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雪の下に
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春待つ人
男はただ、春を待っていた。
固く閉ざされた土の中から命が芽吹き、死に絶えたような梢が淡い桜色に染まる、その季節を。凍てついた時間が動き出す瞬間を、彼は祈るような静謐さで待ち望んでいた。
「春は、まだだろうか……」
曇天から落ちる鈍色の光を受け、中庭をぼんやりと眺める彼の横顔は、慈愛に満ちた仏像のようにやんわりと微笑んでいた。その見慣れない、あまりに穏やかで壊れそうな笑顔に、隣にいた友人は言いようのない不安を覚え、探るように尋ねた。
「春が、どうかしたのか。お前がそんなに季節を待ちわびるなんて珍しいじゃないか」
「雪解けが楽しみなんだ。雪が溶ければ、すべてが元通りになるような気がして」
男は友人へ向けて、子供のように無垢な動作で首を傾げ、くすりと笑った。
友人はその微笑みの奥にある「何か」を本能的に察知し、弾かれたように視線をそらした。妙に優しく、それでいて心臓を素手で掴まれるような冷たさを孕んだ笑みだった。
逃げるように視線を落とした先は、しんしんと降り積もる中庭の雪。その白一色の世界を凝視した瞬間、友人は息を呑み、椅子を蹴立てるようにして立ち上がった。
その男は、年の離れた妹と二人、外界から切り離されたようなこの家で暮らしていた。
コの字型に配された古い木造の日本家屋。かつては両親を含めた五人の賑やかな声が、この黒ずんだ廊下に響いていたこともあった。けれど、今はもう彼らはいない。不慮の事故が、この家から「生」の騒がしさを根こそぎ奪い去っていったのだ。
遺されたのは、四季折々の表情を見せる庭を囲む、湿った木の匂いのする家屋だけ。東の棟を男が、南の陽だまりに面した、一番日当たりの良い部屋を妹が使っていた。西の棟には増改築された客間や台所があり、通いのお手伝いさんが時折、沈黙に支配されたこの家に生活の音を運んできた。
成人した兄は役場に職を得て、静かに、そして忠実に社会の一端を担った。一方、病弱な妹は学校を卒業すると同時に、自室という名の繭の中に引きこもった。
二人の聖域を訪れるのは、数人の親戚と、愛想は悪いが義理堅い、兄のたった一人の友人だけ。それはひどく寂しく、しかし硝子細工のように繊細で温かい日常だった。
しかし、その年の冬は残酷なほどに厳しかった。連日ニュースが伝える寒波は、古い家屋の隙間から容赦なく牙を剥き、兄妹は夜、震えながら家の改修や春の計画を語り合っていた。――あの日が来るまでは。
視線の先、雪の丘から突き出していたのは、薄い桜色のマニキュアを塗られた、白く細い指先だった。
男は、厚く降り積もった中庭を見下ろしながら、雪の下に深く沈んでいるはずの彼女――夕希のことを思っていた。
(ここに彼女は眠っている。誰にも邪魔されず、ただ静かに……)
それは、唐突な幕切れだった。
男が心の奥底に隠し持っていた、兄としてあるまじき想いを口にした途端。彼女は絶望に濡れた瞳で自室を飛び出し、夜の気配が混じり始めた雪の中へ走り下りたのだ。
素足のまま、庭のあちこちに張った薄氷を踏み抜く。ぱり、ぱり、と乾いた音が静寂を切り裂いた。その音は、彼女の心が壊れていく音のようで、男の耳に妙に心地よく響いた。
男は驚愕し、立ち尽くした。外に立つ彼女を見るのは、数年ぶりのことだった。
刺すような冷気も、煤けた大気も、部屋の隅に薄墨のように溜まる埃さえ彼女には猛毒だった。だから彼女は、人生の大半を寝台の上で、窓の外を眺めるだけで過ごしてきたのだ。
雪の上に立つか細い体は、男の記憶にある姿よりもさらに削ぎ落とされ、今にも透明に透けてしまいそうだった。薄い肩に触れる、絹のように柔らかい髪。寝間着を纏っただけの、雪よりも白い肌。
男は彼女を連れ戻そうと、許しを乞おうと手を伸ばした。けれど、その指先が触れたのは、彼女の温もりではなく、空から舞い落ちたひとひらの結晶だけだった。
「っ、……!」
声にならない悲鳴とともに、彼女は倒れた。大地にすべての力を吸い取られるように、足元から崩れ落ち、純白の雪の中に沈んでいく。最後に動いた唇が、微かに男の名を呼んだ気がした。
「夕希!」
駆け寄った時にはもう、彼女は最後の吐息を、白く儚い余韻として夜の闇に放っていた。
