約束へと続くストローク

葛城騰成

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第五章 恋に惑うストローク

第二十二話 無感情と怠惰と諦観と

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 虚無。柊一君に襲われてからというものの、ウチはおかしくなっていた。違和感を覚えたのは、二日目のプログラムが始まってすぐだった。
 近畿大会に出場している選手たちの激闘を見ても、先輩の活躍ぶりに歓喜する部員たちを見ても、なにを見ても心が揺れ動くことはなくて、どうでもいいと思ってしまうようになっていた。
 それだけじゃない。他人との会話を億劫に感じている自分がいた。誰かに話しかけられても「うん」とか「そうだね」とかしか言わなくなっていて、皆から怪訝な目を向けられるようになってしまった。
 一刻も早くこの場所からおさらばしたかった。会場のどこかでまた柊一君に会ってしまうのではないかとびくびくしていたからだ。結果的には、心配が杞憂に終わって良かったけれど。
 ホテルの料理を食べても美味しいと感じなくて、お風呂に入っても気持ちいいと思わなくて、寝ても疲れがとれた気がしなくて。
 無気力なのは三日目も同様だった。しかも、自分の心が死んでしまったなと思った決定的な瞬間に立ち会ってしまう。
 中條ちゃんが平泳ぎの決勝で敗れた。彼女の頑張りをずっと近くで見てきたはずなのに、なんとも思わなかった。大粒の涙を溢して泣き叫ぶ中條ちゃんと、中條ちゃんの頭を撫でるみっちーの姿を遠目で見つめながら、無味乾燥とした心地を味わい続ける。
 本当なら中條ちゃんの下へと駆け寄って、労いの言葉の一つや二つかけてあげるべきなんだろう。タオルを持ってきて頭に被せてあげるのもいいかもしれない。それが同じ目標に向かって努力をしてきた友だちへの対応というものだろう。
 だから、なんなんだろう? 彼女の涙を拭ってあげることで、なんの意味があるんだろう? それをすることで、自分の心が回復するわけでもないのに。そんな打算的なことを考えてしまう自分に嫌気がさすこともなく、ただ時間だけが過ぎていく。
 思ってもいないことを口にしたところで、彼女の傷口に塩を塗るだけだ。そう考えることで自分の行動を正当化する。これでいい。これでいいんだ。彼女を慰めるのは他の誰かがすればいい。
 試合に勝って喜ぶ者。試合に負けて悲しむ者。ここには勝者と敗者のどちらかしかいない。では、喜びも悲しみもないウチはなんなのだろう? 璃子に勝ったことでウチはなにを手にしたのだろう?
 近畿大会が終わって立清学園に戻ってきても、ウチの心に潤いがもたらされることはなかった。また明日からいつもの生活が戻ってくる。本来ならばそれは嬉しいことのはずなのに、まったく嬉しくもなんともなかった。
 相変わらず寮の部屋では、ウチと璃子は一言も言葉を交わさなかった。ウチがずっとベッドで寝転んでいたせいもあって、余計に話す機会が訪れなかった。眠かったわけじゃない。ただ、誰とも関わりたくなかった。このまま一人にして放っておいてほしかった。
 目を瞑れば、柊一君の顔が嫌でも思い浮かぶ。彼がウチの唇を奪おうとする光景が何度も甦ってくる。それでも寝ていたかった。やる気をなくした人間が、どんな顔して水泳部の皆と顔を合わせればいいのかわからなかったから。ウチがウチでなくなってしまった以上、これが最適解なんだ。
 ウチがこれまで頑張ることができたのは、柊一君にすごくなった自分を見せつけるという目的があったからだ。だからこそ、高い実力を持つ璃子にも挑み続けることができた。
 柊一君の喜ぶ顔が見たくて、彼に対して誇れる自分になりたくて、きつい練習を何度もこなしてきた。水泳を辞めたいって思ったこともあったけど、遠い場所で柊一君も頑張っているんだと思うことで、自分を奮い立たせてきた。それが今はどうだろう?
 ウチの中で柊一君という存在がトラウマになってしまった。寝ても覚めても縛られるんだ。恐ろしい光景がふとした瞬間にフラッシュバックしてしまうほどに。
 璃子が声を掛けてくることはなかったけど、ウチを怪訝に思っているのは確かだ。彼女と目が合う度に気まずい空気になってしまう。
 それに、病気の時に感じる倦怠感とは違う体の重さを常に感じていた。最初は近畿大会の疲れのせいだと思っていたけど、いくら寝ても良くなる兆しが見えなかった。明らかにウチは体調を崩している。それも、精神的なダメージによって。
 朝が怖い。皆に会うのが怖い。自分がなにもできなくなったことを認めるのが怖い。結局、そういった恐怖を拭い去ることができないまま次の日がやってきてしまった。

「いつまで寝ているの? 早くしないと朝練に間に合わないわよ」

 璃子の言葉が耳に入ってきた途端、涙が溢れた。どうしようもないくらい自制が効かなくて、わけも分からず泣いてしまう。

「あれ……? なんで? なんでウチ、泣いているの?」

 さすがの璃子も、ウチを見て固まっていた。目を丸くして見つめてくる彼女の瞳を直視していられなくて、すぐに目を逸らしてしまう。

「紗希……?」
「ごめん。ごめん。ごめん。ウチ、ウチはもう……部活に行けないっ‼」

 立ち尽くす璃子に何度もごめんと訴える。それは嘘偽りのない本心だった。もうウチはライバルではいられなくなっちゃうから。もう、ウチは戦えないから。だから、ごめん。

「璃子はっ! ウチのことなんて放っておいて部活に行きなよ!」

 情緒が不安定すぎるって自分でも思う。謝ったと思ったら、今度はどこからともなく湧いてきた怒りに身を任せて叫んでいた。

「え、ええ……顧問にはあたしが伝えておくから、今日は休んでるといいわ。最近の貴方はだいぶおかしいから」
「うん。そうする」

 璃子が部屋を出ていく。バタンとドアが閉じられる音がやけに大きく聞こえた。
 皆が朝練に出ているからか、寮内はとても静かだった。その静けさに抱かれるように、ウチは眠りに落ちていく。薄れていく意識の中、ウチの脳裏を退部の二文字が過った。
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