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第五章 恋に惑うストローク
第二十一話 恋心なんてなければよかったのに
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三人はいつも仲良しでズッ友。ウチらならいつまでも笑い合って過ごしていけるって信じていた。それなのに、恋をするようになってから付き合い方が変わってしまった。
柊一君と二人きりの時間を過ごしたい。柊一君とお付き合いがしたい。
そんな欲望が二人と平等に接することを困難にさせてしまうから、好きなんて気持ちがなければ、ずっと平穏でいられたのかなって、たまに考えてしまうんだ。例えば今だって、恋心がなければ久々の再会を祝うだけで済んだのに。
「ど、どういうこと? 柊斗君がウチのことを好きだなんて、一度も聞いたことないよ?」
「そうだね。あいつは一度も紗希ちゃんに対して好意を伝えたりなんてしてないね。そうだ。じゃあ例えばの話をしよう。これから行われる全国大会で、俺がクロールで優勝できず、柊斗がバタフライで優勝したら? 俺より先に紗希ちゃんとの約束を果たしたとしたら?」
動揺しているウチの姿が目に入っていないかのような柊一君の切羽詰まった雰囲気に気圧されて、先程まで感じていた高揚感は見る影もなくなっていた。萎れてしまった感情の代替を果たすかのように、胸中をざわつきが支配していく。
「関係ない! ウチが約束した相手は柊一君だけだよ。もし柊斗君だけが実績を残したとしても、それで柊一君のことを幻滅したりしないっ!」
もはや至近距離で会話をするような声量ではなかった。
怒鳴り声を浴びせるかのように本心を伝えるが、効果は期待できそうになかった。
「いいや、紗希ちゃんはきっと幻滅する。今までの俺は誰よりも秀でていて、誰よりも結果を残していたから、紗希ちゃんに認めてもらえていた。勝つことができなくなった俺に価値なんてないだろう?」
タイムが伸びないことで悩んでいる。先程の柊一君の言葉が脳裏を過ったことで、疑念が確信に変わる。やっぱり柊一君は、ウチに会おうとした本当の理由を言っていない。
「勝って自分の価値を証明したい気持ち、わかるよ。常日頃速くなるために部活動を頑張ってるんだもん。大会で一位を取ったら誰かに認めてほしくなるよね。でも、一回負けた程度で柊一君を見限ってしまうほどウチは薄情じゃないよ」
伝えたいことはさっきと同じだ。
伊達に五年間も遠距離恋愛してない。そう簡単に新しい春を探してしまうほど、ウチの恋は脆くない。少なくともこの時までは、ウチはウチの「好き」を信じていられた。
「じゃあどうして俺のことを好きになったんだ。柊斗よりも秀でていたからだろう? 柊斗が俺よりも才能があったら、紗希ちゃんは柊斗のことを好きになっていたはずだ!」
ウチを部屋に招き入れた頃のような爽やかな空気感は、今やどこにもなかった。冷静さを欠いて余裕を失い、語気を強めて発言するだけの醜い姿がさらけ出されている。
「痛っ……」
柊一君の握りしめる手は強くなる一方で、ウチが痛みに悶えているうちに、指と指の間に絡みこんできて恋人つなぎのような状態にされてしまう。その瞬間、ウチの全身を嫌悪感が駆け巡った。
「離してっ! 柊一君、離してよっ!」
ウチがいくら訴えても、柊一君は聞く耳を持ってはくれなかった。目と鼻の先まで彼の顔が近付いてくるけれど、涙で視界が滲み、輪郭が曖昧になっていく。
「結果や実績じゃないっていうなら、どうして俺のことを好きになったんだ!」
柊一君がウチとキスしようとしている。嫌だ。こんなの絶対に嫌だ。
ウチが好きになった柊一君はどこにいってしまったの?
どうしてこんなことになってしまったの?
