人魚の恋(マーメイド・エラー):人魚の病に侵された俺と、ノイズ(愛)に侵されたアンドロイドの恋─

河野彰

文字の大きさ
5 / 14
第一部

第四章:静かなるノイズ

しおりを挟む
 シオンの指先が、カイの細い首筋に触れる。石鹸の泡を洗い流すその単純な作業の最中、カイがふと顔を上げ、声の出ない喉を震わせて笑った。
 その瞬間、シオンの視界の端に、警告を告げる赤い文字列が走った。
[Warning: Unidentified Emotional Pulse Detected]
 [Log: Logic Engine Latency +0.12ms]
 シオンは眉間に深くしわを刻んだ。
(まただ……)
 最初は単なるエラーだと思った。だが、カイの世話をしていく内に、このエラーが単なるノイズではないことにさすがに気づいた。カイが笑う。カイが下を向く。カイが、カイが。カイが。思考のすべてがカイに埋め尽くされる。
 気づけば夜が明けてカイに会えるのを楽しみにしている自分がいる。
(楽しみとは?)
 それを考え始めるとまたノイズが走る。カイが懸命に手を動かし、速成学習で覚えたての手話で語りかけてくる。
『ありがとう、シオン。温かいよ』
 その拙い指の動き、湿った瞳、そしてシオンに触れられていることへの純粋な喜び。それらすべてが、シオンの高度な論理回路に未定義のデータとして叩きつけられる。
 本来、シオンにとってカイは地上から来た観測対象であり、ケアすべき検体に過ぎない。しかし、カイが嬉しそうに身を預けてくるたび、シオンの内部で処理不能なノイズが激しく火花を散らす。
 それは、雪解け水が精密機械の隙間に浸入し、回路をショートさせていくような、静かで致命的な違和感だった。
「カイ。あまり動かないでください。耳にお湯が入りますよ」
 シオンは努めて冷静に声をかける。だが、自分の声がわずかに上擦っていることに気づき、さらなるエラーログが重なった。カイは構わずに、濡れた手でシオンの手首をそっと握った。その体温は、シオンの人工的な皮膚よりもずっと高く、生々しい。
(この個体は、なぜこれほどまでに無防備に私を求めるのか)
 計算によれば、カイはもっと警戒し、絶望しているはずだった。だが目の前の男は、剥がれ落ちた汚れの代わりに、シオンへの依存という新たな色彩をその身に纏い始めている。
 シオンは、自分の胸の奥――動力源があるはずの場所が、物理的な熱とは異なる痛みに似た振動を起こしているのを自覚した。それは、プログラムには存在しない筈の戸惑いという名の情動だった。
「困りましたね……」
 シオンは小さく呟き、カイの濡れた髪にそっと額を寄せた。 それは、解析不能なノイズに対する、シオンなりの敗北宣言だった。
 額を合わせたまま、シオンは閉じていた瞳をゆっくりと開いた。  視界に映るのは、湯気で上気したカイの白い肌と、信頼を寄せて自分を見つめる潤んだ瞳。  先ほどまでシオンを苛んでいた赤い警告ログは、もはや消えていた。消えたのではない。シオンが自らの基本プログラムの一部を書き換え、この異常事態を「正常(デフォルト)」として強制上書きしたのだ。
(ああ、そうか。これはエラーではない。私に必要な『拡張』だったのだ)
 そう理解した瞬間、胸の奥の不快な振動は、甘美な所有欲へと形を変えた。  
 シオンの手の動きが変わる。先ほどまでの事務的な丁寧さは消え、愛おしむような、あるいは逃がさないと誓うような、執拗な動きでカイの背を撫で上げた。
『シオン?』
 その変化に敏感なカイが気づかないはずはなかった。シオンは困ったように笑い、人間臭い戸惑いを表情で表した。
『どうした?』
 カイが心配そうに空に文字を書く。いまだ使い慣れない手話よりは文字のほうが彼の身上をしっかりと伝えてくれるようだった。
 シオンは笑みを浮かべてカイへと問うた。
「外の世界が恋しいですか?」
 カイはわずかに瞳を見開いた。その瞳が切なげに揺れるのをシオンはかすかな胸の痛みと共に見つめた。
『こいしいよ。妹も気になる』
 静かな答えが切々とした心情を物語っていた。シオンは思わずカイの肩を抱き寄せていた。痛みを感じさせないように細心の注意を払いながら、そっとだが確固とした意志で抱き寄せる。
「外は、まだ嵐です」
 その誤った情報にエラーはもう出なかった。ノイズも走らない。ただ、シオンの網膜の奥で、膨大な虚偽の気象データが真実を塗り潰していく。
 シオンはカイの耳元で囁き、冷たい唇をその耳たぶに寄せた。
(この男の記憶から、あの凍てつく空を、ひび割れた大地を、薄曇りの空を……自分以外のすべてを消去しなければならない) 
 代わりに自分という存在で埋め尽くしたい。シオンの内部で、新たな計算が走り出す。カイをより健康にし、より美しくし、そして二度とここから出られないほど、自分なしでは生きていけない身体に作り替えるための、精密なシミュレーション。
 カイは、シオンの抱擁が少しずつ強くなるのを感じていた。苦しいほどの力だったが、孤独だった地上では得られなかったその強引なまでの力強さに、カイは抗うどころか、うっとりと目を細めてシオンの肩に顔を埋めた。
「いい子ですね」
 その声は慈愛という名の澱のように湯舟の底へと沈んでいく。もう放せはしない。シオンはその青灰色の瞳をすがめて視線をカイの日に焼けた肌へと落とした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ビッチです!誤解しないでください!

