衛星のスタジォーネ

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▼▼エウロパ2009

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 2009年4月1日。

 ごく普通の怠惰な会社員、久我クガ 学途ガクトは、身から出た初体験に直面していたのであった……


 財布とケータイだけを鞄に放り込んだことを確認すると、挨拶もそこそこに事務所を飛び出すのであった。

 出欠を示す名札をひっくり返そうとするも、慌てた震える指で自分の左右の人のを、右へ左へと弾き飛ばしてしまう。

 いいから行ってください、と言わんばかりの後輩の呆れうんざり感を伴った視線を感じ、もつれる足で階段を駆け下りていく。途中で下から上ってきた若い女の子とぶつかりそうになり、思い切り引かれながら睨まれながらも、既に粒状の汗が浮いてきた額を掌でぬぐいながら、小太りの体を前へ前へと運んでいくのであった。

 先ほど、妻から、陣痛の間隔が短くなってきたから、とりあえず帰って来て、との電話があったのだった。

 時刻11:40。あと二十分粘れば午後半休として処理できたのだが、その二十分の遅れで何か取り返しのつかないことになったら一生なじられ続けることになる、と二分くらい悩んだ末、結局全休とすることに苦渋の選択をしたばかりなのであった。

 じゃあ午前中、課長にねちねちなじられた分は何だったんだろう、と仕事とプライベートの狭間で揺れ動く、久我クガ 学途ガクト、三十歳の春なのであった。

 子供が生まれる……もちろん、嬉しくないはずが無いのであった。初めての自分の子供。結婚も奇跡だと思っていた自分が、子供まで授かって……と内心はうおおお、と叫び出したい気分なのである。

 しかし一方では出産に立ち会うことにしてからは、自分にそれが滞りなく行えるのか、不安と緊張でないまぜの気分を、この頃は一日に何度も感じていたのであった。

 しかしとりあえずは家へと向かう。それだけを考えて、様々な想いが溢れ出て来そうになるどでかい坊主頭の中身を切り替えていく。

 病院-家-職場はそれぞれが5分徒歩で行き着ける好立地であり、そこまで急ぐ必要はなかったものの、慌てるあまり、靴箱の扉を開け、かがんで靴を履き替え立ち上がった際に、その金属扉の角に頭がちょうど突き刺さるような角度でぶつけめり込ませてしまうのであった。喉奥から、おほぉぉんというように駆け上がってくる呻き声を、引きつった頬の筋肉に吸収させ、それでも家路を急ぐ。

◇妻・佳苗かなえ手記ノート

 2009年4月1日

 8:30 朝(ニラ卵、スープ、サラダ、ごはん)

 朝9:00くらいから、不定期だけど張りが感じられた。間隔は14minだったり、7minだったりとまちまちだ。そうじ洗濯などの家事を全て終わらしたくて、洗たくそう、ふきそうじをやった。食事もちゃんと取らなきゃと思い、必死に用意。まだ強く張る程度の痛み。

 12:00 昼(厚あげ豆腐、しいたけ、ミニトマト、ごはん)

 昼前にガクに連絡。まだ10~12min間隔のこの頃、おしるしに気付いた。ドロッとした赤茶のおりものみたい。だんだん痛みが強くなってきたので病院にtell。ガクの帰りをまって、歩いて病院へ(7~8min間かく)


 あら意外に早かったじゃん、と、割と普通な感じで出迎えられ、あれっ、と拍子抜けしてしまう駄目な久我なのであった。
 
 とりあえず、向こうで着るのと洗面用具と……みたいにてきぱきと用意を整えている妻の佳苗の後ろでウロウロと所在なく立ち回るが、はいジャマ! と脇腹に手刀を打ち込まれながらのけぞりつつ、荷物を受け取って家を出るのであった。

 無事、徒歩にて病院に着くものの、ここでも勝手が分からず妻の後ろをオロオロと付き従うばかりなのであり。先に妻が呼ばれ、勝手にあわあわとしながらロビーで待つこと30分。看護師に呼ばれて、六床ある大部屋へとおろおろと移動する。

きょろきょろと今まで自分に縁のなかった所に戸惑うも、手前左のベッドにあぐらをかいている、前開きの白とピンクのボーダー柄のマタニティワンピースを着た妻の姿を認め、少しほっとするのであった。

 今から入院だってさ、と腹回りにベルトのような物を巻いた妻が、その大きくなった腹をしきりにさすりながら言う。その顔は時折来ているのだろう痛みにしかめられることはあるものの、得も言われぬ笑みが常に浮かんでいるのであった。この頃特に見かける、母性が強烈ににじみ出ているその表情に、久我は一種の神々しさすら感じてしまう。

