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演目『家族』
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森の奥、廃城の残骸のような石造りの館。外壁は蔦に覆われ、朽ちかけた塔は霧に沈んでいる。だが一歩内へ踏み入れば、重厚な絨毯と燭台の列が迎える。
ここはヴァンパイアの根城。ニカエラが女帝として君臨する、リュセリエ家の小さな領地。
薄暗い森には霧が立ち込め、陽光は決して届かない。彼らにとってそれは安息の地であり、同時に牢獄でもあった。
窓際に腰掛けていたレオナールは遠目に二つの傘を認めると、ゆっくりと立ち上がった。
「おや。姉上と……落ちこぼれ君のご帰還、かな」
赤い髪を揺らし、軽やかに階段を降りる。その足取りには優雅さがあり、微笑みには皮肉が滲んでいる。
階下に、少女がいた。彼と同じに赤い髪、碧の瞳をした――エヴァンジェリンだった。
「姉様が帰ってきたの?」
短く尋ねる彼女に、レオナールは頷いた。
「女帝の帰還だから、ほら。ちゃんとお出迎えしなくちゃあね」
「……何が女帝だか」
エヴァンジェリンが頬を膨らませる。不服そうな表情に、レオナールは笑みを深めた。
「こら、エヴァンジェリン。そういう事を言うもんじゃないよ」
「だって……兄様も思うところがあるんじゃないの?」
兄様――その呼び方に、レオナールは微笑を崩さない。ただ、その目だけが僅かに細められた。
「それでもね。この家の実権は彼女にある……分かるだろう?」
軽く肩を竦め、身体を揺らす。その仕草はどこか演劇的で、本心がどこにあるのか読み取れない。
「それだって。本来なら兄様のものだったのに」
その言葉が空気を変えた。
レオナールの表情が、ほんの一瞬だけ崩れる。目が細められ、冷ややかな碧がエヴァンジェリンを捉えた。
「分かるだろう? 彼女の方が“本物”で、聡明なんだ」
その声には、諦念と自嘲が混ざっていた。エヴァンジェリンは唇を噛む。
「聡明、ね。本当に聡明なら、あんな……」
言いかけた瞬間、重厚な音を立てて玄関の扉が開いた。
「あら、出迎えかしら」
涼やかな声が、エントランスに響く。
ニカエラだった。優雅に傘を閉じ、白い髪を揺らしながら館の中へ入ってくる。その少し後ろを、ミハイルが続いていた。
「お帰りなさいませ、姉上」
レオナールは仰々しく一礼した。そして、視線をミハイルへ向ける。
「……と、弟君。ほんとお前は姉上にベッタリだぁね」
ミハイルは何も答えない。表情が薄い。まるでレオナールの声が聞こえていないかのように、ただ虚ろにそこに立っている。
ニカエラが眉を顰めた。
「レオナール。まるで悪いことのように言わないで」
その名を呼ばれ、レオナールは肩を竦めた。
彼――レオナールは、かつて家督を継ぐはずだった男だ。
いま、その権を握るのは姉のニカエラ。彼はただ、その現実に微笑みを返すだけだった。
「相変わらず甘いんですね、可愛いミーシャには」
ニカエラの視線が鋭く突き刺さる。レオナールはおどけたように手を振り、視線を逸らした。
「あーはいはい、悪かったですよ」
エヴァンジェリンは、黙って俯いていた。姉の帰還を歓迎するでもなく、ミハイルを咎めるでもなく。ただ、静かに唇を引き結んでいる。
「エヴァ……どうしたの? あなたも何か言いたいことがあって?」
「……いいえ?」
短く、冷たく。それだけだった。
場の空気が重くなる。沈黙が、石造りの壁に反響する。
「まあいいわ。可哀想なミーシャは疲れてるでしょうから、ほら。部屋に帰りましょう」
「はい……」
ミハイルの返事は生気を欠いていた。どこか遠くを見ているような目。レオナールとエヴァンジェリンは、その様子に引っかかりを覚えた。だが、その場で口に出すことはなかった。
二人が階段を上り、姿が見えなくなる。
残されたレオナールとエヴァンジェリンは、顔を見合わせた。
「ねえ、ミハイルの様子……なにか変じゃなかった?」
エヴァンジェリンが小声で囁く。
「あいつはいつもあんなもんじゃないか? まあ、今回もどこかで倒れてたんだろうし」
レオナールは顎に手を当て、思案する。その微笑みは相変わらずだが、目は僅かに鋭さを増していた。
