櫻川准教授は今日も不機嫌

たぶん緒方

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     ◆


 嫌だ嫌だとごねたところで現実は変わるわけでもなく、昴星は今日も元気にバイトに勤しんでいる。
 颯と近田のアドバイスを受け、素直に櫻川の研究室に会いに行ってはみたものの、タイミングが悪いのか、シフト日である本日木曜まで話すことはおろか姿を見ることもなかった。
 気持ちの上ではしばらく櫻川とは距離を置きたいと思っている。しかし櫻川への気持ちをさっさと断ち切り、頭を悩ませるのはブローチの件だけにしたいのも事実。
 結局、どちらにも振り切れず、昴星は何度目かの大きなため息を溢した。
 注文を取り終え桐島の調理の手伝いに入ったが、まだそれほど必要とされておらずホールへと追いやられた。
 嫌だ嫌だと思っていたのが災いしたのか、櫻川の次に会いたくない人物が引き戸を開けて入ってきた。
「いらっしゃいませー」
 店員たちは一斉に来店客に声をかける。昴星も一応声をかけたが、未だかつてないほど小さな声しか出せなかった。
「よかった。柊木くんが居るときで。奥の個室みたいなところで待たせてもらっていいかな? もちろん売り上げ貢献するから!」
 そう言って手を合わせて拝みながら見上げてくるのは、先日櫻川のことを聞いてきた竹下だ。その隣にはパンツスーツを着た綺麗な女性が並び立っていて、昴星のキャパシティは一気にいっぱいになった。
「……手前から二番目のとこなら空いてるから、ご案内します」
 昴星は、極力表情を見られないよう、頭を下げながら二人の前を歩いた。
「ご注文がお決まりになりましたら、ベルでお呼びください」
 席まで案内し、笑顔を貼り付け一礼して踵を返す。
 今日は本当に先生に来てほしくないな、とぼんやり考えながら、出入り口を眺める。背の高い櫻川は、店の軒下の暖簾を手で避けて、いつも少しだけ頭を屈めて入ってくる。邪魔だとばかりに眉間に皺を寄せるが文句ひとつ言ったことがない。桐島とは毎度舌戦を繰り広げるものの、彼は自身に起こる、迷惑だったり面倒だったりする不満を一切口にしなかった。
 振り返ってみれば、ブローチの修理に関して以外、櫻川が昴星に対して強固な態度を見せたことはない。それどころか、昴星が自由気ままに振る舞っても叱られたりすることはなかった。学生相手だからか、ひと回り以上の年齢差があるせいなのかは分からないが、“手加減されている”のは間違いないだろう。だとしても櫻川の性格上、黙ってやり過ごすことはしないはずだ。
「すみませーん」
 はっとその声の方を振り返ると、男性客が追加注文をしようとメニューを片手に手を上げていた。
「お伺いします」
 昴星は腰巻きエプロンのポケットから伝票を取り出して、注文を取り終えるとすぐさま厨房調理の一品料理を声を張り上げ桐島に伝える。道すがら空いたアルコール類等のグラスを回収していき、カウンターに「お願いします」と言って預けた。そのまま昴星は注文の入った飲み物の用意をする。そこへ竹下たちの半個室からベルが鳴り、もう一人のアルバイト店員が駆けつける。正直、あまり関わりたくなかったため、心の中で拝んでおいた。
 気付けば十時をとうに過ぎていた。
 その後、立て続けに客が来店し、ばたばたと接客業務に勤しむ傍ら、次々に退店客がレジに並び、息つく暇なく会計を捌く、その繰り返しで手一杯だった。櫻川のことを考える暇もなかったのは、精神的ストレスもなく快適に過ごせて良かったのだろう。心地良い疲労感と充実感で、このまま眠れそうだ。
「落ち着いたみたいなので上がります」
 そう桐島に声を掛けると、ちょっと待って、と紙の手提げ袋を渡された。
「お疲れ様。明日もよろしくね」
「はい。ありがとうございます」
 昴星は紙袋を受け取って礼を述べ、半個室の通路を通り過ぎる。竹下たちの座敷はとうに他の客に入れ替わっている。退店ラッシュ時に彼女たちも帰って行った。櫻川の普段のおおよその来店時間を伝えていたため、見切りを付けたのだろう。
 通路の最奥、staff onlyと書かれた扉の前で鍵を取り出す。施錠を解除して扉を閉めればオートロック式なので内側からは施錠する必要はない。貴重品を保管したり着替えのための場所なので、部外者の出入りが出来ないよう厳重になされている。
 手早く着替えを済ませてバックパックを背負い、桐島や残っている従業員数名に挨拶をする。途中、酔客らからもお疲れ様、と言葉を投げられ、昴星は驚きつつも愛想良く返し店を出た。何故だか店がどっと沸いているようだが、酔客の何に刺さったのか分からない。
 駐輪場に止めてある自分の自転車を見つけチェーンロックを外す。跨ってペダルを踏み込もうとしたときだった。小さなシャッター音が耳を掠める。
 ───撮られた?
 繁華街特有のひとの波とざわめきが邪魔をして、音のした方を振り返ってみても、シャッター音を鳴らしたそれらしき人物は見当たらない。
 昴星はしばらく人の流れを見ていたが、気のせいだろうと結論づける。たまたま通りかかった誰かが別の誰か──もしくは別の何か──を撮っただけかもしれない。
 アルバイト先に竹下が現れて、以前盗撮されていたことが頭の片隅にあったのだろう。自然と警戒していたようだ。
 自意識過剰だったと思い直し、昴星はゆっくり息を吐き出し気持ちを落ち着ける。何度か繰り返すと、自然と力んでいた身体の緊張が解れた。
 昴星は振り切るように、自転車のペダルをぐっと踏み込み家路を急いだ。


