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2巻
2-3
しおりを挟む「大変だったな、真田」
安い居酒屋の個室である。事件の解決祝いにと、九雀が誘ってくれたのだった。鷹人も既に九雀の向かいに座り、メニューを開いている。
「いえ、すみません。被疑者を死なせてしまって」
軽く頭を下げながら、律華は九雀の隣に腰を下ろした。
「いいや、お前はよくやったよ。ただ、間が悪かった」
「そうだな。律華くんは、僕から見てもよくやったと思う」
メニューからちらりと視線を上げ、鷹人が追従する。九雀は驚いたようだ。
「なっ、お前……どういう風の吹き回しだ? 真田のことを褒めるだなんて……来る前に、どっかで一杯引っかけてきたのか? それとも拾い食いでもしたか?」
揶揄したわけではなく、心底訝っているらしい。
「失礼な。僕は素面だし、拾い食いなんて見苦しい真似もしない」
鷹人がいかにも心外だと言いたげな顔で答える。
「僕はただ、卑劣な犯人にさえ救命措置を施してやる律華くんの正義感の強さに心打たれただけだ。いやはや、素晴らしい。警官たる者かくあるべしと言いたい」
手振りまで加えて力説する彼を、九雀はますます胡散臭そうに眺めた。
「なあ、真田。こいつとなにかあったのか?」
「いえ、なにも」
落ち着かない心地で腕をさすりつつ、律華も即座に否定する。
「石川はずっとウェティカコインの行方を気に掛けていましたが、自分は鈴木の措置で手一杯でしたから。そのことを責められはすれ、褒められるような覚えは……」
「ウェティカコイン……ああ、あの馬鹿みたいな値段の付いたコインな」
顎に手を添え、九雀がじとりと鷹人を見やった。
骨董屋は愛想笑いを浮かべたまま、硬直している。空調の効いた店内は涼しいくらいだったが、どうしてか彼は汗を掻いているようだ。
「まあ、まずは乾杯しようじゃないか。とりあえずビールでいいかな?」
鷹人は早口で言って、テーブルの端に備え付けられた卓上送信機を押した。すぐやってきた店員に「ビールを中ジョッキで三つ。それから串盛りと、サラダ、出汁巻き卵を頼むよ」と、勝手に告げていく。注文を終えると再び二人に向き直り――
「で、なんだったかな。そうそう、君らを労おうって話だったのではないかな」
そう、誤魔化した。いや、誤魔化しきれてはいないか。
「……コインだな」
九雀が小声で呟く。
「はい、コインですね」
確信し、律華も頷いた。
会話を聞きつけると、鷹人はますます慌てて言い訳をしようとしたが――
「コイン……ああ、コイン。そんなものもあった。いや、すっかり忘れて……」
「おい、石川鷹人。なにを企んでいる?」
挙動不審な彼の言葉を遮って、その鼻先に指を突き付ける。
「こういうときばかりフルネームで呼んでくれるのだな、律華くんは」
「名で呼べ、と話を脇道に逸らされてしまっては敵わないからな。さあ、吐け」
「吐けと言われても、まだ酒も飲んでいないから……なあ、蔵之介?」
鷹人のすがるような視線に、しかし九雀は冷たくかぶりを振っただけだった。
「悪いが、手助けはできかねるな。一応、俺も警官だ」
「プライベートに仕事を持ち込まない主義じゃなかったのか! 裏切り者!」
「うるせー。俺だってせっかくの飲みの席で仕事の話なんてしたくねえんだよ。なにか企んでやがるなら、とっとと吐きやがれ」
二対一で詰め寄られては、鷹人も観念するしかなかったのだろう。
「分かった――」
頷きかけ、手を前に出す仕草で二人を制止した。酒と料理を運んできた店員が個室の入り口を開け、料理とジョッキを並べていく。店員が去るのを待ってから、鷹人は続けた。
「まずは乾杯しよう。いや、誤魔化そうとしているわけではないんだ。ぬるくなってしまったビールほど不味いものはないからね」
「そうだな」
頷き、九雀もジョッキを掲げる。乾杯。腑に落ちない心地のまま、律華は彼らとジョッキを合わせた。なみなみと注がれたビールを一息で半分ほど飲み干し――
「さて、話を聞かせてもらおう」
鷹人に視線を戻す。
