約束へと続くストローク

葛城騰成

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第五章 恋に惑うストローク

第二十話 二人きりの空間

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 夕食を食べ終えたウチは、陶板焼とうばんやきで出てきたお肉が美味しかったなと思いながら広間をあとにする。水泳部の誰よりもご飯を早く食べ終えて部屋に戻った璃子に驚いたけれど、先に広間からいなくなってくれたのは好都合だ。ウチの行動に一番小言を言ってきそうなのはあいつだからね。
 ちなみに、みっちーや中條ちゃんは水泳部の皆との会話に華を咲かせているので、とうぶん広間から部屋に戻ることはなさそう。この隙に、柊一君のところに行こう。
 すっかり真っ暗になってしまった街を走る。ウチが足を動かす度に、ジャージのポケットに入っている柊一君からの手紙が揺れて、カサカサと音を立てる。
 皆に黙って外に行くことの後ろめたさとか、好きな人の下に行く高揚感や緊張感が混ざりあって、なんとも言えない気持ちになる。言語化できない気持ちを抱えたまま彼のいるホテルに辿り着いた。
 柊一君の部屋番号が書かれている紙切れを見返して、エレベーターに乗り込む。
 今、フワフワとした心地を覚えるのは、上昇しているからだろうか? それとも、念願の相手に会えるからだろうか? 目的の階に到着すると、チーンというベルが鳴ったかのような音と共にエレベーターの扉が開いた。
 ――もう少しで柊一君に会えるんだ。しかも、二人きりの空間で。
 これじゃあ柊一君の声が聞こえないんじゃないかってくらい心臓がうるさい。カーペットが敷かれた廊下を一歩踏みしめる度に、緊張が大きくなっていく気がする。彼の部屋の前に辿り着く頃には鼓動はとても早くなっていた。
 大丈夫。璃子に勝った今のウチなら自信を持って話せるはずだ。
 深呼吸を一つして、覚悟を決める。

「柊一君、会いにきたよ。ウチだよ、紗希だよ」

 ノックをしながら扉の向こうにいる彼に声を掛ける。すぐに気が付いてくれたみたいで、「紗希ちゃん⁉」という彼の驚く声と少しずつ大きくなる足音が、中から聞こえてきた。

「いらっしゃい。待ってたよ、紗希ちゃん」

 会場にいた時と同じ格好の柊一君が扉を開けながら現れた。彼の爽やかな笑顔につられるように、ウチは部屋に足を踏み入れる。奥へと歩いていく柊一君の背中を見つめていると、宮津市にある浜辺で彼と追いかけっこをしていた頃を思い出してしまう。
 どんなに頑張って手と足を動かしても、まったく追いつくことができなくて、いつも背中ばかり見つめてたっけ。当たり前だけど、今とあの頃じゃ全然違う。きっと水泳部を頑張ってきた証拠だ。とても逞しく大きくなっていた。
 さっきまで四人部屋にいたからか、柊一君の部屋がやけに狭く感じた。ベッドとテレビと机の置かれている距離がとても近い。

「紗希ちゃんはこれを使って」

 ウチが部屋を眺めていると、机用の椅子をベッドの隣に置いた柊一君が、それに座るよう促してきた。

「うん。ありがとう」

 ウチが椅子に座ると、柊一君はベッドに腰かけて座った。これでお互いに会話をする体勢が整った。まずはなにから話そうか。

「改めてになるけど、おめでとう紗希ちゃん。晴れてインターハイ出場が決まったね。ずっと頑張っているのは手紙でわかっていたけど、まさかこうして全国への切符を手に入れるなんてね。なんだか夢でも見ているみたいだよ」
「うん。ありがとう。祝ってくれるのは嬉しいんだけど、ウチも似たような気持ちなんだ。自分のことなのに他人のことみたいでまだ実感が湧かないっていうか、現実味がないっていうか、あやふやな感じなの。だから、素直に喜べないんだよね」

 右頬を人差し指で搔きながらウチは曖昧な笑顔を浮かべる。あの頃の自分がどんな風に柊一君と喋っていたのかまったく思い出すことができなくて、どう反応したらよいのか迷ってしまっていた。