   ***


 帰宅してすぐ、桐島から渡された紙袋からプラスチックのフードパックを取り出し、テーブルに並べる。
「おいしそ……」
 思わずもれた言葉と共に唾液が口腔を満たす。今日の賄いは鯵の南蛮漬けとほうれん草のピーナッツ和え、もやしの卵とじの三品だ。南蛮漬けの玉ねぎピーマン人参の、カラフルな彩りが目を惹く。昴星は、賄い付きのバイト先でつくづく良かったな、と手を合わせた。
「いただきます」
 さっそく鯵の南蛮漬けから箸をつけ、一口目を嚥下した途端、昴星は眉間を押さえた。疲れたあとの身体に、優しい甘酸っぱさが沁みる。それと、懐かしい味。もう母の味は思い出せないが、その一口で、幼い頃のあたたかな食事風景が胸を刺した。
 夜遅い時間の晩御飯だから、賄いだけ食べて終わらせるつもりだったのに、猛烈に白いご飯をかき込みたくなった。
 昴星は長期保存用食品を詰め込まれたストック棚から、米飯のパックを取り出しレンジにかける。行儀悪く箸を持ったまま、まだかまだかとレンジの中を覗き込む。一口食べた後の胃袋は、それが呼び水になって余計に空腹を感じて気持ちが逸るのだ。
 終了を告げる電子音とともにパックをテーブルに持って行く。昴星は二度目のいただきますを言うが早いか、ばくばくと大きな口を開けて食べ始める。最初はただ食べることに夢中で、無心で、次々口に運んでいた。しかし、ある程度腹が満たされてくると、心は寂しさと悲しみが広がっていった。
 家族で食卓を囲み、たわいのない会話をする。
 何てことのない、ありふれた日常が、昴星にとって手の届かない、遠い星のような存在に思えた。
 記憶に残る食卓風景は、色とりどりの料理と止まらないお喋り。ときどき父と昴星が叱られて、それでも喋り出すから呆れられて。
 神様にお願いしても、色んなことを我慢しても、あの食卓は二度と戻ってこなかった。
 こんな風に一人きりで、美味しい料理を美味しいと言い合えない食卓で過ごすのを、あと何回続ければいいのだろう。今はまだ想像出来なくても、いつか美味しいと言い合える人が現れるのだろうか。
 昴星が夢見る光景はいつだって叶わない。
 漠然とした不安が胸に広がる。綺麗な水槽の水に泥水を混ぜていくような、じわじわと侵蝕される不快感を感じる。
 櫻川を好きになったことで、自分の置かれている状況の不安定さに気付いた。
 昴星はマリアが居なくなれば一人になることは覚悟していた。だからこそ、最大限の努力をしてマリアと一緒に居られる時間稼ぎをしている。そこに、いつの間にか櫻川の存在が加わった。ブローチの修理というきっかけからどんどん関わっていくうちに、友情や敬愛とは違う、収拾のつかない感情に行き当たった。気付けば、それは恋になっていた。
 失いたくないものはマリアだけだった昴星に、俄には受け入れ難い感情だった。同性、年齢差、置かれている立場、どれを挙げても難しい、問題だらけの相手なのに、心は櫻川がいいのだと譲らなかった。
 唐突に、櫻川と食べたクラブハウスサンドのことを思い出す。店で買ったと思い込んで、財布を取り出した櫻川に、手作りだと告げたときの驚いた顔が、今となっては大事な思い出のひとつだ。
 ───美味しいって、言わせたかったな。
 ふっと自嘲気味な笑みが溢れた。
 櫻川への想いを諦めないと、と大人ぶって思ってみても、どうしたって心は諦めたくないと訴えている。昴星のなかの小さな昴星は、わんわん泣きながら嫌だ嫌だと叫んでいる。
 心の中の幼い自分に、大好きな人に迷惑かけていいのか、と宥めてみても、好きなのに何で諦めないといけないのだと、相反する二つの想いはぶつかり合っていた。どちらも同じ昴星なのに、気持ちが纏まらない。
 どちらも同じ『好き』という感情からくる、献身と欲求だ。間違っているなんて思いたくない。だけど、ずっとこの先も、一人きりの食卓で心が空腹のままでは耐えられないだろう。それを埋められるのは向かい側に座る誰かだ。
 だがそこには、櫻川は座らない。
 心の中で「どうして、どうして」と泣く小さな昴星に、力無く「どうしてだろうな」と返すだけしかできなかった。
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