櫻川准教授は今日も不機嫌

たぶん緒方

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     ◆


 昴星を起こさないようゲストルームを出た櫻川は、烏の行水の早さで風呂を出た。さっぱりしたと同時に眠気も消え、仕方なしに冷蔵庫から「相棒」と名付けている缶ビールを手に取る。リビングのソファで缶のプルタブに指をかけ、プシュっと音を鳴らして蓋を開けると少し泡が溢れた。拭くのも億劫で、ぼんやりその様を眺めていると、
「拭かないの?」
 と背後から、寝たと思っていた昴星に声を掛けられ肩が跳ねる。振り返ると彼は、ソファの背に両手をついて櫻川を覗き込んでいた。
「……驚かすなよ」
 内心、口から心臓が飛び出そうなほど驚いていたが、そうか、と一人納得する。
 櫻川は大学進学を機にずっと一人で生活してきて、今まで誰かと暮らすということが無かった。そのため、一人じゃない夜はこんな風に驚くこともあるのか、と昴星をじっと見上げながら感慨に耽る。恋人という名の付く相手は過去に何人かいたが、プライベートの空間(このマンション)に呼んだことはなかった。呼んだとしても学生の頃から住んでいる古くて小ぢんまりしたマンションの方だ。櫻川のバックグラウンドを知って近づいた人間は、何を期待していたのか、皆がっかりした顔を見せ早々に去っていく。だから踏み絵のような役目としてもあのマンションは必要だったのだ。
 昴星を初めて部屋に上げたあの日、無意識にふるいに掛けていたのかもしれない。櫻川の「側」だけを見てきた人たちと同じなのだろうと、心の底ではそんな風に思っていたのだろう。
 だが昴星は、櫻川が過去に経験してきた誰とも違った。自由な振る舞いはすれど、根底には自他の線引きが明確にしてあり、深入りをすることはなかったし、させなかった。
 だからきっとこの先も、櫻川に不快や不満に感じることや昴星自身の辛いことや悲しいことを言わないだろう。気持ちは通じ合っていても大きな川に隔てられている、そんな関係が続くと想像に難くなくて、やるせない気持ちになる。
 対岸で、昴星がただじっと待つつもりなら櫻川が何度だって迎えに行く。だけどその川は、昴星が変わらなければ何度でも生み出される。その川を溺れる覚悟で渡るのは誰だって怖い。だけど生み出されるたび迎えに行き、果たして昴星はただじっと待つことができるのだろうか。そんな櫻川を見ていられなくて、踵を返したりしないのか。
 期待をするだけ不安になって、不安になるのを我慢して。そうして不安定ながらも行き着いたのが今の昴星だ。
 いつか見た、ごっそり表情が抜け落ちてマネキンのようになった顔は、今でも櫻川の脳裏に鮮明に刻まれている。
 この心配が杞憂であればいい、そう思うほど、櫻川もまた焦燥感に駆られていた。
「そんなに見られると穴が開きそうなんだけど……」
 櫻川が見つめすぎたのか、昴星は居心地悪そうに目を逸らしてしまう。心なしか顔が赤い気がするから照れているのかもしれない。
 こんなに初々しい恋人の前で考えることではないな、と櫻川は思考を切り替えるように静かに息を吐いた。
「悪い。……眠れなかったのか?」
 そう言いながら、さりげなく昴星の手を引き甲に口づける。
「せ、先生っ、な、に……?」
 昴星が狼狽えた声を上げ、瞬く間に顔から火が噴き出しそうなほど赤くなった。先刻とはとは比にならない赤さで、何なら少し涙目になっていて可哀想で可愛い。果実で例えるなら今が旬、食べ頃ですと言わんばかりの熟れ具合だ。
 何もしないと言った手前、約束を破るつもりはないが、絶妙に櫻川の情欲を刺激してくるこの事態は想定外だ。可愛いが過ぎるのも罪だろう。
「お子ちゃまには刺激が強かったな。一緒に映画でも観るか?」
「……観る」
 昴星は反論したそうに唇を尖らしていたが、大人しく櫻川の隣に座る。手持ち無沙汰なのかクッションを引き寄せ抱きしめている。