「そのうち慣れてきて受け止められるようになると思うよ。今はその曖昧な気持ちを楽しめばいいんじゃないかな」
「うん。そうする」

 三島ちゃんと似たようなことを柊一君が言う。
 価値観が似ている部分が見つかって、ちょっとホッとする。やっぱり柊一君は、高校生になっても柊一君のままなんだ。

「柊一君が出る関東大会はいつ行われる予定なの? 近畿大会とそんなに離れてないよね?」
「急に紗希ちゃんと会おうと思った理由の一つがそれなんだ。実はね、関東大会はもう終わっているんだ」
「え? どういうこと?」
「関東大会は先週行われて、俺もそこで全国行きが決まってね。このことは手紙じゃなくて直接言葉で伝えたかったんだ」
「えっ、それって本当⁉ 柊一君、おめでとう!」

 彼の朗報を聞いたウチは、拍手をしながら椅子から立ち上がっていた。
 すごい。すごい。まさか柊一君と一緒に全国に行けるなんて。
 ウチが拍手を続けていると、唐突に柊一君がベッドの上で土下座をはじめた。

「紗希ちゃん、ごめん! 急に俺が会おうとしてきて、びっくりさせたよね。実は、自分を追い込むためにあんな手紙を書いたんだ。ここ最近、ずっとタイムが伸びないことで悩んでて、自分を崖っぷちまで追い込めば成長できる気がして、関東大会がはじまる前にもかかわらず、あんな手紙を送ってしまったんだ」
「頭を上げて、柊一君! びっくりしたのは事実だけど、謝ってなんてほしくない。せっかく全国に行けるって決まったんだから、今は喜ぼうよ!」

 そう彼に言ったものの、内心では安堵していた。謝ってくれたことで、彼がウチとの約束を蔑ろにしていたわけじゃないってことがわかった。柊一君も柊一君なりに水泳に向き合っているんだ。

「一応聞くけど、自由形とメドレーリレー、両方全国に行けるってことだよね?」
「うん。そうだよ」

 頭を上げた柊一君がこくりと頷く。

「そっか。個人競技だけしか出られないウチとは大違いだ」

 璃子と戦っても冷静さを失わなくなった今のウチなら、他の選手と連携してメドレーリレーをこなせるかもしれない。来年はウチもメドレーリレーの選手になって、全国を目指せるといいな。

「メドレーリレーがうまくいったってことは、柊斗君もいい泳ぎができたってことだよね? 柊斗君のバタフライはどうだったの?」

 柊一君と再会できたことは嬉しいけど、柊斗君とも会って話がしたい。もう彼はウチのことなんてどうでもいいと思っているかもしれないけど、もう一度仲の良い関係を築きたいし、ウチと柊一君だけが手紙で繋がって柊斗君だけ仲間外れみたいにしてしまったことをちゃんと謝りたい。

「……よく覚えているね。そうだよ。誰にも抜かれることなく、しっかりと俺に繋いでくれたよ」

 試合の様子を思い返していたのかな? 返答するまでに少し間があったけど、気にしないでおこう。

「柊斗君も頑張ってるんだ……ふふ」
「なんだか嬉しそうだね」
「そりゃそうだよ。柊斗君も頑張ってるんだって思うと嬉しいじゃん。東京に帰ったらさ、ウチが応援してたって柊斗君に伝えてほしいな! なんだかやる気が出てきたよ」
「……紗希ちゃんはすごいな」

 柊一君がウチを眩しいものでも見るような目で見つめてくる。

「ウチが、すごい?」
「ああ。俺は昔から、常に前向きな紗希ちゃんのことをすごいと思っていたんだ。今みたいに、柊斗の話を聞いただけで頑張れるんだから」

 柊一君に褒められたせいか顔が熱くなるのを感じた。こんな簡単な言葉で嬉しくなっちゃうなんて単純すぎる。両手で顔を覆いたくなるのを必死にこらえながら言葉を絞り出す。

「う、ウチは昔からなんでもそつなくこなせる柊一君のことをすごいって思って見てたよ。水泳以外のスポーツだって同学年の子たちより上手だったじゃん。皆の憧れの的でかっこよかった」

 自分が褒められることよりも柊一君に本心を伝えることのほうが恥ずかしいってことに、喋りはじめてから気が付いた。どんどん顔が熱くなっていく。ウチが褒めたからか、口元を抑えた柊一君に目を逸らされてしまう。

「……お、おう」

 彼から返ってきた言葉はなんともぶっきらぼうなものだったけど、全然嫌じゃなかった。むしろ、今は目を逸らしてくれて良かったとさえ思っていた。どんなに我慢しようとしても口元が緩んでしまって、まともな表情を見せられそうになかったから。

「……柊斗は」
「うん?」
「柊斗のことはどう思ってたんだ?」

 しばらくの沈黙の末に、ウチと顔を合わせずに柊一君が発した言葉は柊斗君のことだった。どう答えるのが正解なんだろう。やっぱり双子だから、弟への評価は気になるのだろうか?