顔に似合わず相当飲めるのか彼は既にジョッキの中身を空にしていたが、律華の視線に気づくと、ジョッキをテーブルの上へ戻し、懐から一枚のカードを取り出した。
「それは?」
串盛りに手を伸ばしながら、九雀が訊ねる。鷹人が答えた。
「招待状だよ。とある異能者が開催する歓談会の」
「歓談会?」
「とは表向きの話で、実際は特定古物のオークションが行われることになっている。もちろん、呪症管理協会はこれを認めていないが、こういった催しをしたがる人物は大抵それなりの権力を持っているものだ」
溜息を零し、招待状をひらひらと振ってみせる。
「で、お前の許にも誘いが来たのか?」
首を傾げる九雀に、鷹人は肩を竦めた。
「ただの呪症管理者の許に届くような代物じゃないさ。知り合いの異能者に買い取らせてもらったんだ――二週間ほど前に、それなりの額でね。高すぎると不満を零した僕に、彼は〝今回の出品予定目録を見れば、そんな口は叩けなくなる〟と言った。その出品予定目録が、これだ」
彼は招待状をテーブルの上に残したまま、今度は文庫本ほどの薄い冊子を取り出した。青い表紙に黒字で〝歓談会目録〟とある。中に連ねられているのは、美術品の名前だ。おそらくはどれも特定古物であろうが、その一番上に――
「ウェティカコイン……?」
仮、とは記されているものの、確かにその名があった。
「どういうことだ? 二週間前というと、コインはまだ真壁の許にあったはずだ」
「僕が思うに――」
鷹人は口の中に放り込んだ出汁巻き卵を咀嚼し、呑み込むと続けた。
「鈴木将志は、真壁との交渉を依頼されていたのではないかな」
「だが、薬をやっているような危ない男に大事な交渉を頼んだりするか?」
「逆だよ。薬をやっているような危ない男だからこそ、どんな手を使ってでもコインを手に入れる――オークションの主催者か、他に依頼主がいるのかは定かではないが、そう踏んでの人選だったに違いない。実際、鈴木は真壁を殺してコインを奪った」
まさか。
反射的に反論しかけて、律華は口を噤んだ。続く言葉が見つからなかったのである。代わりに口を開いたのは九雀だった。皿から取った二本目の串を振りつつ――
「となると、鈴木の死も本当に事故だったのか怪しくなってくるな」
気難しげに眉間に皺を寄せている彼に、律華は訊ねた。
「依頼主に殺された、ということでしょうか? しかしそうなると、わざわざ鈴木に真壁を殺させた意味がなくなってしまうのではないでしょうか」
「ああ。報酬をつり上げようと欲を出して下手こいたか、コインを前にして相手に渡すのが惜しくなったか、それとも別のトラブルがあったか……」
九雀の言葉になるほどと頷いて、鷹人に視線を戻す。
「で、石川」
彼はもう自分には関係ないような顔で、卵の残りをつついていたが。
「姓で呼ばないでくれ。僕のイメージにそぐわない」
「石川鷹人」
どこまでもしつこく訂正を要求する彼に、律華はわざわざ言い直した。
「お前は我々を出し抜いて、一人でオークションに参加するつもりだったのか」
「一人ではない。参加条件は男女一組になっているから、一慧くんに付き合ってもらおうと思っていた。それに、出し抜くつもりだってなかった。警察はウェティカコインを捜しているわけではないから構わないと……」
「コインにこだわってはいないが、真壁や鈴木の死に関わっているなら話は別だ!」
思わず、両手でテーブルを叩く。
鷹人は横を向いて唇を尖らせると、小声で言った。
「ほら、怒った。だから言いたくなかったんだ、僕は」
「子供か!」
「警察の中ではもう真壁が鈴木を殺して、鈴木が薬物中毒の副作用によって入浴中に意識喪失、溺死したということで解決したのだから。わざわざ蒸し返してややこしいことにしなくとも、いいじゃないか。真実も、さほど変わりはないだろうし」
「そういう問題ではない。人が二人も死んで――」
思わず声を荒らげた律華の口を、九雀が両手で塞いだ。
「しっ。声が大きいぞ、真田」
個室の外で聞き耳を立てている者もいないだろうが、会話の内容を鑑みれば軽率だったには違いない。やってしまったと気づけば、怒りが萎んでいくのは早かった。
口を押さえたまま耳元で、九雀が念を押してくる。
「落ち着いたか? 後輩ちゃん」
