク

第十七話 璃子と勝負!②

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 ウチが予選落ちした全国中学水泳競技大会で、璃子は自由形の100メートルで一位を飾った。校門をくぐった璃子を、活躍を聞いた同級生や後輩が囲むのを見た時には、自分と璃子の住む世界が変わってしまったかのような錯覚を覚えた。
 普段は全然璃子に話しかけないくせに、とか。この間まで璃子のことを冷たい奴だって言って陰口を叩いていたくせに、とか。皆の手の平の返し様に呆れや怒りを感じていても、拳を握りしめて木陰から見つめていることしかできなかった。
 あの時もっとうまくやれていたら、とか。璃子のプレッシャーに恐怖しなければ、とか。ちゃんとした泳ぎができなかった自分を何度も呪った。全国に行けていれば、あんな風に皆から褒め称えてもらえたのだろうか。
 全国に行くことすらできずに、あっさりと終わってしまった中三の夏。璃子に負けてしまったことよりも、恐怖してしまった自分が嫌になって、そんな自分を変えたくて立清学園の門を叩いた。強くなって今度こそ、あいつに勝つんだ。あの日誓った覚悟は今も変わっていない。

 100メートル自由形の予選をそれぞれ別の試合で突破したウチと璃子は、背泳ぎや平泳ぎの予選が終わった後、決勝で相見えることとなった。額に装着されているゴーグルのフレーム部分を両手で掴みながら、プールの水面がゆらゆらと揺れる様を見つめる。本番直前にもかかわらず、やたらと心は落ち着いていた。
 ウチの右隣にいる選手がパチンパチンと音を鳴らしながら肩や腕を叩いていても、この会場のどこかに柊一君がいるかもしれなくても、動じない。左隣にいる璃子も平然とした表情を浮かべていて、ウチと同じような心境で臨んでいるように感じた。
 立清学園の生徒たちが座っている観客席を見上げる。先程までウチが座っていた場所に、中條ちゃんが座っているのが見えた。みっちーと中條ちゃんがどんな表情をしているのかはわからないけど、ウチと璃子を応援してくれているんだろうって想像がつく。
 入学してからまだ四ヶ月しか経っていない。毎日のように涙で枕を濡らしていた去年の夏が、随分と昔のことのように感じる。やっと雪辱を晴らす時がきたんだ。
 適度な緊張感だ。頭は冷えているのに、体は熱くなっている。観客が発するざわめきも、選手間で発生しているピリッとした空気も、今はすべてが心地いい。
 ゴーグルを装着して、スタート台の上へと移動していく。台の先端に両手を、片足をバックプレートに乗せ、いつでも飛び込める体勢へ。
 さぁ、ここから始めよう。最高の泳ぎを。

 ――Take your marks.

 蛇口から漏れた一粒の水滴が、バケツに溜まった水の上に落ち、ポチャンと音を立てて水面に波紋が広がるように……ウチの凪いだ心を揺るがす電子音が響いた。
 静から動へ。静謐から騒乱へ。スタートの合図と共に、選手たちが力強く飛び込んだ。
 入水した瞬間、外の音がシャットアウトされた。自分の吐息や水を掻き分ける音だけが、ウチの耳を支配する。ああ、やっぱり水の中が好きだ。雑音がないし、綺麗だし。
 光の柱が優しく照らすセルリアンブルーの世界を進みながら、空を飛んでいるかのような浮遊感を味わう。ウチの速さに誰もついてきていない。いきなりトップに躍り出る。
 楽しいな。もっと速く泳ぎたいな。このまま全員を置き去りにしたいよ。
 最初から全力。駆け引きなんて知らない。ウチはただ、ウチの泳ぎをするだけだ!
 璃子、あんたが終盤で全力を出しても追いつけないくらい引き剥がしてやる!