それから今日まで、男の時間は止まったままだった。
茫然自失として過ごす日々の中、雪は容赦なく降り続け、庭に横たわる妹の輪郭を消し去っていった。今はもう、彼が最後の瞬間に胸の上で幾度も組み直した、あの美しい指先しか見えない。桃色の爪だけが、雪の中から咲き出た花のように、そこにある。
男は重いため息をつくと、導かれるように裸足で中庭へと降り立った。足の裏を刺す冷気も感じないまま、雪をかき分け、彼女が眠る場所へと歩いていく。
彼女の枕元に立ち、あの日と同じようにじっと見下ろしてから、男はゆっくりと身をかがめた。
「……夕希」
その名を唇の中で転がし、深い雪の中に腕を沈める。埋もれた彼女の体を探り、冷え切った指先を、自分の唇へと引き寄せた。
伝わってくるのは、魂が凍りつくような死の感触。けれど男は、それに狂おしいほどの愛着を感じていた。
「夕希……寒くないかい。もうすぐ、もうすぐ春が来るからね」
生前、彼は彼女の指先にしか触れることを許されなかった。他人との接触が彼女の命を削ることを知っていたから。
けれど幼い頃、両親の目を盗んで布団の下でこっそりと指を絡め合った時、彼女はいつも、悪戯が成功した子供のように優しく笑ってくれたのだ。
だからこそ、成人した彼女に贈ったあの薄紅のマニキュアは、二人だけの秘め事の証だった。
優しい桜の色を爪に乗せ、彼女が嬉しそうに微笑む。その色を身につけている日は、「触れてもいい」という無言の合図。その時だけ、男は彼女を抱き起こし、手を取り、外界の景色を共に眺めることができた。それは、血を分けた兄妹という鎖を超えた、聖域の約束だった。
(早く、早く春が来ればいい……)
雪が溶け、固い蕾が膨らみ、花の香りが庭を満たす。死を塗りつぶすような圧倒的な陽光が、この冷たい白を溶かし尽くす。
そうすれば、大地は再び息を吹き返し、彼女もまた、泥の中から蓮華のように顔を出すだろう。
土の下から聞こえる微かな鼓動を、男は確信していた。
「……夕希」
男は狂気にも似た願いを込め、感覚のなくなった彼女の指先に幾度も口づける。指を握り、自分の体温を移そうと必死に温める。あの日、彼女が雪に倒れた瞬間に、永遠とも思える時間そうしていたように。
「なあ、夕希。僕たちは、間違っていたんだろうか……」
兄でさえなければ。この胸に灯った火を、恋と呼びさえしなければ。
あの日、あの言葉を伝えなければ、君は今も、あの暖かい部屋で微睡んでいただろうか。
答えのない問いを雪に投げかけながら、男は今日も、冷たい指先に触れるだけの接吻を繰り返す。
(兄さん……)
幻聴のような、掠れた優しい声が耳の奥で疼く。自分を突き放しながらも、最後にはすべてを受け入れたあの眼差しが、瞼の裏に焼き付いて離れない。
(君は、ただ春を待って眠っているだけだ。そうだろう?)
桜が毎年、己の使命を果たすように咲き誇るのを忘れないように。
彼女もまた、雪の下で、兄の指の感触を、接吻の熱を、しっかりと覚えているはずだった。
男は、ただ、春を待っている。
やがて来る残酷な雪解けの後に、何が残るかも知らずに。
雪の下に
「春は、まだだろうか」
中庭を見下ろせる二階の居室。冬の低い陽光が、埃の舞う室内を斜めに切り裂いている。その窓辺で、友人の声が低く、心地よい残響を伴って響いた。
視線の先、中庭には膝の高さまで雪が降り積もっている。一面の死の世界。一点の汚れもない白銀の中に、わずかな、しかし鮮烈な「薄紅」が滲んでいた。それは凍てついた庭に咲く狂い花のようにも、あるいは地表から溢れ出した生への未練のようにも見える。
その下に、何が埋まっているのか。
土を掘り起こし、冷たい骸を安置し、空から降る白にすべてを委ねた友人の背中。わからないわけではなかった。いや、俺はすべてを悟っていた。それなのに。
「雪解けが楽しみなんだ。春になれば、きっともっと綺麗になる」
そう言って微笑む彼の横顔が、あまりに悲しく、同時に救いを得た聖者のように幸福そうに見えたから。俺は喉元まで出かかった糾弾の言葉を、冷たい唾液と一緒に飲み込むしかなかった。
その男は、かつては俺の親友だった。
端正だがどこか影のある彼は、病弱で、今にも風にさらわれそうなほど儚い美貌を持つ実の妹に対し、許されぬ恋情を抱き続けていた。学生時代から続くその密やかな熱を、俺は一番近くで、火傷しそうな距離で見守ってきたのだ。
かつてこの家を訪ねれば、
