星降る檻(セカイ)の、向こうには。

静杜原 愁

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主導権のゆくえ

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 ドアが閉まった瞬間、サリタの体から力が抜けた。
 何をしていた? 何をしてしまった? ……息が浅くなり、喉の奥が焼けるように熱い。
「……っ」
 込み上げるものを押さえ込もうとしても、震えが止まらない。崩れ落ちるように彼女はへたり込んだ。
 肌に直接触れる空気の冷たさにようやく自分の状態を自覚する――服を着ていない。朧げな記憶の断片が脳裏を掠めるが、それを深く思い出すことを本能的に拒んでいる自分がいた。
 自分で求めに行ったという事実。それが一番、耐えられなかった。
 これは本当に自分の意志だったのか?
 それとも、この身体がそうするように作られていたから?
 静まり返った廊下に、微かな嗚咽とえずく音が響いていた。何も吐き出すものはないが、どうしてもえずかずにはいられなかった。
 その時、音もなく影が落ちる――エリスだった。彼女は静かに屈み込み、サリタの顔を覗き込む。
「立てますか?」
 サリタは答えない。ただ荒い呼吸を整えようとするだけ。
 エリスはそれ以上の言葉を口にせず、そっと彼女の肩に何かを掛けた。柔らかな布が肌を包み、冷え切った身体にじんわりと温かさが広がる。
 ナイトガウンの襟元を軽く整えながら、エリスはサリタの腕を取った。拒む余力もないサリタは、そのまま支えられゆっくりと立ち上がる。

 やがて二人はサリタの部屋へと辿り着いた。
 部屋の中は暗い。灯りを点ける気力すらないのか、サリタはただソファに身を預け無言で俯いている。
 エリスは部屋を出る素振りも見せず、その場に立っていた。何も言わずただそこに居る。
 静寂の中、秒針の音だけが響く。
「……どうしたらいい?」
 やがて、サリタがぽつりと呟いた。その声には感情がなかった。
 エリスは少しの沈黙の後、淡々と答える。
「探しに行くしかないでしょう」
 シンプルな言葉。まるで、それ以外の選択肢はないと言わんばかりの響き。
 サリタは何も言わずに膝の上で拳を握る。その仕草に迷いが見える。
 そして長い沈黙の後やがて小さく息をついた。
「そう、だよね」
 決意とは呼べない程、頼りない呟きだった。だがそれでも確かに、彼女が前を向くための一歩だった。
 エリスは何も言わない。ただ、サリタの姿を一度だけ見つめる。そして静かに部屋を後にした。

 その夜、エリスはディランの寝室に呼び出された。
 燭台の淡い光が天蓋付きのベッドを照らしていた。甘く湿った酒の香りが室内に満ちている。
 ディランは片肘をついて横たわり、琥珀色の液体が残るグラスを指先で弄んでいた。その瞳はどこか遠くを見ているようでもあり、手元のグラスと同じくらい、この場にあるもの全てがどうでもいいとでも言いたげだった。
 エリスは静かにその隣へと腰を下ろす。揺れるグラスを一瞥し、いつもよりも酒が進んでいることに気付いた。
「珍しいですね。そんなに酔う程飲まれるとは」
 ディランは微かに笑い、グラスを傾けた。
「酔ってなどいないさ。ただ、今夜は機嫌が良いだけだ」
 エリスは表情を崩さぬまま、僅かに首を傾げた。
「そうでしょうか」
「……私がどういう時に機嫌が良いのか、知っているつもりか?」
 ディランの声は穏やかだったが、その奥に含みを感じさせた。エリスは静かに瞳を伏せ慎重に言葉を選ぶ。
「少なくとも、誰かを側に置きたがるのは。何かを忘れたい時でしょう」
「ほう……」
 ディランはエリスの頬に手をやると自分の方へと向かせた。
「お前が忘れさせてくれるというのか?」
 感情は含ませず言うが、その言葉に彼の身にもまた、何かがあったようだとエリスは思った。
「お望みであらば」
 エリスは形だけの微笑を浮かべディランの頬にそっと触れる。彼女には彼の“望み”が何であるか、分かっていた。
 互いに激しく求め合う。ディランを相手にまるで人間同士のそれを演じてみせることが、彼を昂らせる。
 珍しく、彼は主導権をエリスに委ねた。
 彼女は彼の上で淫らに喘ぐ。だが、彼女の目は冷静そのものだった。
 ディランは、じっとエリスを見つめていた。射抜くように、絡みつくように。
 その視線は普段のような支配の色を孕みながらも、どこか違った。
「呼んでみろ⋯⋯名前を、私の名を」
 いつもとは違う命令。
 エリスは、ほんの一瞬だけ違和感を覚えたが、その表情には出さない。
 求められた通りに、従順に、完璧に演じる。
 ゆっくりとディランを見つめる。冷たさを宿していた瞳に、熱を滲ませる。
 愛しげに、縋るように――自身の全ては、彼のものだと告げるように。
「ディラン……、ディランっ。ああ……っ」
 吐息混じりの切ない声音で彼の名を呼ぶ。
 それは、限りなく真実に近い偽り。
 エリスは完璧だった。