律華は答える代わりに、何度か首を縦に振った。
意地の悪い笑みを浮かべながら、鷹人は懲りずに揶揄してくる。
「やあい、飼い主に叱られた」
「お前も真田を挑発すんじゃねえよ、石川」
九雀は彼にもぴしゃりと言うと、律華の口から手を離して仕切り直した。
「さて、石川。その招待状を見せてみろ」
「な、何故君に見せる必要がある? 面白いことなんて、なにも書いてな――」
「いいから見せろ」
狼狽える鷹人の手から招待状をひったくり――
「こういうのはな、裏面に詳細が書かれているはずなんだよ」
にやりと笑うと、九雀はそれを裏返した。そこに書き付けられている文章を、小声で読み上げていく。日時、会場の場所、参加条件。そして、最後に一言。
「〝この招待状一枚で、二組まで参加可能です〟……ねえ?」
ちらり、と人の悪い顔で目配せしてくる。
彼の意図するところを察して、律華は頷いた。
「二組ということは、自分と先輩が便乗したところで問題はないということですね」
慌てたのは鷹人である。
「大ありだ! 歓談会なんて書き方をしているが、要はパーティーなんだぞ。来賓にはそれなりの品位が求められる。君ら二人、絶対に浮くじゃないか」
「そりゃまあ、否定はしねえけど」
九雀はひょいと肩を竦め、招待状を懐へねじ込んだ。そういうところが粗暴だというんだとぼやいている鷹人のことは無視し、店員を呼びつける。酒と料理を適当に追加した彼は、食事に手を付けていなかった律華の前に串盛りの残りを差し出して言った。
「さて、後輩ちゃん。楽しいパーティーの前祝いといこうぜ」
***
楽しいパーティー。そう九雀は言ったが、自分はどうにも楽しめそうにない。と、律華は落ち着かない心地であたりを見回した。
飲み屋での打ち上げから十日。都心から離れた小さなホテルに、律華たちはいた。
「似合うじゃねえか、真田」
「そう、でしょうか?」
ワインレッドの滑らかな布地を、律華は自信なく見下ろした。お姉ちゃんは赤が似合う――そう言ったのは妹だったか。さすがに鮮やかな赤を着る勇気はなかったため、この濃紫赤を選んだのだが、それでも派手すぎるような気がしてしまう。
「ああ。お前のことだからもっと渋い色を選ぶかと思ったが、そっちの方が断然いいな。あとは眉間に皺を寄せなけりゃ、完璧だ」
そういう九雀の方は、フォーマルスーツ姿が多少窮屈そうだった。
似合ってはいるが、いつもシャツのボタンやネクタイを外してゆるりと着こなしているだけに慣れないのだろう。無意識に襟元へ手を持っていっては、思い出したように元の位置へ戻している。
「なにが――〝あとは眉間に皺を寄せなけりゃ、完璧だ〟だ」
壁際でぶつぶつと不平を零しているのは鷹人だ。こちらはさすがに品位云々言うだけあって、場慣れしているようだ。先程までは知らない婦人と歓談していたが、愛想笑いにも疲れたと言って戻ってきたのだった。
「完璧なものか。君らときたら、二人揃って挙動不審なことこの上ない。もっと、一慧くんのようにどーんと構えていたらどうだ?」
彼は舌打ちこそしなかったものの心底呆れた顔で毒づいて、視線だけで一色一慧を示した。明るいライム色のドレスがよく似合う娘は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと会場を散策している。持ち前の愛想のよさと笑顔の似合う童顔が相まって、周囲の反応は概ね好意的だ。彼女にちょっかいをかける男もいるが、横から年嵩の紳士や夫人が助け船を出しているようだった。
九雀が呟く。苦笑いで。
「あれは、まあ一種の才能だよな」
「自分の至らなさを棚に上げて、才能の一言で片付けるんじゃあない」
「……お前のくせに、微妙な正論を吐きやがって」
毒づく九雀を鼻で笑ってあしらうと、鷹人は一慧を呼び戻した。
両手を軽く合わせる仕草で、さて――と、切り出す。
「そろそろオークションが始まるわけだが、君らにはあくまで参加者に徹してもらいたい。警察だなどと名乗って聞き込みをするような真似は厳禁だ」
「分かってる。そこんところは、真田とも話し合ってきた。だよな」
九雀が即答した。彼に同意を求められ、律華も首肯する。
