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     ◆


 真っ暗な玄関に明かりを灯し、ただいまと声をかける。返ってくる声はない。
 鍵を閉め、今度は明かりを消し、そのまま洗面所へ向かいまた明かりを灯した。
 昴星は鏡に映る自分の顔を見て違和感を覚える。頬はほんのり赤らんで、口もとは緩んでいる。なんだかだらしない。手洗いうがいをしながら先ほどの行動を振り返り、気が付けばまた弛んでいる、色々と。
 櫻川とのやりとりを思い出すと気持ちがふわふわと軽くなるのは何故なのか。
 考えようと思考を巡らせた途端、また櫻川とのやり取りを思い出し顔が弛んだ。埒があかない。
 タオルで手を拭いて、リビングへ向かう。
 電気とテレビをつけ、奥のキッチンで食器棚からグラスを取り出した。冷蔵庫からガラスポットに入ったお茶を注ぎ、一気に半分くらい飲んだところでスマホにSNSの通知を知らせる音が鳴った。画面を見れば颯からで、通知部分を長押しして内容を確認する。ロックを解除してアプリを起動される手間がいらないからとても重宝している機能だ。内容はいつものように〝集合〟とだけ記されていて、この機能は短文しか送ってこない友人をもつ、昴星のような人のために存在するのだろうと一人納得した。
 飲みかけのグラスを持って自室のある二階へ向かい、パソコンの電源を入れる。ビデオチャットにログインしてみると、すでに颯と近田の二人は揃っていた。
「おまたせ」
「おー」
「お疲れ様です」
 颯と近田はそれぞれ挨拶するものの、まったく昴星を見ようとしない。またか、と肩を竦め現状把握のために首尾を確認する。
「今、どこらへん?」
「あぁ? さっき始めたばっかだから北の方で素材集め」
「僕も火力系が減ってきたから一緒に周ってるんですけど、全然なくて。昴星くんも周ります?」
「うーん。遅くなりそうだし、今日はいいや」
「え、やんねぇの?」
「だって俺わかんないんだもん」
「もん、言うな。何回も一緒に周ってんだろ」
「アツモリとか平和なのくらいしかしたことないから、こういう狩りに行って戦うのって慣れないんだよね。……それよりさぁ」
 と昴星は一呼吸置き、二人が聞いていることを確認すると、ニヤリと笑う。
「例の交渉成立した」
 二人は一瞬理解が追いつかずクエスチョンマークを浮かべていたが、すぐさま深夜には向かない驚きの声をあげ、ゲームをセーブ保存し始めた。
「ちょっと、声大きいって。近所の人から苦情がくるだろ」
「お前ふざけんな。誰が驚かせてんだよ」
「そうですよ。そんな大事なこと、先に言ってくださいよ。ゲームの片手間に聞く話じゃないでしょう」
「ほんとそれな。ゲームは定期連絡の収穫がないから暇つぶしに始めただけだし、そもそもそっちがメインじゃん」
「え、なんで俺怒られてんの? そんなガチめに言われると泣くよ?」
 ケラケラ笑いながら答えると、二人から「いいから詳細を話せ」と捲し立てられる。昴星は仕方ないなと肩をすくめ、櫻川とのやり取りを時系列にそって丁寧に説明した。すると、画面越しの颯は腕組みし難しい顔になり、近田は眼鏡を外して眉間を揉みほぐし始める。一体何だというのだろう。
「タイミングよく店にあらわれた櫻川と話していたら上がりの時間を聞かれ、先に帰ったと思っていたら待ち伏せされてて、お前はのこのこ部屋について行き、挙げ句の果てには自宅付近まで送り届けられた、と……」
 先程説明したあらましを、颯が声に出して反復する。
「ちょっと待って。要約するとそんな感じだけど、ニュアンスは違うから。ていうか、のこのこついて行った訳ではないから!」
「行ってる時点でダメだろ。お前忘れてんのかも知れねーけど、普通におっさん受け良いから面倒臭いことになったことあんだろ。警戒心を持て。父さんは心配で夜しか眠れん」
 間髪入れずに切り返したうえ混ぜっかえす颯に、
「あふれ出る父性…! ていうか、しっかり寝てますね」
 便乗しつつも冷静なツッコミを入れる近田の連携プレーに熟練感が否めない。さすが颯の高校時代の親友である。
「うん、寝てるよね。まあそれは置いといて、そもそもさ、先生が食い付いてくれないと話が先に進まないじゃん。あのブローチを修理出来るのは信用できる限られた人だけだし、ガラクタにすり替えられても分かんないから、俺」
