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第十章 柊
①
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窓を介して映るビルたちはあっけなく、離れていく。自分は辿り着いて欲しくないんだ、森山は静かに、電車の中で揺られていた。
松葉づえを目ざとく見つけた中年の女性が、席を譲ってくれた。この状態で断るのも悪くて、渋々座らせていただく。優しさが煩わしい。罪悪感を積もらせるから。
視界の真ん中に、とある劇団の広告が入り込む。「ジーザス・クライスト=スーパースター」。どうやら、それが舞台のタイトルらしい。聞いたことはある。だが、内容が思い出せない。
(このままここに留まっていたい)
居心地の悪い、この満員電車に。それぞれの事情を抱えた人間たちの、息が混ざり合う。
なにか、願いを込めるかのように。森山は切符を握りしめた。折れないように慎重に、強く握りしめた。
世界は動いている。そこに自分は溶け込めていない。
世界は回る。そこで自分は立ち止まっている。
みんな、そんな自分には目もくれず。せわしなく歩を進める。うずくまりたい衝動を、森山は彼の中にしまい込んだ。
『波北―波北―。お降りのお客様は……』
松葉づえの先を床につける。
(歩こう)
何でもないように。
「会長、おはようございます。あれ、痩せました?」
「ダイエット中なんだよね」
「馬鹿言わないでください。前の体重測定で痩せたってショック受けてたの知ってますよ」
「いや、なんで知ってんのよ」
足動かせないから運動不足のはずでしょうに。ちゃんと食べているんですか、と。いつもの副会長節を苦笑いで流す。変わりない学校の風景は、自分だけを落として行ったようだ。
「ていうか荷物持つので貸してください」
「別にだいじょ……、すみません、おねがいします」
みんなの目には、自分がまだ「人気者の生徒会長」に映っているのだろうか。副会長の顔をぼんやりと眺めた。
蛯名 要が死んだ。芳沢 江梨香は、まだ目を覚まさない。意識を取り戻し次第、刑務所行きは決定だろう。
(馬鹿か、俺は)
何度味わっても、他人の死というのは現実味のないものだ。いきなり泣きわめくことが出来るほど、自分の理解は早くない。ただ、心臓を埋め尽くしていく、後悔。あいつが笑っていたはずの今日を、俺が歩いている。それだけで、心臓がつぶれそうになるのに。
「それより会長。今日、何の日かご存じで?」
「何の日? 俺の誕生日?」
「もうその手にはひっかかりません。今日はあの子の広報が学校中に配布される日ですよ」
「……ああ」
森山の目に、わずかな光が戻った。
(ひいらぎ)
そうだ、まだ自分には彼女がいる。
「おはよー……」
副会長が生徒会室のドアを開けて、森山に入るよう促す。
毎週月曜日、生徒会のメンバーは、この教室に集まるのが規則になっている。足の自由が効かない森山のために、ユリがパイプ椅子を用意した。まるで王族だな、と笑ってしまう。
「会長、読みました?」
「柊の広報?」
サツキが一枚の紙を突き出した。そういえば、まだ目を通していない。印刷をしたときに、柊に邪魔されて読めなかったことを思い出した。
「どれどれ」
「ちょっと。読まなくていいって」
「なに照れてんの」
むっと眉を寄せる柊を無視して、広報を手に取る。
『今月号から波キタを担当する、生徒会の柊 莉子です。突然ですが、みなさん。私は千愛を殺していません。虐めてもいません。噂はデマです。本当は、私のことを信じてくれなかったみなさんに、腹が立って仕方ありませんでした……』
「これって……」
柊は、居心地悪そうにうつむいた。勇気いったんだろうな、心の中で呟く。
『……でも私、そういえば言い訳もしなかった。違うんだよ、と。そんなことすら言えていなかった……』
『なにも言っていないのに、信じてくれないとふてくされるなんて、愚かだったと反省しています』
『……話したところでどうなっていたかは分かりません。だけど、どうせ信じてくれない、と。みんなのことを先に諦めたのは私の方だった……』
『……私は臆病だから、こんな風に、紙の上でもないとあなたたちと向き合うことができません。自分勝手でごめんなさい。こんな広報で、ごめんなさい……』
自分の書いた文字を目で追いながら、柊は三年前のある日を思い出していた。千愛のためを思って助言したはずだったのに、結局こちらが叱られてしまった、あの日。
――何言ってるの、莉子。ちゃんと言いたいことがあるのに、諦めて黙るなんてダメだよ。
