星降る檻(セカイ)の、向こうには。

静杜原 愁

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誕生日の痕

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 サリタは、ベッドの上で動けずにいた。
 時計の針の音すら、遠くに感じる。ただ、天井を見つめ続けた。まるで時間が凍りついてしまったみたいに、昨日と今日の境目が無かった。ぼんやりとした視界の端で、光がカーテンの隙間から差し込んでいるのが分かった。けれど、それはあまりに遠いものの様に感じられた。
 何も考えられない。ただ、身体の内側に広がる空洞だけが、自分のものとして確かに在る。感情がすべて剥ぎ取られた後に残ったのは、ただの“存在”だった。
 呼吸をして、瞬きをして……しかしそれらはただの人間の真似事。人間の真似をする、人間のまがい物。それだけ。
 昨晩の事を思い出す度、彼女の意識は沈む――泥濘の中に沈んで、動けなくなるみたいに。
 レイヤのあの表情。無意識の内に分析した、動揺、困惑、失望、恐怖、……そして軽蔑。すべてを綯い交ぜにした色を孕み、サリタを映す瞳。そして、そのまま逃げる様に去っていった足音。あの足音が遠ざかる度に、自分の中の何かが引き裂かれるような感覚があった。
 レイヤにとって、自分は何だったのだろうか? サリタは考えた。
 かつて彼が幼い手を伸ばして、縋る様に求めた存在。それが今や、彼を踏み躙る醜悪なものへと成り果てた。
 自分の手で壊してしまったもの。それがレイヤとの関係だった。彼が自分を必要とする事に、自分の存在意義を感じていたのにも関わらず。
 今も彼の部屋に行けば彼は変わらずそこに居て、いつもの様に飲み物を手渡せば、ありがとうと言って受け取ってくれるのではないか――しかしそれはただの現実逃避で、サリタにとって都合の良い幻想に過ぎなかった。
 空虚な心のまま、衣服を整えベッドからようやく立ち上がる。彼女の中には、一つだけ思い浮かんだものがあった。
 あの小さな鳥籠。誰の気にも留められない、小鳥の事。今現在、唯一自分を必要とする存在があるとすればその小鳥だけだった。
(餌をあげないと……)
 義務感だけで鳥籠の所まで行こうとした。あの存在だけは、自分が居なければ死んでしまうのではないか――そう思えた。
 廊下に出ようとした瞬間、足元に何かが落ちている事に気付き視線を落とす。
 そこには白い封筒と、青い花の破片があった。その存在に引き付けられ、サリタはゆっくりとしゃがんだ。花の状態は無惨なものであり、修復不可能であった。
 封筒を拾い上げる。そこには『Happy Birthday, dear Sarita』と書いてあった。自分宛てのものであることを確認し、震える手で封を切る。折り畳まれた便箋を広げると、見慣れた字が並んでいた。
 サリタは、一瞬読むのを躊躇った。読み進めるのが怖かった。何が書いてあるのか、知るのが怖かった。

 サリタへ――。

 僕は、君を愛している。
 出会ったあの日からずっと、ずっと――君だけを。
 君は母親の代わりとして僕に愛情を持って接してくれていたね。でも、僕にはそれが苦しかった。
 母親なんかじゃなくて、君自身として、僕を見て欲しかったから。だから、早く大人になりたかった。
 大人になれば、君が僕を「男」として見てくれると信じていた。
 君は、僕が子供の頃に言っていたことを、どれくらい覚えているだろう?
 サリタをお嫁さんにするって、僕は何度も言った。指切りもしたよね。
 君は覚えていた。でも、それはただの子供の戯れだと思っていたんだね。……僕は至って本気だった。
 正直傷ついたさ。でもそれも、僕が子供だったために起きた悲劇だったんだと、自分に言い聞かせた。
 アメリアとの縁談について、君に打ち明けた時のことを覚えてる? あの時君は、祝福するような笑顔を僕に向けていたけれど、僕は、ただただ苦しかった。
 僕は君に悲しんで欲しかったから。
 だけど、君はそうしなかった。だから、僕は諦めようとした。君が僕を男として愛してくれないなら、僕は決められた未来を生きるしかないのだと。
 でも、それは出来なかった。アメリアを愛すべきなのに、僕はそれが出来ない。
 何をしていても、君の笑顔ばかりが浮かぶ。
 僕は君との未来を思い描いていた。今も、その未来を諦め切れないでいる。
 もし、君さえ良ければ……君も僕と同じ様に、思ってくれるなら。
 僕は、何もかもを捨てる。
 この屋敷を出て、御曹司の立場も、決められた未来も全部捨てて、そして君と二人……どこか知らない場所へ行こう。
 贅沢なんて出来なくていい。
 君と一緒に居られるなら、それだけでいいんだ。
 こんな僕では、頼りないかも知れない。それでも……。
 僕を信じて、ついてきてくれませんか?
 それだけが、僕の今の望みです。

 ――レイヤより、愛を込めて。

 幾つもの水滴が落ち、それはインクを滲ませた。手紙が、ガタガタと震える。実際には、彼女自身の手が震えていた。  
 綴られた言葉には、レイヤの真っ直ぐな気持ちが込められていた。
 サリタはようやく、彼の想いに気付くことが出来た。  
「こんな……私なんかを……」 
 とめどなく水滴は流れ落ちる。視界は水の中にいる様に、滲み、揺らぐ。
 知らなければ良かった。気付かないままの方が、幾分か楽だった。彼が、ずっと自分を愛していたこと。
 それを全く知らなかった訳じゃない。けれど、それがどれ程に深いものだったのか――分かっていなかった。  
 ずっと彼を裏切り続けてきた自分に、こんなにも純粋な気持ちを抱いてくれていた事。それどころか、こんな自分の為に何もかも捨てるつもりでいる事。  
「そんなの……駄目なのに……」
 その手を取ることが出来たなら、きっと今の自分ではない自分に変われる気がした。そうして二人――私自身も、この場所から何処か遠くへ行きたかった。
 彼といる時の自分が好きだった。 だから、彼となら“人間らしく”生きていける気がした。
 でも、今となっては、それはきっと叶わない。たとえ彼が望んでも、それは彼の為にならない。彼が全てを捨てたとして、その先に待っているのは――決して幸せなんかじゃない。
 だったら私は、この手紙にどう返せばいい? 彼の想いに応える資格なんて、私にはないのに。
 それでも――謝りたい。ただ、心から、彼に謝りたい。
 けれど、今更どういう顔をして彼に会えばいい?
 それでも、このまま何も言わずにいたら、きっと私は一生後悔するだろう。
 レイヤの手紙が、こんなにも私の心を揺さぶったように。もし私も、心を込めて彼に謝ることが出来たなら――何かが変わったりはしないだろうか。
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