 ディランはベッドに横たわったまま、煙草に火をつけた。紫煙がゆっくりと天井へと溶けていく。
「悪くなかったな」
 酒のせいか彼はいつも以上に饒舌であった。普段なら決して口にしない様な言葉が、彼の唇から零れた。
 エリスは僅かに瞼を伏せる。
「それは光栄です」
 彼の腕の中、エリスは呼吸を整えていた。
「ところで――」
 さりげなく言葉を継ぐ。
「先日、お見かけしたのですが……客人でしょうか」
「何の話だ?」
 エリスは、彼が即座に否定せず問い返したことに小さく笑みを浮かべる。
「……見慣れない顔でした。見目麗しい少年が、屋敷に」
 僅かに間を置き、静かに言葉を繋ぐ。
「彼が同族であるのは、分かったのですが」
 ディランの手が止まる。煙草の先で小さな赤い灯が揺れた。
「ネフィスの事か――お前が気にする必要はない」
 彼はどこか、エリスの言葉の意図を掴めないでいた。彼女はゆっくりとディランの胸元に頬を寄せ、吐息をかけるように囁く。
「……もしかして、愛玩用としてお手元に?」
 声の端に嫉妬を滲ませる。嫉妬は、往々にして人の隙を生む。
「くだらん」
 ディランは鼻で笑ったが、目はエリスを見ている。
「心配するな。私にそのような趣味はない」
「……安心しました」
「それに、奴の本質は醜悪そのものだ。……あの容姿はまやかしでしかない」
 ディランがそのネフィスという少年を“醜悪”と表現したことに疑問を持ったが、エリス自身もネフィスとすれ違った時にどこか歪な印象を受けた。エリスを一瞥した瞬間のその視線に感じた、彼の持つ見た目の美しさとは不均衡な何か。
「奴は……レイヤの居場所を知っていると言っていたが、どうでもいい」
 エリスの指が、微かに止まった。
(坊っちゃんの居場所……。)
 ずっと行方が分からない彼のその手がかりを、ディランはまるで瑣末な事であるように言い捨てた。
「……知っていて、探さないのですか?」
 エリスは敢えて平静を装う。
 ディランは肩をすくめ、空になったグラスを無造作にテーブルへ置いた。
「探す意味が無い」
 息子の居場所を知りながら、探そうとしない。まるでそこに何の価値も見出していないかの様に。
 エリスはゆっくりと目を伏せた。ディランが、レイヤに愛情を持てない理由──それがエリスには理解出来なかった。
 けれども、サリタはレイヤを失い崩壊するまでに至っている。アンドロイドである彼女が……。
 分からないまま、エリスはただ微笑を貼り付けていた。彼の腕の中に収まりながら。冷えた指先が、シーツの上を微かに撫でる。エリスはそっと目を閉じた。何も感じないふりをする為に。
「お前は――俺を裏切ったりしないか」
 ディランの低い声が、静かな室内に落ちた。
 何気ない形で、だが確かな。問いかける様な声の色に、それでいて全てを知り尽くしているとも受け取れる背後を感じさせる。
 閉じていた目を開き、エリスはディランを見た。静かに投げかけられた問いに、エリスの胸中は僅かに揺らぐ。
「……その様なことは、決して」
 一切の迷い無く、そう言い切ることは出来なかった。それが、ディランにどう映ったのか――エリスは、彼の表情を読み取ろうとはしなかった。
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