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めんつゆ

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第九章 現実

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「柊さん。どうした? その電話、誰から……」

 迷う時間はない。後悔をしたくないなら、森山に従うべきなのか。

「にげて」

 呟くようにそう言った。その声に被さるように。冷えた声が、落とされた。

「逃がさない」

「…………!!」

芳沢 江梨香。足の力が抜ける。人の命に手をかけた女が、そこに居た。

「久しぶりじゃない。蛯名くん」

予期していた事態なのに。体が痺れたような感覚。まだ状況も把握できていない。涙が次から次へと溢れ出す。
なんの涙なのかはわからない。
怖い。数秒先には殺されているような気がして。静寂な夜の街。頼りない街灯が、ぼんやりと自分の足元だけを照らしている。

「あれは……」

 蛯名 敏也は目を細めて、近づいてくる女の輪郭を捉えようとした。

「弟の後を追わせてあげる」

復讐というものの恐ろしさが、初めて現実味を帯びて柊の前に迫った。

「おとうと?」

彼の顔を振り返った途端、柊ははっと口を覆った。

「死んだ? 要が?」

 その瞳から、光が消えた。

「私が殺したの」

初めて、この男に対してまともな感情を抱いた。
蛯名 敏也だって、手当たり次第に手をかけるような殺人鬼じゃない。憎しみの念だけが独り歩きしていたけど。ちゃんと心を持った人間だ。大切にしたい命のひとつやふたつ。この世に転がっていたって不思議じゃない。

気味の悪い笑みを保ちながら、芳沢 江梨香は片手を突き出した。そこには包丁が握られていた。まだ固まっていない、赤い血がべっとりとついた包丁。要の命がそこにとどまっているかのように感じられた。今になって、自分たちの犯した罪が生々しく心にのしかかった。

「ねえ、逃げましょう。お願いだから、今は逃げて……」

 死んで欲しくない、そう思った。ただ単純に。ひとが死ぬところを見たくなかった。

「今更なのよ!!」

「やめてええっ」
 目を瞑った。耳を塞いだ。しゃがみこんだ。自分以外を世界から隔離した。これは嘘だ夢だ違うこんなのありえない。お願い、殺さないで。

「!!」

 なにかが、ぶつかり合う音がした。なにか。芳沢 江梨香と蛯名 敏也しかありえない。凍えたみたいに震える心臓。塞いだ耳が、状況を把握しようとして。聴覚だけが研ぎ澄まされる。だけど、音だけじゃ、なにもわからない。ノイズが響くだけ。お願いだから、どうか、無事で……。恐る恐る、目の力を抜く。

「!?」

 目の前が真っ白になった。目を開いたはずなのに、なにも見えなくなった。体が心臓に支配されたみたいに、どくんどくんと揺れて、収まらない。

わからない、なにも。荒々しい息が、脳を埋めていく。

「うそよ、ちがう、うそ、こんな、こんなことって」

流れるのは真っ赤な血。光ったのは、蛯名 敏也の目。

『ひいらぎ!! 返事しろ、なにが起こった!?』

「もりやま……。たすけて……。どうしよう、もう駄目だよ……」

『だから……!! なにが』

 言葉にするのも怖かった。まだ、この現実を受け止めたくなくて。だけど。血が、見えるから。

「芳沢 江梨香が、刺された……!」

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