「それにしても、よ」
エヴァンジェリンの言葉に、レオナールは微かに眉を寄せる。
例えば。自分達が彼を“ミーシャ”と呼ぶことに対し、ミハイルは少しばかり嫌悪感を抱く筈だった。
ニカエラが呼ぶのには諦めの境地にあるようだが、レオナールやエヴァンジェリンからそう呼ばれることには――馬鹿にされていると感じるのか、少しの反抗心を含んだ視線を向けてくるものだった。そう、普段なら。
実際今日も小馬鹿にし、子どものようなその愛称で呼んでみたりしたのだが、特に反応は返ってこなかった。
それどころか、二人の存在など、視界に入っていないかのようだった。
「兄様、ここで問題です」
エヴァンジェリンが閃いたように手を挙げる。芝居がかった仕草に、レオナールは調子を合わせた。
「どうしたのかね、エヴァ君」
彼はにやりと笑う。
「あの生返事、まるで心ここにあらずっていう状態……そういう時ってどんな時だと思う?」
「そうだねぇ? うーん……例えば、そうか」
二人の考えは同じところに収束したのだろう。視線を合わせれば、思わず口元が緩む。
「恋をした、とか?」
「違いない」
堪えきれず、二人は笑い出した。愉快そうな声がエントランスに響く。
「あー……あぁ、愉快だな。姉上は気付いていないのかな? あの様子じゃ……」
「ええ。ほんと愉快……あれはどう見ても」
一拍。
「……愛しているのにねぇ」
「愛しているのに、誰かに取られてしまう。姉様、お可哀想に」
彼らは知っていた。或いは、気づいていたと言うべきかも知れない。
ニカエラのそれは単なる家族愛ではない。姉という役割を逸脱し、母のように――いや、もっと濃く、女として彼を囲い込もうとする欲望すら感じさせた。
それは滑稽で――そして同時に、嫌悪すべきものだ。
「はーあ、傑作だ。ようやく自我に目覚めたのかな? あの出来損ないは」
「……ならいいけど、どうかしら。結局は傀儡のままなんじゃない? あの女に牙を抜かれて……」
ひと呼吸。
そして、冷たく吐き捨てる。
「――情けない男」
エヴァンジェリンの横顔は幼い。姉弟の中で最も少女らしい輪郭をしている。しかし、そう言い放った瞬間の表情は恐ろしいまでに冷酷だった。
レオナールですら、僅かに寒気を覚えた。
「……あぁ、なにか一波乱ありそうな予感。退屈なこの城も、ちょっとは楽しくなるかもね」
不意に漏れたその言葉には、空虚な響きがあった。
笑いが、再び静かにエントランスに満ちていく――
しんとした部屋の中で、ミハイルはただランプの灯を見つめていた。
炎が揺れる。小さく、規則正しく。その揺らぎだけが、彼の心を落ち着かせていた。
橙色の光が、銀の髪を薄く照らす。赤い瞳の中で、炎だけが生きているように揺れていた。
「ミーシャ」
静かに、その名が呼ばれる。
ニカエラだった。ゆっくりとドアを閉め、彼女はミハイルの元へ歩み寄る。
ベッドの傍まで来ると、その隣へ腰を下ろした。切なげな視線が彼を捉える。
ミハイルは一瞬だけ目を合わせたものの、すぐに視線を落とした。
「どうかしたの? ……疲れているのね」
ニカエラはミハイルの手を取り、心配そうに囁く。だが、彼は首を横に振った。
「……こういうの、もうやめた方がいい」
その言葉を口にした瞬間、ミハイルの肩が震えた。
まるで自分の声ではないものを聞いたかのように、唇が微かに引きつる。
空気が凍った。
ニカエラは息を詰める。予想外だった――いや、恐れていたことだった。
「じゃあ、どうやって生きていくつもり? 私が与えなきゃ、おまえは生きられないのに」
堰を切ったように言葉が溢れる。必死だった。焦燥が、彼女の声を震わせる。
「何が不満? 何でも与えてやれるのに。ほら、私も……美しいでしょう? 私では不満があるとでも言うの?」
彼女は胸元に手を当て、訴えるように叫んだ。
ミハイルは耳を塞ぎ、震える声を絞り出す。
「そうだとしても。あなたは、僕にとっては……姉なんだ」
その言葉はニカエラの深くを抉り、突き刺すようなものだった。
それ以上彼女は何も言えなくなり、ただ逃げるように彼の部屋から去っていった。
一人残されたミハイルは俯き、まだその肩を震わせていた。
自分が存在する理由。
ニカエラが求めてくれる。その事実だけが、これまでの彼を形づくっていた。