「柊斗君は負けず嫌いなところがあったよね。いつも柊一君に勝つことに必死で、水泳はもちろん追いかけっことか、腕相撲とか、テストの点数とか、なんでも張り合おうとしてたよね。そういうがむしゃらな感じ、いいなって思ってたよ」
「そっか。紗希ちゃんらしい返答だ」

 柊一君が天井を見つめて柔らかい表情を浮かべていた。彼の細かい感情まではわからないけれど、昔を懐かしんでいるのがなんとなく伝わってきた。

「俺たち、ずっと一緒だったよね。転校することになるまで、紗希ちゃんと離れ離れになるなんてこと考えもしなかったよ」
「うん。ウチも。なんだか信じられないよね。今では会うことすら困難なのに、あの頃は家が隣同士だったんだよ」

 ウチらが小学生だった頃の話題になったからか、少し冷静さを取り戻すことができていた。このまま平常心で会話を続けることができるといいんだけど。

「ほんとにね。あのまま俺たちが転校してなかったら、どうなってたのかな」
「……」

 彼がなんともなしに呟いた言葉は、即答するには難しすぎるものだった。
 今みたいに水泳を続けているだろうとは思うけど、柊一君に好意を伝えるのはもっと後になってからだろうと思う。小学校を卒業して、中学生になって、それから……。
 わからなかった。柊一君と柊斗君が転校しない世界のウチは、ウチではないような気がしてしまった。柊一君に幻滅されたくなくて水泳を頑張るには頑張るだろうけど、インターハイ出場を目指すくらい本気で泳いだだろうか?

「もしもなんて考えたって意味ないのに考えちゃうよね」
「うん」

 不意に柊一君がこちらを見つめてきた。なんだか覚悟を決めたみたいな表情をしていて、ウチが反応する暇もないくらいあっという間に、膝の上に乗せていた右手を掴まれていた。

「しゅっ、柊一君⁉」
「紗希ちゃん!」

 なに一つ音がしない空間で、ウチらは数秒見つめ合っていた。彼の真剣な瞳がウチを真っ直ぐに見つめてくる。せっかく緩やかになっていた心臓が、再び脈を激しく打ちはじめてしまう。

「今日、紗希ちゃんに会って話がしたいと思った最大の理由は、俺たちの関係性をはっきりさせたいと思ったからなんだ」

 彼がこちらに顔を近づけてくる。ウチは自然と後ろに下がっていて、背中を椅子の背もたれに預けていた。ウチの右手をがっちりと掴んで離さない彼の手が熱い。その熱がウチにも伝わってしまったみたいに、全身の体温が熱くなっていく。
 なにか言わなくちゃいけない気がするのに、口の中が乾いたみたいにパサパサして声が出ない。思考はぐるぐると回っているのに考えがまとまらず、その時のウチにできたことといえば、彼の瞳を見つめ続けることくらいだった。

「俺は紗希ちゃんが好きだ。転校した時から……いや、転校するよりも前からずっと紗希ちゃんのことが大好きだった。こんなにも長い間想い続けている紗希ちゃんを誰にも取られたくない。誰にも渡したくない。そう思ってきたんだ」
「だっ、誰にもって、ウチは柊一君以外の人のことなんて……」

 緊張しているからかな。掠れた声しか出せなくて、本当に聞きたいことが言葉になって出てくれない。なんでそんなに柊一君は焦っているの? って聞きたいのに。
 今日彼から伝えられた理由は、ウチを安心させてくれるものではあったけど、納得させてくれるものではなかった。疑問が消えたわけじゃない。

「ああ、わかってる……紗希ちゃんが、そう簡単に他の男になびいちゃうような子じゃないってことは、わかっているんだ。でも、柊斗ならどうだ? 柊斗が紗希ちゃんのことを好きなんだとしたら、どうする?」
「へ……?」

 予想外の言葉に、ウチは間抜けな声を出していた。
 柊斗君が、ウチのことが好き?
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