異能者に対して及び腰になるのは、なにも呪症管理協会ばかりではない。警察も同様だ。古くから怪異珍事を解決してきたのは、異能者である。民間人の間で〝異能〟の存在が忘れ去られた昨今でさえ彼らの影響力は大きく、手出ししにくいのが現状だった。
「我々は会場に出入りしている参加者たちや関係者、オークションに出品された特定古物をチェックする。それらをリスト化し、呪症管理協会に入手経路の調査を依頼するつもりだ。ウェティカコイン一点では弱いが、同じような盗品が何点か見つかれば上も動かざるをえないだろうからな」
調査からの流れで、真壁の事件を再度検討する流れへ持っていく――小声で説明すると、鷹人は瞬きで了承してみせた。
「よろしい。今回は、君らの優先事項と僕の優先事項とで相反するわけではないし、こうして行動を共にすることになった以上は捜査に協力したいと思う」
「ほう?」
九雀が意外そうに目を細める。
「協力ったって、どうする気だ?」
「あえて虎の尾を踏みに行くのさ。君らに、こういうやり方はできないだろう?」
「まあ、な」
はっきり肯定することで、鷹人を調子に乗らせたくなかったのだろう。九雀が歯切れ悪く相槌を打つ。だが実際、騒ぎが起これば警察として介入しやすくなるのは事実だった。そのことは鷹人も分かっていたに違いない。
「そこで、蔵之介に頼みがある」
言葉とは裏腹に、有無を言わせぬ調子で切り出してくる。
「頼み?」
嫌そうに訊き返す九雀に、鷹人が答えた。
「律華くんを貸してもらいたい」
「真田を……お前、なに考えていやがる」
「護衛だよ。逆上した虎が襲いかかってこないとも限らないからね」
九雀は思案顔をしている。
「確かに……荒事になったときのことを考えると、俺より真田の方が役に立つが」
二人の会話を聞きながら、律華もきな臭いものを感じていた。
鷹人の言うことはいちいちもっともだが、だからこそ不自然なのだ。いや、思えば飲み屋でのやり取りから彼らしくはなかったか。特定古物のためならどんな無茶でも通そうとする鷹人が、あっさりと白旗を揚げて目的を打ち明けたというのは――
(話ができすぎている、気がする)
同じことを考えていたのか、九雀が小声で耳打ちしてくる。
「下手に出すぎて逆に怪しいよな。探れるか、真田?」
「はい」
こちらも囁く声で答える。短い密談を終えると、九雀は鷹人に向き直った。
「後輩ちゃんは貸してやる。ただし、囮に使うような真似はすんなよ」
「ああ」
骨董屋は、やはり胡散臭い笑顔で頷いた。
「代わりに、君には一慧くんを預けよう。ここで地道な聞き込みや観察をしようというのなら、挙動不審な律華くんより人好きのする一慧くんの方が適任だ」
そう言って一慧の背中を押しやるが、童顔の娘は目を白黒させている――事情を聞かされていないらしい。つくづく勝手な男だと思いながら、律華は鷹人の手をぴしゃりと叩いた。彼の代わりに、安心させてやるつもりで一慧の肩にそっと触れる。
「九雀先輩は君に無茶を言ったりしないから、安心していい。ただ、なにかあってはいけないから傍からは離れないように」
だが、どうしてかそれが逆に彼女のやる気を刺激してしまったようだ。一慧は子供のようにふっくらとした頬を上気させ、胸の前で両手を握りしめた。
「いえ、ちゃんとお手伝いできるように頑張ります!」
健気な娘である。感心して、律華は少し唇を緩めた。
「そうか。では、先輩のことは頼む」
「はい。真田さんも、マスターのことをお願いします。手の掛かる人ですけど……」
「ああ、石川には怪我をさせないよう気を付けよう」
彼女との会話を終えると、律華は九雀に目配せした。彼が頷き、一慧を連れて人の集まっている方へ移動していく。残された鷹人は拗ねたように唇を尖らせていた。
「なんだ、手の掛かる人って」
「不服か?」
「不服だとも。確かに蔵之介は無茶を言ったりしないかもしれないが、性格の悪さは大概だ。なのに、君らは僕の人格ばかりを責める」
そんな彼に、律華は苦笑いで答えた。
「人徳だ」
「あいつに人徳があると信じているあなたは、人を見る目がないと思う」
「失礼なやつだな……」