「いらっしゃいませ。兄がすぐ参りますから」
と、透き通るような肌をした少女が、寝台の上から愛らしい笑みで迎えてくれたものだ。俺は、その兄妹の危うい均衡を愛していた。二人を等しく、慈しんでいたはずだった。
あの日も、そうだった。
いつものように招き入れられ、主のいない部屋でふと窓の外を見下ろした。昨夜からの豪雪で形を変えた中庭。不自然に盛り上がった雪の丘。そこから、小さな、あまりに小さな薄紅の指先が、救いを求めるように突き出していた。
「春は、まだだろうか」
背後からかけられた柔らかな声。その温度のなさに、俺の全身の血は一瞬で凍りついた。隣に座った友人を振り返る勇気などなかった。俺はただ、震える視線をその指先に釘付けにしたまま、己の心臓の音だけを聞いていた。
「……っ」
ようやく振り返った時、彼は穏やかな笑みを湛えていた。隣に腰掛け、肩が触れ合うほどの距離で、彼は庭を見つめる。
「……春が、どうかしたのか」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。男の笑顔は屈託がなく、それでいてガラス細工のように脆い。その微笑みを壊すことは、世界そのものを壊すことと同義であるような気がして、俺は沈黙を選んだ。
春が来れば雪は溶ける。隠されていた罪も、その白日の下に晒されるだろう。
それでもこの男は、今と同じように微笑むのだろうか。
かつての彼は、こんなにも優しく笑う男ではなかった。あんなにも、神々しいほどに美しい横顔ではなかった。罪が彼を完成させてしまったのか。
雪が溶け、春が過ぎ去り、やがて湿度を帯びた夏が来る。雪の下の少女は、土の中で次第に腐り落ち、土塊へと還っていくだろう。それでも彼は、その場所を愛し続けるのか。
叶わぬ恋情を抱えていただけの、ただの男だったはずなのに。
それからというもの、俺は憑かれたようにこの家へ通い詰めた。
時に、わざとらしい毒を言葉に混ぜて、彼の反応を試すことさえあった。
「この頃は冷え込むが、あの子の体調はどうなんだ。障りはないか」
何気ない世間話を装い、彼女のいない寝室で、俺たちは並んで庭を見る。彼の心の聖域に、泥だらけの土足で踏み入ってみる。
「安静に、眠っている日が多いよ。今はとても……穏やかなんだ」
淀みなく、慈しみを込めて答える声。その響きに含まれた「あの日」以来の柔らかさに、俺は嫉妬で胸の芯が焼け落ちそうになる。彼を独占しているのは、死んだ妹なのか。それとも、この秘密を共有している俺なのか。
雪解けの季節に、またここへ来よう。
泥にまみれて現れる亡骸を前に、彼はどんな顔をするのか。絶望して泣き叫ぶのか、それとも狂気の中で笑い転げるのか。その無惨な姿を想像するだけで、俺は居ても立ってもいられなくなる。
優しく抱きしめてやりたいという慈愛と、その弱みに付け込んで彼を永遠に繋ぎ止めたいという支配欲。二つの相反する感情が混ざり合い、俺の正気を削り取っていく。
いっそ、すべてを警察に話してしまおうか。彼を法という檻に閉じ込め、二度とあの庭を見られないようにしてしまおうか。そうすれば……俺の中のこの浅ましい恋情も、一緒に消えてくれるだろうか。
俺は二人を好いていた。それは嘘偽りのない事実だ。
けれど今の俺は、雪の下に埋もれた死体よりもずっと醜い。
彼に気づかれぬよう、友人の顔をして隣に座る。指と指が触れ合う一瞬の接触に、心臓を跳ねさせる。かつて、この部屋で彼が眠りに落ちた際、その無防備な指先に、俺がそっと自分の指を絡めたこと。その行為に込めた、おぞましいほどの執着。
彼は知らない。何も知らない。
「妹だけじゃない。お前も体には気をつけろよ」
俺の肩を叩く、その手の温もり。俺がどんな眼差しで彼を見つめているか。なぜ、俺が庭に視線を落とすたびに、幽霊を見たかのように怯えているのか。
お前は俺のことなど、これっぽっちも見ていない。お前の瞳に映っているのは、雪の下の少女と、まだ見ぬ偽りの春だけだ。
俺は雪に身を隠す。
この醜い欲望を雪の下に深く沈め、愛しいという想いだけを、届かぬ虚空へと放り投げる。
溶けない雪などない。だが、俺の心だけは凍りついたまま、今日もまた、お前の待つあの部屋へと足を進める。
薄紅を食む
友人の絶叫は、春の陽光を切り裂く不協和音となって庭に響き渡った。
男は眉ひとつ動かさず、泥と腐汁にまみれた指先を愛おしそうに撫で続け、ただ静かに友人を仰ぎ見た。その瞳は、春の空よりも澄み渡り、恐ろしいほどに穏やかだった。
