一緒に食べよう

河野彰

文字の大きさ
10 / 11

10

しおりを挟む
 鉄の扉が閉ざされた後、貴史は実咲貴を連れて、這うようにしてマンションへと戻った。
 夕食は何を食べたのか、どうやって娘を寝かしつけたのかも覚えていない。
 ただ、実咲貴の寝顔を確認し、リビングに一人残された瞬間、昨日の出来事が、そして修吾の唇の感触が、津波のように貴史を襲った。
 「男を好きになる」
 そんな選択肢は、二十六年の人生の中で一度も持ったことがなかった。
 亡き妻・咲良を愛し、彼女との間に実咲貴を授かった。それが貴史にとっての「普通」であり、疑いようのない世界の形だった。
 だが、今、自分の唇に残っているのは、咲良との思い出よりも鮮明で、暴力的なまでに熱い修吾の体温だ。
 修吾を失うことが、これほどまでに恐ろしい。
 それが友情や依存ではなく、修吾が突きつけた「男としての愛」に繋がっているのかを確かめるために、貴史は震える指でスマートフォンのブラウザを開いた。
 検索窓に、今まで一度も打ち込んだことのない単語を入力する。
 表示されたゲイ向けのサイト。そこには、逞しい肉体をもつれ合わせる男たちの姿があった。
 貴史は顔を顰め、胃のあたりに不快な重さを感じた。……やはり、興奮できない。男同士の生々しい営みは、貴史にとって異世界の光景でしかなかった。
「……やっぱり、違うんだ」
 そう呟き、画面を閉じようとした瞬間。
 不意に、あの鉄の扉の前で受けた、触れるだけのキスの熱が蘇った。
 修吾の、泣き出しそうな真っ赤な目。自分を求めて震えていた大きな掌。
「……っ」
 突如、下腹部が熱くなった。
 画面の中の見知らぬ男たちには何も感じなかったのに、修吾に触れられた記憶だけで、体が疼き始める。
 貴史はシーツを掴み、情けない声を漏らしながら、ゆっくりと自分の股間に手を伸ばした。
 自分を慰めながら、脳裏に浮かぶのは修吾の顔ばかりだった。
 エプロンをきつく締め、キッチンで笑っていた修吾。
 実咲貴を抱き上げ、慈しむように見つめていた修吾。
 そして、あの悲痛な叫びとともに、自分に唇を重ねてきた、一人の人間としての修吾。
 その体温を、その重みを、もう一度。
 貴史は激しく腰を震わせ、自分でも驚くほどの熱を放って、一人の夜に果てた。
 虚しさはなかった。ただ、ドロドロとした執着と、初めて自覚した恋の痛みが、貴史の全身を支配していた。


 同じ頃、四階の部屋で、修吾は冷え切ったベッドに横たわり、天井を仰いでいた。
 後悔が、毒のように全身を回っている。
 「あんなことをするつもりじゃなかった」
 誠実に謝罪に訪れた貴史に対し、あろうことか実咲貴の前で無理やりキスを奪った。
 その時の貴史の、石のように固まった感触が忘れられない。
 あれで、本当に終わってしまった。
 優しい隣人という仮面すら被れなくなった自分を、修吾は激しく呪った。三坂貴史は、真っ当な、そして誰よりも真面目な父親だ。あんな無垢な人を、自分の独りよがりな欲望で追い詰めてしまった。
 もう、このマンションにはいられないだろう。
 店も閉めるべきか。そんな暗い思考が渦巻いていた時、枕元のスマートフォンが短く震えた。
 どうせ香月か誰かの嫌がらせだろうと、無視しようとした。
 けれど、通知に表示された「三坂さん」という名前に、心臓が跳ねた。
 恐る恐る画面を開く。
 そこには、一言だけ、掠れた叫びのようなメッセージが綴られていた。
「貴方が好きかもしれない」
 修吾は、呼吸を忘れた。
 「かもしれない」という、震えるような戸惑い。
 だが、それは三坂貴史が二十六年の常識を捨てて、地獄のような葛藤の果てに、修吾に差し出した唯一の手だった。
 修吾はスマートフォンの画面を胸に抱き、声を殺して慟哭した。
 夜の帳はまだ深い。けれど、閉ざされた鉄の扉の向こう側に、確かに光が差し始めたことを、二人はまだ知らない。


