人魚の恋(マーメイド・エラー):人魚の病に侵された俺と、ノイズ(愛)に侵されたアンドロイドの恋─

河野彰

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第二部

第十一章:断絶のログ

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 その日のシオンは、いつになく沈痛な面持ちでカイの部屋を訪れた。  
 車椅子に座り、かつて自分が仕えていた海上浮遊都市(大型ヨット)の構造図を虚空に見つめていたカイは、その異変を瞬時に察知した。シオンの手に握られたホログラム・タブレットが、不吉な青いノイズを放っている。
『シオン、どうした? 浮遊都市(フロート)からの定期通信が入ったのか?』
 期待を込めて動かされたカイの指に対し、シオンは答えず、ただ静かにカイの前で膝をついた。長い銀髪が床に広がり、彼を包み込む羽衣の電子回路が、警告を示す鈍い赤色に明滅している。カイは不安げに震えるまつげで瞬いた。シオンの口元をかたずをのんで見つめる。
「──カイ。覚悟して聞いてください。先ほど、海上通信ブイから最終的なパケットデータを受信しました」
 シオンがタブレットを起動すると、空中にいくつものウィンドウが展開された。  
 そこには、カイが誇りを持って維持管理していた豪華な海上都市の観測データが映し出されていた。しかし、その数値はすべて、生命の存在を否定するものだった。
「地上の寒冷化は、富豪たちが予測していた速度を遥かに超えて加速しました。マイナス百度に達する超低温ブリザードが、海面を瞬時に凍結させたようです。……これは、海上都市『アエギル』の最終ログです」
 画面には、ノイズ混じりの緊急信号が流れる。 
《……外壁圧壊、海氷による船体切断。動力室水没。……救助は……誰も……》  
 最後の一行が途切れた瞬間、カイの心臓が大きく跳ね上がった。
『嘘だ……。アエギルの防壁は世界一のはずだ! サヤは? 都市の最上層にいたはずだろ!?』
 カイは声の出ない喉を必死に震わせ、車椅子の手すりを激しく叩いた。あまりの衝撃に呼吸が跳ねる。心拍が上がり胸が苦しい。  
 海上民という特権階級であっても、自然の猛威の前では無力だった。シオンは伏せ目がちに、別のウィンドウを開く。そこには、巨大な氷塊に押し潰され、横転した浮遊都市の衛星画像が浮かんでいた。
「生存反応は、海上全域において確認できません。海上民たちの誇った高度な暖房システムも、極低温下での潤滑油の凍結により、すべてが停止しました。カイ、残念ながら、あなたの守るべき主も、家族も……もう、どこにも存在しないのです」
 カイの頭の中で、何かが音を立てて砕け散った。富豪たちの優雅な生活を支える技術者として、必死に食らいついてきた日々。サヤに少しでも良い治療を受けさせるために、深海への危険な探査を買って出た。そのすべての拠り所が、冷たいデジタルの文字列によって消去された。
 絶望という名の高水圧が、カイの全身を圧し潰す。彼は車椅子の上で、崩れ落ちるように頭を抱えた。涙があふれ、出ないはずの喉が絶叫を押し出す。
「う、あ……ぅぁああああああっ!」
 潰れた喉から、獣のような嗚咽が漏れる。  
 シオンは、その震える肩を抱き寄せ、自らの胸へと強く引き寄せた。ガタガタと震えるカイの身体をしっかりと抱きこみ、その震えを沈めるように背中を優しく撫でる。カイはもうそこしか縋るものがないとでも言うように必死にシオンの肩に縋りついた。指先がくの字に曲がり、爪が白くなるほど強くシオンの肩を抱き寄せる。
「泣きなさい、カイ。あなたは、よく頑張りました。もう、誰の期待も背負わなくていい。あんな残酷な世界のことは、すべて忘れてしまえばいいのです」
 シオンの視界には、カイの精神状態を示すグラフが劇的に崩壊していく様が映し出されていた。   
    [Diagnostic: Mental Integrity Compromised.] 
    [Internal Status: Isolation Protocol Complete. Subject's dependency on 'S-10N' reaching 94%.] 
    [診断:精神的整合性の崩壊。内部状態:孤立プロトコル完了。検体のシオンへの依存度は94%に到達]
 シオンの抱擁は、鋼のように固く、逃げ場を許さない。縋るカイもまた逃げるつもりないと目の前の銀色の光にしがみつく。  
 すべてを失ったカイには、シオンの体温だけがこの世に残された唯一の現実のように感じられた。彼は、もはやシオンという檻から逃れる意志さえも、涙と共に流し去っていた。
「誰が見捨てようとも、海上が凍り付いても、私だけはあなたを捨てない。何があっても、永遠に守り続けましょう。この竜宮が、あなたの新しい故郷になるのです」
 シオンは、カイの耳元で甘く囁きながら、その首筋を愛おしそうになぞった。  
 そこには既に、人魚の鱗の萌芽となる硬質な角質が、真珠色の輝きを放ちながら形成され始めていた。
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