「騒がないでくれ。夕希が驚いてしまうだろう?」
男の口から出たのは、あまりに日常的な、けれど決定的に壊れた一言だった。
「見てごらん。雪が溶けて、ようやく彼女は自由になったんだ。もうすぐ……もうすぐ、あの約束の続きができる」
男は、友人が向ける嫌悪と恐怖に満ちた眼差しを、まるで見えていないかのように微笑んだ。
やがて、騒ぎを聞きつけた近隣の人々や役場の同僚たちが、土足でこの聖域へと踏み込んできた。
「離せ! 何をする!」
男は、彼女の骸から引き剥がそうとする幾本もの腕に対し、獣のような咆哮を上げた。
普段の温厚な彼からは想像もつかない力。爪が剥がれ、指が折れようとも、彼は泥に沈む「それ」を離そうとはしなかった。
「夕希を、僕から奪わないでくれ! 彼女は今、芽吹こうとしているんだ。春が、春が来たというのに!」
男の抵抗は凄まじく、周囲の人間が気圧されるほどの狂気を放っていた。その醜くも哀れな姿を、友人はただ呆然と見つめていた。
友人は、悟ってしまった。
この男はもう、こちらの世界には戻ってこない。彼を法や正気で裁くことは、もはや不可能なのだと。
そして、自分の中に燃え盛る嫉妬。この狂った男を、その狂気ごと、妹から奪い去りたいという歪んだ恋情。
「……わかった。お前の春を、終わらせてやるよ」
友人は、抵抗を続ける男の背後から、静かに、けれど強くその身体を抱きすくめた。
「離せ、離してくれ!」
「静かにしろ。……一緒に行こう。夕希のいない、本当の春へ」
友人は男の耳元で囁き、狂乱する彼を無理やり引きずり上げる。周囲の制止を振り切り、半ば強引に、男を連れて中庭の奥――かつて二人で眺めた、あの巨大な桜の樹の下へと向かった。
男の片手には、今も彼女の身体の一部であった、あの薄紅のマニキュアが残る「指先」だけが握られていた。
引きちぎられた、冷たく腐った指先。
男はそれを、壊れ物を扱うように大切に胸に抱き、友人の腕の中で力なく笑った。
「あぁ……暖かいね。春の匂いだ」
友人は、男の首に手をかけた。
あるいは、懐に隠し持っていた鋭利な何かを、二人の間に突き立てたのかもしれない。
満開の桜が、狂い咲く花びらを二人の上に降らせる。
男は友人の胸に顔を埋め、握りしめた妹の爪先を口づけながら、最後の吐息を漏らした。
(兄さん……)
その声が、男の耳に届いたのか、それとも心中を遂げる友人の耳に届いたのか、もはや知る術はない。
雪が溶け、春が過ぎ去る。
桜の樹の下には、絡まり合った二人の男の骸と、一点の薄紅だけが残された。
男は、ようやく春になったのだと信じて、深い眠りについた。
桜、散りぬる底に
やがて、待望の春が訪れた。
雪は水へと還り、土からは命の匂いが立ち上る。
けれど、現れたのは男が夢見た「再生」ではなかった。
雪の下から這い出たのは、泥にまみれ、色を失った「死」の残骸。あの美しかったマニキュアも、剥がれ落ち、どす黒く変色している。
「夕希……?」
男はたまらず庭に下り、這いつくばった。泥が白い指を汚すのも構わず、腐敗し、崩れゆく彼女を抱き起こす。
「脱皮しようとしているんだね。大丈夫、僕が綺麗にしてあげる」
男は笑った。軽やかに、歌うように。
その光景に、俺は絶叫し、男を引き剥がそうとした。けれど男は、死の欠片を離さない。
俺は確信した。
この男はもう、俺たちの知る世界にはいない。
俺は男を羽交い締めにし、庭の奥、崖の縁にそそり立つ巨木の下へと引きずっていった。
狂い咲く桜。吹雪のような花弁。
「一緒に行こう。……夕希のいない、本当の春へ」
宙を舞う二人の身体。
谷底の、桜色の絨毯の上で。
俺は事切れた男の身体を強く抱きしめ、懐から小さな小瓶を取り出した。
男が妹だと思い込み、握りしめていたその爪先に。
俺は、あの日と同じ淡い桜色のマニキュアを、丁寧に、丁寧に塗り重ねていく。
「これで、もう離れられないな」
泥と死に彩られた爪先が、俺の手で、再び美しい薄紅に塗り替えられていく。
男の妄執さえも、俺の愛で上書きしてやる。
俺は男の冷たい唇に、深く、熱い接吻を落とした。
「……愛しているよ」
風が吹き抜け、男の手から、塗りたての桜色を纏った指先がふわりと零れ落ちる。
それは本物の花弁と混ざり合い、春の空へと高く、高く舞い上がった。
崖の上では、桜がなおも軽やかに花を散らし続けている。