だからこそ、否定の言葉を吐いた今……彼はもう、何者でもなかった。
震えが止まらないのは、彼女へそう言い放ったことへの恐怖からだろうか。
それとも――あの夜の記憶が、消えてくれないからか。
ここはヴァンパイアの根城。ニカエラが女帝として君臨する、リュセリエ家の小さな領地。
薄暗い森には霧が立ち込め、陽光は決して届かない。彼らにとってそれは安息の地であり、同時に牢獄でもあった。
窓際に腰掛けていたレオナールは遠目に二つの傘を認めると、ゆっくりと立ち上がった。
「おや。姉上と……落ちこぼれ君のご帰還、かな」
赤い髪を揺らし、軽やかに階段を降りる。その足取りには優雅さがあり、微笑みには皮肉が滲んでいる。
階下に、少女がいた。彼と同じに赤い髪、碧の瞳をした――エヴァンジェリンだった。
「姉様が帰ってきたの?」
短く尋ねる彼女に、レオナールは頷いた。
「女帝の帰還だから、ほら。ちゃんとお出迎えしなくちゃあね」
「……何が女帝だか」
エヴァンジェリンが頬を膨らませる。不服そうな表情に、レオナールは笑みを深めた。
「こら、エヴァンジェリン。そういう事を言うもんじゃないよ」
「だって……兄様も思うところがあるんじゃないの?」
兄様――その呼び方に、レオナールは微笑を崩さない。ただ、その目だけが僅かに細められた。
「それでもね。この家の実権は彼女にある……分かるだろう?」
軽く肩を竦め、身体を揺らす。その仕草はどこか演劇的で、本心がどこにあるのか読み取れない。
「それだって。本来なら兄様のものだったのに」
その言葉が空気を変えた。
レオナールの表情が、ほんの一瞬だけ崩れる。目が細められ、冷ややかな碧がエヴァンジェリンを捉えた。
「分かるだろう? 彼女の方が“本物”で、聡明なんだ」
その声には、諦念と自嘲が混ざっていた。エヴァンジェリンは唇を噛む。
「聡明、ね。本当に聡明なら、あんな……」
言いかけた瞬間、重厚な音を立てて玄関の扉が開いた。
「あら、出迎えかしら」
涼やかな声が、エントランスに響く。
ニカエラだった。優雅に傘を閉じ、白い髪を揺らしながら館の中へ入ってくる。その少し後ろを、ミハイルが続いていた。
「お帰りなさいませ、姉上」
レオナールは仰々しく一礼した。そして、視線をミハイルへ向ける。
「……と、弟君。ほんとお前は姉上にベッタリだぁね」
ミハイルは何も答えない。表情が薄い。まるでレオナールの声が聞こえていないかのように、ただ虚ろにそこに立っている。
ニカエラが眉を顰めた。
「レオナール。まるで悪いことのように言わないで」
その名を呼ばれ、レオナールは肩を竦めた。
彼――レオナールは、かつて家督を継ぐはずだった男だ。
いま、その権を握るのは姉のニカエラ。彼はただ、その現実に微笑みを返すだけだった。
「相変わらず甘いんですね、可愛いミーシャには」
ニカエラの視線が鋭く突き刺さる。レオナールはおどけたように手を振り、視線を逸らした。
「あーはいはい、悪かったですよ」
エヴァンジェリンは、黙って俯いていた。姉の帰還を歓迎するでもなく、ミハイルを咎めるでもなく。ただ、静かに唇を引き結んでいる。
「エヴァ……どうしたの? あなたも何か言いたいことがあって?」
「……いいえ?」
短く、冷たく。それだけだった。
場の空気が重くなる。沈黙が、石造りの壁に反響する。
「まあいいわ。可哀想なミーシャは疲れてるでしょうから、ほら。部屋に帰りましょう」
「はい……」
ミハイルの返事は生気を欠いていた。どこか遠くを見ているような目。レオナールとエヴァンジェリンは、その様子に引っかかりを覚えた。だが、その場で口に出すことはなかった。
二人が階段を上り、姿が見えなくなる。
残されたレオナールとエヴァンジェリンは、顔を見合わせた。
「ねえ、ミハイルの様子……なにか変じゃなかった?」
エヴァンジェリンが小声で囁く。
「あいつはいつもあんなもんじゃないか? まあ、今回もどこかで倒れてたんだろうし」
レオナールは顎に手を当て、思案する。その微笑みは相変わらずだが、目は僅かに鋭さを増していた。
「それにしても、よ」
エヴァンジェリンの言葉に、レオナールは微かに眉を寄せる。
例えば。自分達が彼を“ミーシャ”と呼ぶことに対し、ミハイルは少しばかり嫌悪感を抱く筈だった。
