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鉄の扉が閉ざされた後、貴史は実咲貴を連れて、這うようにしてマンションへと戻った。
夕食は何を食べたのか、どうやって娘を寝かしつけたのかも覚えていない。
ただ、実咲貴の寝顔を確認し、リビングに一人残された瞬間、昨日の出来事が、そして修吾の唇の感触が、津波のように貴史を襲った。
「男を好きになる」
そんな選択肢は、二十六年の人生の中で一度も持ったことがなかった。
亡き妻・咲良を愛し、彼女との間に実咲貴を授かった。それが貴史にとっての「普通」であり、疑いようのない世界の形だった。
だが、今、自分の唇に残っているのは、咲良との思い出よりも鮮明で、暴力的なまでに熱い修吾の体温だ。
修吾を失うことが、これほどまでに恐ろしい。
それが友情や依存ではなく、修吾が突きつけた「男としての愛」に繋がっているのかを確かめるために、貴史は震える指でスマートフォンのブラウザを開いた。
検索窓に、今まで一度も打ち込んだことのない単語を入力する。
表示されたゲイ向けのサイト。そこには、逞しい肉体をもつれ合わせる男たちの姿があった。
貴史は顔を顰め、胃のあたりに不快な重さを感じた。……やはり、興奮できない。男同士の生々しい営みは、貴史にとって異世界の光景でしかなかった。
「……やっぱり、違うんだ」
そう呟き、画面を閉じようとした瞬間。
不意に、あの鉄の扉の前で受けた、触れるだけのキスの熱が蘇った。
修吾の、泣き出しそうな真っ赤な目。自分を求めて震えていた大きな掌。
「……っ」
突如、下腹部が熱くなった。
画面の中の見知らぬ男たちには何も感じなかったのに、修吾に触れられた記憶だけで、体が疼き始める。
貴史はシーツを掴み、情けない声を漏らしながら、ゆっくりと自分の股間に手を伸ばした。
自分を慰めながら、脳裏に浮かぶのは修吾の顔ばかりだった。
エプロンをきつく締め、キッチンで笑っていた修吾。
実咲貴を抱き上げ、慈しむように見つめていた修吾。
そして、あの悲痛な叫びとともに、自分に唇を重ねてきた、一人の人間としての修吾。
その体温を、その重みを、もう一度。
貴史は激しく腰を震わせ、自分でも驚くほどの熱を放って、一人の夜に果てた。
虚しさはなかった。ただ、ドロドロとした執着と、初めて自覚した恋の痛みが、貴史の全身を支配していた。
同じ頃、四階の部屋で、修吾は冷え切ったベッドに横たわり、天井を仰いでいた。
後悔が、毒のように全身を回っている。
「あんなことをするつもりじゃなかった」
誠実に謝罪に訪れた貴史に対し、あろうことか実咲貴の前で無理やりキスを奪った。
その時の貴史の、石のように固まった感触が忘れられない。
あれで、本当に終わってしまった。
優しい隣人という仮面すら被れなくなった自分を、修吾は激しく呪った。三坂貴史は、真っ当な、そして誰よりも真面目な父親だ。あんな無垢な人を、自分の独りよがりな欲望で追い詰めてしまった。
もう、このマンションにはいられないだろう。
店も閉めるべきか。そんな暗い思考が渦巻いていた時、枕元のスマートフォンが短く震えた。
どうせ香月か誰かの嫌がらせだろうと、無視しようとした。
けれど、通知に表示された「三坂さん」という名前に、心臓が跳ねた。
恐る恐る画面を開く。
そこには、一言だけ、掠れた叫びのようなメッセージが綴られていた。
「貴方が好きかもしれない」
修吾は、呼吸を忘れた。
「かもしれない」という、震えるような戸惑い。
だが、それは三坂貴史が二十六年の常識を捨てて、地獄のような葛藤の果てに、修吾に差し出した唯一の手だった。
修吾はスマートフォンの画面を胸に抱き、声を殺して慟哭した。
夜の帳はまだ深い。けれど、閉ざされた鉄の扉の向こう側に、確かに光が差し始めたことを、二人はまだ知らない。
「ぱぱといっちゃんは、けっこんするの?」
翌朝、食卓でトーストを齧っていた実咲貴が、何でもないことのように首を傾げて聞いてきた。
貴史の喉が、引き攣った音を立てる。コーヒーを飲み込もうとしたタイミングでその問いをぶつけられ、激しくむせ返った。
「な……っ、何を、いきなり……」
「だって、きのう、おんもでちゅーしてたでしょ? ぷりきゅあも、最後にちゅーしたら結婚するもん」