空には、花弁と見紛うばかりの薄紅の爪が、いつまでも、いつまでも、自由を謳歌するように舞い踊っていた。
男はただ、春を待っていた。
固く閉ざされた土の中から命が芽吹き、死に絶えたような梢が淡い桜色に染まる、その季節を。凍てついた時間が動き出す瞬間を、彼は祈るような静謐さで待ち望んでいた。
「春は、まだだろうか……」
曇天から落ちる鈍色の光を受け、中庭をぼんやりと眺める彼の横顔は、慈愛に満ちた仏像のようにやんわりと微笑んでいた。その見慣れない、あまりに穏やかで壊れそうな笑顔に、隣にいた友人は言いようのない不安を覚え、探るように尋ねた。
「春が、どうかしたのか。お前がそんなに季節を待ちわびるなんて珍しいじゃないか」
「雪解けが楽しみなんだ。雪が溶ければ、すべてが元通りになるような気がして」
男は友人へ向けて、子供のように無垢な動作で首を傾げ、くすりと笑った。
友人はその微笑みの奥にある「何か」を本能的に察知し、弾かれたように視線をそらした。妙に優しく、それでいて心臓を素手で掴まれるような冷たさを孕んだ笑みだった。
逃げるように視線を落とした先は、しんしんと降り積もる中庭の雪。その白一色の世界を凝視した瞬間、友人は息を呑み、椅子を蹴立てるようにして立ち上がった。
その男は、年の離れた妹と二人、外界から切り離されたようなこの家で暮らしていた。
コの字型に配された古い木造の日本家屋。かつては両親を含めた五人の賑やかな声が、この黒ずんだ廊下に響いていたこともあった。けれど、今はもう彼らはいない。不慮の事故が、この家から「生」の騒がしさを根こそぎ奪い去っていったのだ。
遺されたのは、四季折々の表情を見せる庭を囲む、湿った木の匂いのする家屋だけ。東の棟を男が、南の陽だまりに面した、一番日当たりの良い部屋を妹が使っていた。西の棟には増改築された客間や台所があり、通いのお手伝いさんが時折、沈黙に支配されたこの家に生活の音を運んできた。
成人した兄は役場に職を得て、静かに、そして忠実に社会の一端を担った。一方、病弱な妹は学校を卒業すると同時に、自室という名の繭の中に引きこもった。
二人の聖域を訪れるのは、数人の親戚と、愛想は悪いが義理堅い、兄のたった一人の友人だけ。それはひどく寂しく、しかし硝子細工のように繊細で温かい日常だった。
しかし、その年の冬は残酷なほどに厳しかった。連日ニュースが伝える寒波は、古い家屋の隙間から容赦なく牙を剥き、兄妹は夜、震えながら家の改修や春の計画を語り合っていた。――あの日が来るまでは。
視線の先、雪の丘から突き出していたのは、薄い桜色のマニキュアを塗られた、白く細い指先だった。
男は、厚く降り積もった中庭を見下ろしながら、雪の下に深く沈んでいるはずの彼女――夕希のことを思っていた。
(ここに彼女は眠っている。誰にも邪魔されず、ただ静かに……)
それは、唐突な幕切れだった。
男が心の奥底に隠し持っていた、兄としてあるまじき想いを口にした途端。彼女は絶望に濡れた瞳で自室を飛び出し、夜の気配が混じり始めた雪の中へ走り下りたのだ。
素足のまま、庭のあちこちに張った薄氷を踏み抜く。ぱり、ぱり、と乾いた音が静寂を切り裂いた。その音は、彼女の心が壊れていく音のようで、男の耳に妙に心地よく響いた。
男は驚愕し、立ち尽くした。外に立つ彼女を見るのは、数年ぶりのことだった。
刺すような冷気も、煤けた大気も、部屋の隅に薄墨のように溜まる埃さえ彼女には猛毒だった。だから彼女は、人生の大半を寝台の上で、窓の外を眺めるだけで過ごしてきたのだ。
雪の上に立つか細い体は、男の記憶にある姿よりもさらに削ぎ落とされ、今にも透明に透けてしまいそうだった。薄い肩に触れる、絹のように柔らかい髪。寝間着を纏っただけの、雪よりも白い肌。
男は彼女を連れ戻そうと、許しを乞おうと手を伸ばした。けれど、その指先が触れたのは、彼女の温もりではなく、空から舞い落ちたひとひらの結晶だけだった。
「っ、……!」
声にならない悲鳴とともに、彼女は倒れた。大地にすべての力を吸い取られるように、足元から崩れ落ち、純白の雪の中に沈んでいく。最後に動いた唇が、微かに男の名を呼んだ気がした。
「夕希!」
駆け寄った時にはもう、彼女は最後の吐息を、白く儚い余韻として夜の闇に放っていた。
それから今日まで、男の時間は止まったままだった。