小声で言い合っていると、不意に会場の照明が落ちた。
壇上に降りた白い幕にライトが集まるのを見て、参加者たちのざわめきが止む。その傍らにはスーツ姿の凡庸な顔の男が立ち、マイクに向かって語りかけた。
「皆々様方、このたびはようこそ〈失われし虹を求むる会〉に起こしくださいました。皆様の多くは故ジョン・スミス氏の偉大なる著書『ウェティカへの誘い』の愛読者かと思います」
「ジョン・スミス? ウェティカへの誘い? なんだ、それは」
わけが分からず、隣の鷹人に小声で訊ねる。彼も小声で囁き返してきた。
「ジョン・スミスはウェティカコインの制作者だ。いや、彼はただウェティカという都市を生み出し、そこで用いられた通貨を記念に一枚作らせただけだが」
壇上で司会を任されているらしき男は、話し続けている。
「主催者である代苗常光氏もまた『ウェティカへの誘い』の大ファンであり、皆様とぜひ歓談したいと、このたび機会を設けた次第にございます。また、特定古物の収集家としても有名でおられます皆様にお楽しみいただけますよう、珍しい品も多数ご用意させていただきました。受付にてお渡しいたしましたナンバーパドルをご使用の上、ぜひともオークションにご参加いただければと思います。それでは、ご紹介いたします――」
だが、鷹人は男の話が終わるのも待たずに動き出した。
「どこへ行く?」
「まずは会場の外へ出よう。ここは、人が多すぎる」
律華が訊ねると、彼はにやりと笑って非常口を指差した。
***
「あいつの提案を呑んだはいいが、心配だよなぁ」
九雀蔵之介は会場をふらふらしながら一人、呟いていた。
鷹人のことは、まあ心配しなくても平気だろう。詰めの甘いところはあるが、用意周到で悪運も強い。危機に陥ったからといって、素直に死ぬようなタイプでもない。
気に掛かるのは、あの友人に同行していった後輩のことだった。
――やっぱり、真田には俺が指示を出してやらなけりゃな。
という思いが、九雀にはある。
ああ見えて、後輩は単独行動に弱い。人を疑わないわけではないが、かといって相手の裏を掻いてやりこめるようなこともできず、後手に回ってしまうことがしばしばあった。身体的能力は高いのに、情に厚い性格が判断力を鈍らせているのだ。的確な指示を与えるパートナーがいて初めて、彼女はその能力を活かすことができる。
ある種、気難しい猟犬を飼い慣らす感覚に近いかもしれない。猟犬も、飼い主がいなければ狩りはできない。
(そのくせ、俺がいないとこでも獲物を持ってこようって頑張っちまうからな)
やきもきさせられつつ、律華の世話を焼いてやるのが嫌いではない九雀である。
そういう意味では、一色一慧はやりにくい相手だ。一慧がいる方をちらりと見やって、九雀はひそかに嘆息した。童顔のせいで頼りなく見えるが、あの娘はかなりのやり手だ。律華の姿が見えなくなるや、もう九雀から離れて情報収集に勤しんでいる。
中学生ほどにしか見えない彼女のことを、子供だと勘違いしているのだろう。無知な子供相手に講釈を垂れることの好きな好事家たちは、口を緩めているようだった。中にはカメラを片手に迫る者の姿さえある。遠目に見ても、話が弾んでいるのが分かる。
フォローも指示も必要ないため楽には違いないのだが、九雀は一慧を信用しかねていた。ただでさえ落ち着かないこの場所で、素人のくせに顔色の一つも変えず聞き込みをしてみせるようなところが、なんとなく気に入らない。
(石川から、別の指示を与えられてるってのは……考えすぎか)
かぶりを振る。
元より疑り深い性格であると自覚してはいるものの、よくない傾向だ。
(いかんな。俺も、真田を使うことに慣れすぎた)
胸の内で呟いて、九雀はゆるりと会場を見渡した。一慧の器用さを信用できないのなら、自分が動くしかない。声を掛けやすそうな人物を探す――いた。
壁際で一人佇んでいる、おとなしそうな女に目を付ける。まるで影のように黒いマーメイドラインのドレスが似合っている。足下の影が多少揺らいで見えるのは、照明のせいだろう。
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