ニカエラが呼ぶのには諦めの境地にあるようだが、レオナールやエヴァンジェリンからそう呼ばれることには――馬鹿にされていると感じるのか、少しの反抗心を含んだ視線を向けてくるものだった。そう、普段なら。
実際今日も小馬鹿にし、子どものようなその愛称で呼んでみたりしたのだが、特に反応は返ってこなかった。
それどころか、二人の存在など、視界に入っていないかのようだった。
「兄様、ここで問題です」
エヴァンジェリンが閃いたように手を挙げる。芝居がかった仕草に、レオナールは調子を合わせた。
「どうしたのかね、エヴァ君」
彼はにやりと笑う。
「あの生返事、まるで心ここにあらずっていう状態……そういう時ってどんな時だと思う?」
「そうだねぇ? うーん……例えば、そうか」
二人の考えは同じところに収束したのだろう。視線を合わせれば、思わず口元が緩む。
「恋をした、とか?」
「違いない」
堪えきれず、二人は笑い出した。愉快そうな声がエントランスに響く。
「あー……あぁ、愉快だな。姉上は気付いていないのかな? あの様子じゃ……」
「ええ。ほんと愉快……あれはどう見ても」
一拍。
「……愛しているのにねぇ」
「愛しているのに、誰かに取られてしまう。姉様、お可哀想に」
彼らは知っていた。或いは、気づいていたと言うべきかも知れない。
ニカエラのそれは単なる家族愛ではない。姉という役割を逸脱し、母のように――いや、もっと濃く、女として彼を囲い込もうとする欲望すら感じさせた。
それは滑稽で――そして同時に、嫌悪すべきものだ。
「はーあ、傑作だ。ようやく自我に目覚めたのかな? あの出来損ないは」
「……ならいいけど、どうかしら。結局は傀儡のままなんじゃない? あの女に牙を抜かれて……」
ひと呼吸。
そして、冷たく吐き捨てる。
「――情けない男」
エヴァンジェリンの横顔は幼い。姉弟の中で最も少女らしい輪郭をしている。しかし、そう言い放った瞬間の表情は恐ろしいまでに冷酷だった。
レオナールですら、僅かに寒気を覚えた。
「……あぁ、なにか一波乱ありそうな予感。退屈なこの城も、ちょっとは楽しくなるかもね」
不意に漏れたその言葉には、空虚な響きがあった。
笑いが、再び静かにエントランスに満ちていく――
しんとした部屋の中で、ミハイルはただランプの灯を見つめていた。
炎が揺れる。小さく、規則正しく。その揺らぎだけが、彼の心を落ち着かせていた。
橙色の光が、銀の髪を薄く照らす。赤い瞳の中で、炎だけが生きているように揺れていた。
「ミーシャ」
静かに、その名が呼ばれる。
ニカエラだった。ゆっくりとドアを閉め、彼女はミハイルの元へ歩み寄る。
ベッドの傍まで来ると、その隣へ腰を下ろした。切なげな視線が彼を捉える。
ミハイルは一瞬だけ目を合わせたものの、すぐに視線を落とした。
「どうかしたの? ……疲れているのね」
ニカエラはミハイルの手を取り、心配そうに囁く。だが、彼は首を横に振った。
「……こういうの、もうやめた方がいい」
その言葉を口にした瞬間、ミハイルの肩が震えた。
まるで自分の声ではないものを聞いたかのように、唇が微かに引きつる。
空気が凍った。
ニカエラは息を詰める。予想外だった――いや、恐れていたことだった。
「じゃあ、どうやって生きていくつもり? 私が与えなきゃ、おまえは生きられないのに」
堰を切ったように言葉が溢れる。必死だった。焦燥が、彼女の声を震わせる。
「何が不満? 何でも与えてやれるのに。ほら、私も……美しいでしょう? 私では不満があるとでも言うの?」
彼女は胸元に手を当て、訴えるように叫んだ。
ミハイルは耳を塞ぎ、震える声を絞り出す。
「そうだとしても。あなたは、僕にとっては……姉なんだ」
その言葉はニカエラの深くを抉り、突き刺すようなものだった。
それ以上彼女は何も言えなくなり、ただ逃げるように彼の部屋から去っていった。
一人残されたミハイルは俯き、まだその肩を震わせていた。
自分が存在する理由。
ニカエラが求めてくれる。その事実だけが、これまでの彼を形づくっていた。
だからこそ、否定の言葉を吐いた今……彼はもう、何者でもなかった。
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