茫然自失として過ごす日々の中、雪は容赦なく降り続け、庭に横たわる妹の輪郭を消し去っていった。今はもう、彼が最後の瞬間に胸の上で幾度も組み直した、あの美しい指先しか見えない。桃色の爪だけが、雪の中から咲き出た花のように、そこにある。
男は重いため息をつくと、導かれるように裸足で中庭へと降り立った。足の裏を刺す冷気も感じないまま、雪をかき分け、彼女が眠る場所へと歩いていく。
彼女の枕元に立ち、あの日と同じようにじっと見下ろしてから、男はゆっくりと身をかがめた。
「……夕希」
その名を唇の中で転がし、深い雪の中に腕を沈める。埋もれた彼女の体を探り、冷え切った指先を、自分の唇へと引き寄せた。
伝わってくるのは、魂が凍りつくような死の感触。けれど男は、それに狂おしいほどの愛着を感じていた。
「夕希……寒くないかい。もうすぐ、もうすぐ春が来るからね」
生前、彼は彼女の指先にしか触れることを許されなかった。他人との接触が彼女の命を削ることを知っていたから。
けれど幼い頃、両親の目を盗んで布団の下でこっそりと指を絡め合った時、彼女はいつも、悪戯が成功した子供のように優しく笑ってくれたのだ。
だからこそ、成人した彼女に贈ったあの薄紅のマニキュアは、二人だけの秘め事の証だった。
優しい桜の色を爪に乗せ、彼女が嬉しそうに微笑む。その色を身につけている日は、「触れてもいい」という無言の合図。その時だけ、男は彼女を抱き起こし、手を取り、外界の景色を共に眺めることができた。それは、血を分けた兄妹という鎖を超えた、聖域の約束だった。
(早く、早く春が来ればいい……)
雪が溶け、固い蕾が膨らみ、花の香りが庭を満たす。死を塗りつぶすような圧倒的な陽光が、この冷たい白を溶かし尽くす。
そうすれば、大地は再び息を吹き返し、彼女もまた、泥の中から蓮華のように顔を出すだろう。
土の下から聞こえる微かな鼓動を、男は確信していた。
「……夕希」
男は狂気にも似た願いを込め、感覚のなくなった彼女の指先に幾度も口づける。指を握り、自分の体温を移そうと必死に温める。あの日、彼女が雪に倒れた瞬間に、永遠とも思える時間そうしていたように。
「なあ、夕希。僕たちは、間違っていたんだろうか……」
兄でさえなければ。この胸に灯った火を、恋と呼びさえしなければ。
あの日、あの言葉を伝えなければ、君は今も、あの暖かい部屋で微睡んでいただろうか。
答えのない問いを雪に投げかけながら、男は今日も、冷たい指先に触れるだけの接吻を繰り返す。
(兄さん……)
幻聴のような、掠れた優しい声が耳の奥で疼く。自分を突き放しながらも、最後にはすべてを受け入れたあの眼差しが、瞼の裏に焼き付いて離れない。
(君は、ただ春を待って眠っているだけだ。そうだろう?)
桜が毎年、己の使命を果たすように咲き誇るのを忘れないように。
彼女もまた、雪の下で、兄の指の感触を、接吻の熱を、しっかりと覚えているはずだった。
男は、ただ、春を待っている。
やがて来る残酷な雪解けの後に、何が残るかも知らずに。
雪の下に
「春は、まだだろうか」
中庭を見下ろせる二階の居室。冬の低い陽光が、埃の舞う室内を斜めに切り裂いている。その窓辺で、友人の声が低く、心地よい残響を伴って響いた。
視線の先、中庭には膝の高さまで雪が降り積もっている。一面の死の世界。一点の汚れもない白銀の中に、わずかな、しかし鮮烈な「薄紅」が滲んでいた。それは凍てついた庭に咲く狂い花のようにも、あるいは地表から溢れ出した生への未練のようにも見える。
その下に、何が埋まっているのか。
土を掘り起こし、冷たい骸を安置し、空から降る白にすべてを委ねた友人の背中。わからないわけではなかった。いや、俺はすべてを悟っていた。それなのに。
「雪解けが楽しみなんだ。春になれば、きっともっと綺麗になる」
そう言って微笑む彼の横顔が、あまりに悲しく、同時に救いを得た聖者のように幸福そうに見えたから。俺は喉元まで出かかった糾弾の言葉を、冷たい唾液と一緒に飲み込むしかなかった。
その男は、かつては俺の親友だった。
端正だがどこか影のある彼は、病弱で、今にも風にさらわれそうなほど儚い美貌を持つ実の妹に対し、許されぬ恋情を抱き続けていた。学生時代から続くその密やかな熱を、俺は一番近くで、火傷しそうな距離で見守ってきたのだ。
かつてこの家を訪ねれば、
「いらっしゃいませ。兄がすぐ参りますから」
と、透き通るような肌をした少女が、寝台の上から愛らしい笑みで迎えてくれたものだ。俺は、その兄妹の危うい均衡を愛していた。二人を等しく、慈しんでいたはずだった。