そういえば、柊が千愛に怒られたのは、あれが最初で最後だった。
(千愛。昔から、これが私の悪いクセだったんだね)
目を瞑って、微笑んだ。
松葉づえを目ざとく見つけた中年の女性が、席を譲ってくれた。この状態で断るのも悪くて、渋々座らせていただく。優しさが煩わしい。罪悪感を積もらせるから。
視界の真ん中に、とある劇団の広告が入り込む。「ジーザス・クライスト=スーパースター」。どうやら、それが舞台のタイトルらしい。聞いたことはある。だが、内容が思い出せない。
(このままここに留まっていたい)
居心地の悪い、この満員電車に。それぞれの事情を抱えた人間たちの、息が混ざり合う。
なにか、願いを込めるかのように。森山は切符を握りしめた。折れないように慎重に、強く握りしめた。
世界は動いている。そこに自分は溶け込めていない。
世界は回る。そこで自分は立ち止まっている。
みんな、そんな自分には目もくれず。せわしなく歩を進める。うずくまりたい衝動を、森山は彼の中にしまい込んだ。
『波北―波北―。お降りのお客様は……』
松葉づえの先を床につける。
(歩こう)
何でもないように。
「会長、おはようございます。あれ、痩せました?」
「ダイエット中なんだよね」
「馬鹿言わないでください。前の体重測定で痩せたってショック受けてたの知ってますよ」
「いや、なんで知ってんのよ」
足動かせないから運動不足のはずでしょうに。ちゃんと食べているんですか、と。いつもの副会長節を苦笑いで流す。変わりない学校の風景は、自分だけを落として行ったようだ。
「ていうか荷物持つので貸してください」
「別にだいじょ……、すみません、おねがいします」
みんなの目には、自分がまだ「人気者の生徒会長」に映っているのだろうか。副会長の顔をぼんやりと眺めた。
蛯名 要が死んだ。芳沢 江梨香は、まだ目を覚まさない。意識を取り戻し次第、刑務所行きは決定だろう。
(馬鹿か、俺は)
何度味わっても、他人の死というのは現実味のないものだ。いきなり泣きわめくことが出来るほど、自分の理解は早くない。ただ、心臓を埋め尽くしていく、後悔。あいつが笑っていたはずの今日を、俺が歩いている。それだけで、心臓がつぶれそうになるのに。
「それより会長。今日、何の日かご存じで?」
「何の日? 俺の誕生日?」
「もうその手にはひっかかりません。今日はあの子の広報が学校中に配布される日ですよ」
「……ああ」
森山の目に、わずかな光が戻った。
(ひいらぎ)
そうだ、まだ自分には彼女がいる。
「おはよー……」
副会長が生徒会室のドアを開けて、森山に入るよう促す。
毎週月曜日、生徒会のメンバーは、この教室に集まるのが規則になっている。足の自由が効かない森山のために、ユリがパイプ椅子を用意した。まるで王族だな、と笑ってしまう。
「会長、読みました?」
「柊の広報?」
サツキが一枚の紙を突き出した。そういえば、まだ目を通していない。印刷をしたときに、柊に邪魔されて読めなかったことを思い出した。
「どれどれ」
「ちょっと。読まなくていいって」
「なに照れてんの」
むっと眉を寄せる柊を無視して、広報を手に取る。
『今月号から波キタを担当する、生徒会の柊 莉子です。突然ですが、みなさん。私は千愛を殺していません。虐めてもいません。噂はデマです。本当は、私のことを信じてくれなかったみなさんに、腹が立って仕方ありませんでした……』
「これって……」
柊は、居心地悪そうにうつむいた。勇気いったんだろうな、心の中で呟く。
『……でも私、そういえば言い訳もしなかった。違うんだよ、と。そんなことすら言えていなかった……』
『なにも言っていないのに、信じてくれないとふてくされるなんて、愚かだったと反省しています』
『……話したところでどうなっていたかは分かりません。だけど、どうせ信じてくれない、と。みんなのことを先に諦めたのは私の方だった……』
『……私は臆病だから、こんな風に、紙の上でもないとあなたたちと向き合うことができません。自分勝手でごめんなさい。こんな広報で、ごめんなさい……』
自分の書いた文字を目で追いながら、柊は三年前のある日を思い出していた。千愛のためを思って助言したはずだったのに、結局こちらが叱られてしまった、あの日。
――何言ってるの、莉子。ちゃんと言いたいことがあるのに、諦めて黙るなんてダメだよ。
そういえば、柊が千愛に怒られたのは、あれが最初で最後だった。
(千愛。昔から、これが私の悪いクセだったんだね)
目を瞑って、微笑んだ。
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