「答えてよ、紗希ちゃん!」
掴まれている手を解こうと右腕を振るっているうちに、ポケットに入っていた手紙が床に落ちた。
『ああ、紗希ちゃんなら絶対になれるよ。だから、俺たちと一緒に水泳をやろうよ!』
初めてのプール見学で「柊一君みたいに泳げるようになるかな?」と聞いた時のことを思い出す。
ああ、そうだ。ウチはウチの知らない世界に連れていってくれる柊一君が好きだったんだ。
怖がりなウチが踏み出せない一歩を、踏み出させてくれる彼が眩しくて。
ウチが持っていない勇気を持っている柊一君がかっこよくて。
憧れだけで終わりにしていたら、こんなことにはならなかったのかな。
柊斗君を除け者にしていなかったら、こんなことにはならなかったのかな。
約束なんてしなかったら、青春の甘酸っぱい一ページとして、二人との思い出を心のアルバムに綴じられたのかな。
朧気な視線の先で、幼かった頃に見せてくれた柊一君の笑顔が、弾けて消えた。
「いやっ!」
彼の吐息が唇にかかった瞬間、ウチは思い切り蹴り飛ばしていた。
柊一君が壁に背中を打ちつけてベッドに尻餅をついている間に、椅子から立ち上がる。くしゃっという音が足元から聞こえた気がしたけど、気にする余裕はなかった。
「柊一君が急に会いたがったのは、ウチにこういうことをするためだったんだね……」
「あっ……違っ……」
彼が困惑したような顔を浮かべてウチに手を伸ばしていたけれど、もう話す気なんて毛頭なかった。
「紗希ちゃん!」
静止の声を振り切って走り出す。ドアを勢いよく開けて廊下へと飛び出し、一目散に階段へと駆けていく。
涙は止まらない。止まってくれない。夜の街をしわくちゃになった心のまま移動する。
あのまま彼にされるがままだったら、どうなってしまっていただろう? 考えるだけでもゾッとする。今までさんざん欲しかったはずの彼の温もりは、ウチに恐怖を刻みこむものだった。
途中、後方を振り返ったけれど、柊一君が追いかけてきている様子はなかった。
自分のホテルに到着して、自室の前にやってきても心は虚ろなままだった。柊一君の魔の手から逃れることができたはずなのに、触られていた時の感触がいつまでも抜け落ちてくれない。
錯覚だ。こんなのはまやかしだ。どれだけそう思おうとしても、瞳が、声が、体温が、彼のすべてが鮮明に呼び起こされてしまう。まるで、ウチの心だけがあの部屋に取り残されてしまっているかのようだった。
なかなか部屋に入る勇気が出なかった。ドアノブを握る手が震えて力が入らない。泣くの我慢しなくちゃ。皆の前ではいつも通りでいなくちゃ。この三日間は、大会のこと以外で心労をかけないようにしなくちゃ。そうだよ、ウチは平気。笑えるはず。元気だけが取り柄なんだから。
「貴方、今までどこをほっつき歩いていたのよ」
部屋の中に入ると、ウチが帰ってきたことに気が付いた璃子が、大股で近付いてきた。遅れてみっちーと中條ちゃんもやってくる。皆の顔を見た瞬間、再び涙を流してしまいそうになる。
柊一君と会っていた時間はそんなに長くないんだから、ランニングしてたとか、ホテルの周りを散策してたとか、言いわけはいくらでもつける。そう思っていたのに――。
「ごめん」
自分で自分に驚いていた。謝罪の言葉が出たことにも、耳をそばだてていても聞き逃してしまいそうなくらい小さい声だったことにも。
自分があまりにも惨めな存在に思えてきて、この世から消えてしまいたい衝動に駆られる。人生で初めて死にたいって気持ちになった。
「紗希……」
誰かと目を合わせてしまったら、きっと大声で泣きだしてしまうと思った。俯きながら、璃子の横を通り過ぎていく。