子供の観察眼ほど、残酷で純粋なものはない。
昨夜のあの路地裏での出来事は、実咲貴の目に「愛の誓い」として映っていたのだ。
貴史は顔が焼けるように熱くなるのを感じた。昨夜、一人で修吾を想って果てた時の後ろめたさが、一気に脳内を支配する。
「……パパといっちゃんは、男同士だから。結婚は、しないよ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていて、硬かった。
それは実咲貴に言い聞かせると同時に、自分自身の心に楔を打ち込むための言葉だった。
修吾からの返信はまだない。
「好きかもしれない」と送った後、貴史は恐ろしくなってスマートフォンをクッションの裏に隠してしまった。
「おとこのこ同士は、だめなの?」
実咲貴は不満そうに口を尖らせた。
「いっちゃん、パパのことだいじだいじしてたよ? パパも、いっちゃんのこと、ぎゅーしてた。……だめなの?」
「ダメじゃ、ないけれど。世の中には、いろいろな形があるんだ。パパたちは、その……」
言葉が続かない。
「男同士だから」という言い訳は、かつて自分が修吾を「異常者」と呼んだ時の思考と地続きにある。
だが、今の貴史には、修吾から与えられた熱烈な口づけを、実咲貴にどう説明すればいいのか分からなかった。
ただ一つ分かっているのは、修吾を失ったままの食卓は、どんなに晴れた朝でも、薄暗く、寒々しいということだけだ。
トーストの味すらしない。
貴史は震える手で、隠していたスマートフォンを取り出した。
画面には、修吾からの通知が届いていた。
『今夜、お店が終わった後、僕の部屋へ来てください。実咲貴ちゃんが寝た後で構いません。……話がしたいです』
結婚という形には、たどり着けないかもしれない。
世間が笑うかもしれない。
それでも、この無垢な娘に「いっちゃんとパパは、ずっと一緒にいるよ」と笑って言える未来が、今の貴史には何よりも必要だった。
「……実咲貴。パパ、今日はいっちゃんに、ちゃんとお話してくるよ」
「ほんとう!? じゃあ、いっちゃん、またお家に来てくれる?」
「……ああ。きっと、ね」
娘の輝くような笑顔を見ながら、貴史は初めて、修吾の待つ四階を見上げた。
実咲貴の寝息が一定のリズムを刻み始めるのを待ってから、貴史は静かに寝室を抜け出した。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打っている。
エレベーターを使う余裕さえなく、階段を一段ずつ、己の決意を確かめるようにして四階へと上がった。
四〇二号室。
震える指先でインターホンを押すと、ほどなくして扉が開いた。
そこに立っていたのは、あの夜の悲痛な顔ではない。
いつもの、少しおっとりとした温かな笑顔を湛えた修吾だった。
ただ、その目元には隠しきれない困惑と、触れれば壊れてしまいそうな危うさが同居している。
「いらっしゃい。本当に、来てくれたんですね」
修吾の声は、冬の陽だまりのように穏やかだった。
貴史は言葉を失い、ただ頷くのが精一杯だった。
促されるままに足を踏み入れた修吾の部屋は、彼の作る料理と同じように、整理整頓されながらもどこか人の温もりが漂う空間だった。
「適当な椅子に掛けてください。……ええと、お酒でも飲みますか? それとも……はは、だめだな。どうしても緊張してしまう」
修吾がキッチンへ向かい、背を向ける。
その広い背中。
かつて実咲貴を抱き上げ、貴史を守るように立っていた、あの大きな影。
貴史の理性が、音を立てて崩れた。
気づけば足が動き、無我夢中でその広い背中にしがみついていた。
「……っ!」
修吾の身体が、岩のように硬直した。手に持っていたグラスが、カタリと音を立てる。
「貴史……さん?」
「……こういう意味で、貴方が好きです」
貴史は修吾の背中に顔を埋め、震える声で絞り出した。
「昨夜、一人で貴方のことばかり考えていました。男同士だとか、そんな理屈じゃ説明できないくらい、貴方の熱が、貴方の存在が、俺の身体から離れないんです。……これは、隣人としての好意なんかじゃない」
修吾がゆっくりと、貴史の腕を解こうとする。
その力が、ひどく悲しい。
「だめだ……。三坂さん、貴方はまだ混乱しているだけだ」