「……!」

 嘘でしょ。璃子が最初からウチの泳ぎに食らいついてきてる。あんたは終盤になってから力を発揮するタイプでしょう⁉
 体力があるくせにどうしてランニングを毎日行っていたのか、中学生時代によくやらされた練習をどうして最近になって再開したのか、ずっと疑問だった。本番になってやっと疑問が解消される。
 ランニングは体力増幅のために。中学時代に行っていた練習はどんなに過酷な状況でも正しい泳ぎができるように。それぞれの練習には意味があり、独立しているかに思われていた練習は繋がっていたんだ。
 後者の練習方法の神髄には、もっと早く気付くべきだった。普段の自分とは違う泳ぎをすると、ストリームラインが崩れてしまう恐れがある。だから璃子は、ビート板を使ってさまざまな状況を故意的に作り出していたんだ。
 彼女が攻め方を変えた理由はただ一つ。序盤からウチに食らいつくことで、ウチにプレッシャーを与えるのが狙い。ウチの精神を削れば、途中で逆転できると考えたんだろう。
 ほかにも選手がいるのに、ウチの対策しかしてないなんてどうかしてる。すべてをこの瞬間のために捧げすぎでしょ。本当、あんたには毎回驚かされてばかりだわ。自分のプレイスタイルを変えてまで勝とうとしてくるなんて!
 ウチのことなんて全然意識してないような態度をとっておいて、めちゃくちゃ警戒してるじゃない。
 嬉しい。意識していたのはウチだけじゃなかったんだ。胸の奥底から熱い気持ちがマグマみたいに溢れてくる。
 みっちーや中條ちゃんに会う前だったら、取り乱しちゃってたと思う。無様に去年と同じ過ちを犯していたでしょうね。
 わかった。そっちがその気なら、最後までそのスピードを維持できるか勝負しよう。ウチはずっとこのスタイルで戦ってきたんだ。こっちのほうが有利なんだから!
 さらに速度を上げる。璃子と横並びになっていた状況から抜け出して、ウチが一歩リードする。その状況を維持したままあっという間に折り返し地点へ。いつもならターンで差をさらに広げているところだけど、今回はそううまくいかない。
 しっかりと距離を維持した状態でついてこられているのが、背後から感じるプレッシャーでわかる。何度体験してもこの圧には慣れないものだ。ちょっとでも気を抜けば追い抜かれてしまうので、生きた心地がしない。
 でも、楽しい。この生きるか死ぬかという状況が、楽しくて仕方がない。
 ほかの選手と競っているのでは絶対に味わえない感覚。スリルがたまらない。
 ウチが体力をつけようと璃子の特訓に付き合っていた理由は、トップスピードをなるべく長い時間維持できるようになるためだ。最初から最後までギアを極限まで上げた状態で泳ぎ切れれば、どれだけ競争相手が速くても関係ない。
 そろそろ璃子は限界なんじゃない?
 ウチにプレッシャーをかけるために序盤から畳みかけたのは間違いよ。
 あんたの強みである中盤から終盤にかけて追い上げをする余力がないでしょう?

「ッ――!!」

 唐突に、璃子のプレッシャーが強くなった。彼女の水飛沫をあげる音が近付いてくる。
 とっくに限界を迎えていてもおかしくないのに、ここまで食らいついてくるなんて!
 そうだよね。簡単に勝たせてくれる相手じゃないよね。
 残り25メートル。泣いても笑ってもこれが本当のラストスパート。
 勝ってみせる。とっても強いあんたに!
 はやる気持ちを抑えて、一つひとつのストロークを丁寧に行っていく。
 崩れるな! 崩すな! 正しい姿勢が正しい結果を招くんだ。
 みっちー、ありがとう。楽しむことを教えてくれて。
 中條ちゃん、ありがとう。反骨精神を源にした強さを見せてくれて。
 あの日の涙も、悔しさも、全部無駄になんてしない。
 力を振り絞れっ! すべてを出し切れっ!
 うぉぉぉぉぉぉ!! いっけぇぇぇぇぇぇぇ!!

 ――ウチと璃子が、ほぼ同じタイミングで壁にタッチした。
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