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我が愛しの猟犬
7.
しおりを挟む「はあっ!」
後輩が気合いを込めて、息を吐いた。
犬が地面を蹴る。律華も狙いを定め、保護棒を突き出す。棒の先端に付いた輪は多聞丸を捕らえたかに見えたが、ドーベルマンは全身の筋肉をしなやかにしならせて、これを回避した。対象を捉え損ねた律華に、大きな隙が生じる。
次の瞬間。
「ぶっ……!」
律華の顔面を足蹴にし、多聞丸が跳躍した。犬はそのまま軽やかに塀の上へ飛び移り、道の向こうへ駆けていってしまった。
あとには、蹴り付けられた反動でアスファルトの上に転がった後輩と――
「来い、火雷!」
目的を見失った生真面目な異能者が、式神を呼び戻す。
炎の鷲は術者の手元へ戻り、弓に形を変えた。丑雄が弦を引き絞り、赤く燃え盛る矢の狙いを定める――従弟へと。辰史の方もいつの間にか式神を追加し、傍では目のない蛇が大口を開けて攻撃を迎え撃とうとしていた。
「あー……この状況で、まだ喧嘩続行かよ」
九雀は額を押さえた。
律華の傍へ駆け寄ってやりたいところだが、彼らの間を通っていくのは難しい。うまく間をすり抜けたとて、逆に起き上がった彼女を危険にさらす可能性もある。
(真田のことだから、俺の心配をして駆け寄ってくるか……)
想像できてしまうからこそ、駆け寄ろうにも駆け寄れない。
やきもきしながら、いっそ二人の間にゴム弾を撃ち込んでやろうかとホルスターに手を伸ばしたところで――
ぱんっと乾いた音が鳴った。発砲音では、ない。
伊緒里だ。彼女が両手を叩き、眦をつり上げている。音に驚いたらしい二人の男が、ぴたりと動きを止めた。
「仲がよろしいのは結構ですけれど、それくらいになさいませ。本家の跡継ぎ殿も、丑雄さんも――人前ですよ」
丹塗矢家当主の妻らしい凄みを感じさせながら、夫と辰史とをそれぞれ一瞥する。叱りつけられた男たちの傍から、式神が消えた。代わりに呪符が、地面へ落ちる。
異能者たちの喧嘩は、それで終わりだった。
「……そういうことができるんなら、もっと早く間に入ってもらいたかったんだがね」
もう敬語も忘れ、九雀はげっそり呟いた。
「申し訳ありません。外で跡継ぎ殿や夫を叱りつけるようなことはしたくなかったのです。お二人とも、各々が考えている以上に立場ある方ですので」
前を向いたまま、伊緒里が凛と答えた。
それから小走りで夫の許へ向かったのは、彼の身を案じる気持ちがあったからだろう。硬直している丑雄の足下から火雷の呪符を拾い上げ、慣れた手つきでさりげなく彼に怪我がないことを確認していく。
「三輪一族を気取らないのは丑雄さんの美徳ですが、今回は八津坂署の方々もご一緒だということをお忘れなく。あなたは、一歩外へ出れば丹塗矢家の当主なのですから」
顔つきは厳しいままだが、まあ建前だろう。
(さ、次は俺の番か)
こちらもゆるりと律華の許へ歩いていき、手を貸して立たせてやる。
「他人事じゃねえぞ、後輩ちゃん。石川を相手にするのとは、わけが違うんだからな。俺たちも異能対策課として八津坂署の看板を背負ってるってこと、忘れんなよ」
伊緒里のように表情だけでも怒ったふりをできないあたり、自分はまだまだ未熟だなと思いつつ――便乗して小言で釘を刺すと、律華も悄然と項垂れた。
「申し訳ありませんでした、九雀先輩」
「すまなかった、伊緒里」
丑雄の謝罪まで聞こえてくる。あちらも言い訳はしない。よく躾けられている――というのは、夫婦である彼らに対して礼を欠くか。
(俺が飼い主なら、向こうは闘牛士ってところかね)
口の中で呟きながら、一人置いてきぼりにされた辰史を振り返る。
目が合うと、彼は酷く居心地の悪そうな顔で毒づいた。
