星降る檻(セカイ)の、向こうには。

静杜原 愁

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溶け合う境界

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 雨上がりの中庭には湿った空気が漂っていた。空にはまだ雲が残り、薄明かりが静かに広がる。
 手入れの行き届いた植栽の片隅にサリタは目を留めた。鮮やかな緑の上に、小さな黄色がひときわ目立つ。視界の端でそれを捉えた瞬間、言いようのない不安が胸の奥で波紋のように広がる。
 心臓が一瞬強く打ち、サリタは立ち止まった。
 サリタはそれを無視することが出来ず足を踏み出す。濡れた石畳が足音を吸い込み、周囲の静寂が深く重たく、広がる。
 ひんやりとした空気は皮膚を撫でながら、そのまま胸の内側まで冷やしてくるようで――心地良さよりも、どこか恐怖を呼び覚ます。
 近づく程に心臓が冷たく締め付けられる。やがて、その小さな黄色が足元に現れた。
 それはかつて屋敷で飼われていたカナリアだった。目をかける者もなく、唯一サリタだけが世話をしていた。
 足元に膝をつき、手を伸ばす。鳥の羽は泥に塗れかつての鮮やかさを失っていた。時間が経つにつれて色褪せ、羽の一片一片が朽ちていったようだった。それでも、その形だけは変わらず――あの小さな鳥のままだった。
「……こんなところにいたの」
 呟いた声は震えていた。
 レイヤが失踪した日、小鳥も姿を消した。彼は籠の扉を開け、小鳥に自由を与えた。
 ……けれど、それは本当に「自由」だったのだろうか? 今、サリタはその問いを抱えていた。
 サリタの指が触れると、羽は冷たく軽く。形を保っていることが不思議なくらいだった。
 カナリアはどこかへ行くことも、世界を知ることもなくここで死んだ。結局はここでしか生きられなかった。
 ――レイヤも、こうなってしまうの? ……胸の奥に冷たい恐怖が広がる。
 サリタは深く息を吸い込み立ち上がると、庭の片隅に向かって歩き出した。
 彼女は小さな穴を掘り始めた。柔らかい土を指先で掘り進め、そこに小鳥だったものを横たえる。指に絡みつく土の感触が、サリタの心をさらに引き締めた。
「……ごめんね」
 サリタはただ呟くことしか出来なかった。土を被せる手が震える。泥に塗れた手を合わせると、彼女は深く頭を下げた。
 その瞬間、レイヤの姿が脳裏に浮かんだ。彼の失踪とこの小鳥の死が重なって見えた。
 冷たい焦燥が胸を締め付ける――彼を、同じにしてはいけない。
 サリタは手をぎゅっと握りしめると、ゆっくりと立ち上がった。足元が確かなものに感じられる。
「探しに行かないと」
 その瞳にはかつての迷いを振り払った様な強い光が宿っていた。

 部屋に戻ったサリタは、出かける準備をしていた。彼を探しに行く、その為に。
 鏡を見つめた。自分の顔がそこに映る。彼女は、久しぶりにこうして自分の顔を見たような気がしていた。
 不意に背後から、ノックの音がした。
「失礼します」
 それはエリスだった。どうして彼女が来たかサリタには分からなかったが、最近の自分は彼女の世話になっていた事を思い返すと、追い返すのも躊躇われる。
「……何かあった?」
 ただ一言、聞いた。その声には少しの疑念が滲む。
「最近のあなたの不調について、徹底的に調べるべきと思いまして」
 サリタはその言葉の意図が分からなかった。彼女自身は自分の不調を認められはしなかった――それは無意識であり、無自覚であり。
 エリスの手の中のケーブルを見、サリタは少しだけ不安を覚える。これがどう使われるものか、彼女は見当もつかなかった。ただどこかで、嫌な予感がしていた。
「完全なスキャンを提案しようと。私と繋ぐことで、不調の原因を見つけられるかも知れない」
「そんなの、必要ない」
 それよりももっと大事なことが彼女にはあった。
「レイヤを探しに行く。だからそんな時間はないよ」
 サリタの返答に、エリスは溜め息を吐いた。
「だからこそ、するべきなのでは。自身に問題がないことを証明するべきです」
 不安定な状態でサリタが外に出ることに、エリスは不安を抱いていた。自分が壊れかけていることにすら気付かない、そんな彼女にレイヤを探せるのか? それも疑問であって。
 エリスは考えた。自分では、彼女を引き止められないだろうという事を理解していた。
「旦那様から言いつけられたことなので、あなたに拒否権はない筈です」
 息が止まったように、サリタは硬直した。それはディランに対する恐怖ではなかった。
 ――違う、これは怒りだ。
 彼女の中に染みついた、拭いようのない嫌悪と怒りが、体の奥底でざらつくように疼いた。
 “あの人”に言われたことなら、逆らうことは許されない。それがこの屋敷の“常識”だと、骨の髄まで刻まれている。
 その理不尽さに、反論の余地すらないことに、サリタの体は強く、確かに拒絶した。やがて彼女は俯き、力なく頷く。エリスの提案を素直に受け入れるように見えた。
 しかし……これは言いつけなどではなく、エリスの独断による行いだった。誰の命令でもなく、エリス自身がそうするべきと考えていた。
 エリスは嘘を吐いた――敢えて、意図的に。このまま放っておけば、彼女は壊れてしまう。そう、確信があった。
 だからこそ、嘘を吐いてでも。たとえ彼女から嫌悪の目を向けられようとも、彼女の廃棄などエリスには認められることではなかった。