あの日も、そうだった。
いつものように招き入れられ、主のいない部屋でふと窓の外を見下ろした。昨夜からの豪雪で形を変えた中庭。不自然に盛り上がった雪の丘。そこから、小さな、あまりに小さな薄紅の指先が、救いを求めるように突き出していた。
「春は、まだだろうか」
背後からかけられた柔らかな声。その温度のなさに、俺の全身の血は一瞬で凍りついた。隣に座った友人を振り返る勇気などなかった。俺はただ、震える視線をその指先に釘付けにしたまま、己の心臓の音だけを聞いていた。
「……っ」
ようやく振り返った時、彼は穏やかな笑みを湛えていた。隣に腰掛け、肩が触れ合うほどの距離で、彼は庭を見つめる。
「……春が、どうかしたのか」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。男の笑顔は屈託がなく、それでいてガラス細工のように脆い。その微笑みを壊すことは、世界そのものを壊すことと同義であるような気がして、俺は沈黙を選んだ。
春が来れば雪は溶ける。隠されていた罪も、その白日の下に晒されるだろう。
それでもこの男は、今と同じように微笑むのだろうか。
かつての彼は、こんなにも優しく笑う男ではなかった。あんなにも、神々しいほどに美しい横顔ではなかった。罪が彼を完成させてしまったのか。
雪が溶け、春が過ぎ去り、やがて湿度を帯びた夏が来る。雪の下の少女は、土の中で次第に腐り落ち、土塊へと還っていくだろう。それでも彼は、その場所を愛し続けるのか。
叶わぬ恋情を抱えていただけの、ただの男だったはずなのに。
それからというもの、俺は憑かれたようにこの家へ通い詰めた。
時に、わざとらしい毒を言葉に混ぜて、彼の反応を試すことさえあった。
「この頃は冷え込むが、あの子の体調はどうなんだ。障りはないか」
何気ない世間話を装い、彼女のいない寝室で、俺たちは並んで庭を見る。彼の心の聖域に、泥だらけの土足で踏み入ってみる。
「安静に、眠っている日が多いよ。今はとても……穏やかなんだ」
淀みなく、慈しみを込めて答える声。その響きに含まれた「あの日」以来の柔らかさに、俺は嫉妬で胸の芯が焼け落ちそうになる。彼を独占しているのは、死んだ妹なのか。それとも、この秘密を共有している俺なのか。
雪解けの季節に、またここへ来よう。
泥にまみれて現れる亡骸を前に、彼はどんな顔をするのか。絶望して泣き叫ぶのか、それとも狂気の中で笑い転げるのか。その無惨な姿を想像するだけで、俺は居ても立ってもいられなくなる。
優しく抱きしめてやりたいという慈愛と、その弱みに付け込んで彼を永遠に繋ぎ止めたいという支配欲。二つの相反する感情が混ざり合い、俺の正気を削り取っていく。
いっそ、すべてを警察に話してしまおうか。彼を法という檻に閉じ込め、二度とあの庭を見られないようにしてしまおうか。そうすれば……俺の中のこの浅ましい恋情も、一緒に消えてくれるだろうか。
俺は二人を好いていた。それは嘘偽りのない事実だ。
けれど今の俺は、雪の下に埋もれた死体よりもずっと醜い。
彼に気づかれぬよう、友人の顔をして隣に座る。指と指が触れ合う一瞬の接触に、心臓を跳ねさせる。かつて、この部屋で彼が眠りに落ちた際、その無防備な指先に、俺がそっと自分の指を絡めたこと。その行為に込めた、おぞましいほどの執着。
彼は知らない。何も知らない。
「妹だけじゃない。お前も体には気をつけろよ」
俺の肩を叩く、その手の温もり。俺がどんな眼差しで彼を見つめているか。なぜ、俺が庭に視線を落とすたびに、幽霊を見たかのように怯えているのか。
お前は俺のことなど、これっぽっちも見ていない。お前の瞳に映っているのは、雪の下の少女と、まだ見ぬ偽りの春だけだ。
俺は雪に身を隠す。
この醜い欲望を雪の下に深く沈め、愛しいという想いだけを、届かぬ虚空へと放り投げる。
溶けない雪などない。だが、俺の心だけは凍りついたまま、今日もまた、お前の待つあの部屋へと足を進める。
薄紅を食む
友人の絶叫は、春の陽光を切り裂く不協和音となって庭に響き渡った。
男は眉ひとつ動かさず、泥と腐汁にまみれた指先を愛おしそうに撫で続け、ただ静かに友人を仰ぎ見た。その瞳は、春の空よりも澄み渡り、恐ろしいほどに穏やかだった。
「騒がないでくれ。夕希が驚いてしまうだろう?」
男の口から出たのは、あまりに日常的な、けれど決定的に壊れた一言だった。