修吾が振り返る。その顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「昨日も言ったでしょう。僕の世界は、貴方が思っているよりずっと暗い。……貴方や実咲貴ちゃんを、こちら側へ引き込むわけにはいかないんです」
「修吾さん……」
「世間は残酷だ。男同士で寄り添って生きていくことが、どれだけ白い目で見られるか。……貴方は若く、輝かしい未来がある父親だ。実咲貴ちゃんにだって、普通の、まっとうな幸せを享受する権利がある。僕のエゴで、それを奪うような人生を送らせるわけにはいかないんだ……!」
修吾の声は、慟哭に近かった。
それは、彼が今まで一人でどれだけの「悪意」と戦い、どれほどの「孤独」を飲み込んできたかを物語っていた。
自分たちを想うからこその、命を削るような拒絶。
貴史は一歩踏み出し、修吾の前に回り込んだ。
そして、逃げようとする彼の大きな両手を、力いっぱい握り締めた。
「……世間や、世の中の常識で測るべきじゃなかったんだ」
貴史は修吾の目を真っ直ぐに見つめ、毅然と言い放った。
「俺は間違っていました。まっとうかどうか、普通かどうか……そんな外側の物差しを基準にして、目の前にいる貴方の、誠実な人柄を、温かな手を、あんなにおいしい料理を、無視してしまった」
修吾の瞳が大きく揺れる。
「実咲貴が今朝、言ったんです。パパといっちゃんは、だいじだいじし合ってたのに、なんで結婚しないのって。……子供の方が、ずっと真理を見抜いていた」
貴史は握る手にさらに力を込めた。
「俺の基準は、貴方です。修吾さんが作ってくれるスープの温かさ、実咲貴を撫でる手の優しさ。……俺は、それを信じたい。世間の目なんて、俺が盾になって跳ね返してやる。だから、自分を『こちら側』なんて呼んで、線を引かないでください」
沈黙が流れる。
修吾の大きな手から、わずかに力が抜けた。
「……本当に、いいんですか」
修吾が恐る恐る、折れそうな枝に触れるように、貴史の肩に手を回した。
「……これが、汚いことだとは、思いませんか?」
その問いに、貴史は微笑んだ。
一点の曇りもない、清々しい笑顔だった。
「思いません。……微塵も」
貴史は修吾の首に腕を回し、その顔を引き寄せた。
「貴方の手は、今も昔も汚れてなんていない。俺たちを救ってくれた、世界で一番綺麗な手です」
今度は、貴史から唇を重ねた。
昨夜の、修吾の悲鳴のようなキスとは違う。
すべてを受け入れ、すべてを分かち合うための、静かで、けれど確信に満ちたキスだった。
唇が重なり、互いの熱が混ざり合う。貴史は躊躇うことなく、修吾の口内へと舌を滑り込ませた。修吾が喉の奥で、くぐもった声を漏らす。
深く、深く、互いの存在を確認し合うようなキス。
絡み合う舌が、言葉にならない想いを補完していく。
唾液の甘い匂いと、修吾の肌から漂うスパイスの香りが、貴史の感覚を麻痺させ、陶酔へと誘う。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ようやく唇を離した二人は、どちらからともなく、折れるほど強く抱きしめ合った。
修吾の大きな身体が、貴史の腕の中で小刻みに震えている。
「……あたたかい」
修吾が、貴史の肩口に顔を埋めて呟いた。
「貴史さん。……ありがとう。本当に、ありがとう」
「俺の方こそ。……見捨てないでいてくれて、ありがとう、修吾さん」
窓の外では、夜の街が静まり返っている。
明日になれば、また「世間」という荒波が二人を待っているだろう。
父子家庭の父親が、男と愛し合う。
それは確かに、平坦な道ではないかもしれない。
だが、今、この部屋に満ちている空気は、どこまでも澄み渡り、優しかった。
貴史は修吾の背中に回した手に力を込め、目を閉じた。
実咲貴の待つ部屋。
修吾の守る店。
そして、二人が作り上げていく、新しい食卓。
もう、凍りついた夜は終わったのだ。
貴史は修吾の胸板に耳を当て、トクトクと刻まれる力強い鼓動を聞きながら、自分たちの未来が、修吾の作るフレンチトーストのように、甘く温かなものであることを確信していた。
二人の影が、月明かりに照らされたリビングの床で、一つの大きな形となって重なっていた。
その夜、二人は夜が明けるまで、ただ互いの温もりを確かめ合うように、抱きしめ合ったまま離れなかった。言葉の重みを、二人で分かち合うための夜が、すぐそこまで来ていた。