 ここに記入して、家からお金持って来て、あと何か飲み物とかゼリーとか適当に、と指示を受けつつ、一旦辞して家にとぼとぼ戻る。

 実家にも連絡しとくか、と帰りすがら<佳苗入院、今日?」>と、一文字増えるごとに料金上がるのか? くらいの簡素なメールを打つと、途中のコンビニで色々買いこむのであった。


 14:00

 内診の結果、子宮口5cmなので、入院へ。NST1h以上つける。
痛みは、まだがまん出来る。

 15:00くらい
 ・保証金 50万円
 ・誓約書 提出

 18:00 夕(肉野菜、ザーサイもやし、セロリとエビ)

 18:00すぎから、痛みに顔がゆがみはじめる。
 正直、声がもれるくらい痛い――!!
 ガク母が病院にくるらしい。
 19:30くらいにお母さん到着。様子を見に来たらしいけど、つらい時の顔を見られるのは、ちょっと。


 夕飯をかき込み、病院の六人部屋に戻ったものの、周りの妊婦もひとそれぞれの苦悶の仕方をしており、既に一泊されている方もいたりで、おおう、と、その大部屋に張りつめる緊迫感と、この痛みを解さない男全員に向けられた殺意のようなものを感じ取り、久我はひたすらに己の気配を消しながら、妻のベッド脇で縮こまるのであった。

 乗るように肛門あたりに当てておくと痛みが紛れると何かのサイトに書いてあったので、わざわざ買ったテニスボールを試してもらうものの、大して効果は無さそうかなとのことで、早々にそれはバッグの底にしまい込まれるのであった。

 そうこうしてるうちに自分の母親もやけに嬉しそうな感じでやって来て、あんたの時も大変だったんだからーと、言わでものことをあっけらかんとのたまわれたりで、久我は大分神経を内側から削られている感覚を味わい続けるのであった。


 20:00まえ

 座っても、上向きになっても、痛みのがしが出来なくなってきた。特に横になると、痛みで声が出るし、涙も出た。間隔は、2min、内診の結果7~8cm、看護婦さんに「そろそろ、分娩室に行こっか?」と言われる。歩けたけど、車いすでgo!! ん!? でも……「陣痛室」じゃないの? 実は、私が今までいたベット×6が陣痛室だったらしい。心の準備が……その間にも、どんどん波がおしよせて来た。


 妻の様子がだんだんと切羽詰まって来るのを感じ取る久我であった。
検査を受け、ついに分娩室に行くと告げられ、お前が緊張してどうする、くらいの顔の強張りを見せるのであった。立ち会いのため、車椅子を押されていく妻の後ろをぎくしゃくと歩く。いよいよ……と、足元がおぼつかなくなりつつも何とか歩を進めていくのであった。


 20:00すぎ

 分娩室は、明るくて、ピンク色できれいで、助産師さんが3~4人出たり入ったり慌ただしかった。ちょうど重なったとかで……担当の助産師さんは、東さんというベテランで優しいおばさん、分娩衣に着がえ、点滴の注射を打っている時に大きな波が来た。
「まだまって!!」と言われ呼吸でのがすが、めちゃくちゃ痛い。


 分娩台で必死に陣痛に耐える妻を、いまだ見守るしかないのであったが、破水とのことで妻のすぐ側まで呼ばれる。破水した、と聞くも、何がどうなってどうすればいいのか皆目分からない久我であった。

 手を当てて思い切り押してください、と助産師さんに言われるがまま、おむつのような紙の下着を穿いた妻の股間を、掌底で押し上げるのであった。もっと強く、と指示が出て、手首が痺れるほど強く押し続ける。

 自分も少しは役立っている、と、この瞬間ばかりは少し立ち会って良かったと思うものの、ふと見上げた妻の顔は、苦痛からか思い切りしかめられ、大袈裟なほど目はぎゅっとつぶられ、口は突き出され歯は食いしばられ、今まで見たことも無い表情を呈していたのであった。

 笑ってはいけない、と、悲しかった事を必死で思い出そうと記憶をさらう久我だったが、おととし亡くなった祖母は、病床にあっても死んだふりなどをして家族を欺き続けた上で、皆の困惑を嘲笑うかのように、あっさりと眠るようにして逝ってしまったので、こういう時にはさっぱり役には立たないのであった。

 そう言えば、おばあちゃんって七人も子供を産んだんだよな……すごいよな……

 その時ふと、脳裡にうっすらと光る球体が突如浮かんだかと思うや、そのおばあちゃんの家に年の瀬と年明けの狭間くらいに訪れた時のことが、奔流のように久我の頭の中に溢れ出て来るのであった……

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