「金井っち……」
「金井さん……」
二人の呼びかけにも反応する気力がなくて、とぼとぼと自分のベッドへと歩いていく。
もう寝よう。なにも考えたくない。着替えるのもお風呂に入るのも面倒くさく感じて、布団を被りながら目を閉じる。
もう、疲れたよ。
柊一君と二人きりの時間を過ごしたい。柊一君とお付き合いがしたい。
そんな欲望が二人と平等に接することを困難にさせてしまうから、好きなんて気持ちがなければ、ずっと平穏でいられたのかなって、たまに考えてしまうんだ。例えば今だって、恋心がなければ久々の再会を祝うだけで済んだのに。
「ど、どういうこと? 柊斗君がウチのことを好きだなんて、一度も聞いたことないよ?」
「そうだね。あいつは一度も紗希ちゃんに対して好意を伝えたりなんてしてないね。そうだ。じゃあ例えばの話をしよう。これから行われる全国大会で、俺がクロールで優勝できず、柊斗がバタフライで優勝したら? 俺より先に紗希ちゃんとの約束を果たしたとしたら?」
動揺しているウチの姿が目に入っていないかのような柊一君の切羽詰まった雰囲気に気圧されて、先程まで感じていた高揚感は見る影もなくなっていた。萎れてしまった感情の代替を果たすかのように、胸中をざわつきが支配していく。
「関係ない! ウチが約束した相手は柊一君だけだよ。もし柊斗君だけが実績を残したとしても、それで柊一君のことを幻滅したりしないっ!」
もはや至近距離で会話をするような声量ではなかった。
怒鳴り声を浴びせるかのように本心を伝えるが、効果は期待できそうになかった。
「いいや、紗希ちゃんはきっと幻滅する。今までの俺は誰よりも秀でていて、誰よりも結果を残していたから、紗希ちゃんに認めてもらえていた。勝つことができなくなった俺に価値なんてないだろう?」
タイムが伸びないことで悩んでいる。先程の柊一君の言葉が脳裏を過ったことで、疑念が確信に変わる。やっぱり柊一君は、ウチに会おうとした本当の理由を言っていない。
「勝って自分の価値を証明したい気持ち、わかるよ。常日頃速くなるために部活動を頑張ってるんだもん。大会で一位を取ったら誰かに認めてほしくなるよね。でも、一回負けた程度で柊一君を見限ってしまうほどウチは薄情じゃないよ」
伝えたいことはさっきと同じだ。
伊達に五年間も遠距離恋愛してない。そう簡単に新しい春を探してしまうほど、ウチの恋は脆くない。少なくともこの時までは、ウチはウチの「好き」を信じていられた。
「じゃあどうして俺のことを好きになったんだ。柊斗よりも秀でていたからだろう? 柊斗が俺よりも才能があったら、紗希ちゃんは柊斗のことを好きになっていたはずだ!」
ウチを部屋に招き入れた頃のような爽やかな空気感は、今やどこにもなかった。冷静さを欠いて余裕を失い、語気を強めて発言するだけの醜い姿がさらけ出されている。
「痛っ……」
柊一君の握りしめる手は強くなる一方で、ウチが痛みに悶えているうちに、指と指の間に絡みこんできて恋人つなぎのような状態にされてしまう。その瞬間、ウチの全身を嫌悪感が駆け巡った。
「離してっ! 柊一君、離してよっ!」
ウチがいくら訴えても、柊一君は聞く耳を持ってはくれなかった。目と鼻の先まで彼の顔が近付いてくるけれど、涙で視界が滲み、輪郭が曖昧になっていく。
「結果や実績じゃないっていうなら、どうして俺のことを好きになったんだ!」
柊一君がウチとキスしようとしている。嫌だ。こんなの絶対に嫌だ。
ウチが好きになった柊一君はどこにいってしまったの?
どうしてこんなことになってしまったの?