「ぱぱといっちゃんは、けっこんするの?」
 翌朝、食卓でトーストを齧っていた実咲貴が、何でもないことのように首を傾げて聞いてきた。
 貴史の喉が、引き攣った音を立てる。コーヒーを飲み込もうとしたタイミングでその問いをぶつけられ、激しくむせ返った。
「な……っ、何を、いきなり……」
「だって、きのう、おんもでちゅーしてたでしょ? ぷりきゅあも、最後にちゅーしたら結婚するもん」
 子供の観察眼ほど、残酷で純粋なものはない。
 昨夜のあの路地裏での出来事は、実咲貴の目に「愛の誓い」として映っていたのだ。
 貴史は顔が焼けるように熱くなるのを感じた。昨夜、一人で修吾を想って果てた時の後ろめたさが、一気に脳内を支配する。
「……パパといっちゃんは、男同士だから。結婚は、しないよ」
 絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていて、硬かった。
 それは実咲貴に言い聞かせると同時に、自分自身の心に楔を打ち込むための言葉だった。
 修吾からの返信はまだない。
 「好きかもしれない」と送った後、貴史は恐ろしくなってスマートフォンをクッションの裏に隠してしまった。
「おとこのこ同士は、だめなの?」
 実咲貴は不満そうに口を尖らせた。
「いっちゃん、パパのことだいじだいじしてたよ? パパも、いっちゃんのこと、ぎゅーしてた。……だめなの?」
「ダメじゃ、ないけれど。世の中には、いろいろな形があるんだ。パパたちは、その……」
 言葉が続かない。
 「男同士だから」という言い訳は、かつて自分が修吾を「異常者」と呼んだ時の思考と地続きにある。
 だが、今の貴史には、修吾から与えられた熱烈な口づけを、実咲貴にどう説明すればいいのか分からなかった。
 ただ一つ分かっているのは、修吾を失ったままの食卓は、どんなに晴れた朝でも、薄暗く、寒々しいということだけだ。
 トーストの味すらしない。
 貴史は震える手で、隠していたスマートフォンを取り出した。
 画面には、修吾からの通知が届いていた。
『今夜、お店が終わった後、僕の部屋へ来てください。実咲貴ちゃんが寝た後で構いません。……話がしたいです』
 結婚という形には、たどり着けないかもしれない。
 世間が笑うかもしれない。
 それでも、この無垢な娘に「いっちゃんとパパは、ずっと一緒にいるよ」と笑って言える未来が、今の貴史には何よりも必要だった。
「……実咲貴。パパ、今日はいっちゃんに、ちゃんとお話してくるよ」
「ほんとう!? じゃあ、いっちゃん、またお家に来てくれる?」
「……ああ。きっと、ね」
 娘の輝くような笑顔を見ながら、貴史は初めて、修吾の待つ四階を見上げた。


 実咲貴の寝息が一定のリズムを刻み始めるのを待ってから、貴史は静かに寝室を抜け出した。
 心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打っている。
 エレベーターを使う余裕さえなく、階段を一段ずつ、己の決意を確かめるようにして四階へと上がった。
 四〇二号室。
 震える指先でインターホンを押すと、ほどなくして扉が開いた。
 そこに立っていたのは、あの夜の悲痛な顔ではない。
 いつもの、少しおっとりとした温かな笑顔を湛えた修吾だった。
 ただ、その目元には隠しきれない困惑と、触れれば壊れてしまいそうな危うさが同居している。
「いらっしゃい。本当に、来てくれたんですね」
 修吾の声は、冬の陽だまりのように穏やかだった。
 貴史は言葉を失い、ただ頷くのが精一杯だった。
 促されるままに足を踏み入れた修吾の部屋は、彼の作る料理と同じように、整理整頓されながらもどこか人の温もりが漂う空間だった。
「適当な椅子に掛けてください。……ええと、お酒でも飲みますか? それとも……はは、だめだな。どうしても緊張してしまう」
 修吾がキッチンへ向かい、背を向ける。
 その広い背中。
 かつて実咲貴を抱き上げ、貴史を守るように立っていた、あの大きな影。
 貴史の理性が、音を立てて崩れた。
 気づけば足が動き、無我夢中でその広い背中にしがみついていた。
「……っ!」
 修吾の身体が、岩のように硬直した。手に持っていたグラスが、カタリと音を立てる。
 
「貴史……さん?」
「……こういう意味で、貴方が好きです」
 貴史は修吾の背中に顔を埋め、震える声で絞り出した。
「昨夜、一人で貴方のことばかり考えていました。男同士だとか、そんな理屈じゃ説明できないくらい、貴方の熱が、貴方の存在が、俺の身体から離れないんです。……これは、隣人としての好意なんかじゃない」
 修吾がゆっくりと、貴史の腕を解こうとする。
 その力が、ひどく悲しい。
「だめだ……。三坂さん、貴方はまだ混乱しているだけだ」
 修吾が振り返る。その顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「昨日も言ったでしょう。僕の世界は、貴方が思っているよりずっと暗い。……貴方や実咲貴ちゃんを、こちら側へ引き込むわけにはいかないんです」
 