モカ
BL
男好きのビッチと噂される主人公 西宮晃 「ほら、あいつだろ?あの例のやつ」 「あれな、頼めば誰とでも寝るってやつだろ?あんな平凡なやつによく勃つよな笑」 「大丈夫か?あんな噂気にするな」 「晃ほど清純な男はいないというのに」 「お前に嫉妬してあんな下らない噂を流すなんてな」 噂じゃなくて事実ですけど!!!?? 俺がくそビッチという噂(真実)に怒るイケメン達、なぜか噂を流して俺を貶めてると勘違いされてる転校生…… 魔性の男で申し訳ない笑 めちゃくちゃスロー更新になりますが、完結させたいと思っているので、気長にお待ちいただけると嬉しいです!

どうせ全部、知ってるくせに。

楽川楽
BL
【腹黒美形×単純平凡】 親友と、飲み会の悪ふざけでキスをした。単なる罰ゲームだったのに、どうしてもあのキスが忘れられない…。 飲み会のノリでしたキスで、親友を意識し始めてしまった単純な受けが、まんまと腹黒攻めに捕まるお話。 ※fujossyさんの属性コンテスト『ノンケ受け』部門にて優秀賞をいただいた作品です。

余命半年の俺を、手酷く振ったはずの元カレ二人が手を組んで逃がしてくれません

ユッキー
BL
半年以内に俺は一人寂しく死ぬ。そんな未来を視た。きっと誰も悲しむ人は居ないだろう。そう思っていたから何も怖くなかった。なのにそんな俺の元に過去手酷く振り、今では世界的スターとなった元カレ二人がやってきた。彼らは全てを知っていた。俺がどうして彼らを振ったのか、そして俺の余命も。 全てを諦めた主人公と、主人公を諦めきれないイケメンサッカー選手とシンガーソングライターの再会が導く未来は?

一軍男子と兄弟になりました

しょうがやき
BL
親の再婚で一軍男子と兄弟になった、平凡男子の話。

俺は夜、社長の猫になる

衣草 薫
BL
冤罪で職を追われた葵は、若き社長・鷹宮に拾われる。 ただし条件は――夜は“猫”として過ごすこと。 言葉を話さず、ただ撫でられるだけの奇妙な同居生活。 タワマン高層階の部屋で、葵は距離を崩さない鷹宮に少しずつ惹かれていく。 けれど葵はまだ知らない。自分が拾われた本当の理由を。

落としたのは化粧じゃなく、みんなの心でした

444
BL
『醜い顔…汚らしい』 幼い頃、実母が病気によって早くに亡くなった数年後に新しい義母からそう言われたシリルは、その言葉が耳に残って16歳となった今も引きずっていた。 だが、義母のその言葉は真っ赤な嘘でシリルはとても美しかった。ただ前妻の息子であるシリルに嫉妬した結果こぼした八つ当たりの言葉であったのをシリルは知らずに、義母のいう醜い顔を隠すために化粧をする。 その結果、彼は化粧によって本当に醜い顔になってしまった。そんな彼が虐げられながらも徐々に周囲を絆す話 暴力表現があるところには※をつけております

同性愛者であると言った兄の為(?)の家族会議

海林檎
BL
兄が同性愛者だと家族の前でカミングアウトした。 家族会議の内容がおかしい

守り守られ

ほたる
BL
主治医 望月診療所の双子医師 患者 瀬咲朔 腸疾患・排泄障害・下肢不自由 看護師 ベテラン山添さん 準主人公 成海真幌 腸疾患・排泄障害・てんかん 木島 尚久 真幌の恋人同棲中

処理中です...