夕食は何を食べたのか、どうやって娘を寝かしつけたのかも覚えていない。
ただ、実咲貴の寝顔を確認し、リビングに一人残された瞬間、昨日の出来事が、そして修吾の唇の感触が、津波のように貴史を襲った。
「男を好きになる」
そんな選択肢は、二十六年の人生の中で一度も持ったことがなかった。
亡き妻・咲良を愛し、彼女との間に実咲貴を授かった。それが貴史にとっての「普通」であり、疑いようのない世界の形だった。
だが、今、自分の唇に残っているのは、咲良との思い出よりも鮮明で、暴力的なまでに熱い修吾の体温だ。
修吾を失うことが、これほどまでに恐ろしい。
それが友情や依存ではなく、修吾が突きつけた「男としての愛」に繋がっているのかを確かめるために、貴史は震える指でスマートフォンのブラウザを開いた。
検索窓に、今まで一度も打ち込んだことのない単語を入力する。
表示されたゲイ向けのサイト。そこには、逞しい肉体をもつれ合わせる男たちの姿があった。
貴史は顔を顰め、胃のあたりに不快な重さを感じた。……やはり、興奮できない。男同士の生々しい営みは、貴史にとって異世界の光景でしかなかった。
「……やっぱり、違うんだ」
そう呟き、画面を閉じようとした瞬間。
不意に、あの鉄の扉の前で受けた、触れるだけのキスの熱が蘇った。
修吾の、泣き出しそうな真っ赤な目。自分を求めて震えていた大きな掌。
「……っ」
突如、下腹部が熱くなった。
画面の中の見知らぬ男たちには何も感じなかったのに、修吾に触れられた記憶だけで、体が疼き始める。
貴史はシーツを掴み、情けない声を漏らしながら、ゆっくりと自分の股間に手を伸ばした。
自分を慰めながら、脳裏に浮かぶのは修吾の顔ばかりだった。
エプロンをきつく締め、キッチンで笑っていた修吾。
実咲貴を抱き上げ、慈しむように見つめていた修吾。
そして、あの悲痛な叫びとともに、自分に唇を重ねてきた、一人の人間としての修吾。
その体温を、その重みを、もう一度。
貴史は激しく腰を震わせ、自分でも驚くほどの熱を放って、一人の夜に果てた。
虚しさはなかった。ただ、ドロドロとした執着と、初めて自覚した恋の痛みが、貴史の全身を支配していた。
同じ頃、四階の部屋で、修吾は冷え切ったベッドに横たわり、天井を仰いでいた。
後悔が、毒のように全身を回っている。
「あんなことをするつもりじゃなかった」
誠実に謝罪に訪れた貴史に対し、あろうことか実咲貴の前で無理やりキスを奪った。
その時の貴史の、石のように固まった感触が忘れられない。
あれで、本当に終わってしまった。
優しい隣人という仮面すら被れなくなった自分を、修吾は激しく呪った。三坂貴史は、真っ当な、そして誰よりも真面目な父親だ。あんな無垢な人を、自分の独りよがりな欲望で追い詰めてしまった。
もう、このマンションにはいられないだろう。
店も閉めるべきか。そんな暗い思考が渦巻いていた時、枕元のスマートフォンが短く震えた。
どうせ香月か誰かの嫌がらせだろうと、無視しようとした。
けれど、通知に表示された「三坂さん」という名前に、心臓が跳ねた。
恐る恐る画面を開く。
そこには、一言だけ、掠れた叫びのようなメッセージが綴られていた。
「貴方が好きかもしれない」
修吾は、呼吸を忘れた。
「かもしれない」という、震えるような戸惑い。
だが、それは三坂貴史が二十六年の常識を捨てて、地獄のような葛藤の果てに、修吾に差し出した唯一の手だった。
修吾はスマートフォンの画面を胸に抱き、声を殺して慟哭した。
夜の帳はまだ深い。けれど、閉ざされた鉄の扉の向こう側に、確かに光が差し始めたことを、二人はまだ知らない。
「ぱぱといっちゃんは、けっこんするの?」
翌朝、食卓でトーストを齧っていた実咲貴が、何でもないことのように首を傾げて聞いてきた。
貴史の喉が、引き攣った音を立てる。コーヒーを飲み込もうとしたタイミングでその問いをぶつけられ、激しくむせ返った。
「な……っ、何を、いきなり……」
「だって、きのう、おんもでちゅーしてたでしょ? ぷりきゅあも、最後にちゅーしたら結婚するもん」
子供の観察眼ほど、残酷で純粋なものはない。
昨夜のあの路地裏での出来事は、実咲貴の目に「愛の誓い」として映っていたのだ。