「見てごらん。雪が溶けて、ようやく彼女は自由になったんだ。もうすぐ……もうすぐ、あの約束の続きができる」
男は、友人が向ける嫌悪と恐怖に満ちた眼差しを、まるで見えていないかのように微笑んだ。
やがて、騒ぎを聞きつけた近隣の人々や役場の同僚たちが、土足でこの聖域へと踏み込んできた。
「離せ! 何をする!」
男は、彼女の骸から引き剥がそうとする幾本もの腕に対し、獣のような咆哮を上げた。
普段の温厚な彼からは想像もつかない力。爪が剥がれ、指が折れようとも、彼は泥に沈む「それ」を離そうとはしなかった。
「夕希を、僕から奪わないでくれ! 彼女は今、芽吹こうとしているんだ。春が、春が来たというのに!」
男の抵抗は凄まじく、周囲の人間が気圧されるほどの狂気を放っていた。その醜くも哀れな姿を、友人はただ呆然と見つめていた。
友人は、悟ってしまった。
この男はもう、こちらの世界には戻ってこない。彼を法や正気で裁くことは、もはや不可能なのだと。
そして、自分の中に燃え盛る嫉妬。この狂った男を、その狂気ごと、妹から奪い去りたいという歪んだ恋情。
「……わかった。お前の春を、終わらせてやるよ」
友人は、抵抗を続ける男の背後から、静かに、けれど強くその身体を抱きすくめた。
「離せ、離してくれ!」
「静かにしろ。……一緒に行こう。夕希のいない、本当の春へ」
友人は男の耳元で囁き、狂乱する彼を無理やり引きずり上げる。周囲の制止を振り切り、半ば強引に、男を連れて中庭の奥――かつて二人で眺めた、あの巨大な桜の樹の下へと向かった。
男の片手には、今も彼女の身体の一部であった、あの薄紅のマニキュアが残る「指先」だけが握られていた。
引きちぎられた、冷たく腐った指先。
男はそれを、壊れ物を扱うように大切に胸に抱き、友人の腕の中で力なく笑った。
「あぁ……暖かいね。春の匂いだ」
友人は、男の首に手をかけた。
あるいは、懐に隠し持っていた鋭利な何かを、二人の間に突き立てたのかもしれない。
満開の桜が、狂い咲く花びらを二人の上に降らせる。
男は友人の胸に顔を埋め、握りしめた妹の爪先を口づけながら、最後の吐息を漏らした。
(兄さん……)
その声が、男の耳に届いたのか、それとも心中を遂げる友人の耳に届いたのか、もはや知る術はない。
雪が溶け、春が過ぎ去る。
桜の樹の下には、絡まり合った二人の男の骸と、一点の薄紅だけが残された。
男は、ようやく春になったのだと信じて、深い眠りについた。
桜、散りぬる底に
やがて、待望の春が訪れた。
雪は水へと還り、土からは命の匂いが立ち上る。
けれど、現れたのは男が夢見た「再生」ではなかった。
雪の下から這い出たのは、泥にまみれ、色を失った「死」の残骸。あの美しかったマニキュアも、剥がれ落ち、どす黒く変色している。
「夕希……?」
男はたまらず庭に下り、這いつくばった。泥が白い指を汚すのも構わず、腐敗し、崩れゆく彼女を抱き起こす。
「脱皮しようとしているんだね。大丈夫、僕が綺麗にしてあげる」
男は笑った。軽やかに、歌うように。
その光景に、俺は絶叫し、男を引き剥がそうとした。けれど男は、死の欠片を離さない。
俺は確信した。
この男はもう、俺たちの知る世界にはいない。
俺は男を羽交い締めにし、庭の奥、崖の縁にそそり立つ巨木の下へと引きずっていった。
狂い咲く桜。吹雪のような花弁。
「一緒に行こう。……夕希のいない、本当の春へ」
宙を舞う二人の身体。
谷底の、桜色の絨毯の上で。
俺は事切れた男の身体を強く抱きしめ、懐から小さな小瓶を取り出した。
男が妹だと思い込み、握りしめていたその爪先に。
俺は、あの日と同じ淡い桜色のマニキュアを、丁寧に、丁寧に塗り重ねていく。
「これで、もう離れられないな」
泥と死に彩られた爪先が、俺の手で、再び美しい薄紅に塗り替えられていく。
男の妄執さえも、俺の愛で上書きしてやる。
俺は男の冷たい唇に、深く、熱い接吻を落とした。
「……愛しているよ」
風が吹き抜け、男の手から、塗りたての桜色を纏った指先がふわりと零れ落ちる。
それは本物の花弁と混ざり合い、春の空へと高く、高く舞い上がった。
崖の上では、桜がなおも軽やかに花を散らし続けている。
空には、花弁と見紛うばかりの薄紅の爪が、いつまでも、いつまでも、自由を謳歌するように舞い踊っていた。
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