ヴァンパイアは暁に夢む

静杜原 愁

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誰も知らぬ女帝

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『姉なんだ』
 その言葉がニカエラの心を深く抉った。
 初めての明確な拒絶。意志すら持たないと思っていた彼の、確かな意志。
 部屋を出たニカエラは唇を噛んだ――血が滲むほどに強く。だが彼女は気づかない。ただ足早に、自室へと歩を進める。
 その最中にも考えていた。

 これまで、どれほど苦労して彼を育ててきたのか。

 全ては彼の為だった――そう言い聞かせてきた。
 自分だけが彼を愛し、彼もまた自分だけを愛するように。それが正しいと信じて。
 全てを奪い、全てを与えた。
 狩りの仕方すら教えなかった。だから、最初から出来るはずがなかった。
 ヴァンパイアとしての矜持を持つ資格もない、落伍者だと決めつけた。
 その上で、彼の自尊心を打ち砕き、“何も出来ない自分”という概念を植え付け――じわじわとその考えを育てていった。
 そして一方でそれでも良いのだと肯定してやった。彼の全てを受け入れ、自分へと意識を引き寄せた。
 飢えた彼に血を分け与え、それ無しでは生きられないと教えた。実際、ヴァンパイアは血に飢えたままでは生きていけやしない。
 自分では人間の生き血を啜ることすらままならない存在のまま――彼女の分け与えるそれで、飢えを癒やしてやった。
 そうすれば、ミハイルは自分に依存するはずだった。
 ニカエラはそう信じて、彼が幼い頃からそれを実行してきた。
 密かに、じっくりと時間をかけて、ミハイルを自分の思う通りに育ててきた。
 弱々しく、華奢で、自分に縋るようにする美しい青年。
 “可愛いミーシャ”――それがニカエラの思う、完璧なミハイルの姿だった。

 自室に戻りニカエラは鏡の前に立つ。
 じっと自分の姿を見つめた。
 彼女の持つ美は揺るがないはずだった。男どもはこれを褒めそやし、賛美し。それが心からのものであると、実感出来ていた。
 狩りを失敗したこともなく、この姿を取っていることを間違いだなどと思ったことは一度もない。獲物である人間はおろか、同族にさえこの美貌を誇れた。
 少女の姿に囚われた妹のエヴァンジェリンより優れていると、自分でも思えた。
 妖艶な、女として一番美しい時期のまま時間を凍らせたようなニカエラの姿。それが美でないなら、なんというのか。
 しかし――美貌では、もう彼を従わせられない。
 彼の中で、姉であるという事実がこれまでの関係を否定するまでに至った。
 だが、どうして急に?
 それだけがニカエラの脳裏にこびり着いていた。どこか、おかしいのだ……彼が飢えに苦しみ、姿を消したあの夜から。
 ふと、探し出した彼が妙な事を言っていたのを思い出した。
 そう、確か……誰かの血を飲んだなどと。
「……誰なの?」
 静かに、ふつふつと。
「ミーシャに、私の、ミーシャに……穢らわしい」
 香水の瓶が割れる音が響く。床に叩きつけられ、さらりと流れ出し、辺りに濃厚な誘惑の香りが立ち込めた。
「誰? 誰なの? 私の血以外を……なんて」
 その声は次第に掠れ、涙と笑いが混ざる。
「許せない、ゆるせない……」
 美味しかったなどと言っていた彼の顔を思い出し、思わず叫んだ。
「そんな、あり得ない!」
 ただ狂ったように彼女は、呪詛を吐き続けた。
 鏡に映る自分に視線を戻す。そこに映るのは、醜く歪んだ顔だった。
 反射的に彼女は鏡を叩き割る。それが自分の顔だと認めたくはないほどに、醜悪な本性を滲ませていた。
 ふと掌を見ると血が出ていた。
 その顔からは怒りの感情が抜け落ち、かと思えば今度は悲哀めいた表情をしている。
 ただ手を握り、開き、また握りしめながら――滴る血を切なげに見ていた。
「私のを美味しいなんて、言ったことなかった……」
 その瞬間、膝が笑った。ニカエラはベッドの縁に座り込む。
 そして次に浮かぶのは、笑い。何が愉快なのかはニカエラにも分からない。ただ、笑えて仕方なかった。
 しかしその笑いは、長くは続かなかった。
 いや、続けられなかった。
 喉の奥で乾いた音に変わり、彼女はそっと唇を閉じる。鏡の破片に映る自分の目が笑っていなかった。
 ニカエラは静かに目を伏せると、血のついた掌を裾で拭った。
「……駄目ね、こんなことで」
 呟く声は、落ち着き払っていた。先程までの激情が嘘のように、冷たく整った声音。
 視線を上げる。鏡の破片が歪んだ自分を何人も映している。美しさを装いながら、その内側には醜い嫉妬と独占欲が渦巻いていた。
 ――それでも、ミーシャは私のもの。
 その確信だけは崩れなかった。
 たとえ誰かの血を受け入れたとしても。
 たとえ姉だと、突き放されたとしても。
 ミハイルの“本質”は、私が作った。なら、取り戻せる。
「やり直すだけよ。――もっと、確実に」
 そう言って、ニカエラは立ち上がる。
 割れた鏡を、香水の匂いを、散らばるガラスを、美しい女の顔で見下ろしていた。
 そこにはもう感情は無かった。ただ、冷たい意思だけがあった。
 自分だけの“完璧なミハイル”を取り戻す為に――すべてを壊す覚悟があった。
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