 櫻川は昴星を横目で見ながら、『そんな物より抱き締めがいがありそうなものが隣にいるぞ』と声をかけようと思ったが、昴星が本当に櫻川を抱きしめてきたら自身の経験上、菩薩のような心でされるがままになっているはずがない。映画どころではなくなってしまう妄想を打ち消して、テレビのリモコンで画面操作する。契約している有料アプリから適当に映画カテゴリーを選択する。
「何か観たいものがあれば選んでくれ。ストックしてるつまみと……飲み物は缶ビールか炭酸水くらいしかないけど、どっちがいい?」
 リモコンをテーブルに置き、言いながら冷蔵庫へ向かうと昴星も付いてきた。冷蔵庫に興味津々だったのか、櫻川が冷蔵扉を開けると覗き込む。
「うわぁー……」
 歓声は徐々に萎んで、昴星は笑顔を張り付けたまま櫻川を見上げた。
「何もないじゃないですか」
「だからビールと炭酸水が」
「はいはい。でも調味料すらないのは想定外。朝ご飯、作ろうと思ってたんだけどな」
 残念そうにそう言う昴星の言葉に若干心がぐらつく。以前貰った手作りのサンドイッチは、具材を挟んだだけと言っていたが、店のものと遜色なく美味しかった。なので食べたくないと言ったら嘘になるが、こんな時間に外へ出るのも億劫だし眠い。そもそもここで過ごすときは、ほぼ外食で済ませている。櫻川には食材を用意するという考えすらなかった。
「それはまたの機会にな。この辺は美味い店が多いから、朝はどこかへ食べに行こう。ほら、映画観るんじゃなかったのか」
 そう催促すれば、昴星は慌てて缶ビールを手に取って櫻川の後を付いてくる。
 ソファで二人並び、ストック棚から持ってきたミックスナッツと、缶ビール片手にあれがいいこれがいいと映画を選ぶ。結局時間も遅いし適当な深夜番組を流しながら明日の朝食の店選びをしていたが、またあれがいいこれがいいと言って全く決まらなかった。この無駄な時間が妙に楽しく、櫻川は年甲斐もなくはしゃいでいるな、と表情を緩ませた。
「先生……」
 と言って昴星は目を瞬かせ、唇をきゅっと引き結んだかと思ったら俯いてしまう。
「どうした?」
 櫻川はそれ以上は口にせず、昴星の言葉を待つ。ソファの背に腕を回し、身体ごと昴星の方へ向け顔を覗き込むように首を傾げる。
「俺、今、すごく楽しくて幸せで……だから不安になる。先生のことが好きだから、怖い」
 よく見ると膝に置かれた昴星の指先は小さく震えていた。桐島からの情報がなければ、体の関係になることに不安を覚えていると勘違いしただろう。
 普段見せることのない弱々しい姿に、櫻川はいっその事、このままずっと家に帰さなければ、少しは安心させられるのかとさえ考える。優しく慈しむ愛では、蓄積された不安や孤独を解消するに至らないのだと現実を突き付けられる。昴星の負ってきた十字架は、長い時間をかけて氷解させなければならない。そうして初めて受け入れることが出来るのだろう。
 当たり前のように存在していたもの両親が突然失われ、一人、また一人と自分のそばから消えていく恐怖は、当人でなければ分からない。櫻川はおいそれと理解している様や、分かったふりもしたくなかった。
「そうだな。幸せは当たり前にあるものじゃないからな」
 櫻川はそう言って昴星を引き寄せ、そのまま勢いをつけて二人ともソファに倒れ込む。
「ぅわっ!」
 いきなり引き倒されて咄嗟に櫻川にしがみついた昴星は、状況を理解できていないようで呆気に取られている。
「人生っていうのはこんな風に何が起こるか分からんから、怖いし、不安なんだ。一生それの繰り返しだ」
 目を見つめ、真剣に話す櫻川を黙って聞き入る昴星は、明かりの元でその瞳は潤い美しく輝いていた。櫻川は導かれるように昴星の目元をそっと指先で触れてみる。涙の膜に覆われたその瞳がいまにも決壊しそうだ。
「だがな、怖さも不安も丸ごと抱えて、それでも生きていくんだ。俺がそれ以上の、楽しくて幸せな時間で埋めてやるから心配すんな」
 昴星は一つ頷くと、櫻川の胸に頭を寄せ肩を震わる。息遣いから静かに涙を流していることが分かった。櫻川は壊れものを扱うように昴星をそっと腕の中に閉じ込める。
 しばらくして昴星の涙が止まっても、そのまま眠りに落ちるまで櫻川の腕の中に囲っていた。
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