星降る檻(セカイ)の、向こうには。

静杜原 愁

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留まる者に

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 書斎を出た瞬間、レイヤの身体から張り詰めていたものがふっと抜け落ちた。
 それは思っていたよりもずっと静かな対峙だった。多少声を荒げることもあったが、ただ粛々と言葉を交わすだけの――だがその場に立つのに、彼は必要以上に気を張っていた。威勢を張ることで、ようやく保っていたのだ。
 期待などしてはいなかった。止められることが当然だとも思っていなかった。
 ただ、予想以上の手応えのなさ。望み通りの結末に辿り着いた筈なのに、その心には決して晴れやかと呼べる感情は訪れなかった。

 一度、部屋に戻った。屋敷を出る準備をしようとサリタと別れた後だった。
 レイヤの部屋は、あの日のままだった。衝動的に屋敷を飛び出したあの日から、何ひとつ変わっていない。まるで帰るべき場所としてずっと待っていたかのように、整えられて。
 荷造りを始める。けれど、手に取るべきものが思ったよりも少なかった。
 かつて母は、この屋敷を出る時そのすべてを持っていった。服も、装飾品も、思い出の欠片すらも残さずに。
 だが自分は違う。着替えをいくつか、それ以外に――何を持っていこう? 何が必要なのか。
 レイヤは立ち尽くした。どれだけ部屋を見渡しても、自分の手が自然と伸びるものが無いことに気づく。
 ああ、自分にとってここは、やはりただの空虚だったのだ――そう突きつけられたような気がした。
 鞄ひとつを肩にかけ、扉を開けて廊下に出る。少しだけ、振り返ってみたが。そこに何も思うことは無かった。
 角を曲がった少し先に、サリタがいた。壁にもたれるでもなく、立ち尽くすでもなく。……ただそこにいる。
 手には小さな鞄ひとつ。それが彼女の全てだった。
 視線が交わる。
 何故か二人共、ふっと小さく笑ってしまった。
 何が可笑しかったのか、自分でも解らない。ただその身軽さが、同じものを失ってきたことの証のようで――多分そこにしか、笑える理由なんて無かった。
 レイヤは頷き、ゆっくりと歩き出す。
 サリタも、何も言わずその隣に並ぶ。
 二人の足音だけが、静まり返った廊下に淡く響いていた。

 今、彼らを囚えていたやしきの扉は開き、二人は確かな足取りで寄り添うように歩き出した。
 しかし、それを呼び止める存在がいた。
 ただ一人、そこに立つ人物。この屋敷において、彼らのことを案じる唯一の存在だった。
「やっぱり、行ってしまうんですね」
 少しだけ、レイヤは警戒感を露わにした。だがそれは無意味なことであると彼女の顔を見て悟るのだった。
 エリスには二人を引き止める気などなかった。ただ、こうして別れを言おうと見送るつもりで来たのだ。
「どうかお気をつけて」
 静かに、ただそう言うに留まった。
 目を伏せ、軽く頭を下げる彼女を見て、レイヤはどこか罪悪感を覚えた。
 サリタの状態を知らせに来てくれた時のこと。彼はエリスに、辛辣な言葉を投げかけた。
 ……いや、それ以前から。
 彼女をただの機械だと――作り物の存在だと認識し、どこか蔑ろにしていた部分があった。思い返せば返す程、エリスに対しての自分の態度を申し訳ないと思うようになっていた。
 彼女は言ったのだ。レイヤに拒絶されると、自分までもが“痛む”ようになった、と。
「エリス……その、今まで悪かった」
 絞り出すような声だった。彼がそう言ったのを意外だと思ったのか、エリスは目を丸くした。
「いえ……そんな、お気になさらず。過ぎたことです」
「それでも……、悪かった」
 暫し沈黙だった。だが、エリスの顔は穏やかで、そこに許しの感情を湛えていた。
 そんなエリスに、サリタは無言で抱擁した。
 無言であるように見えたが、言葉は溢れるように零れた。
「ありがとう、エリス……支えてくれたこと、ほんとに感謝してる」
 それはきっと、あの瞬間、書斎で言えなかった言葉。
 そのサリタの行動を、レイヤは黙って見ていた。何も言えることが無かった。ただ、この彼女らの関係性……いつの間にか自分の知らないところで、信頼にも似た絆が結ばれていたことに、少しだけ驚いたのだ。
 それを見てしまうと。謝罪したものの、サリタがここまで信頼する相手に心無い言葉を吐き捨てたことを、ますます後悔する一方だった。
 エリスはサリタを優しく抱きとめ、あやすように彼女の髪を撫でていた。そして、ふと言うのだった。
「坊っちゃん。サリタのこと、宜しくお願いしますね」
「……言われるまでもないよ」
 照れ隠しだったが、少しだけその語感が冷たくなってしまったのではないかと少しばかり彼は心配した。
 だがエリスは穏やかに微笑んでいる。心配し過ぎたかと、レイヤは思うのだった。
「旦那様のことは、どうかご心配なく。私が傍におりますので」
 それは意外な言葉、そしてエリスの選択だった。レイヤとサリタは、エリスのその選択に、彼女の身を案じた。同時に、彼女にそれを選ばせてしまったことに、少しの自己嫌悪を抱いた。
「本当にそれで……いいのか?」
 レイヤの問いに、エリスは笑顔を見せる。
「あの人、本当はどうしようもなく……寂しがりやなんですよ。だから誰か、傍にいないと」
 言葉は出なかった。だが、その笑顔は――その選択こそが自分の生きる道だと語るように、晴れやかな顔だった。
 二人は一歩下がり、エリスをただ見つめる。それが彼女の選択なら、もう何も言えやしない。
 ただ、少し気がかりがあるとすれば。
「その……。アメリアには、もう……戻らないと伝えて欲しい。フィリップにも」
「ええ、かしこまりました」
 ただ、静かだった。少しの間、その景色を見ていた。
 微笑むエリスと、どこか重苦しい白い屋敷と、少しの曇り空。
 今度こそ、振り返らないと決め歩き出す。振り返る理由なんて、もうどこにも無かった。
 行く宛はない。それでもどこか遠く――ここではないどこか、知らない場所に行きたいと二人は願った。
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