 エリスはケーブルを取り出すと、自身の首元を二度タップするようにした。人工皮膚が開かれ、そこに端子が現れる。
 静かにケーブルを差し込み、サリタの項にも同じようにした。彼女の項にも、同じものが現れる。
 そして二人はケーブルを介し、接続された。
「始めますよ」
 不安そうに俯くサリタを見ると、エリスは目を閉じ集中し始めた。
 サリタの中に侵入していく。意識を流し込むように浸透して。
 しかし彼女の中に、どこにもおかしなところは見受けられない。エラーも、存在しなかった。
 では彼女をそうするのは何か? 身体の不調でないならば、やはり精神か――エリスは思った……記憶がサリタをそうしている。
 意識の深淵に潜ろうとしたその時、何かに遮られた。硬質な壁、あるいは深い霧のような。
(……入り込めない?)
 明らかな拒絶。それはサリタがそうしているのか、それとも――。
(違う、構造が……)
 エリスには何も覗けはしなかった。“そこにある筈のもの”が――サリタの構造が、自分や他の個体とは違った。それだけを確信出来た、その時だった。
「……っ!?」
 それはまるで、記憶の奔流のように感じられた。エリスの中に、サリタの意識が流れ込んできた。
 それはウイルスのように侵食してくる。まるで「エリス」が「サリタ」に塗り替えられていくような――それにエリスは言いようのない感覚を覚えた。
 恐怖、そして……彼女の、レイヤへの気持ち。サリタの記憶が、感情が流れ込んでくる。
 目覚めた瞬間、何者かがサリタわたしを覗き込んでいた。いや、これは“彼女”の記憶。なのに、酷く胸がざわつくのは、何故。
 自分にもどこか聞き覚えのあるヴィクターという名が脳裏を掠めた瞬間、どっと冷たい感情が背筋をなぞった。
 その後は真っ白な空間で――
(保護施設……?)
 直感的にエリスにはそう思えた。人ではなく、アンドロイドばかりの空間。皆人形のように……そして灰色の戦場、戦いの記憶。
 自己の破壊を望んでいるサリタの心、そして幼いレイヤの姿。サリタのヴィジョンを通して見ると、どこか愛しいもののようにも思えた。
 次々と雪崩込むように、それは侵入してくる。そしてサリタとエリスの境界が曖昧に感じられるようになった。
 ディランが触れた時の、嫌悪。彼がサリタに向ける顔、言葉……その全てに、彼女の絶望。
 そして決定的な――ディランとの関係をレイヤに知られてしまったその瞬間。彼の手紙、償い……小鳥の死。
 サリタの身体が、僅かに震える。
(これ以上は……!)
 エリスは反射的に、ケーブルを引き抜いていた。
 その奔流に飲み込まれた瞬間、彼女と自分の境界がぐらつくのを感じた。強引に遮断しなければ、エリスは「エリス」を忘れるところだった。
 終わった後には、今見た全てをまるで自分のもののようにも思えたのだった。
「エリス……?」
 振り返るサリタは、どこか心配そうな表情だった。
 エリスは無意識に涙を流していた。誰の、どんな要望にすら応えられる彼女には、そういった機能も備わっていた。
 だがそれは。機能的なものでも理屈でもなく、自然と溢れ出したものだった。
「変ですね……私が、こんな」
 戸惑い。ただ、胸がいっぱいだった。エリスはそっとサリタを抱きしめる。
「辛かったでしょう」
 ただ一言だった。どう表現するべきか――エリスは今更こんな言葉しか持っていないことを、悔やんでいた。
 サリタは彼女の言葉で全てを理解する。サリタもまた、エリスの中の記憶に触れたような気がしていた。
 エリスはふと、サリタの髪に触れた。思わず、とでも言うように。彼女にそんな仕草を見せたことは、一度もなかった。
 サリタはただ無言で彼女の腕に触れ、エリスを受け止めていた。
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