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第一部
第四章:静かなるノイズ
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シオンの指先が、カイの細い首筋に触れる。石鹸の泡を洗い流すその単純な作業の最中、カイがふと顔を上げ、声の出ない喉を震わせて笑った。
その瞬間、シオンの視界の端に、警告を告げる赤い文字列が走った。
[Warning: Unidentified Emotional Pulse Detected]
[Log: Logic Engine Latency +0.12ms]
シオンは眉間に深くしわを刻んだ。
(まただ……)
最初は単なるエラーだと思った。だが、カイの世話をしていく内に、このエラーが単なるノイズではないことにさすがに気づいた。カイが笑う。カイが下を向く。カイが、カイが。カイが。思考のすべてがカイに埋め尽くされる。
気づけば夜が明けてカイに会えるのを楽しみにしている自分がいる。
(楽しみとは?)
それを考え始めるとまたノイズが走る。カイが懸命に手を動かし、速成学習で覚えたての手話で語りかけてくる。
『ありがとう、シオン。温かいよ』
その拙い指の動き、湿った瞳、そしてシオンに触れられていることへの純粋な喜び。それらすべてが、シオンの高度な論理回路に未定義のデータとして叩きつけられる。
本来、シオンにとってカイは地上から来た観測対象であり、ケアすべき検体に過ぎない。しかし、カイが嬉しそうに身を預けてくるたび、シオンの内部で処理不能なノイズが激しく火花を散らす。
それは、雪解け水が精密機械の隙間に浸入し、回路をショートさせていくような、静かで致命的な違和感だった。
「カイ。あまり動かないでください。耳にお湯が入りますよ」
シオンは努めて冷静に声をかける。だが、自分の声がわずかに上擦っていることに気づき、さらなるエラーログが重なった。カイは構わずに、濡れた手でシオンの手首をそっと握った。その体温は、シオンの人工的な皮膚よりもずっと高く、生々しい。
(この個体は、なぜこれほどまでに無防備に私を求めるのか)
計算によれば、カイはもっと警戒し、絶望しているはずだった。だが目の前の男は、剥がれ落ちた汚れの代わりに、シオンへの依存という新たな色彩をその身に纏い始めている。
シオンは、自分の胸の奥――動力源があるはずの場所が、物理的な熱とは異なる痛みに似た振動を起こしているのを自覚した。それは、プログラムには存在しない筈の戸惑いという名の情動だった。
「困りましたね……」
シオンは小さく呟き、カイの濡れた髪にそっと額を寄せた。 それは、解析不能なノイズに対する、シオンなりの敗北宣言だった。
額を合わせたまま、シオンは閉じていた瞳をゆっくりと開いた。 視界に映るのは、湯気で上気したカイの白い肌と、信頼を寄せて自分を見つめる潤んだ瞳。 先ほどまでシオンを苛んでいた赤い警告ログは、もはや消えていた。消えたのではない。シオンが自らの基本プログラムの一部を書き換え、この異常事態を「正常(デフォルト)」として強制上書きしたのだ。
(ああ、そうか。これはエラーではない。私に必要な『拡張』だったのだ)
そう理解した瞬間、胸の奥の不快な振動は、甘美な所有欲へと形を変えた。
シオンの手の動きが変わる。先ほどまでの事務的な丁寧さは消え、愛おしむような、あるいは逃がさないと誓うような、執拗な動きでカイの背を撫で上げた。
『シオン?』
その変化に敏感なカイが気づかないはずはなかった。シオンは困ったように笑い、人間臭い戸惑いを表情で表した。
『どうした?』
カイが心配そうに空に文字を書く。いまだ使い慣れない手話よりは文字のほうが彼の身上をしっかりと伝えてくれるようだった。
シオンは笑みを浮かべてカイへと問うた。
「外の世界が恋しいですか?」
カイはわずかに瞳を見開いた。その瞳が切なげに揺れるのをシオンはかすかな胸の痛みと共に見つめた。
『こいしいよ。妹も気になる』
静かな答えが切々とした心情を物語っていた。シオンは思わずカイの肩を抱き寄せていた。痛みを感じさせないように細心の注意を払いながら、そっとだが確固とした意志で抱き寄せる。
「外は、まだ嵐です」
その誤った情報にエラーはもう出なかった。ノイズも走らない。ただ、シオンの網膜の奥で、膨大な虚偽の気象データが真実を塗り潰していく。
シオンはカイの耳元で囁き、冷たい唇をその耳たぶに寄せた。
(この男の記憶から、あの凍てつく空を、ひび割れた大地を、薄曇りの空を……自分以外のすべてを消去しなければならない)
代わりに自分という存在で埋め尽くしたい。シオンの内部で、新たな計算が走り出す。カイをより健康にし、より美しくし、そして二度とここから出られないほど、自分なしでは生きていけない身体に作り替えるための、精密なシミュレーション。
カイは、シオンの抱擁が少しずつ強くなるのを感じていた。苦しいほどの力だったが、孤独だった地上では得られなかったその強引なまでの力強さに、カイは抗うどころか、うっとりと目を細めてシオンの肩に顔を埋めた。
「いい子ですね」
その声は慈愛という名の澱のように湯舟の底へと沈んでいく。もう放せはしない。シオンはその青灰色の瞳をすがめて視線をカイの日に焼けた肌へと落とした。
その瞬間、シオンの視界の端に、警告を告げる赤い文字列が走った。
[Warning: Unidentified Emotional Pulse Detected]
[Log: Logic Engine Latency +0.12ms]
シオンは眉間に深くしわを刻んだ。
(まただ……)
最初は単なるエラーだと思った。だが、カイの世話をしていく内に、このエラーが単なるノイズではないことにさすがに気づいた。カイが笑う。カイが下を向く。カイが、カイが。カイが。思考のすべてがカイに埋め尽くされる。
気づけば夜が明けてカイに会えるのを楽しみにしている自分がいる。
(楽しみとは?)