「答えてよ、紗希ちゃん!」
掴まれている手を解こうと右腕を振るっているうちに、ポケットに入っていた手紙が床に落ちた。
『ああ、紗希ちゃんなら絶対になれるよ。だから、俺たちと一緒に水泳をやろうよ!』
初めてのプール見学で「柊一君みたいに泳げるようになるかな?」と聞いた時のことを思い出す。
ああ、そうだ。ウチはウチの知らない世界に連れていってくれる柊一君が好きだったんだ。
怖がりなウチが踏み出せない一歩を、踏み出させてくれる彼が眩しくて。
ウチが持っていない勇気を持っている柊一君がかっこよくて。
憧れだけで終わりにしていたら、こんなことにはならなかったのかな。
柊斗君を除け者にしていなかったら、こんなことにはならなかったのかな。
約束なんてしなかったら、青春の甘酸っぱい一ページとして、二人との思い出を心のアルバムに綴じられたのかな。
朧気な視線の先で、幼かった頃に見せてくれた柊一君の笑顔が、弾けて消えた。
「いやっ!」
彼の吐息が唇にかかった瞬間、ウチは思い切り蹴り飛ばしていた。
柊一君が壁に背中を打ちつけてベッドに尻餅をついている間に、椅子から立ち上がる。くしゃっという音が足元から聞こえた気がしたけど、気にする余裕はなかった。
「柊一君が急に会いたがったのは、ウチにこういうことをするためだったんだね……」
「あっ……違っ……」
彼が困惑したような顔を浮かべてウチに手を伸ばしていたけれど、もう話す気なんて毛頭なかった。
「紗希ちゃん!」
静止の声を振り切って走り出す。ドアを勢いよく開けて廊下へと飛び出し、一目散に階段へと駆けていく。
涙は止まらない。止まってくれない。夜の街をしわくちゃになった心のまま移動する。
あのまま彼にされるがままだったら、どうなってしまっていただろう? 考えるだけでもゾッとする。今までさんざん欲しかったはずの彼の温もりは、ウチに恐怖を刻みこむものだった。
途中、後方を振り返ったけれど、柊一君が追いかけてきている様子はなかった。
自分のホテルに到着して、自室の前にやってきても心は虚ろなままだった。柊一君の魔の手から逃れることができたはずなのに、触られていた時の感触がいつまでも抜け落ちてくれない。
錯覚だ。こんなのはまやかしだ。どれだけそう思おうとしても、瞳が、声が、体温が、彼のすべてが鮮明に呼び起こされてしまう。まるで、ウチの心だけがあの部屋に取り残されてしまっているかのようだった。
なかなか部屋に入る勇気が出なかった。ドアノブを握る手が震えて力が入らない。泣くの我慢しなくちゃ。皆の前ではいつも通りでいなくちゃ。この三日間は、大会のこと以外で心労をかけないようにしなくちゃ。そうだよ、ウチは平気。笑えるはず。元気だけが取り柄なんだから。
「貴方、今までどこをほっつき歩いていたのよ」
部屋の中に入ると、ウチが帰ってきたことに気が付いた璃子が、大股で近付いてきた。遅れてみっちーと中條ちゃんもやってくる。皆の顔を見た瞬間、再び涙を流してしまいそうになる。
柊一君と会っていた時間はそんなに長くないんだから、ランニングしてたとか、ホテルの周りを散策してたとか、言いわけはいくらでもつける。そう思っていたのに――。
「ごめん」
自分で自分に驚いていた。謝罪の言葉が出たことにも、耳をそばだてていても聞き逃してしまいそうなくらい小さい声だったことにも。
自分があまりにも惨めな存在に思えてきて、この世から消えてしまいたい衝動に駆られる。人生で初めて死にたいって気持ちになった。
「紗希……」
誰かと目を合わせてしまったら、きっと大声で泣きだしてしまうと思った。俯きながら、璃子の横を通り過ぎていく。
「金井っち……」
「金井さん……」
二人の呼びかけにも反応する気力がなくて、とぼとぼと自分のベッドへと歩いていく。
もう寝よう。なにも考えたくない。着替えるのもお風呂に入るのも面倒くさく感じて、布団を被りながら目を閉じる。
もう、疲れたよ。
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