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第九章 現実
⑥
しおりを挟む「柊さん。どうした? その電話、誰から……」
迷う時間はない。後悔をしたくないなら、森山に従うべきなのか。
「にげて」
呟くようにそう言った。その声に被さるように。冷えた声が、落とされた。
「逃がさない」
「…………!!」
芳沢 江梨香。足の力が抜ける。人の命に手をかけた女が、そこに居た。
「久しぶりじゃない。蛯名くん」
予期していた事態なのに。体が痺れたような感覚。まだ状況も把握できていない。涙が次から次へと溢れ出す。
なんの涙なのかはわからない。
怖い。数秒先には殺されているような気がして。静寂な夜の街。頼りない街灯が、ぼんやりと自分の足元だけを照らしている。
「あれは……」
蛯名 敏也は目を細めて、近づいてくる女の輪郭を捉えようとした。
「弟の後を追わせてあげる」
復讐というものの恐ろしさが、初めて現実味を帯びて柊の前に迫った。
「おとうと?」
彼の顔を振り返った途端、柊ははっと口を覆った。
「死んだ? 要が?」
その瞳から、光が消えた。
「私が殺したの」
初めて、この男に対してまともな感情を抱いた。
蛯名 敏也だって、手当たり次第に手をかけるような殺人鬼じゃない。憎しみの念だけが独り歩きしていたけど。ちゃんと心を持った人間だ。大切にしたい命のひとつやふたつ。この世に転がっていたって不思議じゃない。
気味の悪い笑みを保ちながら、芳沢 江梨香は片手を突き出した。そこには包丁が握られていた。まだ固まっていない、赤い血がべっとりとついた包丁。要の命がそこにとどまっているかのように感じられた。今になって、自分たちの犯した罪が生々しく心にのしかかった。
「ねえ、逃げましょう。お願いだから、今は逃げて……」
死んで欲しくない、そう思った。ただ単純に。ひとが死ぬところを見たくなかった。
「今更なのよ!!」
「やめてええっ」
目を瞑った。耳を塞いだ。しゃがみこんだ。自分以外を世界から隔離した。これは嘘だ夢だ違うこんなのありえない。お願い、殺さないで。
「!!」
なにかが、ぶつかり合う音がした。なにか。芳沢 江梨香と蛯名 敏也しかありえない。凍えたみたいに震える心臓。塞いだ耳が、状況を把握しようとして。聴覚だけが研ぎ澄まされる。だけど、音だけじゃ、なにもわからない。ノイズが響くだけ。お願いだから、どうか、無事で……。恐る恐る、目の力を抜く。
「!?」
目の前が真っ白になった。目を開いたはずなのに、なにも見えなくなった。体が心臓に支配されたみたいに、どくんどくんと揺れて、収まらない。
わからない、なにも。荒々しい息が、脳を埋めていく。
「うそよ、ちがう、うそ、こんな、こんなことって」
流れるのは真っ赤な血。光ったのは、蛯名 敏也の目。
『ひいらぎ!! 返事しろ、なにが起こった!?』
「もりやま……。たすけて……。どうしよう、もう駄目だよ……」
『だから……!! なにが』
言葉にするのも怖かった。まだ、この現実を受け止めたくなくて。だけど。血が、見えるから。
「芳沢 江梨香が、刺された……!」
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