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     ◆


「あ、もう近くなのでここでいいです」
 ぼんやり窓越しの景色を眺めていた昴星は、唐突に運転手へ声をかける。
「かしこまりました」
 ルームミラー越しに後部座席に座る昴星をいちべつし、了承を告げるのは櫻川のお抱え運転手の樫村である。白髪混じりで目尻に皺を湛える五十路の彼は、幼少の頃の櫻川を知る数少ない人物だ。
 路肩に車を止め、ハザードランプを点灯させる。
「街灯が少ないが、家の前まで送らなくていいのか?」
 昴星の隣に座っていた櫻川は、後部座席から身を乗り出すようにしながら、心配気に眉根を寄せ訊ねる。
 辺りは閑静な住宅街だが、遅い時間のせいか家の灯りも少ないため、物騒に感じる。
「女の子じゃあるまいし、大丈夫ですよ」
 昴星は一瞬ぽかんとした後、小さく笑って申し出を断った。
「人通りの少ないところは、男も女も関係ないだろ」
「まあ確かに。暴漢に襲われることもありますよね。でも大丈夫です。ありがとうございました」
 昴星は肯定しつつも、半ば有無を言わせず強引に話を切り上げ、櫻川を車に押し込めながらドアを閉じた。
「おやすみなさーい」
 窓越しから駄目押しのように手を振られ、櫻川は苛々するものの、早々に諦め昴星の言葉に従う。
「もういい、出してくれ」
「かしこまりました」
 一部始終を見ていた樫村は、肩を震わせ車を発進させた。
 ぞんざいな扱いをされた櫻川は、さほど気にした様子もなく、むしろ機嫌が良い。長年櫻川を見てきた樫村にはお見通しのようで、ルームミラー越しに話しかけてくる。
「ゼミの生徒さんですか?」
「いや、うちの大学の生徒だが、桐島の店のバイトをしててな。飲食店はバイトが定着しねーから」
 当たり障りないところを話しながらも、昴星のバイト先の居酒屋『kirishima』の店主、桐島太一の話題に誘導する。ちなみに、桐島に言わせればバイトが定着しない原因は櫻川なのだが、一向に認める気はない。
「ああ……太一さんのところで。久しくお見かけしていませんが、お元気にしていますか?」
「あいつはいつも元気だよ。元気じゃねーと客商売なんかできねーからな」
「左様でございますか」
「無駄に賑わってるから、カウンターで太一の顔拝みながら飯食うことになるんだよ。しかも俺のオーダーは後回ししやがって」
 ぶつぶつと文句を垂れ流す櫻川に、樫村は穏やかに受け流す。
「お店が繁盛されてるなら良いことじゃないですか」
「まあな。俺が金落とさなくても儲かってるみたいだし」
 踏ん反り返って腕組みすれば、樫村は「ところで」と話題を変えてきた。
「昴星さんは、譲治さんとはどういったご関係で?」
 ほらきた。
 上手くはぐらかしたつもりだが、そうは問屋が卸さないようだ。
「だから、太一のところのバイトだよ。ついでに大学の生徒だったってだけで」
「なるほど。大学の生徒であり太一さんのお店のアルバイトをされている昴星さんを、自室に連れ込んだと……」
「誤解だ。いや、誤解ではないけど誤解だ。誓って手を出していないし、そもそも事情があって俺の部屋で話をしていただけだ」
 必死になって説明をすればかえって胡散臭くなるのではと思い、櫻川は理性を総動員させて冷静に説明した。
 櫻川が男女問わず性的な魅力を感じれば抱くことができるバイであることは樫村も知っているが、誤解をされるようなことは一切していない。
「外で話せないような込み入ったことですか?」
「そうだ」
「個人的なことをお話しになったと」
「そうだ」
「こんな時間に?」
「……そうだ」
「お酒も少々飲まれているようですが」
「……」
「以前もご注意しましたが、譲治さんはあまりお酒が強い方ではありません。もう二度とあんな失態でご自分の経歴に傷をつけることのないようお願いします。このままでは、本当に首根っこを掴まれますよ」
「……ああ」
 樫村に釘を刺され、現実に引き戻された。
 樫村に言われるまでもないが、すでに首根っこは掴まれている状態である。
 櫻川大学はもともと祖母が創設した女子大学で、現在では母の虹子が経営を引き継いでいる。そして近年の少子化の影響を見越し、五年前から共学校となった。それに伴い二年前に新学部を設け、他大学で講師をしていた櫻川が招聘されたのは記憶に新しい。
 他大学で働いていたところを無理やり実家に連れ戻す形になり、祖母も母も、学長である父、隆生も息子に頭を下げた。
 したい仕事に就くことを許されず、親の都合で他大学で下積みからさせられていた櫻川ではあったが、周りに恵まれ、地道にステップアップした充実した日々を過ごしていた。そんな矢先のことだったのだ。
 櫻川は大いに荒れた。ヤケ酒を煽った。
 幸い羽振りと見た目が良かったため、どこに行ってもチヤホヤされた。来るものはなんでも手を出した。
 ただでさえ、教授の椅子を用意されている縁故採用の櫻川への当たりは強かったのが、このことでさらに酷くなった。それでも我関せずな櫻川に業を煮やした誰かによって、ある日突然、足を掬われたのだ。
 学長室に呼び出され、投書のような形で投げ込まれた写真の数々に対面した時は、正直血の気が引いた。どのようなルートで手に入れた情報か分からないが、封入されていた一枚の紙には「日の目を見れると思うな」とだけ印刷されてあった。
 限られた人間だけしか知らない情報を見せつけてきたということは、危害を加える可能性もある。櫻川に直接だったらまだ良い。もし、写真の人物に何かあったらと思うと悔やんでも悔やみきれない。
 ただの脅しでは無いと判断し、このことは学長と櫻川の二人だけが共有することとなった。
 樫村にはあくまでも「爛れた付き合いのせいで問題が発生し、昇格できなくなった」と説明している。
「私としましては、原因はご両親だとしても、譲治さんも恨みを買いやすく自業自得の部分も大いにあると思っておりますので、くれぐれも責任ある行動をお願いします」
 穏やかな声で諭す樫村は、実の両親よりも接してきた時間は長い。
 幼い頃からずっと櫻川を実の子のように大事にしてくれている彼に、これ以上心配事を増やすわけにはいかないだろう。
「心配しなくても、俺はもう誰も信用しないし、そばに置かない」
 だから安心してくれ、と気持ちを込めたが、ルームミラー越しに見えた樫村は、少し寂しそうな目をして何も言わなかった。櫻川もマンションに着くまで、ただ流れる景色を眺めていた。
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