「あーもう、ほんとツイてねえな。これからデートだってのに……」
「……お前の喧嘩っ早さも騒ぎの一因であるとはいえ、すまなかった」
妻に視線で促され、丑雄が頭を下げる。謝罪と呼べるか微妙なところだが、従兄の率直さには慣れているのだろう。辰史は顔をしかめただだった。
「てめえは、つくづく一言多いな」
大きく嘆息し、ひらひら片手を振る。
「……もう、いい。犬でもなんでも、さっさと探しに行け。店の弁済費用については、後で緒田原家に請求書を回しておく」
「お前は……こんなときでも、金、金と。緒田原学長には世話になっただろう」
「それとこれとは話が別だろ。総額でいくら被害にあったと思ってんだ、馬鹿」
「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは……」
「正義馬鹿。猪突猛進馬鹿。すぐ暴走すんだから奥方に手綱握っていてもらえ、馬鹿」
「うぐっ」
舌戦となると勝負にならないらしい。痛いところを突かれた顔で、丑雄は押し黙った。無言で悔しがる従兄を鼻で笑ってあしらい、辰史がこちらへ矛先を向ける。
「真田の爺さんの孫も、だ。身体能力の高さは認めるが、それにしたって争っている式神の間を走り抜けるなんて無謀すぎる。援護が望めない状況で一人突出するってのも、悪手だ。飼い主に、いっそ首輪とリードでも付けてもらえ」
「う――」
恐ろしく口は悪いが、正論だ。律華もなにも言い返せず、言葉を詰まらせている。
「店の入り口をこのままにして出かけるわけにもいかねえし、入り口の応急修理をして、家デートだな。また比奈に心配かけちまう……」
不平を零しながら、辰史が店の中へ引き返していった。
その背中を見送って――
「さて、俺たちも車に戻るか。仕切り直しといくぞ」
沈黙を振り払うように、九雀は努めて明るい声を上げた。こういうとき、湿っぽいフォローはかえって相手を惨めな気分にさせてしまう。
「な、後輩ちゃん。仕事はまだ終わっちゃいないんだからな」
「はい、九雀先輩! 汚名返上、頑張ります」
顔に犬の足跡を付けたまま、律華は敬礼のポーズで胸を反らした。
「その調子だ。いつもどおり、いくぞ。シメの石川は、今日はいねえけど」
後輩の背中を軽く叩き、車内へ促す。
「いい先輩なんですね」
意外そうに呟いたのは、あとからやってきた丑雄だった。彼の方も先に妻を入らせ、改まったように向き直ってくる。今度はなんだと身構える九雀に、彼が言った。
「先程は、勝手をしてすみませんでした」
思いも寄らない謝罪だった。
九雀は拍子抜けして、決まり悪げに頭を掻いた。
「あー……異能者や呪症管理者の勝手は慣れているので、お気になさらず」
――やっぱり、真田みたいなやつだよな。
そう思うと、きつい皮肉を投げる気にもなれない。
「ところで、さっきの多聞丸。真田の顔を踏み台に、塀まで跳躍しましたね」
「ああ、それも申し訳――」
「ではなく。普通の犬より、かなり身体能力が高そうだって話です」
彼はまだ謝り足りなそうな顔をしていたが、会話の雰囲気からどうしても後輩の顔が過ぎってしまうので、無理に話題を逸らした。
「こちらは、無傷での捕獲が望ましいと聞いています」
「はい。そのように希望しています」
丑雄が頷いた。
随分と気楽に言ってくれるものだと顔をしかめながら、九雀は続けた。
「希望だけではなく、そちらになにか手札はあるんですか。被害が広がる可能性を考えると、警察も捕獲棒を振り回しているだけってわけにはいきませんし――」
言いかけて、口調がいくらか厳しくなってしまったことに気付く。
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