「修吾さん……」
「世間は残酷だ。男同士で寄り添って生きていくことが、どれだけ白い目で見られるか。……貴方は若く、輝かしい未来がある父親だ。実咲貴ちゃんにだって、普通の、まっとうな幸せを享受する権利がある。僕のエゴで、それを奪うような人生を送らせるわけにはいかないんだ……!」
 修吾の声は、慟哭に近かった。
 それは、彼が今まで一人でどれだけの「悪意」と戦い、どれほどの「孤独」を飲み込んできたかを物語っていた。
 自分たちを想うからこその、命を削るような拒絶。
 貴史は一歩踏み出し、修吾の前に回り込んだ。
 そして、逃げようとする彼の大きな両手を、力いっぱい握り締めた。
「……世間や、世の中の常識で測るべきじゃなかったんだ」
 貴史は修吾の目を真っ直ぐに見つめ、毅然と言い放った。
「俺は間違っていました。まっとうかどうか、普通かどうか……そんな外側の物差しを基準にして、目の前にいる貴方の、誠実な人柄を、温かな手を、あんなにおいしい料理を、無視してしまった」
 修吾の瞳が大きく揺れる。
「実咲貴が今朝、言ったんです。パパといっちゃんは、だいじだいじし合ってたのに、なんで結婚しないのって。……子供の方が、ずっと真理を見抜いていた」
 貴史は握る手にさらに力を込めた。
「俺の基準は、貴方です。修吾さんが作ってくれるスープの温かさ、実咲貴を撫でる手の優しさ。……俺は、それを信じたい。世間の目なんて、俺が盾になって跳ね返してやる。だから、自分を『こちら側』なんて呼んで、線を引かないでください」
 沈黙が流れる。
 修吾の大きな手から、わずかに力が抜けた。
「……本当に、いいんですか」
 修吾が恐る恐る、折れそうな枝に触れるように、貴史の肩に手を回した。
「……これが、汚いことだとは、思いませんか?」
 
 その問いに、貴史は微笑んだ。
 一点の曇りもない、清々しい笑顔だった。
「思いません。……微塵も」
 貴史は修吾の首に腕を回し、その顔を引き寄せた。
「貴方の手は、今も昔も汚れてなんていない。俺たちを救ってくれた、世界で一番綺麗な手です」
 今度は、貴史から唇を重ねた。
 昨夜の、修吾の悲鳴のようなキスとは違う。
 すべてを受け入れ、すべてを分かち合うための、静かで、けれど確信に満ちたキスだった。
 唇が重なり、互いの熱が混ざり合う。貴史は躊躇うことなく、修吾の口内へと舌を滑り込ませた。修吾が喉の奥で、くぐもった声を漏らす。
 深く、深く、互いの存在を確認し合うようなキス。
 絡み合う舌が、言葉にならない想いを補完していく。
 唾液の甘い匂いと、修吾の肌から漂うスパイスの香りが、貴史の感覚を麻痺させ、陶酔へと誘う。
 どれくらいの時間が経っただろうか。
 ようやく唇を離した二人は、どちらからともなく、折れるほど強く抱きしめ合った。
 修吾の大きな身体が、貴史の腕の中で小刻みに震えている。
「……あたたかい」
 修吾が、貴史の肩口に顔を埋めて呟いた。
「貴史さん。……ありがとう。本当に、ありがとう」
「俺の方こそ。……見捨てないでいてくれて、ありがとう、修吾さん」
 窓の外では、夜の街が静まり返っている。
 明日になれば、また「世間」という荒波が二人を待っているだろう。
 父子家庭の父親が、男と愛し合う。
 それは確かに、平坦な道ではないかもしれない。
 
 だが、今、この部屋に満ちている空気は、どこまでも澄み渡り、優しかった。
 貴史は修吾の背中に回した手に力を込め、目を閉じた。
 実咲貴の待つ部屋。
 修吾の守る店。
 そして、二人が作り上げていく、新しい食卓。
 もう、凍りついた夜は終わったのだ。
 貴史は修吾の胸板に耳を当て、トクトクと刻まれる力強い鼓動を聞きながら、自分たちの未来が、修吾の作るフレンチトーストのように、甘く温かなものであることを確信していた。
 二人の影が、月明かりに照らされたリビングの床で、一つの大きな形となって重なっていた。
 その夜、二人は夜が明けるまで、ただ互いの温もりを確かめ合うように、抱きしめ合ったまま離れなかった。言葉の重みを、二人で分かち合うための夜が、すぐそこまで来ていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

届かない「ただいま」

AzureHaru
BL
いつも通りの変わらない日常のはずだった。 「行ってきます。」と言って出て行った貴方。1日が終わる頃に「ただいま。」と「おかえり。」を笑顔で交わすはずだった。でも、その言葉はもう貴方には届かない。 これは「優しさが奪った日常」の物語。

黄色い水仙を君に贈る

えんがわ
BL
────────── 「ねぇ、別れよっか……俺たち……。」 「ああ、そうだな」 「っ……ばいばい……」 俺は……ただっ…… 「うわああああああああ!」 君に愛して欲しかっただけなのに……

契約満了につき

makase
BL
仮初めの恋人として契約を結んだ二人の、最後の夜。

【完結】恋人になりたかった

ivy
BL
初めてのキスは、 すべてが始まった合図だと思っていた。 優しい大地と過ごす時間は、 律にとって特別で、 手放したくないものになっていく。 けれど……

フローブルー

とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。 高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。

目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?

綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。 湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。 そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。 その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。

ラベンダーに想いを乗せて

光海 流星
BL
付き合っていた彼氏から突然の別れを告げられ ショックなうえにいじめられて精神的に追い詰められる 数年後まさかの再会をし、そしていじめられた真相を知った時

愛などもう求めない

一寸光陰
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。 「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」 「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」 目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。 本当に自分を愛してくれる人と生きたい。 ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。  ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。 最後まで読んでいただけると嬉しいです。

処理中です...