「何、開き直ってんだよ。……とは言え、確かに身元のしっかりした人間でないと、桁違いに価値のあるものなんか預けられないわな」
 三人にしばし沈黙が訪れる。
 詳しいことは聞いていないが、祖母の持ち物であるブローチは代々娘が受け継いできたもので、以前は祖母の母の曾祖母、その母と、かれこれ百年近く経つという。年数もさることながら、現在ではその稀少性ゆえに宝石の価値が高くなり、信頼できるところでないとおいそれとは修理に出すこともできない。そもそも昴星は、この修理に関して秘密裏に行うことを第一の目的としている。
 そこで大学の准教授という立場のある人間であり、彫金もできる櫻川に白羽の矢が立ったのだ。
「でも、あんまり深入りすんなよ。櫻川のことは学部が違うから詳しい話は知らねえけど、男女関係なく手癖が悪いっていう噂は聞いたことあるからな。昔、教授の話があったけど、何かやらかしてそれが無くなったのは本当みたいだしな」
「それは僕も聞いたことがあります。有名なんでしょうね。なので警戒はちゃんとしてくださいね」
 颯の言葉に大きく頷き、近田も賛同する。
 画面越しの二人の忠告に、何故だか胸がもやもやする。心配をしてくれているのは分かっているのに、素直に受け入れることができない。
「……なんだよ。納得がいかねえなら直接本人に聞いてみろよ」
 気持ちが顔に表れていたのか、颯が呆れ顔を向けている。
「納得いかないっていうか……ただ、俺の印象はそんな節操ない感じではないから、噂を鵜呑みにしなくても」
 いいんじゃないか、と言おうとする前に颯がすかさず反論する。
「火のないところに煙は立たねーだろ」
 さもありなん。
 反論できる要素がなくて半目になる。
 短い時間ではあるものの、昴星自身がその人となりにふれたときの感覚は勘違いとは思えない。本当に噂通りの人間なら、今ごろ颯たちが心配したことが的中していてもおかしくはないだろう。
 現に櫻川は、学生である昴星を心配して家の近くまで送り届け、交換条件ではあるがブローチの修理を承諾した。学部の違う生徒の面倒をそこまでみるのは、昴星が食い下がったとはいえ、むしろお人好しの部類ではないのかとさえ思う。
 櫻川に下心や思惑があるようには見えないのは、単に昴星の人生経験が少ないからかもしれないのだが、男女関係がだらしないのなら友人の店の売り上げ貢献に、足繁く通う暇などあるのだろうか。それとも店に訪れない日は夜な夜な遊び歩いているのだろうか。
 いずれにしても、櫻川の噂を払拭できるほどのエピソードを持っていないため、しばらく颯の忠告はもやもやした気持ちで聞くことになりそうだ。
 すべては櫻川の日頃の行いのせいだ、と結論付けて、昴星は考えるのを放棄した。
「僕が思うに櫻川先生は、『そこはかとなく漂う大人の色気と、わざと小汚く見せるために伸ばした無精髭も素敵!』と女子のみなさんが言ってましたので、実は先生から手を出しているとも限らないのでは……と思ったりもします」
 神妙な面持ちで、近田が裏声を駆使して女子のものまねを挟みつつ、画面越しから見つめてくる。
 女子からはそんな風に見えているのかと感心し、昴星は櫻川の風貌を思い浮かべる。
「確かに。先生、背が高くてスタイル良いし、髭剃って髪整えたらイケメンかも……」
 だから櫻川だと気が付かなかったのだ。
 初めは准教授という肩書きからも、彼はあまり世馴れていないのではという先入観を持っていた。女性を侍らせ、素っ気なくあしらっていた昔の櫻川とすぐに繋がらないのは致し方ないだろう。
 目から鱗が落ちるとはまさにこのことである。
「いや、そこじゃねーだろ」
「ですね。裏声を駆使して失敗しました」
「分かってるよ! 女子の観察眼にびっくりしただけだよ! 近ちゃんまで酷くない?!」
「何を言ってるんですか。この上なく優しいこの近田が、昴星くんに酷いこと言うわけないでしょう。ただ少し中身がポンコツだな、と思っただけです」
「だな」
 モニターの中では颯と近田の二人仲良く腕組み頷き合っている。
「すぐ結託するし」
 笑いながらそんな二人を突っ込めば、すかさず漫才のような掛け合いが始まる。
「俺も颯と一緒の高校行けば良かったなあ。そしたら近ちゃんと三人で漫才できたのに」
 楽しそうで羨ましい、そんな素直な気持ちを伝えると、二人は真顔になった。
「漫才じゃない」
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