貴史は顔が焼けるように熱くなるのを感じた。昨夜、一人で修吾を想って果てた時の後ろめたさが、一気に脳内を支配する。
「……パパといっちゃんは、男同士だから。結婚は、しないよ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていて、硬かった。
それは実咲貴に言い聞かせると同時に、自分自身の心に楔を打ち込むための言葉だった。
修吾からの返信はまだない。
「好きかもしれない」と送った後、貴史は恐ろしくなってスマートフォンをクッションの裏に隠してしまった。
「おとこのこ同士は、だめなの?」
実咲貴は不満そうに口を尖らせた。
「いっちゃん、パパのことだいじだいじしてたよ? パパも、いっちゃんのこと、ぎゅーしてた。……だめなの?」
「ダメじゃ、ないけれど。世の中には、いろいろな形があるんだ。パパたちは、その……」
言葉が続かない。
「男同士だから」という言い訳は、かつて自分が修吾を「異常者」と呼んだ時の思考と地続きにある。
だが、今の貴史には、修吾から与えられた熱烈な口づけを、実咲貴にどう説明すればいいのか分からなかった。
ただ一つ分かっているのは、修吾を失ったままの食卓は、どんなに晴れた朝でも、薄暗く、寒々しいということだけだ。
トーストの味すらしない。
貴史は震える手で、隠していたスマートフォンを取り出した。
画面には、修吾からの通知が届いていた。
『今夜、お店が終わった後、僕の部屋へ来てください。実咲貴ちゃんが寝た後で構いません。……話がしたいです』
結婚という形には、たどり着けないかもしれない。
世間が笑うかもしれない。
それでも、この無垢な娘に「いっちゃんとパパは、ずっと一緒にいるよ」と笑って言える未来が、今の貴史には何よりも必要だった。
「……実咲貴。パパ、今日はいっちゃんに、ちゃんとお話してくるよ」
「ほんとう!? じゃあ、いっちゃん、またお家に来てくれる?」
「……ああ。きっと、ね」
娘の輝くような笑顔を見ながら、貴史は初めて、修吾の待つ四階を見上げた。
実咲貴の寝息が一定のリズムを刻み始めるのを待ってから、貴史は静かに寝室を抜け出した。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打っている。
エレベーターを使う余裕さえなく、階段を一段ずつ、己の決意を確かめるようにして四階へと上がった。
四〇二号室。
震える指先でインターホンを押すと、ほどなくして扉が開いた。
そこに立っていたのは、あの夜の悲痛な顔ではない。
いつもの、少しおっとりとした温かな笑顔を湛えた修吾だった。
ただ、その目元には隠しきれない困惑と、触れれば壊れてしまいそうな危うさが同居している。
「いらっしゃい。本当に、来てくれたんですね」
修吾の声は、冬の陽だまりのように穏やかだった。
貴史は言葉を失い、ただ頷くのが精一杯だった。
促されるままに足を踏み入れた修吾の部屋は、彼の作る料理と同じように、整理整頓されながらもどこか人の温もりが漂う空間だった。
「適当な椅子に掛けてください。……ええと、お酒でも飲みますか? それとも……はは、だめだな。どうしても緊張してしまう」
修吾がキッチンへ向かい、背を向ける。
その広い背中。
かつて実咲貴を抱き上げ、貴史を守るように立っていた、あの大きな影。
貴史の理性が、音を立てて崩れた。
気づけば足が動き、無我夢中でその広い背中にしがみついていた。
「……っ!」
修吾の身体が、岩のように硬直した。手に持っていたグラスが、カタリと音を立てる。
「貴史……さん?」
「……こういう意味で、貴方が好きです」
貴史は修吾の背中に顔を埋め、震える声で絞り出した。
「昨夜、一人で貴方のことばかり考えていました。男同士だとか、そんな理屈じゃ説明できないくらい、貴方の熱が、貴方の存在が、俺の身体から離れないんです。……これは、隣人としての好意なんかじゃない」
修吾がゆっくりと、貴史の腕を解こうとする。
その力が、ひどく悲しい。
「だめだ……。三坂さん、貴方はまだ混乱しているだけだ」
修吾が振り返る。その顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「昨日も言ったでしょう。僕の世界は、貴方が思っているよりずっと暗い。……貴方や実咲貴ちゃんを、こちら側へ引き込むわけにはいかないんです」