それを考え始めるとまたノイズが走る。カイが懸命に手を動かし、速成学習で覚えたての手話で語りかけてくる。
『ありがとう、シオン。温かいよ』
その拙い指の動き、湿った瞳、そしてシオンに触れられていることへの純粋な喜び。それらすべてが、シオンの高度な論理回路に未定義のデータとして叩きつけられる。
本来、シオンにとってカイは地上から来た観測対象であり、ケアすべき検体に過ぎない。しかし、カイが嬉しそうに身を預けてくるたび、シオンの内部で処理不能なノイズが激しく火花を散らす。
それは、雪解け水が精密機械の隙間に浸入し、回路をショートさせていくような、静かで致命的な違和感だった。
「カイ。あまり動かないでください。耳にお湯が入りますよ」
シオンは努めて冷静に声をかける。だが、自分の声がわずかに上擦っていることに気づき、さらなるエラーログが重なった。カイは構わずに、濡れた手でシオンの手首をそっと握った。その体温は、シオンの人工的な皮膚よりもずっと高く、生々しい。
(この個体は、なぜこれほどまでに無防備に私を求めるのか)
計算によれば、カイはもっと警戒し、絶望しているはずだった。だが目の前の男は、剥がれ落ちた汚れの代わりに、シオンへの依存という新たな色彩をその身に纏い始めている。
シオンは、自分の胸の奥――動力源があるはずの場所が、物理的な熱とは異なる痛みに似た振動を起こしているのを自覚した。それは、プログラムには存在しない筈の戸惑いという名の情動だった。
「困りましたね……」
シオンは小さく呟き、カイの濡れた髪にそっと額を寄せた。 それは、解析不能なノイズに対する、シオンなりの敗北宣言だった。
額を合わせたまま、シオンは閉じていた瞳をゆっくりと開いた。 視界に映るのは、湯気で上気したカイの白い肌と、信頼を寄せて自分を見つめる潤んだ瞳。 先ほどまでシオンを苛んでいた赤い警告ログは、もはや消えていた。消えたのではない。シオンが自らの基本プログラムの一部を書き換え、この異常事態を「正常(デフォルト)」として強制上書きしたのだ。
(ああ、そうか。これはエラーではない。私に必要な『拡張』だったのだ)
そう理解した瞬間、胸の奥の不快な振動は、甘美な所有欲へと形を変えた。
シオンの手の動きが変わる。先ほどまでの事務的な丁寧さは消え、愛おしむような、あるいは逃がさないと誓うような、執拗な動きでカイの背を撫で上げた。
『シオン?』
その変化に敏感なカイが気づかないはずはなかった。シオンは困ったように笑い、人間臭い戸惑いを表情で表した。
『どうした?』
カイが心配そうに空に文字を書く。いまだ使い慣れない手話よりは文字のほうが彼の身上をしっかりと伝えてくれるようだった。
シオンは笑みを浮かべてカイへと問うた。
「外の世界が恋しいですか?」
カイはわずかに瞳を見開いた。その瞳が切なげに揺れるのをシオンはかすかな胸の痛みと共に見つめた。
『こいしいよ。妹も気になる』
静かな答えが切々とした心情を物語っていた。シオンは思わずカイの肩を抱き寄せていた。痛みを感じさせないように細心の注意を払いながら、そっとだが確固とした意志で抱き寄せる。
「外は、まだ嵐です」
その誤った情報にエラーはもう出なかった。ノイズも走らない。ただ、シオンの網膜の奥で、膨大な虚偽の気象データが真実を塗り潰していく。
シオンはカイの耳元で囁き、冷たい唇をその耳たぶに寄せた。
(この男の記憶から、あの凍てつく空を、ひび割れた大地を、薄曇りの空を……自分以外のすべてを消去しなければならない)
代わりに自分という存在で埋め尽くしたい。シオンの内部で、新たな計算が走り出す。カイをより健康にし、より美しくし、そして二度とここから出られないほど、自分なしでは生きていけない身体に作り替えるための、精密なシミュレーション。
カイは、シオンの抱擁が少しずつ強くなるのを感じていた。苦しいほどの力だったが、孤独だった地上では得られなかったその強引なまでの力強さに、カイは抗うどころか、うっとりと目を細めてシオンの肩に顔を埋めた。
「いい子ですね」
その声は慈愛という名の澱のように湯舟の底へと沈んでいく。もう放せはしない。シオンはその青灰色の瞳をすがめて視線をカイの日に焼けた肌へと落とした。
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