「修吾さん……」
「世間は残酷だ。男同士で寄り添って生きていくことが、どれだけ白い目で見られるか。……貴方は若く、輝かしい未来がある父親だ。実咲貴ちゃんにだって、普通の、まっとうな幸せを享受する権利がある。僕のエゴで、それを奪うような人生を送らせるわけにはいかないんだ……!」
修吾の声は、慟哭に近かった。
それは、彼が今まで一人でどれだけの「悪意」と戦い、どれほどの「孤独」を飲み込んできたかを物語っていた。
自分たちを想うからこその、命を削るような拒絶。
貴史は一歩踏み出し、修吾の前に回り込んだ。
そして、逃げようとする彼の大きな両手を、力いっぱい握り締めた。
「……世間や、世の中の常識で測るべきじゃなかったんだ」
貴史は修吾の目を真っ直ぐに見つめ、毅然と言い放った。
「俺は間違っていました。まっとうかどうか、普通かどうか……そんな外側の物差しを基準にして、目の前にいる貴方の、誠実な人柄を、温かな手を、あんなにおいしい料理を、無視してしまった」
修吾の瞳が大きく揺れる。
「実咲貴が今朝、言ったんです。パパといっちゃんは、だいじだいじし合ってたのに、なんで結婚しないのって。……子供の方が、ずっと真理を見抜いていた」
貴史は握る手にさらに力を込めた。
「俺の基準は、貴方です。修吾さんが作ってくれるスープの温かさ、実咲貴を撫でる手の優しさ。……俺は、それを信じたい。世間の目なんて、俺が盾になって跳ね返してやる。だから、自分を『こちら側』なんて呼んで、線を引かないでください」
沈黙が流れる。
修吾の大きな手から、わずかに力が抜けた。
「……本当に、いいんですか」
修吾が恐る恐る、折れそうな枝に触れるように、貴史の肩に手を回した。
「……これが、汚いことだとは、思いませんか?」
その問いに、貴史は微笑んだ。
一点の曇りもない、清々しい笑顔だった。
「思いません。……微塵も」
貴史は修吾の首に腕を回し、その顔を引き寄せた。
「貴方の手は、今も昔も汚れてなんていない。俺たちを救ってくれた、世界で一番綺麗な手です」
今度は、貴史から唇を重ねた。
昨夜の、修吾の悲鳴のようなキスとは違う。
すべてを受け入れ、すべてを分かち合うための、静かで、けれど確信に満ちたキスだった。
唇が重なり、互いの熱が混ざり合う。貴史は躊躇うことなく、修吾の口内へと舌を滑り込ませた。修吾が喉の奥で、くぐもった声を漏らす。
深く、深く、互いの存在を確認し合うようなキス。
絡み合う舌が、言葉にならない想いを補完していく。
唾液の甘い匂いと、修吾の肌から漂うスパイスの香りが、貴史の感覚を麻痺させ、陶酔へと誘う。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ようやく唇を離した二人は、どちらからともなく、折れるほど強く抱きしめ合った。
修吾の大きな身体が、貴史の腕の中で小刻みに震えている。
「……あたたかい」
修吾が、貴史の肩口に顔を埋めて呟いた。
「貴史さん。……ありがとう。本当に、ありがとう」
「俺の方こそ。……見捨てないでいてくれて、ありがとう、修吾さん」
窓の外では、夜の街が静まり返っている。
明日になれば、また「世間」という荒波が二人を待っているだろう。
父子家庭の父親が、男と愛し合う。
それは確かに、平坦な道ではないかもしれない。
だが、今、この部屋に満ちている空気は、どこまでも澄み渡り、優しかった。
貴史は修吾の背中に回した手に力を込め、目を閉じた。
実咲貴の待つ部屋。
修吾の守る店。
そして、二人が作り上げていく、新しい食卓。
もう、凍りついた夜は終わったのだ。
貴史は修吾の胸板に耳を当て、トクトクと刻まれる力強い鼓動を聞きながら、自分たちの未来が、修吾の作るフレンチトーストのように、甘く温かなものであることを確信していた。
二人の影が、月明かりに照らされたリビングの床で、一つの大きな形となって重なっていた。
その夜、二人は夜が明けるまで、ただ互いの温もりを確かめ合うように、抱きしめ合ったまま離れなかった。言葉の重みを、二人で分かち合うための夜が、すぐそこまで来ていた。
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